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          天璋院篤姫 上

■篤姫の出立

<本文から>
 しかし、あらかじめいい渡されていたとおり駕籠は地に下りず、短い時間立ち止まったままの駕籠にお事の方は走り寄ったが、はっと気がついたように地面に膝をつき、
 「篤姫さまには何とぞ末長く堅固でおすごしになられますよう、また道中のご無事をお祈り申上げております」
 と挨拶し、頭を垂れたまま小さな包みをさし出した。
 篤姫は胸がいっぱいになり、包みを押し戴くと身を乗り出して、
 「母上さま、兄上さまにも、どうぞご機嫌うるわしゅういらせられますよう」
 と頭を下げたが、その顔を上げないうちにもう向井新兵衛の号令がかかり、隊伍は動き出した。
 腹をいためた娘を篤姫さま、と呼び、地にひざまずいて挨拶する母のお幸の方のかしらに、白いものがたくさん降っていたのを篤姫は強く日の底に灼きつけたまま、いま手渡された紫のふくさ包みをそっと頼に当てた。
 女はいずれ生家を出るむの、とは覚悟していても、こんなに遠く隔てられるとは考えてもいなかっただけに、篤姫はその包みを、まるでお幸の方そのもののようにうやうやしく大事に、膝の上でそっとひらいた。
 なかには、巳年のお幸の方の守り本専、一寸はどの金無垢の普賢菩薩像を納めた古金欄の袋があった。
 篤姫が生れたとき、信心深いお事の方は今和泉家の菩提寺、光台寺の住職に命じて申年の守り本尊大日如来を作らせ、それを篤姫の念持仏としてくれたが、いまこの普賢菩薩像を見て、篤姫は母の気持がまっすぐに通ってくるように思えた。
 お孝の方はきっと、ゆくすえ運命のままに展けてゆくであろう篤姫との生涯の別れに際し、これからは普賢菩薩が自分に代ってそなたの身を守るであろう、といい、そして家に残した大日如来をそなたと思うて、朝夕祈念を怠らぬつもりじゃ、と告げたかったに違いなく、篤姫にはそれがありありと判るのであった。 
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■菊本の言葉

<本文から>
 もし斉興公の虫の居どころが悪かったら、今和泉家は禄を減らされ、あるいはお取潰しになるやも知れぬところだったと思うと、いま自分の置かれている分家の位置の不確かさがくつきりと見えてくるように感じられるのであった。
 このあと忠剛は、忠冬を伴って領地の隅々まで視察し、さきごろの池田村の百姓たちをねんごろに慰撫し、そして内では、次男久敬の養子縁組をととのえ、また長年奉公していた側室お雪の方に暇を出した。
 二度とこのような脅威にさらされたくはなく、それには家に余力を貯える二心無きを示すため、第二子を他家に養子に出したし、またいまさら嗣子も必要でないところから、側室のひとりを解雇して家中改革の実を見せたのであった。
 篤姫はこの事件がいつまでも忘れられず、於才とふたりで歌留多を取っているときなどふと手を休めて、
「於才はどう思われますぞえ。このあいだの大事のときのことを」
 と聞くと、七歳の於才は一瞬きょとんとし、それから判りませぬ、というふうに首を振るばかり、篤姫は一人ごちて、
 「あのとき、父上さまのお目は、いつかの重病の折のように、もはや絶え入るかの如くお見受けしたけれど、母上さまのお目はふだんよりずっと輝いて、おきれいでした。どういうわけであろうか」
 というのを菊本が引きとつて、
 「女子は日頃はおとなしゆうても、いざというときにこそ、力の出るものでございます。女子のお産のときをごろうじませ。男の合戦以上の働きでございますもの。
 今度のお大事のとき、お方さまは何も表立ってなさりはいたしませねど、ありったけの力をふり絞ってかげでお殿さまをお励まし遊ばされました。
