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          新田次郎「武田勝頼(三)空の巻」

■穴山梅雪の裏切り、築城させて滅ぼさせる

<本文から>
 勝頼はああ云っても、心では少し云い過ぎたと反省しているに違いない。そこでもう一度貞姫のことを持ち出してみたいと思った。
 しかし勝頼は梅雪の顔を見ると、彼が貞姫のことを云い出す前に、
 「貞姫のことでお出になられたのなら、余の気持は昨日といささかも変わってはおらないと申すより他になにもござらぬ」
 と云った。
 梅雪は勝頼のその言葉を武田家が穴山家に対する不信任を表明したものと聞いた。今後穴山家とは緑を切るというふうに聞いた。梅雪は心の底から発する怒りを丸飲みこみにした後で、改めて云った。
 「あのことはもうあきらめている。話は城のことじや、四郎殿」
 梅雪は、もし貞姫との縁談をことわられた場合のために用意していた言葉をその場に出した。武田家との縁談が成立しなかった場合は徳川家に付くつもりだった彼は、徳川家に対する土産物として、築城案を考えていたのである。これは武田家を守るための築城案ではなく、亡ぼすための築城のすすめであった。
 「城? 高天神城のことか」
 「それも、ございます。まず拙者の云うことをとくとお聞き下され」
 梅雪はそう前置きをしてから話を出した。彼は、高天神城を持ちこたえることがいかに難しいかを説き、今大軍を発すれば、連合軍も大軍を発するだろう。勝負は時の運だから、負けるか勝つか分からない。しかし、たとえ味方が勝ったとしても、勝つ為に費した軍費と人の命は多大なものとなり、それが武田家を根本的に揺るがすことになるだろう。そこへ行くと連合軍は、たとえ負けたとしても、すぐ立ち直って、今度こそ直接甲斐の国へ攻めこんで来ること間違いない。そうしたとき、いったいどうして敵を防いだらよいか。甲斐には一つとしてこれと自慢できるような城はないではないか。そこまで話してから、梅雪は、
 「高天神城を救うことより、まず城を作ることが大事です。それに直ぐ取り掛かったらよいでしょう。幸いその候補地が韮崎の片山七里岩(韮崎市中田町中傑)にございます。ここは台地になり、断崖をへだてて西側は釜無川になり、東から北は沼沢地になっております。ここに城を築いたら、幾万の敵が来ようとも、容易に落ちるものではございません」
 そして梅雪は、北条氏が亡びないのは小田原城という堅城を持っているからだということを述べてから、
 「真田昌幸に縄張りを命じ、用材は木曾殿に命じて調達すれば、一年もあらば立派な城ができ上がるでしょう」
 と云った。
 真田昌幸に縄張りを命じたらよいと梅雪が云ったのは、昌幸が連合軍との決戦を主張している中心人物であることを知っていたからだった。昌幸は勝頼がもっとも信頼している部将である。その昌幸を戦場に駆り立てず、築城へ能力を集中させることが、武田家を自滅に導く第一歩だと梅雪は考えていた。木曾義昌に木材の調達を命ぜよということは、木曾に良木があるのに目をつけ、木曾衆に材木調達の夫役を命じたら、必ずや不平不満が出るだろうし、これが原因で木曾義昌と武田勝頼との間が不仲になるだろう。その折を見て、木曾義昌を連合軍に誘いこもうと考えたのであった。もし、木曾義昌が勝頼の要求に応じ、木曾の住民もその夫役に堪えて、城ができ上がったとしても、それまでに、武田家全体が消費する軍費は多大なものとなり、おそらく武田家は経済的破綻を招くだろうと考えていた。
 「昌幸に縄張りをさせるのはいいとして、木曾に用材の調達は少々酷ではないか」
 勝頼は梅雪の話に乗って来た。
 「木曾には槍が捨てるほどござる。切り倒して、曳いて来るだけのことです。たいしたことではありません」
 梅雪は勝頼に是非そうするようにと、進言した後、坐り直して明朝の軍議にはぜひ出席したいと云った。
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■穴山梅雪の裏切りを唯一直感した真田昌幸

