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<本文から> 信玄がこの書状を読んで、なるほどと、謙信の気持を汲んでいるころ、謙信もまた信玄が常陸太田の佐竹義重に宛てた書状を読んでいた。
この書状は、筑波の小田氏治の手の者によって奪い取られて、謙信のところに送られて来たものであった。
(謙信は、軽い中風を発して以来、寒中の出陣は医者に禁じられているというのに、吹雪の三国峠を越えて出て来たのは、小田氏治を援助するためではなく、織田、徳川に幾重にも頼まれての余儀なき出兵であろう。だから謙信は常陸まで兵をすすめるつもりは毛頭ないだろうし、武田と決戦するつもりはないだろう。しかし、謙信の率いる軍が、利根川に沿って南下する気配があったら、わが方はこれを利根川の河原でおし包んで一人も余さず討ち取ってしまうつもりである。とにかく、こっちの方は気にせず、そちらでは小田氏治に対して充分なるお働きをなさるようにおたのみ申す)
謙信はこの手紙を読んでにが笑いをした。
「他人の病気のことより自分の持病のほうはどうなのか」
謙信はひとりごとを云った。
謙信が軽い狩場にかかったらしいという情報が武田の陣営に知れ渡っていると同様に、信玄の持病の労咳がこのごろまた悪化したようだという情報は上杉の間者によって探知されていた。
謙信と信玄はそう遠くない距離にいて、夫々、宿命の競争相手の身体のことを考えていた。
謙信の手紙にしても、信玄の手紙にしても、相手を激しく憎悪したものではなかった。ただ双方とも、強気なものの云い方をしているだけであった。それは、両雄の間に決戦を避けたいという気持があったからである。川中島の大会戦のようなことになれば、その損失を補うのに数年はかかることをよく知っていた。領土の取り合いはだいたい終っていて、これ以上領土争いに血を流すことは、第三者を喜ばす以外のなにものでもないことを両雄はよく知っていた。第三者とは信長のことであった。いままさに天下を掌握しようとしている信長のために、両雄が殺し合うほどばかげたことはないのだ。
寒い日が続いた。朝になると空風が吹きまくった。
信玄の側近たちは、信玄の健康ばかり気にしていた。互いにやる気のない俄争をやるように見せかけて、長い間滞降するほどばかげたことはなかった。いままでの経験からすると、甲越が対陣すると、やたらに長びく傾向があった。
信玄も空風の強い上野で上杉勢と睨み合っていることが如何にばかばかしいかをよく知っていた。 |
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