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          南原幹雄−天皇家の忍者

■天皇家を含め天下を確固たるものにするのが秀忠は使命

<本文から>
「帝を自家薬籠中のものとするのは大変かもしれぬ。天皇家をとりまく摂家、清家、大臣家、羽林家など人数だけにはこと足りるが、人物はみな千年の歴史のなかで隙けてしまっておる。恐れるに足らぬ。が、恐るべきものが一つある」
 家康はそう言って秀忠の顔を見たものだ。
 「…………」
 秀忠にはおもいあたるものがない。
「天皇家に駕輿丁という職があろう。いわば駕籠かきだ。だが、彼らは天皇、上皇の乗物をかつぐばかりではない。以前は比叡山の天台座主の乗物をもかついでおったそうな。その連中はな、天皇家の忍者もつとめる。洛北の隠れ里や山中で兵道をきびしくきたえ、忍術をまなんで、密偵の役から刺客の役まではたす。恐ろしき者たちよ」
「八瀬童子ですか」
「八瀬童子をあまく見てはならぬ。八瀬童子はただならぬ者だ。もっと以前には静原の冠者たちが、おなじ役目をつとめておったそうな。後醍醐帝のときより、静原の冠者から八瀬童子に替わったのだと言う。静原は八瀬にちかい隠れ里で、こやつらも八瀬童子に負けぬ強者だったと言われておる」
 「八瀬童子と静原冠者にございまするか」
 秀忠は家康の顔を見て、感心したように言った。
 死の前年に家康がことさら言ったことだけに、秀忠はその言葉をずっとわすれていない。
 その家康は没してからすでに四年がたっている。今は元和六年の春である。秀忠は賢い男である。世間一般に流布されているような謹厳実直なばかりの人物ではない。それはあくまでも表の顔だ。時と場合によっては、(狸親父)と言われた父家康をもしのぐかとおもわれるような策謀を弄することもあれば、人がおどろくような残酷さをしめすこともある。
 秀忠は家康からゆずられた天下を確固たるものとして代々徳川家につたえる使命をおびていた。秀忠はこの使命を絶対にはたさなければならない。三男の秀忠はそのために家康から資質をみとめられ、兄秀康をしのいで、四男の弟忠吉、六男の弟忠輝をおさえて将軍位をかちえたのだった。
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■朝廷の江戸遷都の計画

<本文から>
 一大行事がおわるや、家光ほ京都を発し、江戸への帰途についた。秀忠の夫人にして、家光の母お江与の方が他界したためである。
 しかし秀忠はすぐには腰をあげなかった。秀忠はその間、利勝を呼び寄せ、対朝廷政策について相談する時間が長かった。対朝廷政策の主要問題は、まず遷都についてである。
 高仁親王が生まれた今となっては、遷都が最大の課題である。家康ですら、朝廷の江戸遷都はかんがえたことがなかった。
 それを秀忠が実現させるところに、彼の最大の眼目があった。秀忠にくらべて家康は比較にならぬ巨大な存在である。もし秀忠に家康を超える一点があるとすれば、遷都を実現することである。それ以外の朝廷政策、諸大名政策はほとんど根本は家康からでている。秀忠は家康の遣命を実現したにすぎない。けれども遷都だけは別である。秀忠は大御所としての自分の存在をこれに賭けていた。凡庸なる二代将軍という評価、印象をこれによってくつがえすことが彼のねらいである。
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■天皇の微行で輿をかついだ静原の冠者

