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          新田次郎「武田信玄 火の巻」

■信玄と義信の決裂

<本文から>
 織田信長は年に七度の進物を古府中に届けて来た。まるで属国であるかのごとき、慇懃な態度を示すのは、織田信長が京に上るための下心をほのめかすものであった。
 武田の家臣のみならず今川の家臣団の多くは、信玄が駿河に来ることを望んでいた。信玄が信濃制覇に示した武略と治世をもってすれば駿河一国を安定させることはたやすいことだと考えていた。暗愚な民真の下にいるより天下制覇の可能性のある大名に従ったほうがいいと考えるのは当然なことであった。
 (義信様どうかお館様のお心に従いますように)
 しかし、部将たちのその願いは志磨の湯にいる義信には届かなかった。
 信玄と義信の話し合いは三日三晩におよんでも堂々巡りをつづけていた。二人に余人は近づくことができなかった。信玄と義信は食事のとき以外は話し合っていた。ときには双方の声が高くなることがあったが、すぐ低くなった。そしてしばらくするとまた声が高くなり、急に低くなるという状態が続いた。
 義信は信玄を説いた。
「信義なくして、なんで天下制覇ができましょうや。同盟国を裏切って、攻めこむなどということは言語道断です。そんなことをすれば、今川だけでなく北条をも敵に廻すことになるでしょう。腹と背に北条民政と上杉輝虎の大軍を受けては、かえって苦しい立優に追込まれるでしょう」
 義信の意見に対して信玄は
「戦国時代に信義などというものは存在しない。強い者が打ち勝つのが戦国の習いである。いま駿河に出ないと、必ずや駿河は、松平と北条の分割所有するところになるだろう。駿河に進攻すれば、北条とは仲が悪くなるだろう。或いはその機に北条と上杉の和陸も考えられる。だが、北条も上杉も、自国を治めることで汲々としている。とても甲信を攻略する余裕はないだろう。義信、小さな信義にとらわれては凍らぬ。天下を制覇して、この国から戦いをなくすことが信養を世に問うことになるのだ。それこそ源氏の血を享け継ぐ武田家のなすべきことだ」
 信玄は義信を説いたが義信は頑として応じなかった。五日五晩の父子の議論の末、どうしても二人の意見が合致しないと見たとき信玄はとうとう最後の切り札を出した。
「お前の考えが、たとえ余の意見と相違したとしても、行くべき道がこうだときめられたら従うべきであろう。そして、その行くべき道を指す者は余である。余がこの国の領主だからだ」
「父上の命令が、絶対のものであることはよく知っております。でも私はその意見に賛同することはできません。父上がどうしても、駿河に兵を向けるというならば、この義信をまず血祭りにあげてからにしていただきたい」
 義信は蒼白な顔をして云った。
 信玄と義信の会談はそれで終った。信玄は深いため息をついた。
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■義信を守るための飯富兵部の反旗

<本文から>
 その書状を受取った武将たちは、顔色を変えた。信玄の身を案じて、すぐ手兵を率いて志摩の湯にかけつけた。
 この朝、一番目に現場にかけつけたのは穴山信君であった。彼は手兵三十騎を従えて志磨の湯を取囲んでいる飯富兵部の軍勢の前に駈けつけると
「お館様に叛く者は礫ぞ。思い違いをするな、はよう散れ、この場を去れ、汝等、犬死をするでないぞ」
 と叫んだ。信君の家来たちも口々に同じことを叫んだ。飯富兵部の家来たちは、なんでここへ連れて来られたのかわからなかったが、志磨の湯にいる信玄を討つためだとわかると動揺した。彼等にとって信玄は象徴的な存在であった。信玄の行くところには敵なく、信玄に従っておれば、やがては彼等にも地位や名誉や土地が与えられることを確信していた。その信玄を討ちに来たのだと聞かされると、とたんに戦意を失った。兵部の兵たちはがやがやと立騒いだ。そこへひとかたまりになった騎馬隊が来た。二番手は飯富三郎兵衛を先頭とする五十騎であった。手に手に朱房の槍をたずさえていた。
 飯富三郎兵衛は、穴山信君の前を黙って駈け通ると、ものも云わず飯富兵部の軍に突込んで行った。
 飯富兵部の軍兵たちは、信君の呼び声で浮足立っているところへ、同族の三郎兵衛の騎馬隊が突きこんで来たのだから面喰らった。なんのために戦わねばならないのかもよくわからなかった。ただ三郎兵衛をはじめ、その五十騎がすさまじい敵意を持って突込んで来たことだけは確かだった。
 志磨の湯のあたりは道がそう広くはなかった。兵部の軍隊は志磨の湯の背後の桑畑に一度退いたが、そのまま戦わずして、敗走した。
 飯富兵部は兵をまとめて、屋敷に帰ると固く門を閉じた。予期したとおりになったのだから、少しも驚いた様子は見せなかった。
 飯富兵部の軍が敗走したあとも、志磨の湯を目ざして、武田の部将たちが手兵を率いて続々と集って来た。彼等はそのまま飯富兵部の屋敷に向った。
 夜が白々と明け放たれたころ、馬場民部、内藤修理、武田邁遥軒らの武田家の重臣た
ちが、飯富兵部の説得におもむいた。
 飯富兵部はそのとき既に腹を切っていた。
 遺書があった。その中には、この叛乱はまったく飯富兵部ひとりの思いつきであって、義信様とはなんの関係もないと書いてあった。
 飯富兵部の暁の叛乱は、武田家の部将たちの心をためす手段にもなった。多くの部将は飯富兵部からの書状を貰って、すぐ手兵を率いて、志摩の湯に駈けつけたが、しばらく模様を見て形勢有利の方に従おうとしている日和見主義の部将がごく僅かながらいたことは確かだった。が、結局この事件は、武田信玄を中心とする甲軍の結束を強固にしただけであった。
 信玄は飯富兵部の心の中を見抜いていたようであった。そうしなければならなかった。
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■信玄の戦後処理の懐柔策

