その他の作家
ここに付箋ここに付箋・・・
          新田次郎「武田信玄 風の巻」

■父・信虎の追放

<本文から>
 「なにやら前方に悶着が起ったようでございます」
 板垣借方が信虎にいった。
 「なにやらとはなんだ、見て来てからはっきり申すがいい」
 信虎は不安な顔でいった。板垣借方は近くの小高い丘の上にかけ上っていったが、すぐ帰って釆て
 「晴信様の軍がこぜり合いを起したようでございます。とにかく、あの丘へ」
 信方は信虎を丘の上へ誘った。そう遠くないところで、晴信の軍が、少数の軍を包囲していた。
 「おおあの軍は今川殿の軍ではないか、今川殿の軍が晴信を迎えにやって来たのだ。早く、味方の軍勢を引きあげさせろ。そして晴信を、今川殿の使者にわたすのだ」
 信虎は板垣信方に絶叫するように命令した。
 「心得ました」
 信方は信虎と部下十名ほどをそこに残して丘を下った。信方が丘を下ろうとすると丘の周囲を武田の足軽が囲み出した。本陣が丘の上と決ったから、その本陣を警護する兵たちだと信虎は思っていたが、その足軽たちの槍が丘の上に向けられたとき、信虎は足がふるえるほど驚いた。
 「なにを血迷ったのだ」
 信虎は槍を小脇にかかえこんで、丘をかけおりていった。するとどうだろう。足軽共の槍は一斉にそっちの方へ向って並べ立てられたのである。槍襖は二重、三重になっていた。とても信虎ひとりで突き破られるものではなかった。
 「血迷うな、余は武田信虎ぞ」
 叫んでも、兵たちの槍は動かなかった。槍だけでなく、信虎に向けられている兵たちの眼に殺気さえ感じられるのである。
「板垣信方はどこへ行った、甘利虎泰はどこにいる……」
 信虎は武田累代の諸将たちの名を叫んだがひとりとして答える者はなかった。
「お館様、しばらくの堪忍を……」
 ふりかえると側近の古川小平太が立っていた。
「どうしろというのだ」
 信虎はかみつくようにいった。
「しばらく駿河へ御避難するのが上策かと存じます。われわれ十人が、今川様のお迎え衆と共々にお供をつかまつります」
 古川小平太が大地に手をつかえていった。
「小平太、お前はこのことを知っておったのか」
 信虎は最後の望みをかけて、古川小平太の答えを求めた。
「知っておりました。こうする以外に武田の安泰を計る道はございませんでした」
 (側近の古川小平太までが)
 信虎の身体から力が一度に抜けていった。血と汗で平定し統一した甲斐の土地で、その甲斐の者のすべてに見捨てられた自分の姿があまりにも、みじめであった。信虎は、もう一度丘の上に馬を進めた。丘の下の様相は一変していた。丘を包囲している人垣の一部が開いており、そこは丘の下にいる今川の迎え衆の輪の導入口となっていた。武田の軍勢は、いつのまにか軍陣を整え、それぞれの陣に、旗傾が立てられ、幾つか重なり合った奥の、信虎のいる丘とはほぼ対照的な高地に、武田菱の旗が一段あざやかにひるがえっていた。そこが晴信の本陣であることは間違いなかった。
 信虎は武田の陣を一望して、見事だと思った。知らない間に、この謀略を用意した晴信も、見事に武田の元首信虎を裏切った宿将たちの一糸乱れぬ協力も見事だと思った。信虎の顔に一陣の風雨が当った。雨は、信虎の頼を伝わり、涙のようにはらはらと地に落ちた。
 信虎の馬首が丘の下に向った。太鼓が鳴った。出陣の太鼓であった。父信虎を送るために晴信が打たせた出陣の太鼓の音も、信虎には皮肉以外のなにものにも聞えなかった。信虎は、おそらく二度と、この武田の軍鼓は聞くことはあるまいと思った。
 信虎を守る十人の武田の家臣と、その周囲を守る百人の今川勢の兵たちと、その前後をそれぞれ、二百人ずつの武田の軍が警護しながら、信虎の軍は静かに移動していった。
 晴信は父信虎の姿が見えなくなるまで、高地に立って見送っていた。戦国に生れた者 の悲哀がしみじみと身にしみた。父を追わねば、・自分が殺されるから、そうするしかなかったのだ。だからといって実父を追放したという罪の意識は容易に消えるものではなかった。 
▲UP

