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          新田次郎「武田信玄 山の巻」

■信玄と謙信ともに宿命の競争相手の身体のことを考えた

<本文から>
 信玄がこの書状を読んで、なるほどと、謙信の気持を汲んでいるころ、謙信もまた信玄が常陸太田の佐竹義重に宛てた書状を読んでいた。
 この書状は、筑波の小田氏治の手の者によって奪い取られて、謙信のところに送られて来たものであった。
(謙信は、軽い中風を発して以来、寒中の出陣は医者に禁じられているというのに、吹雪の三国峠を越えて出て来たのは、小田氏治を援助するためではなく、織田、徳川に幾重にも頼まれての余儀なき出兵であろう。だから謙信は常陸まで兵をすすめるつもりは毛頭ないだろうし、武田と決戦するつもりはないだろう。しかし、謙信の率いる軍が、利根川に沿って南下する気配があったら、わが方はこれを利根川の河原でおし包んで一人も余さず討ち取ってしまうつもりである。とにかく、こっちの方は気にせず、そちらでは小田氏治に対して充分なるお働きをなさるようにおたのみ申す)
 謙信はこの手紙を読んでにが笑いをした。
「他人の病気のことより自分の持病のほうはどうなのか」
 謙信はひとりごとを云った。
 謙信が軽い狩場にかかったらしいという情報が武田の陣営に知れ渡っていると同様に、信玄の持病の労咳がこのごろまた悪化したようだという情報は上杉の間者によって探知されていた。
 謙信と信玄はそう遠くない距離にいて、夫々、宿命の競争相手の身体のことを考えていた。
 謙信の手紙にしても、信玄の手紙にしても、相手を激しく憎悪したものではなかった。ただ双方とも、強気なものの云い方をしているだけであった。それは、両雄の間に決戦を避けたいという気持があったからである。川中島の大会戦のようなことになれば、その損失を補うのに数年はかかることをよく知っていた。領土の取り合いはだいたい終っていて、これ以上領土争いに血を流すことは、第三者を喜ばす以外のなにものでもないことを両雄はよく知っていた。第三者とは信長のことであった。いままさに天下を掌握しようとしている信長のために、両雄が殺し合うほどばかげたことはないのだ。
 寒い日が続いた。朝になると空風が吹きまくった。
 信玄の側近たちは、信玄の健康ばかり気にしていた。互いにやる気のない俄争をやるように見せかけて、長い間滞降するほどばかげたことはなかった。いままでの経験からすると、甲越が対陣すると、やたらに長びく傾向があった。
 信玄も空風の強い上野で上杉勢と睨み合っていることが如何にばかばかしいかをよく知っていた。
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■後継者と決められた勝頼だが、武田内部に口を挟む余地はなかった

<本文から>
 「明日の今ごろ館へ来るように申しつけて置くように」
 信玄はそれだけしか云わなかった。勝頼は早速、師慶のところに使いを出し、翌日の午後、館に来るように父信玄の言葉を伝えたが、山方昌景は、信玄の言葉を聞くとすぐ勘定奉行に金三千両を用意するように命じた。
 「なにゆえ、そんな多額の金が必要なのか」
 勝頼は昌景に訊いた。
 「お館様は師慶を越中の一向宗一揆のところへつかわしになるおつもりだと思います。三千両は師慶が持って行くお土産金でございます」
 と云った。それだけ云われれば、勝頼にも、その三千両の意味はよく分った。
 父信玄はいよいよ西上の軍を発する決心をしたのだなと思った。西上に当っては、後顧の憂いを無くして置かねばならない。
 謙信の動きを封じなければならない。それには越中の一向宗一揆の手を借りて謙信を牽制するのが最上の策である。勝頼は、父信玄が師慶を呼べと二言云っただけで、すべてのことを察知してしまった山県昌景の非凡な洞察力に感心した。長年、父信玄の側近にいたからであると思ってみても、昌景の存在が父と同じようにまぶしく見えた。
「余には、まだ父の心をつまびらかに察することはできぬらしい」
 と云う勝頼に昌景はなぐさめ顔で云った。
「お館様のお心を飲みこむには、長い年月がかかります。たまたまそれがしは、長くお傍に仕えていたからその呼吸がわかるというだけのことであって、勝頼様がなにもこんなことで気を落されることはございません。勝頼様には勝頼様で、お館様のお心が決ったら、それに対して、どのような準備をなさったらいいか別にお考えになり、場合によってはお館様に御意見を申し上げたらよろしかろうと思います」
 昌景にそう云われて見ればそうだが、さりとて、西上作戦に対して、どうしよう、こうしようという勝頼の考えは具体的には浮んでこなかった。後継者と決められたけれど、すべては父信玄と、老臣たちによって動いている武田の牙城の内部に立入って勝頼が口を挟む余地はないようであった。信玄は折あるごとに勝頼に武田の総帥としての仕事を譲って行くようにしむけてはいるけれど、今度の西上作戦のように大事なことになると根本方針は信玄が樹て、勝頼は部将の一人として意見を出すぐらいのことしかできなった。別にそれが勝頼にとって不満ではなかったが、いささか心淋しいことでもあった。
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■信長との衝突の噂に諸豪は形勢に応じてたくみに身をかわす

