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<本文から> しかし、あらかじめいい渡されていたとおり駕籠は地に下りず、短い時間立ち止まったままの駕籠にお事の方は走り寄ったが、はっと気がついたように地面に膝をつき、
「篤姫さまには何とぞ末長く堅固でおすごしになられますよう、また道中のご無事をお祈り申上げております」
と挨拶し、頭を垂れたまま小さな包みをさし出した。
篤姫は胸がいっぱいになり、包みを押し戴くと身を乗り出して、
「母上さま、兄上さまにも、どうぞご機嫌うるわしゅういらせられますよう」
と頭を下げたが、その顔を上げないうちにもう向井新兵衛の号令がかかり、隊伍は動き出した。
腹をいためた娘を篤姫さま、と呼び、地にひざまずいて挨拶する母のお幸の方のかしらに、白いものがたくさん降っていたのを篤姫は強く日の底に灼きつけたまま、いま手渡された紫のふくさ包みをそっと頼に当てた。
女はいずれ生家を出るむの、とは覚悟していても、こんなに遠く隔てられるとは考えてもいなかっただけに、篤姫はその包みを、まるでお幸の方そのもののようにうやうやしく大事に、膝の上でそっとひらいた。
なかには、巳年のお幸の方の守り本専、一寸はどの金無垢の普賢菩薩像を納めた古金欄の袋があった。
篤姫が生れたとき、信心深いお事の方は今和泉家の菩提寺、光台寺の住職に命じて申年の守り本尊大日如来を作らせ、それを篤姫の念持仏としてくれたが、いまこの普賢菩薩像を見て、篤姫は母の気持がまっすぐに通ってくるように思えた。
お孝の方はきっと、ゆくすえ運命のままに展けてゆくであろう篤姫との生涯の別れに際し、これからは普賢菩薩が自分に代ってそなたの身を守るであろう、といい、そして家に残した大日如来をそなたと思うて、朝夕祈念を怠らぬつもりじゃ、と告げたかったに違いなく、篤姫にはそれがありありと判るのであった。 |
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