■人を治むる法度をつくる

<本文から>
 大声をあげて読めば、調子がよかった。それだけのことだった。実戦について教えられるものはそのなかにはほとんどなかった。だがその字句を晴信は捨てはしなかった。その字を職旗に書き、陣中に立てて置けば威勢がよかった。孫子のその教えは晴信には通じなかったが、家臣達の中にはその文句をロに出したがる者がいた。寄子、被官を引きつれて参戦して来る、寄親と称する者も、馬上姿はいかめしかったが、なかには自分の名前を書くのがやっとの者がいた。そういう郷士の集団こそ実戦の場の花形であり、武田を支えるものであった。
 晴信はそれらの土豪たちに風林火山の読み方を教えてやると、彼等は好んでそれをそらんじた。彼等は疾こと周のごとしと、口にとなえては馬を風のように走らせた。
(戦術というものは原則としてきわめて常識的なものである)
 晴信はすでにそれを知っていた。きわめて常識的な戦術を使って戦に勝つには、その戦を形成する個人にかかっていた。人と馬にかかっていた。
 「そうだ、人を作り、人を治むることに迂遠ではなかったか」
 晴信は書から眼をはなすと、いま頭の中に浮びつつあるなにものかを文章にまとめたいと思った。人を作ること、人を治むること、それが富国強兵の根本になるのだ。甲斐にも人を治むる法度はあった。それは父信虎時代のものであり、法度というよりも習慣のようなものであった。長い時代を経てなんとなく踏襲されて来た掟であった。明らかに悪いと知ひながらも改めずに来たものもあり、存続することに意味のあるものもあったが、総体的には法度はないと同じだった。少なくとも甲斐国の人びとが、法度として心服できるようなものはなかったのだ。
 晴信は駒井高自斎を呼んでいった。
「甲州法度を作りたい。これによって領民を苦しめるのではなく、領民の心を安定させるための大きな道しるべとなるものを作りたい。領民、家臣の権利、義務、身分の保証、土地、夫役、年貢、棟別、争い、婚姻、通貨にいたるまで、法度の条に盛りこみたい」
 駒井高白斎は晴信のいうことを黙って聞いていた。おそるべき領主だと思った。いくさに明けくれている、いまの甲斐国で、ちゃんとした法度を作るということは容易ではなかった。作っても、それを実施することはむずかしい。それをやろうとする晴信は、おそらく、天下に並びなき名君になる素質を持った人に違いないと思った。
▲UP