<本文から>
 (なんとかしなければならない。穴山梅雪が敵に内通したとすれば、武田は亡びるかもしれない)
 昌幸の心の中では火が燃えた。梅雪が裏切ったとして、その次に裏切る者は誰であろうか。木曾の山村三郎左衛門良利のことがふと浮かび上がった。山村三郎左衛門が江尻へ行っての帰途、韮崎の普請場に立ちよったときの事など思い浮かんだ。もともと新城建設を強く主張して、これを決定させた穴山梅雪のことなど思い併せて、昌幸は、不安で不安でたまらなかった。だが、これを話す相手は居なかった。うっかり口にすべきことではなかった。
 昌幸は跡部勝資の帰りを待った。なかなか、帰らないので一度は、普請場に帰ってから、勝資が帰府したのを聞くと、馬を飛ばして勝資の屋敷を訪問した。表面は新城についての報告であったが、これはごく決まりきったことで、本当に訊きたかったのは、梅雪のことだった。
 昌幸が一言それに触れようとする気配を感ずると、勝資は家臣を遠ざけて云った。
 「やはりそこもとも疑っておられたのか」
 やはりそこもともというのは、おれも疑っていたがお前もそうだったのかというように取れないことはなかった。勝資は沼津城における梅雪の異常なまでの昂奮ぶりを話して、
「玄蕃頭殿は最後になると涙まで流して赤心を誓った。もし、噂のように玄蕃頭殿が敵に内通していたとしたら、ああいうことはできないだろう。そうは思わぬか」
 勝資は逆に昌幸に訊いた。
「それは人によってでございます。中には、やりかねない人もいるでしょう。人間追いつめられると、案外そういうことが容易にできるかもしれません」
 昌幸は、はっきり云った。
「そこもとは、その場に居なかったから、そのようなことを申すのだ。拙者はそこにいて、玄蕃頭殿の涙を見たのだ。また江尻の城へ行って、玄蕃頭殿がいかに駿河の国の防備に心を砕いているか、また駿河の国の諸将が彼に心服している様子などをこの目で見て来たのだ。穴山三金山の献上なぞ、いかにも突飛なことに見えるだろうが、この非常の事態に見せようとした赤心の表われとしていささかもおかしくはない。玄蕃頭殿には悪いが、拙者も、そこもとと同じように疑っていた。が、今は疑念は晴れた。そこもとも疑念を晴らすがよいぞ。玄蕃頭殿には毛頭疑わしきことはないわい」
 跡部勝資はそう云い切った。昌幸としてもそれ以上なにも云えなかった。
(いや梅雪は疑わしい。拙者の直観でそう判断する。これ以上確かなものはない)
 昌幸はそう思っていても、そんなことをここでは云えなかった。彼はやりようがない気持を抱いて、跡部家の門を出た。
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■信玄の弟・武田信廉が逃げたのは、城攻めを防いだ経験がないから自信がなかった

<本文から>
 新府中からの命令も待たずに単独に開城したのである。城将も、城兵もこのようなことをすれば結果がどうなるかをよく知っていた。新府中に帰れば、軍規によって罰せられること間違いなかった。将兵たちは、それぞれ知人を探して身を隠した。
 大島城には武田逍遥軒信廉がいた。信廉は信玄の弟で、顔が信玄によく似ていたと云われていた。武将であるとともに、画才があった。彼は御親類衆第一の大将として下伊奈でもっとも重要な大島城の城主をして来ていたのである。
 堅城と云われていたが、城兵およそ千名ではとても大軍を支えることはできなかった。
 武田信廉は戦わずして大島城を捨てた。二月十九日の夜のことである。誰一人予想もしないことが起きたのであった。大島城には逍遥軒の他に、安中七郎三郎や小原丹後守、依田能登守等がいたが、松尾城が裏切ったと同時に飯田城が夜逃げをしたと聞いて、なぜか戦う意慾を無くしてしまったのである。
 武田軍は城を攻める戦ばかり続けて来た。逍遥軒の生涯においても防ぐ戦いはたった一度もなかった。防いだ経験がないから、防ぐことに自信がなかった。とても防ぎ切れるものではないというような、暗示にかかって城を立ち退いたのであった。飯田城や、大島城がもう一つの伊奈の城、高遠城のように全員討死の覚悟で戦ったとしたら、あるいは歴史上その例を見ないほどの、武田崩壊の記録を後世に残さなかったかもしらないが、これもはやり時のいきおいであったのであろう。
 逍遥軒が大島城を退去した理由は他にもあった。松尾城が謀叛したと聞くと、城下の者が急に落ち着きを失ったばかりか、織田勢に味方をするのだと云って農民の一団が、兵糧の徴収に出向いていた大島城の武士を襲い、米を奪い返したばかりでなく、各郷の役人の詰所に火を放った。大島城から兵を出して取り静めようとすると暴動に加わった農民は石を投げてこれに抵抗した。それを聞いて、
 「既にして、民にそむかれたか」
 と逍遥軒は溜息をついた。
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■唯一、高遠城だけ最後まで戦った