 夜もほとんど御寝ならず、むずかしい理趣経をずっとお写しになっておられました。女子の力とはそういうものでございます」
 と菊本自身、お幸の方を心から敬愛している口調で説明し、篤姫はそれを聞いて、母上さまはひょっとすると父上さまよりも、ずっとえらいお万なのかも知れぬ、とひそかに思った。
 このときの菊本の言葉は、邸中謹慎のていであった光景とともに篤姫の胸奥に彫り込んだように刻みつけられ、その後もときどきは思い返したものであった。雪かげの働きではあっても、女子がしっかりしていれば大事は乗り越えられる、という思いは、これを機に篤姫の心の内に強く根付いていったのではなかろうか。
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■菊本の死

<本文から>
 そなたあてのものは、父上は直ちに火中にせよと仰せられましたなれど、私がたってお願いし、一読させて頂きました。
 敬子、よう覚えておおきなされ。菊本はそなたの幼い頃より、事あるごとに天性すぐれた資質をそなたの上に見、触れ、次第に畏れを抱いたと申します。
 もはや、自分如き非才の者のご養育すべきおん方にあらず、と嘆じおるうち、今度の太守さまからのご沙汰を聞き、そのときから生害の覚悟を定めたらしいふしが文言のうちに窺われる。
 ありようは、生害の罪によって菊本如き人間の名はそなたの侍女のなかから将来にわたって消し去られよう、と推測し、それを望んだためとあります。
 果して父上は大そうご立腹になり、菊本の名を家臣の籍から除かれ、亡骸は本日、日暮れを待って真の不浄門から身内の者に下げわたしました。菊本はそういうことをすべて見越した上で、そなたの前から身を隠したかったのだと思われます。
 書置きにはいくたびも、そなたが生れながらにして将軍御台所の器量を備えおることを賞ぎ、ゆくすえ幸多く過されますように、としたためてありました」
 お幸の方はしんみりと語り、
「父上さまのおん前では口にはできかねるが、私はしみじみと菊本の心根が哀れでなりませぬ。
 出は下士ではあっても、長いかげひなたない奉公で当家では老女に取立てられ、そなた付き一の侍女としてどこに出しても通るものを。死を以て身を引いたのはそれだけそなたを大事に、深く慈しみ、敬うてくれた真心のあらわれでありましょうなあ」
 という話を聞きつつ、篤姫は胸いっぱいになり、とうとう鳴咽をこらえ切れなかった。
 次の間に侍女はいても、ここには母と二人きり、と思うと篤姫は何のはばかりもなく畳に泣き伏しながら、心のうちで、かわいそうな菊本、かわいそうな菊本、と叫び続けた。
 下の者にかしずかれてばかりいる身分では、奉公人の気持は手に取るように判るとはいい難いが、それでも篤姫は、菊本は何も死ななくともよいのに、とはがゆさ限りなく、またそれだけ自分というものを大切に考えていてくれたと思うと、そこに上下の隔てを取払った強い親近感を感じるのであった。
 今夜からもう、「姫君さま」と靴りのある言葉でやさしく呼びかけてくれる菊本はいないと思うと涙はとめどなく、せめてその亡骸に最後の別れを、と願っても、菊本はもう下人以下の扱いでこの邸から追放されたあとであった。
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■水戸斉昭らの度肝を抜いた篤姫の博学

<本文から>
「有難く頂くがよい。於篤もいけるではないか」
とすすめてくれ、膝行してその盃を受けた。斉昭はじっと篤姫に目を注ぎながら、
「篤姫どのには頼氏の日本外史をご愛読のおもむき、お父上より洩れ承っているが、当家の大日本史も目を通して頂けると有難いのでござるがな」