■川中島の戦いよりも重大な塩尻の戦い

<本文から>
 西牧、三村の決心はついた。
 西牧、三村の両軍がときの声をあげて山をおりた。
 「西牧、三村が動き出したぞ。塩尻峠の頂上にたどりついた甲軍は一も二もなく追い落されるであろう」
 小笠原長時はそう思った。だが西牧、三村は飯富兵部の方へは向わず、山をおりると方向をかえて、小笠原軍の背後に襲いかかって来たのである。
 戦いは、その瞬間に決した。
 一旦負け戦となると、収拾のつかないほどの混乱を見せるのが当時の戦いの特徴だった。
 主君のために命を捨てようと考えている武士はごく僅かだった。大部分の兵は、その戦いに狩り出されて来た農民であった。負け戦と決ったら早いところ家へ逃げ帰らないと殺される。どっちみち、敵の首を一つでも余計に取って恩賞にありつこうという考えで出て来た者が多かったから、負けたとなったら、命令もなにも届かなかった。彼等は蜘蛛の子を散らすように逃走した。
 甲軍は塩尻峠四道からいっせいに攻め登り、逃げる敵を追った。
 塩尻峠四道を逃げおりる小笠原軍を甲軍の騎馬隊が追撃した。追手は安曇、筑摩にまで延びていつた。
 中山道長井坂の途中で、矢島頼光は身に十槍を受けて討死した。花岡忠常は立ち腹を切った。諏訪西方衆の主なる者は、塩尻峠の霧と消えた。
 晴信は塩尻峠に立って眼下にひろがる安曇平野を見おろしていた。その広い穀倉地帯はこの戦いの勝利によって武田のものとなったのである。ノ彼は眼を南に向けた。塩尻峠の戦いの勝利によって、安曇と伊那とは断ち切られ、伊那における小笠原の勢力は崩壊し、伊那は武田に全面服従を余儀なくされるだろうと思った。
 晴信は馬の首ひとつほどうしろに下っている、馬上の里美に眼をやっていた。
 「里美のその美しい姿を余は生涯忘れぬであろう」
 張りつめていた里美の顔にある感動が走り、それが全身に伝わると、彼女は馬上に居るのがつらそうに身をよじった。里美の頬に流れる涙が夕陽に光っていた。
 塩尻峠の戦いは武田晴信にとって、川中島の戦いよりも重大な戦いであった。この一戦の勝利によって武田の運命は決ったとも云える。塩尻峠の戦いの、両軍の戦死者の数は千余名である。記録に残っている戦死者の数は誇大に善かれたものが多いが、この千余名の戦死者の数は正確と思われる。両軍死闘を尽した合戦であった。塩尻峠を西側に下ったところの柿沢宿の塚本屋が今もなお、この戦いに倒れた戦死者の塚を守っている。
▲UP

■金を使い人の心を掴む政策を実施

<本文から>
 小笠原長時を塩尻峠から追い落した晴信は兵を村井まで進めて、小笠原長時が捨てて逃げた城を急いで修復させた。村井城と小笠原家の本城林城との距離は僅か二里であった。
 晴信はこの城の修復に塩尻峠の戦いで捕虜となった兵士を使った。
 「城が出来るまで働けば自由を与える。武田の家臣となって村井城に籠るもよし、家へ帰るのも勝手次第。ただし途中で逃げる者は必ず斬る」
 晴信は描虜たちに布令した。十日目に工事場を脱走して捕えられた者があった。即日首を打たれた。晴信はそこで、もう一度、前と同じ布令を出した。築城といっても、本格的な城を作るのではなく当分の間の出城であった。村井城の修復は十五日あまりで終った。晴信は捕虜たちに約束通りに自由を与えた。三分の一は城に止り、三分の一は生家へ帰った。どうしようか迷っているあとの三分の一に、晴信は、商店を開く資金を貸与して、村井城下に店を出させた。
 その頃の村井は寒村だったが、晴信がそこに城下町を作ろうとする心構えを見せると、急に関心が高まり、人が集まって来た。
 甲軍に捕えられたら、黒川金山へ送られるという噂があったが、それは打ち消され、晴信の善政が、許されて故郷へ帰ったり、城下に店を出した男たちの口によって、中信濃一帯に喧伝された。晴信の人心収撹の一手段だった。晴信は村井城に馬場民部を置いて、城とその周辺打経営に当らせた。
 「金を使うことを惜しむな。必要のときは、いつでも古府中へいって来るがよい。中信濃を完全に手に入れるには、まず中信濃の人の心を掴まねばならぬ。人だ……」
 晴信は彼の云い出した言葉に自らが打たれたように
 「人は城、人は石垣、人は堀、なさけは味方、あだは敵……」
 と、つぶやいた。村井城を守る人は少なく、その石垣もそう高くはなかった。堀はなかった。だが晴信が中信濃進出と同時に、次々と打った数々のなさけは、人の心を動かしたことは事実であった。食糧、物資の調達には必ず代金を払ったし、田租、夫役も旧領主時代よりも軽くした。
 「甲州から金が流れて来る」
 と、中信濃の住民がいうほど、晴信は、中信濃経営に金をつぎ込んだ。刀で斬り取るのも戦いであるが、経済戦もまた戦術の一つであった。
 村井に市がたち、甲州との物資交流の中継点の様相をおびて来るにしたがって、小笠原家の人気はなくなった。人々は新時代の到来を喜んで迎えた。
▲UP

メニューへ


トップページへ