<本文から>
 九月の声を聞くと、武田信玄が西上の途についたという噂は日本国中にひろがっていた。噂には当然尾鰭がついた。信玄が徳川、織田の連合軍を打ち破ったとか、織田信長は武田信玄を木曾義仲に見立て、京都に誘いこんでから周囲をおし包んでほろぼすつもりでいるらしいなどという噂さえ流れた。これは戦火を恐れるあまりに京都の庶民の口から出たもので、取るに足らないものであったが、信玄が西上して信長と一戦をするだろうということは一般大衆の予想であり、この二大勢力の衝突によって、血なまぐさい戦国時代は終って欲しいという期待でもあった。
 織田信長を悪しざまに宣伝する者は松永久秀、三好衆、一向宗徒などに関係があるものであって、一般大衆は特に織田信長を嫌悪することもなし、武田信玄に織田信長にかわって天下を掌握して貴いたいという理由もなかった。どっちでもいいから早いところ、天下人になって平和な世を作って欲しいというのがおおかたの願いであった。しかし、戦国で育まれ、戦国の中でその地位と富を築いたひと掴みの人間は、依然として戦国の世が続くことを欲しており、彼等は織田と武田との衝突近しと見る武具の製造に精を出し、鉄砲の製造などは夜を目についで行われ、仲買人を通じてそれぞれ思惑のあるところに売られて行った。
 武田京都屋敷の市川十郎右衛門は武具や鉄砲の買いつけにもいそがしかったが、京都を中心としての諸豪に接触して、武田側に誘いこむことに懸命だった。
 諸豪は、市川十郎右衛門が行くと、顔を見ただけで
「ことある時には、一族を率いて武田殿の陣営に馳せ参じます」
ともっともらしいことを云うが、それでは誓書を欲しいと話を持ちかけると
「誓書などというものは紙切れ一枚、破いてしまえばそれまでのこと、要は人の心です。よもや市川殿は私の心を疑っているのではないでしょうね」
 などと体のいい逆襲を試みて、それでは誓書を入れようという者は少なかった。長い間の戦乱に明け暮れしていた京都周辺の諸家は、武力の裏付けよりも、形勢に応じてたくみに身をかわす処世術ばかりが上手になっていた。当てにはならない者ばかりであった。市川十郎右衛門はこの事情を古府中の信玄に書状で知らせた。
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■信長は信玄の歓心を買うのに努力する一方で、束美濃に対して厳重な警戒網を布いた