<本文から>
 彼は勢十人の郎党を指揮して近づいて来る大将の喉を狙って最後の一矢を放った。敵の大将がのけぞると同時に鉄砲の音がした。牛山清之進は、森長可の鉄砲隊に狙い撃ちされたのである。曾根原父子もこの場で壮烈な戦死を遂げた。
 高遠城が落ちたのは天正十年三月二日の申の刻(午後四時頃)であった。卯の刻(午前六時頃)から開始された合戦は十時間後に終ったのである。
 日本最強の武士集団と云われた武田が、織田勢の進攻の前に為すことなく亡び去ったその中にたった一つの例外があった。
 それが高遠城の抗戦であった。勝つことの見込みは全くなく、武田の滅亡さえ目の前にちらついているのに、一人として脱落する者もなく、全員討死したこの戦いはあまりにも悲惨であった。なぜ高遠城だけが武田の最後を飾るにふさわしい戦をしたか、それにはいろいろの説があるが、まず第一は城主の仁科盛信がしっかりしていたからであろう。副将の小山田昌辰も気骨ある武士だったからであろう。それに、諏訪衆、伊奈衆が死を覚悟で戦ったことと、この城で死ぬつもりでやって来た今福筑前守他、多くの武将たちがいたからであろう。
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■武田家滅亡間際の人間なだれ現象−現実主義にとらわれやすい脆弱な武士団気質の集まりの故

<本文から>
 日本最強の武士団と言われていた武田氏がろくな戦いもせずになぜ敗北し、想像できないような人間なだれ現象をなぜ起こしたかについて、武田氏研究の権威であり、最近『定本武田勝頼』(新人物往来社刊)を著した歴史学者、上野晴朗氏はその中で次のように書いている。
 《これによって見ると、二月末から三月のはじめにかけて、信長は武田の家臣たちに向って、信忠と親子連名の書をひそかに発行して、織田家に内応した者には、しかるべき恩賞を与えると、謀略の甘言を盛んに流していたことがうかがえる。ところが意外にも、武田家臣のほとんどが、それに引っかかって、土壇場で主君の勝頼を見捨てて、引き龍ってしまったのである。甘いといえばずいぶん甘い話であるが、勝頼が滅んで、信長が恩賞を与えるから出てくるようにという廻文を流すと、すぐにこれを信じていっせいに出てきたところをみると、信長の謀略を謀略とも思わずに、ほんとうに信じていたのは事実であろう。あるいは穴山信君あたりが、添状かなにか付けていたのかも知れない。それにしても武田家臣団というのは、その体質は信玄個人の統率と、その権力構造のなかでは、いきいきと活躍できたが、本来の気質や性格は、現実主義にとらわれやすい、非常に脆弱な武士団気質のあつまりであったとしか云いようがない》
 上野晴朗氏は先祖代々甲斐の国の人であり、名家の末である。多くの甲斐の国の人 は武田が滅亡した原因のすべてを勝頼におしつけようとする傾向の中にあって、武田の歴史をくわしく調べ、特に武田勝頼については畢生の情熱を傾けて調べ上げた結論として、武田家臣団の気質や性格は、現実主義にとらわれやすい、非常に脆弱な武士団気質のあつまりであったと結論づけたのはまさに卓見というべきであろう。武田家滅亡間際の人間なだれ現象の謎はこの上野晴朗氏の一言によって解かれたともいうべきであろう。
▲UP

■勝頼の最後

<本文から>
 一段と背が高くてたくましい敵が現われた。
 「伊藤伊右衛永光!」
  と彼は大声で名乗るといきなり勝頼に向って斬りつけて来た。勝頼はその刀を払い のけたが、敵がそのままぶつかって来たので押し倒されて鎖積の上に倒れた。前後左 右から一度に敵がおり重なって来た。勝頼の首を挙げたのは伊藤伊右衛であった。
 勝頼が戦死したのが最後だった。武田方ではもはや生きて戦っている者は一人もいなかった。この頃になって、足の遅い組が戦場に到着した。彼等は獲物を探し求め た。首が欲しかった。首を取らねば恩賞が貰えなかった。彼等は、そのために長い道中をここまで来たのである。飢えた織田軍は、佐代姫たちの自決の場で読経している二人の僧を殺して首を取った。自害した女衆や子供衆の遺骸の首を取った。それを止める者さえいなかった。
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