 実は一昨年、斉昭は水戸家第二代光圀の編纂した大日本史のうち百五十巻をこの年新刻して幕府へ献納しており、その残余百巻を箱に入れて斉彬に贈ってあった。
斉彬は、斉昭からそういう質問が出されたとき、篤姫にこの由を伝えていなかったことを思い出し、一瞬、てのひらに汗する思いで息を詰めていると、篤姫は盃を下において、
「はい、有難きお言葉にございます」
 と礼を述べてから、
「当家書庫に大切に保管してあります大日本史を、私もわずかながら拝読の栄を得ました」
 と答えた。
「ほう」
と斉昭は、
「わずかとはご謙遜でござろう。ご当家へは確か百巻、時代にしては平安時代の前期あたりまで、と思われるが、どの辺りにお目を通されたかな」
とわりあいに執拗な問いかたで、篤姫はそれに対して、さらりと、
「まだ古代でございます。外史のほうは源平から徳川さままでの武家の歴史でございますが、大日本史は古代の起源からを叙述してありますのでさらに詳しゅうございます。
 以前に読みました日本書紀よりずっと判りやすいので、有難い書物と思います」
と飾らず答えたところ、座は一瞬、言葉がなかった。
 斉彬が幕府への届けに、いくら真実の一の姫と書いたところで、この座の諸侯は末家からの養女であることは皆知っており、それは即ち、江戸からも学問からもはるかに遠いと考えられる地の果て、薩摩育ちであるだけに、女子の身でかほどの篤学であるなどと、誰ひとり思い見ないことにちがいなかったからであった。
 斉昭はややあって、
「いや左様でござるか。当家の版本にお目を通されたとはまことにかたじけない。
 本日の記念に、これも当家二代の著した『礼儀類典』を贈らせて頂こう。いずれ後日、お役に立つやも知れぬほどに」
 といい、篤姫はそれに対して丁重に礼を述べた。
 聞いていた斉彬は、どれほどに安堵したことであったろうか。
 水戸光圀編著、礼儀類典は水戸家から代々将軍に献じるのが慣わしで、それを篤姫に贈るというからには斉昭自身、篤姫入輿の推進者となることの表明にちがいなかった。
 そうでなくても、この場の諸侯は、当時歌学のたしなみはあっても学問についてさして造詣の深い女性は見当らぬのに、薩摩育ちでいながら日本の史書を愛読する篤姫に、度肝を抜かれたというのが真実ではなかったろうか。
 この夜から、篤姫を御台所でなく側室に、とけう声はぴったりと収まり、これぞ将軍を助けて徳川大奥を統べる御台所の器量を備えた姫、という見かたが強まったのは当然であったろう。
 同座の松平春嶽は、のちに「斉彬公行状記」という短文を草したとき、この夜の篤姫を述べて、
 「聡明にして温和、人との応接も機智に富み、学問深し。かくなる姫を御台所に迎うるは、徳川家に取りても幸福というべき也」
 と記したといわれる。
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■斉彬より将軍跡目の密命を言い渡される

<本文から>
 もう夜寒で、斉彬はわきの火桶に折々手をかざしながら、
「万端調い、いよいよ入城は明日と相成った。まずは祝着じゃが、於篤も機嫌ようて何よりじや」
 と祝いの言葉あってから、
「いまから予の申すことを、肝に銘じてよくよく間取っておくように」
 と前置きした。
 きっと将軍家への入輿の心得だと篤姫は受取り、居ずまいを正してうなずくと、
「於篤がこのたび、将軍家へ輿入れの首尾と相成ったのは、無論本人の器量もあるものの、これには幾多のかげの助力があったことに思いを致さねばならぬ。家斉公の御台所、我が島津家より出でし大伯母君の御威光は打ろんのこと、老中阿部伊勢守をはじめ水戸御老公、越前どの伊達どの諸侯の大いなる力あってのことじゃ。
 それと申すのも、於篤も知ってのとおり、去る年、アメリカのぺリー浦賀に来航してまり外国船の日本を窺う度数日を追うてひんばんとなり、我が国はついに日米和親の神奈川条約、下田条約を締結するに至った。