<本文から>
 尾張半国の大名だった織田信長が時流に乗ってその勢力の拡張に努めていたころ、信長はこの遠山一族を通じて信玄に款を通じ、年々古府中の信玄に献上品を送っていた。永禄八年(一五六五)年十一月、織田信長は、かねて彼の養女として貰い受けていた苗木城主遠山勘太郎友勝の娘(信長の姪に当る雪姫)を勝頼の正室として伊那高遠に送りこんだ。このように武田との関係を緊密にして置いてから、翌、永禄九年九月、美濃に侵入して斎藤竜興を攻撃し、次の年の十年八月には、稲葉山城を攻略してこの地に移転した。その時点において、信長ははっきりと東美濃を挟んで武田と対立することになったのである。
 信長は信玄の力をよく知っていた。おそるべき敵は、浅井でも朝倉でもなく、武田信玄その人であると思っていた信長は、信玄の歓心を買うのに努力する一方では、束美濃に対して厳重な警戒網を布いた。その警戒網の第一線に遠山一族を当てたのである。信長はあらゆる工作をして、遠山一族を織田方につけようとした。
 苗木城主の遠山友勝に信長の妹をやり、遠山一族の中心である岩村城主遠山左衛門射景任には、信長の叔母のゆうを娶せた。ゆうは信長の叔母ではあるが年は信長より下であった。信長の系統には美人が多かった。信長の妹のお市の方は絶世の美人と云われた女である。ゆうもまたお市の方とよく似た美人で、ゆうの微笑によって遠山景任はすっかり織田方に従いたとかで云われていた。景任とゆうは仲むつまじい夫婦だった。あまりに仲がよすぎるから子供ができないと陰口を叩かれるほどであった。その遠山景任が病死した。ゆうは寡婦となった。信長は、そのゆうのところに、信長の末子、御坊勝長を養子として送った。遠山一族を押えるには、どうしても信長の血を引く者をその総帥として置かねばならなかったのである。信長はこれだけでは心もとないから、兄の織田三郎五郎信広と家来の河尻与兵衛秀隆を軍監として岩村城に送りこんだ。岩村城を難攻不落の城にしようと思ったからである。
 遠山七頭のうち苗木城主の遠山友勝と岩村城主の遠山景任が織田信長と婚姻関係を結んだことによって、遠山一族がすっかり織田信長に従ったかというとそうではない。
 武田信玄は秋山信友を通じて、ずっと前から遠山一族と交渉を持っていた。遠山一族の方から人質を武田側に出していたこともあった。遠山一族に対して不満を持つ者で主家を離れて、秋山信友に仕えている者もいた。
 織田家と遠山一族は婚姻関係を持った。しかし、婚姻関係を云々するならば、勝頼の長男信勝はその母が苗木城主遠山友勝の娘雪姫であるから、武田の嫡流の中に遠山氏の血が入ったことになる。この点を強調するならば、織田と遠山の関係よりも武田と遠山の関係の方が密接になる。
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■武田軍は徳川軍を挑発するために石礫を投げた

<本文から>
 三方ケ原の合戦の時にも武田軍はかなりの鉄砲を持っていた。武田信玄が、早くから鉄砲に眼をつけていた証拠となるものは、天文二十四年(弘治元年=一五五五)、武田信玄と上杉謙信とが北信を争っていた当時のこと、信玄は、善光寺別当栗田鶴寿を援助するための旭要害(長野市旭山)に鉄砲三百挺を送りこんだという事実が『妙法寺記』に載っている。天文十二年に鉄砲が渡来してから十二年後に、既に信玄はこれだけの鉄砲を使用していたのである。天文二十四年から更に十七年も経ていて、鉄砲は普遍的武器となっている。三万の大軍を動かす武田軍が千挺やそこらの鉄砲は持っていたものと考えるべきであるが、残念ながら、当時武田軍が所有していた鉄砲の数は分らない。
 分らないと云えば徳川軍の方だって、鉄砲をどれほど持っていたかは分らない。
 小山田隊からの石の挑戦に対して、徳川軍の大将たちは挑戦に応ずるなと制したが、多くの兵はこれを聴き入れず、小山田隊に向って斬り込んで行ったので、隊長の石川数正も止むなく攻撃の命令を下したと『国朝大業広記』に書いてある。
 武田隊が鉄砲がないから飛道具として、石の礫を投げたというならば、徳川方は礫など相手にせず、鉄砲の一斉射撃か弓矢で応戦すればよかった。それをそうせず礫を投げられたのを怒って斬りこんで行ったところに、この合戦の緒戦の鍵がある。
 徳川軍はできることなら、睨み合いの状態のままでじりじりと後退したかった。一万と三万が同じ条件で衝突したら負けるに決っている。部将たちはそう考えたに違いない。だから、矢合わせの挨拶もないし、鉄砲の挨拶もなかった。
 武田隊は徳川隊のその様子を見て、とにかく相手を怒らせて戦争に引き込むことを考えた。その怒らせる戦術の一つが礫打ちだった。
 矢玉の挨拶ならまだまだ我慢できるけれど、石を投げつけられたらなんとしても我慢ならないのは戦いに臨んでいる兵たちの心理であろう。
「やい、意気地なし、そのまま引き揚げるつもりなのか、そんな弱虫には矢玉の挨拶はもったいないから、石でも投げつけてやろうぞ」
 このようなことも云われただろう。石川数正の部隊が腹を立てて斬りかかっていったのは当然のことである。つまり、この戦いで小山田隊が石磯を打たせたのは、武田軍に鉄砲があるなしとは全く無関係なことである。徳川軍を刺激して怒らせて合戦に引ずり込むための挑発以外のなにものでもなかったのである。一般的に云えば、このような大合戦には矢合わせ、鉄砲の応酬があってから、槍や刀を取っての戦いになるのだが、三方ケ原の場合は武田軍の磯打ちの挑戦によって、いきなり乱戦に入ったのである。
 そのとき徳川軍は鶴翼の陣を張っていた。
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■三方ケ原の戦は半刻足らずで徳川軍の総退却