<本文から>
 ところが今年の命日にかぎって、後水尾天皇みずから、三卿をともなって供養、参拝にお出かけになったのである。しかも、かつて後白河法皇が建礼門院をたずねた道をそのままとおって大原寂光院へむかうことになった。これは隠居中の九条忠栄のかんがえからはじまった。したがって、鞍馬、薬王坂、静原、江文峠、大原の道筋である。
 かつて法皇の輿をかついでこの山道を行き来したのは、静原の冠者であった。その例にならって、今日は八瀬童子ではなく、静原冠者からえらばれた者たちが駕輿丁をつとめた。それがため微行の幸行となった。
 竜王坊、弥勤坊、愛染坊、日光坊の四人が天皇の輿をかつぎ、三脚の輿を般若坊、月光坊のほか脇十三家たちがかついできた。
 今日の微行のことは所司代も知らない。忠栄が綿密に計画をたてて、実行にうつされたのである。忠栄ならばこそ、このような計画がひそかにたてられた。この計画に躊躇なく同意なされた天皇の決断は見事であり、康道、通村も大胆不敵と言ってしかるべきである。
 この微行が幕府側にもれた場合、天皇はまだしも三脚のほうは幕府から罪を得ることがかんがえられる。
 この計画は忠栄と竜王坊の合作である。忠栄隠居後も、竜王坊は忠栄を九条家の庭にたずねていた。そして朝廷と幕府との確執について適切な助言をすると同時に、静原冠者と八瀬童子との争いについて、忠栄の意見を聞いていた。忠栄は隠居中であるから、竜王坊がいつたずねても気軽に会ってくれた。
 今回の、天皇の寂光院参拝も竜王坊がはじめにかんがえついたことである。そして後白河法皇にならって鞍馬、静原まわりで行幸すること、一行の輿を静原冠者がかつぐことも竜王坊が提案した。八瀬童子がかつげば、ただちに幕府に行幸が洩れてしまうために、忠栄は難なく竜王坊の提案に同意した。
 忠栄は竜王坊と何度か会ううちに、竜王坊に好意をもつと同時に、静原冠者の立場をも理解してくれるようになっていたのである。前関白と竜王坊とのあいだに、地位や年齢をこえた友情のようなものが芽ばえはじめて年月がたっていた。そして意見や知恵を出し合ったり、竜王坊が忠栄の無聯をなぐさめる間柄になったのだ。
 「帝にただ往古、静原冠者が朝廷の駕輿丁をつとめておったことを訴えたり、今後、八瀬童子に替わってその役に復帰することをねがっても、なかなか取りあげてはくれぬであろう。朝廷にもいろいろ事情がおじゃる」
 かねて竜王坊のうったえに芳しい返事をしていなかった忠栄は、
 「静原冠者にとってはこのときがきっかけじゃ。後白河法皇が微行で行幸をしていたとおりに万事ことをはこべば、おのずから帝も静原冠者の気持ちをご理解くだされるかもしらぬ。麿からもそれとなく静原冠者の長年の悲願と意気をつたえて進ぜよう」
 と今度は賛同してくれた。
 「静原冠者、みな命を惜しまず朝廷のため天皇家のためにはたらく覚悟をいたしております。またそれがわてども静原冠者の望みでござります」
 こうして二月十五日の微行の予定はくまれたのである。
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■天皇の討幕密書が明るみになる