 のみならず、オランダ、ロシアとも和親条約を調印せざるを得なくなり、朝廷におかせられてはこのことを深くご憂慮遊ばし、恐れ多くも昨年、この斉彬にご憂慮遊びくだしおかれたのを於篤はよく覚えていよう。
 日本国内はいま、攘夷開港をめぐつて未曾有の危殆に瀕し、騒乱の状態にある。
 かかる場合、何よりも望まれるのは、まつりごとを司る幕府の強化じゃ。しかるに現将軍はご身体脆弱にましまし、ご政務をお執り遊ばすのはいかにもご大儀のようにお見受けされるが故に、幕閣、諸侯ともこれが悩みの種であった。
 そこで於篤、そなたの任務が、単に御台所として大奥を統べるだけでなく、一歩も二歩もいでて将軍を補佐するという重大な意味を帯びてくる。
 補佐にはいろいろな役割があり、まずお世継ぎを挙げねばならぬが第一、これは幾島の助けを借りて、十分努力をいたさねばならぬが、目出度く願望達せられた暁でも、家定公はただいまおん年三十三歳におわし、世子の君がご成長の日まで、あるいは空白の月日を迎えるやも知れぬ。
 かかる情勢下において、指導者たる将軍がご老体であったり、またご幼少であったりするのは甚だ望ましくないことは於篤にもよく判るであろう。
 これが太平の世ならばよい。げんに徳川家でも、七代家継公はおん五歳で将軍職を継ぎ給い、ご在職中、間部詮房、新井白石の補佐を受けて政務を執るかたちを整えられたが、将軍は於篤も史書で知るとおり、おん年八歳でみまかられた。
 そこでいま、穂川家に必要なのは、次期将軍を早々に決めておかねばならぬことで、これには諸侯が推す水戸御老公の七男、慶喜卿の名が挙がっている。
 くれぐれも申すが、これは万一のときの予備態勢であって、家定公もずっとご息災で長生き遊ばし、そなたも無事お世継ぎを挙げた場合には必要なきものであるが、何といっても二百五十年継承しつづけてきた徳川家を、この時期に潰減させては神君家康公に申開きができぬという思いは幕閣、諸侯ともに強く抱いておる。
 これは先代家慶公も深く案じられ、家定にもし所生なくば、という仮定のもとに心ひそかに慶喜卿を、と思し召した由、こういう詰もある。
 それは去る嘉永五年十二月の鶴御成のさい、家慶公が慶喜卿をお連れ遊ばそうとして、阿部老中からおとどめ申され、
『少し早いか』
 と仰せられ、
『慶喜は、亡き初之丞にそっくりじゃ故』
 と呟かれたということ、このことを於篤はよく記憶しておくがよい。
 家慶公のその御意志は幕閣内、大奥に伝わり、次期将軍候補者としては慶喜卿を、
と望む声が高いのじゃ。
 あと一人の候補は、紀州の慶福公であるが、ごちらはただいま十一歳で将軍職を背負うについては幼少にすぎる感がある。
 慶喜卿は、ご老公三十七子のうち、とくに英明にあられ、そこを見込まれて阿部老中どののご尽力で、一時絶えていた一橋家をおこされ、当家英姫にとっては舎弟にあたるという深い関係にある。
 ご老公が昨年観花の宴でそなたの利発に目をつけられ、ぜひとも御台所に、という強力な推挽をなし下されたのも、その内実、そなたから慶喜卿を、と将軍にすすめて欲しいからじゃ。
 のう於篤、そなたのこれからの働きは、単に水戸家とか島津家とかの利益になることではなく、大きくいえば外夷に対するこの日本の国を守る態勢に深く関わっていることじゃ。
 いまの時世は、女ながらも国のため挺身し、この重大な時勢を乗り切ることが肝要じゃと思われる。
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■家定との最後の語らい

<本文から>
 井伊の大老就任発表の翌日、突然夕刻に将軍のおわたりがあるよし連絡を受け、篤姫はふだんにも増して胸のとどろくのを覚えた。
