|
<本文から> 「なにやら前方に悶着が起ったようでございます」
板垣借方が信虎にいった。
「なにやらとはなんだ、見て来てからはっきり申すがいい」
信虎は不安な顔でいった。板垣借方は近くの小高い丘の上にかけ上っていったが、すぐ帰って釆て
「晴信様の軍がこぜり合いを起したようでございます。とにかく、あの丘へ」
信方は信虎を丘の上へ誘った。そう遠くないところで、晴信の軍が、少数の軍を包囲していた。
「おおあの軍は今川殿の軍ではないか、今川殿の軍が晴信を迎えにやって来たのだ。早く、味方の軍勢を引きあげさせろ。そして晴信を、今川殿の使者にわたすのだ」
信虎は板垣信方に絶叫するように命令した。
「心得ました」
信方は信虎と部下十名ほどをそこに残して丘を下った。信方が丘を下ろうとすると丘の周囲を武田の足軽が囲み出した。本陣が丘の上と決ったから、その本陣を警護する兵たちだと信虎は思っていたが、その足軽たちの槍が丘の上に向けられたとき、信虎は足がふるえるほど驚いた。
「なにを血迷ったのだ」
信虎は槍を小脇にかかえこんで、丘をかけおりていった。するとどうだろう。足軽共の槍は一斉にそっちの方へ向って並べ立てられたのである。槍襖は二重、三重になっていた。とても信虎ひとりで突き破られるものではなかった。
「血迷うな、余は武田信虎ぞ」
叫んでも、兵たちの槍は動かなかった。槍だけでなく、信虎に向けられている兵たちの眼に殺気さえ感じられるのである。
「板垣信方はどこへ行った、甘利虎泰はどこにいる……」
信虎は武田累代の諸将たちの名を叫んだがひとりとして答える者はなかった。
「お館様、しばらくの堪忍を……」
ふりかえると側近の古川小平太が立っていた。
「どうしろというのだ」
信虎はかみつくようにいった。
「しばらく駿河へ御避難するのが上策かと存じます。われわれ十人が、今川様のお迎え衆と共々にお供をつかまつります」
古川小平太が大地に手をつかえていった。
「小平太、お前はこのことを知っておったのか」
信虎は最後の望みをかけて、古川小平太の答えを求めた。
「知っておりました。こうする以外に武田の安泰を計る道はございませんでした」
(側近の古川小平太までが)
信虎の身体から力が一度に抜けていった。血と汗で平定し統一した甲斐の土地で、その甲斐の者のすべてに見捨てられた自分の姿があまりにも、みじめであった。信虎は、もう一度丘の上に馬を進めた。丘の下の様相は一変していた。丘を包囲している人垣の一部が開いており、そこは丘の下にいる今川の迎え衆の輪の導入口となっていた。武田の軍勢は、いつのまにか軍陣を整え、それぞれの陣に、旗傾が立てられ、幾つか重なり合った奥の、信虎のいる丘とはほぼ対照的な高地に、武田菱の旗が一段あざやかにひるがえっていた。そこが晴信の本陣であることは間違いなかった。
信虎は武田の陣を一望して、見事だと思った。知らない間に、この謀略を用意した晴信も、見事に武田の元首信虎を裏切った宿将たちの一糸乱れぬ協力も見事だと思った。信虎の顔に一陣の風雨が当った。雨は、信虎の頼を伝わり、涙のようにはらはらと地に落ちた。
信虎の馬首が丘の下に向った。太鼓が鳴った。出陣の太鼓であった。父信虎を送るために晴信が打たせた出陣の太鼓の音も、信虎には皮肉以外のなにものにも聞えなかった。信虎は、おそらく二度と、この武田の軍鼓は聞くことはあるまいと思った。
信虎を守る十人の武田の家臣と、その周囲を守る百人の今川勢の兵たちと、その前後をそれぞれ、二百人ずつの武田の軍が警護しながら、信虎の軍は静かに移動していった。
晴信は父信虎の姿が見えなくなるまで、高地に立って見送っていた。戦国に生れた者 の悲哀がしみじみと身にしみた。父を追わねば、・自分が殺されるから、そうするしかなかったのだ。だからといって実父を追放したという罪の意識は容易に消えるものではなかった。 |
|