<本文から>
 戦後処理はその翌日になって行われた。自刃して果てた長野業成とその側近の者の遺体が収容され手厚く葬られた。長野業成の一族は男、女の別なく斬られた。
 「長野家は抹戯する。だが、長野家に仕えていた者は、その罪を問わない。願い出れば土地を安堵して、召しかかえるであろう」
 という高札が附近の村々に立てられた。だが武田信玄の真意を疑って申し出る者はなかった。
 「昨年来箕輪、松井田あたりの、かきあげ屋敷(小豪族の山城)より、年三別の利子で借り上げていた米の代金を支払うから申し出るように」
 という布令が出た。米の代金の支払いがなされてから、上野の人たちの信玄を見る眠が違って来た。
 「二十年経つと信玄という人も優るものだ」
 捕虜を金山に送るようなことも、女を捕えて遊び女に売ることもなくなったばかりか借金を返し、武士はそのまま召し抱えるという恩情政策に人々はしばらくは信ぜられないという顔をしていたが、やがて一人二人と仕官を申し出る暑が出て来て、落城の際落ち延びた者のうち二百名は前と同じ待遇で、箕輪城の新城主内藤修理の家来となった。これらの二百名は、後日、武田の中心戦力となった人たちばかりだった。上州武士に勇猛な者が多いのを見て信玄はこのような懐柔策を採ったのである。
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■義信が死す

<本文から>
 「義信は福恵翁のその言葉を覚えていたに違いない。義信は死に際して、心の救いを求めているのに違いない」
 信玄は涙を拭った。
 福恵翁はその日から義信の病床に行って法話をした。
「人生に余りが無くなったとき、もうこれで死ぬのだと悲しむ人があるが、それはおろかなことである。余りが無くなったことは無いということではなく、これから別な新しい希望に満ちた世界が始まるということである。その世界こそ、ほんとうに無限界に拡がる世界である」
 福富翁は死の解釈をそのように義信に語った。
「僧でない人のことを俗体という。俗体だから救われないということもないし、僧だから、新しい世界において恵まれるということもない。人の心は区別がないが、考え方によって区別が生ずる。未知の世界が恐ろしいと思う人の心はその恐ろしい世界に迷いこみ、未知の世界にはなんのおそるるものがないと思えば、その世界は花園のようになる」
 福恵翁は五日間東光寺に通った。そして、その最後の日に
「あきらめるというのは捨てることではない。どうでもいいと投げ出してしまうことでは決してない。俗体の世をあきらめるということは、俗体の世に起きたことに、こだわっていてはならないということである。俗体の世から離れるときには、俗体の世のことは考えずに、新しい世界のことだけを考えていればよいのである。俗体の世は俗体にまかせてやろう、いっさいはもう自分とはかかわりのないことだと思うようになったときが悟りである……」
 義信の眼から光が静かに消えて行った。
 時に永禄十年十月十六日であった。
 義信の死因についてはいろいろの説があるが、それらの説のもとはと云えば『甲陽軍鑑』の品十二に、義信公永禄十丁卯年御自害候、病死とも申す也、とあるところから出たものである。
 義信事件は武田の内部に起きたことで、その真相は正確に外部には伝わってはいない。自害候と云っておいて、病死とも申す也とことわってあるのは『甲陽軍鑑』が、武田の遺臣たちの噂話を聞いて書かれたからであろう。とにかく義信と信玄とが意見が合わなくなってからも、信玄はなんとかして、父子の意見統一を計ったことは確かである。だが、それができないうちに、義信は三十歳でこの世を去ったのである。
 信玄はぼんやりした日を送っていた。戦さをしようという気は当分起りそうもなかった。
 義信は東光寺の墓地に厚く葬られた。
 東光寺殿筆山艮公大禅門が武田義信の法号である。
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■今川氏真の侘びしい蹴鞠の人生