家定は、愚鈍だと人はそしるけれど、ある面非常に鋭い嗅覚を持っているひとで、篤姫が慶喜を推挙していることはよく呑み込んでいると思っていただけに、大奥お成りはきっとそのことに違いないと思った。
 その夜、燭台の灯りで久しぶりに見る家定の顔はいつにも増して蒼白く、そして心なしかむくんでいるように感じられた。
「お加減はいかがでございますか」
 と伺うと、うなずいて、
「この頃、体中が重い。歩くのに鉛の錘りをぶらさげているようじゃ」
 という吐息さえもの憂そうで、
「表より奥までは遠すぎる」
と低い声で呟くようにいうのへ、篤姫はわざと明るく、
「遠ければお乗り物もございます。お駕籠を召してくださいませ」
と気を引き立てたが、
「いやいや」
と家定は沈んだ面持で、
「奥へ足を踏み入れるのも、これが最後かも知れぬ」
と力ない声でいった。
 篤姫はおどろいてにじり寄り、家定の膝を揺すぶりながら、
「上、何とお弱いことを仰せられます。
 しっかり遊ばしてくださらねば、私が心細いではございませぬか」
といっているうち、胸がいっぱいになり思わず家定の膝に泣き伏してしまった。
 ほんとうは、私にお子を授けてくださいませ、といいたい気持だったのに、それは恥しくてさすがに口にはできず、言葉の代りに熱い涙があふれ、子供のようにしゃくりあげた。
 弱い夫を持つかなしさ、おわたりも間遠で、しとねを共にしても兄妖のように並んでやすむだけで触れもせず、それは自分に女としての何かが欠けているせいなのかも知れぬ、と常に我が身を責めて来た篤姫にとって、今日のこの一段と弱った姿はたとえようもなく心細くつらい。
 人前で涙を見せるは恥、と気を張って来たのに、今宵ばかりはこらえ切れず、日頃の慎しみも忘れて泣き沈む篤姫を、家定は最初珍しそうに眺めていたが、自身も悲しくなったものか、篤姫の背の上に打伏して泣きはじめた。
 やがて篤姫のほうがさきに顔をあげて家定を助け起し、
「上はこの頃の騒がしいご政情にいたくご疲労遊ばしておいでになります。さあ今宵
はごゆっくりとおやすみ遊ばしてくださいませ」
 と寝床にいざない、自分もそのわきに身を横たえた。
 家定は涙を拭ってくれる篤姫のしぐさがよはど嬉しかったのか、
「予が体が弱いため、御台にはいたく心配をかけて相すまぬ」
 とやさしくいい、篤姫の手を握ったままで、
「将軍の継嗣問題も、もはや予が決断する時期に来たようじや。
 ここ二、三日のうちには幕閣たちに予自らその名を告げねばならぬ」
 といい、篤姫が息を詰めて見守っていると、家定は静かな声で、
「考えた末のことじや、若年なれど紀州家に譲ろうと思う」
 と告げた。
 それを聞いたとき、篤姫の胸のうちに深い安堵と、喜びに似た思いが走り抜けていったのは何故だったろうか。
 家定は続けて、
 「紀州家に決めたについては、いろいろ理由があるが、そのいちばん大きなものは、慶福どのが未だ若年であることじゃ」
 と篤姫には意外なことを打明けて、
 「予はこれまで、女性が表に口を出すことについて好ましくは思えなかったが、御台を見ているうち、その考えは少しずつ変った。
 御台は、予が知れる限りの女性のなかで識見兼ね備えたまことに立派な人となりであると思われる。
 かのいにしえの源頼朝公の妻、政子どのの再来かとばかりに感じられるほどじゃ。政子どのは尼将軍と呼ばれ、女ながらも政務にたずさわったといわれるが、我が徳川家もそのひそみにならい、幼き慶福どのの後見として御台が表の執務をも見てとらせば、この政局は乗り切れよう。
 御台はそれが立派に果せる力を持っておられると予は見ておる。さすればこの宗家も、余人にくちばしを挟ませず、神君よりの血筋を保ち、のちのち繁栄を続けられることであろう。」
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