<本文から>
 密勅とは、あくまでも秘密裡に発せられる天皇の詔勅である。したがって他に洩れるはずのないものだが、
 (秘すれば顕れるは世の習い)
 の諺はここでも通用する。
 後水尾天皇がこれぞとおもわれる諸大名にたいして発した密勅が、翌年になって世上に洩れてきた。
 密勅の内容はきわめて重大である。将軍および大御所の罷免、すなわち官位官職の剥奪。さらに討幕という内容である。将軍というのはあくまでも朝廷の官職の一つであり、天皇によって任命される。源氏の長者であり、武家の棟梁、淳和奨学両院別当という職をもつ。大御所は本来、正式の官職にはあたらないが、あくまでも将軍職を帝した者が院政的に就く地位であって、将軍職が基盤になっている。したがって従一位太政大臣という秀忠の官位官職も、家光の将軍職とともに剥奪されることになる。その上、朝敵の立場となり、幕府打倒を命じられたことになる。
 けれども密勅であるから、当人や世間にたいしては公にはつげられぬ。密勅を奉じた者だけが知る立場にある。
 天皇は秘密裡ながら、ついに幕府に戦をしかけたことになる。しかし密勅であるため、幕府はかなり長い間知らなかったか、知らぬふりをしていた。それは密勅をくだした諸大名にとどいていなかったか、あるいはとどいていても知らぬふりをして放置していたかの
 どちらかである。
 ところが、翌年ころから、密勅をうけた大名たちがひそかにその勅書を幕府に提出した。幕府では朝廷がそこまで決意し、覚悟をかためて、幕府追討にまで起ちあがろうとしていたとはかんがえていなかった。このとき起ちあがる大名が一人もいなかったとしても、今後はどうなるかわからない。何人かの諸大名は起ちあがるかもしれぬ。
 今回は密勅を伝達する静原冠者を、八瀬童子が徹底してはばんだ。その点で八瀬童子の功績ははなはだ高い。けれども本来、八瀬童子は朝廷とともにあるべき人達であり、日常朝廷に親近している。だからこそ、密勅が静原冠者によって伝達されようとしていることが八瀬童子たちに洩れてしまったのである。まことに皮肉な結果におわった。
■江戸御所を焼き払い江戸遷都を阻む
 指揮者の号令で、陽明門、建春門をかためていた警備隊が朔平門へまわった。それを待っていた承明門の襲撃隊は、二手にわかれ、どっと陽明門と建春門へ殺到していった。
 両門ではげしい攻防がおこなわれたが、間もなく、両門は打ちやぶられ、襲撃隊はどっと内裏に乱入していった。西の後涼殿、清涼殿、東の温明殿、綾椅殿にほやくも矢や火矢がはなたれた。
 御所の心臓部というべき場所にぞくぞく襲撃隊は乱入し、むかってくる警備隊を打ちたおしていた。もうこうなれば数の優劣はほとんど関係がない。聖域といわれる清涼殿や紫展殿にも火がついた。四門をはじめ、後涼殿、温明殿、貞観殿などは闇のなか炎につつまれていった。折からの強風でほかの殿舎に燃えうつっていくのは間もなくである。
 御所のうちの各所で、凄惨な戦い、攻防が演じられている。太刀をふるって斬りたおす者、槍で胸をつらぬかれてたおれる者、矢を射ほなつ者、矢を腹部にうける者、血みどろになって地でのたうつ者。
 「退くなっ、退くなっ、押し返せっ」
 「狼籍者を打ちたおせ!」
 絶叫をあげて号令する者。
 清涼殿や紫痕殿がさかんに燃えはじめた。
 御所内にはもう幾十人もの双方の死者が亡骸をさらしていた。亡骸になっている者はいいほうで、なりきれぬ者が坤き、唸りながら地にたおれている。
 しかしともかく、条坊制の新都を焼き、御所に討ち入り、各殿舎を炎でつつんだことにおいて、襲撃隊は成果をおさめ、勝利を得たと言っていい。約二年をついやし、諸大名に課役をあたえ、延べ約二十万人を徴発して造営した江戸御所ははば灰優に帰することはあきらかである。この事実において、襲撃隊はほぼ目的を達した。明日の朝には無残な御所 の焼け跡を見ることができるだろう。
 けれども、戦闘はまだつづいている。吹きすさぶ強風のなか、各所の攻防は止むことはない。炎はますます燃えあがり、燃えひろがっている。
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■静原冠者の450年ぶりに職務へ復帰

<本文から>
 やがて、庭に姿をあらわしたのは忠栄自身である。
 忠栄は庭を散策しながら、東屋にいたった。
 さいぜんの人影は東屋で平伏しひかえていた。
 「竜王坊、まずすわれ」
 忠栄は竜王坊に東屋の腰掛をすすめた。
 「遠慮なく」
 言いつつ竜王坊は腰掛にすわった。
「朝廷にとって大切なことが今日きまった。朝廷の駕輿丁は従来どおり、八瀬童子がつとめる。そして忍者、探索役は内密ながら、静原冠者がつとめることになった。上皇さまのお言葉や。院宣もいただいた」
 宵の風がささやくように、忠栄は言った。
 「静原冠者が忍者、探索役に……」
 信じきれぬといった竜王坊の顔だ。
 「そうや、しつかりつとめてたもれ」
 「有難きしあわせにござります。静原冠者、およそ四百五十年ぶりに職務に復帰いたしてござります。長きにわたる運動が成功いたしました。懸命につとめる覚悟にござります」
 竜王坊は院宣を手渡され、感動してこたえた。
 一時雲にかくれた月がふたたびあらわれ、庭の景色が薄ら闇のなかに浮かびあがった。
 竜王坊はしばらく、東屋からうごこうともしなかった。
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