<本文から>
 中井将監は、民真の言葉を、大地にひざまずいて聞いていた。その言葉の中に、氏真の胸中を察したようだった。
「帰って氏康殿と民政殿に余の言葉を伝えてくれ。余は国王を養子にすることを、心ならずも承知したとな。おそらく、これが余がロにすることができむ最後のわがままであろうが、そのとおり伝えてくれ」
 中井将監は小田原城に帰ると、見て来たとおりのことを氏康に伝えた。話が蹴鞠に及んだとき氏康が云った。
「氏真は気の毒な男だ。しかし、彼がほんとうに気の毒かどうかは、彼の一生を見てからでないと軽々しくロにすることはできない。彼はこの乱世の中で終りをまっとうし得るただ一人の人となるかも知れない」
 北条氏康もまた将来を見る目があったのであろう。今川氏真は、駿河を武田が再び制圧するようになると、小田原へ逃げて、北条氏にかくまわれたが、北条氏と武田氏が仲直りをすると、北条に頼ることができなくなって、徳川家康をたよって、浜松に逃げた。
 その後、近江国(滋賀県)野洲郡で、五百石の食い扶持を与えられたが、ここにも安住することはできなかつた。一彼は西国の大名を頼って、流浪の旅に出た。大村三郎左衛門と大村四郎左衛門兄弟の他に蹴鞠の鞠が氏真と辛育を共にした。氏真は、諸国の大名の前で蹴鞠の技を見せた。名門、今川家の成れの果てを見てやれという、あさましい心の持主ばかりではなく、晩年になると、神技に入った氏真の蹴鞠の技を見るために、わざわざ彼を招いた者もいた。
 豊臣秀吉が、氏真の蹴鞠を見て、その才能を惜しみ、しばらく留まるように云ったが、それを断わって旅に出たという話がある。晩年の氏真は長い苦労の末に身についた、なにかしらの人生観を持っていたようである。それは、他人は当てにはならないものという悟りだったのかもしれない。
 大村三郎左衛門と大村四郎左衛門があい次いで死んでからの氏真は、全くの孤独になった。もう蹴鞠をやる相手もないし、それをやって見せるほどの体力もなくなっていた。
 彼は京都に出て僧になり僧闇と称した。
 彼は慶長十九年(一六一四)十二月二十八日、江戸において他界した。七十七歳であった。
 終りをまっとうしたという点では北条氏康の予言は当っていたようである。
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■勝頼の凍傷の重傷者を救ったエピソード