<本文から>
 酒井忠次は退けの命令を受けたときに、殿をどの部隊にしようかと考えた。このような敗戦の場合、殿として後に残された部隊は全滅を覚悟しなければならなかった。
 元二俣城主だった中根正昭が酒井忠次の前に進み出て云った。
 「それがしが殿をつとめまする。その理由は訊かずともお分りの筈、即刻落ちられるように」
 二俣城を武田信玄に明け渡して浜松城に引き揚げていた中根正昭にとっては、その日その日がつらかった。
 (城と共に死ぬのが武士の本領、命を惜しみ、城を敵に渡して、おめおめ引き揚げて来るとは見下げ果てた男)
というような陰口の中に彼はじっと我慢して生きて来ていた。
 理由はどうあれ、二俣城を敵に渡したのは事実であり、その汚名は一生彼につき纏うだろう。よほどの手柄を立てぬかぎり再び城主になることはおぼつかない。中根は自らの生命を賭けた。殿を無事果して万が一にも生き残ることができたらと考えたのである。
 二俣城の副将として派遣されていた青山又四郎(青木貞治とも)は石川数正の一隊に配属されていた。青山又四郎も中根正昭と同じように考えて、殿を申し出ていた。
 中根正昭は彼の手勢五首あまりを率いて、武田の猛攻撃を支えた。そして中根正昭はその場で戦死した。青山又四郎もまた同様な運命になった。
 徳川軍の総退却と同時に暗くなった。空は依然として曇っている。暗夜の敗走と同時に追撃戦が始まった。
 大きな合戦になると、勝負がきまるまでには半日ぐらいはかかる。この間、双方が死にもの狂いになって戦うのである。ところが、この三方ケ原の戦は日暮れどきに始まった合戦であるのでそう長くは続かなかった。双方が縞をけずって戦ったのは半刻(一時間)足らずであったであろう。夜になって、追撃戦に移ってからは、武田方の」方的な戦いとなった。
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■三方ケ原の完敗は家康の将来に大きな教訓を与えた

<本文から>
 徳川軍にとっては完敗の戦いであった。この戦いの後、徳川家康は武田軍を非常に恐れるようになった。信玄の死後、勝頼が、大軍を率いて挑戦して来ても、徳川軍単独で戦うようなことはなかった。徳川織田連合軍と武田勝頼の軍とが設楽原で合戦するまで、対決は延期されていた。
 信長が本能寺で殺されたとき、徳川家康は堺にいた。家康はうまく明智光秀の手を逃れて岡崎に帰ると、まず甲斐の国に兵を入れた。信長の旧臣を追払って甲斐を奪うためだった。そして、まだ残っている武田信玄の旧臣を積極的に家来に加えた。武田の騎馬隊の威力を徳川の戦力に加えたいためであった。
 三方ケ原の苦い経験は家康の将来に大きな教訓を与えた。
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■信玄の最期、死を三年間秘せよと遺言