<本文から>
 神社を焼くなどということは、もっての他のことであった。高間雄斎はことの重大さに驚いたが、制止できる状態ではなかった。兵たちは、大半が手足に凍傷を受けていた。重傷者はもっとひどい状態であった。高間雄斎はそのときすべての責任を取ろうと決心した。
 横目付の曾根原主膳は、高閣雄斎の率いる二十人が諏訪神社をこわして焚いていることを目付に報告した。目付が現場へ行って制止したが、兵たちは焚火を止めようとはしなかった。焚火を見て附近にまだ宿舎が決らずにいた兵たちがつめかけて来た。手足に凍傷を受けた者や負傷者が多かった。彼等は神社に上り込み、床板をはがして燃やした。目付や横目付の力では制止できなかった。制止しようとすれば、それでは薪を持って来い、薪のあるところへ案内しろと逆に目付や横目付をつかまえて、こづき廻す始末であった。寒気はきつくなる一方だし、夜を前にして、寝場所がはっきりしない兵たちは、時間が経つにしたがって昂督した。
 横目付の曾根原主膳はその状況を本陣に報告した。
 「なに諏訪神社の支社を…」
 信玄は顔色をさっと変えたが、外の吹雪に眼をやると勝頼を呼び寄せて云った。
 「兵たちが諏訪神社の支社を薪にしているそうだ。よほど難渋しているからであろう、よく見てから、応変の処置を取るように」
 武田信玄は神仏を崇拝する武将であった。また、信玄の諏訪神社に対する信仰は格別だった。遠い昔、武田氏が武田の常にいたころは諏訪神社の民子であったという歴史的事実もあって、武田は諏訪法性の軍旗を用いていた。その社がいくら支社であったからといって諏訪神社を焼くということは常識では考えられぬことであった。
 勝頼も父信玄の二言によって、情況を察した。勝頼が馬に乗ると、その後を二十騎ほどの旗本が追った。武田の重臣跡部大炊介勝資が、勝頼の傍に馬を寄せて来て云った。
「勝頼様のなされ方を将兵のすべてが見ております。よくよくお考えになって処置なされますように、兵を罰するより、兵を救う道こそ、この場合は大切でございます」
 勝頼は、跡部勝資の顔を見ただけでなにも云わなかった。勝資の顔は吹きつける雪で真白だった。
 諏訪神社支社の前で馬をおりた勝頼は石段の上を見上げた。社の屋根から煙が上っていた。
 社殿の中にいた兵たちは勝頼が来たと聞いたが、火を消そうとはしなかった。高間雄斎が勝頼を迎えた。
「すべてはこの高閣雄斎が命じてやらしたことでございます。御存分に、御処置をお願い申上げます」
 雄斎は降り積っている雪の上に膝を屈して云った。
「負傷者は何人か」
 勝頼が訊いた。
「重傷者が三人、負傷者は七人おりまする」
 勝頼は、それに対して大きく領いてから云った。
「余は、諏訪神社の大祝諏訪頼重の孫である。神代の時代から諏訪神社の大祝としての血統を受け継いだものである。余がここに来たのは、武田勝頼としてではなく、大祝諏訪勝頼として参ったのだ。用向きは、諏訪村の諏訪神社支社を新営するため、神霊をしばらくの間、諏訪神社本社へお移し申上げたいからである。高間雄斎、余はそちに、遷ぐ官の儀に際しての脇役を申しつける」
 そして勝頼は更に言葉を続けて
 「まずその雪の下にある榊の枝を取ってまいれ」
 と命じた。勝頼の指すところには、榊の木はなかった。雪をかぶっている笹があるだけだった。雄斎がためらっていると勝頼は声を高めて云った。
 「心で榊を見よ」
 それで雄斎は勝頼の気持を察した。この大雪の中で榊を探すのはたいへんだから、笹の葉で間に合わせようというのであった。
 勝頼は、堆斎の取って来た笹の葉を手に持って神殿に近づくと、笹の葉で型どおりのお祓いをして祝詞を唱えた。音吐朗々としてあたりを圧するものがあった。
 勝頼は祝詞を唱えながら、亡き母、湖衣姫のことを思い出していた。あなたは諏訪家の直系です。代々諏訪神社に仕える大祝の血統を受け継いでいるのですからお祓いの形と祝詞ぐらいは覚えていなければなりませぬ。そう云って母が連れて来た神官の矢島満明に教わったお祓いの形と祝詞が、ここで役立ったかと思うと感慨無量だった。
 勝頼の旗本もついて来た跡部勝資も、勝頼がお祓いを行い祝詞せ上げることができるなどとは思ってもいないことであった。人々は首を垂れて勝頼の祝詞を聞いた。雪の中の儀式は荘厳に行われた。
 勝頼は祝詞が終ると、本殿の扉を開けて、そこに祭ってあった、諏訪神社のお札を懐中に収めた。
 「諏訪村の諏訪神社の神霊は、諏訪神社の大祝、諏訪勝頼が、今日ただいま、本社殿へお移し申上げることに相成った。明年この地に新しく社殿ができるまでに、この旧社殿は取りこわして置くように」
 勝頼は高閣雄斎にそう命ずると、家臣に向って、これから、直ちに諏崩村の名主のところへ行くから案内せよと云った。
 勝頼主従は、諏訪村の名主尾形太郎右衛門のところに寄って、諏訪村の諏訪神社支社は、来春、勝頼が費用を出して新築するから、それまでの間、神霊は諏訪神社本社に移すことを告げた。尾形太郎右衛門は、一勝頼の処置に繰り返し礼を述べた。
 勝頼の一行が鶴島の本陣に帰りついたころは既に日は落ちていた。吹雪はいよいよ激しくなった。本陣に当てられた寺の本堂で勝頼を待っていた信玄は、勝頼からの報告を聞くと
 「止むを得ぬ処置
 と一言云っただけだった。褒めもけなしもしなかった。しかし、この事件についての噂話は跡部勝資が勝頼に予告したとおり、二、三日の間に全軍に拡がった。信玄の後継者としての勝頼の人気は一いやが上にも挙がった。特に、信濃や上野などの分国の将兵には、若い大将勝頼の評価は確定的なものになった。
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