<本文から>
 浪合についたとき信玄は重態に陥っていた。勝頼や昌景が枕元に寄っても、うつろな眼を向けるだけだった。
 行軍は停止した。
 勝頼は信玄の傍につきっきりだった。
 二日目の朝になって、信玄は勝頼を枕元に呼んで
 「機を逸したら戦さには勝てぬ、余の病気などかまわずに進軍せよ」
 と命じた。
 信玄はいくらか元気になったように見えた。その朝は僅かながら粥をロにした。附き添いの者にも声を掛けた。一同は奇蹟が起ることを望んだ。
 浪合に着いてから三日目の朝、信玄の厳命によって再び輿は動き出した。雨がすっかり上って清々しい朝だった。
 輿は浪合を出て駒場に向った。浪合から駒場の間は山道で悪路の続きだった。真田昌幸と、曾根内匠はここはどこだと訊かれたならば、瀬戸から犬山に抜ける途中の山道だと答えるつもりでいた。だが信玄は、その日は出発してからひとことも口をきかなかった。
 その日は朝のうち、あかねの方が信玄の枕元に附き添うことになっていた。医師団は輿の外にいて、なにかことが起れば、輿を止めて、中に入るようにしていた。
 浪合を出て一刻ほど経ったときであった。
 信玄は、なにか叫んだ。叫んだのではなくてなにか云おうとして言葉にならなかったようであった。
 起き上ろうとした。起き上れるような身体でもないのに起き上ろうとして身体をよじった。あかねの方が驚いて、信玄の身体を支えようと手を延ばしたとき、信玄は身体を斜めにしたまま多量の血を吐いた。血にむせぶような吐き方だった。鮮血があかねの方の法衣を紅に染めた。信玄はあかねの方のさし延べた手に倒れかかったままもだえた。喀血のために呼吸がつまったようであった。
 あかねの方は信玄の背を軽く叩きながら、大声で外の人を呼んだ。
 興が止められ、それが数台の上に置かれるのも待ち切れずに、侍医の御宿監物が中に入ったが、そのとき既に信玄は、幽明界を異にしていた。
 輿はいったんは浪合の前夜の宿所に引き返して信玄の遺体は中に運び込まれた。急を聞いて次々と重臣が集って来た。
 信玄は眼を見開いたまま死んでいた。その眼は京都を見ていた。京都に立てられた武田の旗を見詰めているようだった。山県昌景が目ぶたを閉じようとしたがそれをこばむかのように開いていた。馬場美濃守がやってみてもだめだった。三度目に勝頼が手を触れるとそれまで見開いていた信玄の眠が自然に閉じた。それを見て、里美の方が、声をおし殺して泣いた。
 「お館様が御目を閉じられました」
 と御宿監物が云った。
 その座にいる十余人の重臣たちは信玄の遺体に向って頭を下げた。
 時に武田信玄五十三歳、天正元年(一五七三)四月十二日であった。
 「残念ながらお別れの時間には限りがある。遺言によって、吾等は父の死を三年間秘せねばならぬ。お館様は存命ということにして、このまま輿を進めよ」
 と勝頼が昌景に命じた。
 昌景はそれに応えると同時に、勝頼の言葉を重臣たちの前で補足した。
 「実は、根羽に泊った夜、お館様は新館様(勝頼)と拙者の前で、もしものことがあったならば三年間死を秘めよと申された。みなの方々、お館様の御遺言である。もとの列にお帰りになってもなにもなかったようにふるまわれるように」
 信玄の遺体は再び輿に乗せられ、輿昇に担がれて駒場に向った。
 時々内匠や昌幸が御簾の裾から内に言葉をかけた。浪合でしばらく休憩したら容態はよくなったと周囲の者に見せるためだった。
 駒場の宿所は長岳寺と決められていた。
 翌朝輿は駒場を出た。中には、病める憎が寝ていた。その僧は、たまたま長岳寺に寄留中、病を発して臥せていた旅の僧であった。
 輿の中の旅の僧には里美の方とあかねの方が交替でつき添い、輿の外には侍医たちがつき添った。輿昇たちは中の憎が入れ替ったと気付いてはいなかった。
 長岳寺には百騎ほどの部隊が居残った。
 二十人ほどが信玄の遺体を裏山に運んで茶毘に附した。
 黄色いたくましい煙が真直ぐ立ち昇った。
「天台座主覚恕大僧正をお送り申し上げるのにふさわしい煙だ」
 と火葬にたずさわる者は囁き合った。
 信玄の遺骨は穴山信君が奉戴し、百騎がこれを守って、本隊より二日遅れて首府中に着いた。
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