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          新田次郎「武田勝頼(二)水の巻」

■勝頼は長篠城を落城させず織田軍をおびき出した、信長は弱腰を見せて油断させた

<本文から>
 氏は現地において長篠城攻略戦及び設楽ケ原の戦いの研究にその生涯をかけている郷土史家である。丸山氏が指摘しているとおり、長篠城は落城寸前であった。それなのに落城しなかったのは、(長篠城が落城すれば、織田勢はこの前の高天神城のときと同じように、援軍の使命を失ったと称して、さっさと岐阜へ引き揚げてしまうだろう。そうなれば、織田軍と戦うことができなくなる。この際織田、徳川連合軍に大打撃を与えなければ、彼等はますます増長し、ついには手に負えぬものになるだろう)
 これが武田方の部将たちの総合した見解であり、
 (織田信長を引き寄せるためには長篠城をもうしばらく生かして置く必要がある)
という結論に達していたからである。
 急に武田方の攻撃が弱くなったので、長篠城内の将兵はむしろ奇怪にすら感じたであろう。
 武田軍が長篠城攻撃の手抜きをしているという報は直ちに、織田軍及び徳川軍の知るところとなった。
 「勝頼は飽くまでやる気なんだな」
 織田信長はその情報を十六日の夕刻牛久保城で聞いたときつぶやいた。勝頼が全軍を挙げて迎撃に来るならば、それこそ味方にとつて有難いことで、この時点で既に戦略的に連合軍が有利に立っているのだと思った。
 織田信長は丸毛兵庫と福田三河守を牛久保城警固のために置き、その翌朝、野田に向った。
 (信長は敗戦となったときのことを考慮して、丸毛兵庫と福田三河守を牛久保城に入れたらしい)
 という情報が武田の陣営にもたらされた。このような風説をばらまかせたのは、織田信長自身であった。織田信長はおっかなびっくり、それでも徳川家康との盟約の手前、軍隊を引き揚げることもできずに、長篠へ向って進軍中であるというふうに武田軍に思わせるため、あらゆる手段を用いたのである。
 棒と縄束を持たせられた織田軍三万五千の軍兵もまた、直径三寸長さ六尺の棒に嫌気がして、士気がさっぱり上がらなかった。
 「合戦の前から馬塞ぎの棒をかついで歩くなどというばかばかしい戦があるものか、これでは初めっから逃げ腰と云われてもしようがあるまい」
 と洩らす兵もいた。
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■信長は梅雨が上がる時期を情報操作した

<本文から>
 「梅雨の上がりが……」
 忠次は首をひねった。
「鉄砲だ……」
 と信長に云われたが、忠次はまだよく解せない顔をしていた。
「梅雨は明日か明後日には上がる。それはもうはっきりしている。もし作左衛門が、そのとおりのことを云えば、武田軍は恐らく、陣を退くだろう。梅雨が上がれば三千挺の鉄砲が思う存分使える。鉄砲の前には馬塞ぎの柵がある。武田軍といえどもむざむざ死地に飛びこむようなことはしないだろう。必ず陣を退く」
 分かりましたと忠次は膝を叩いて云った。
「いや、いや、まだ分からないぞ。敵も、こちらの兵力をよく知っている。戦ったら必ず勝てるという自信を裏づけるなにかがなければ、攻めては来ない」
 信長は忠次をたしなめて、とにかく、その作左衛門については、よくよく慎重にやれと命じた。
 その夜、鳥居助左衛門は作左衛門の家を密かに訪れた。武田の家臣だというので家の中に入れて面談している間に、助左衛門は徳川方の者であることを名乗った。
「武田の本陣へ行って天気のことを話しているそうだが、最近は何時行ったか」
 助左衛門の問いがきびしくなった。云い逃がれをしようとすれば一太刀で斬り伏せられそうな気配を感じたので作左衛門は、
 「十七日に本陣に呼ばれて、梅雨はいつごろ上がるかと聞かれましたから、はっきりしたことは申し上げられませぬが、数日後には上がるでしょうとお答え申しました」
「おそらく、明日あたり呼ばれるだろう。その時は、梅雨が上がるのはあと四、五日かかると云って貰いたい」
「嘘を申せと云われるのですか」
「そうだ。そうしないと、戦が終らないのだ」
 助左衛門はそう前置きして、話し出した。
 長い間の戦乱のために日本中の農民は困り果てている。なんとかして国が一つにならねばならない。織田信長様は、日本のほぼ三分の一をその勢力下に収められている。今の形勢から云えば武田が亡びるのは時の問題である。できることなら今のうちに織田、徳川連合軍に心を寄せたほうが将来のためになる。
「なに、よくよく天文を案じたら、この梅雨はあと四、五日は続くことが分かったと云えばいい。どうせ天気のことだ、当らないのが当り前で、当る方がおかしい。万一、お前が云ったことが事実と合わなくつても、とがめられることはあるまい」
 そう云って置いて、助左衛門は居住いを正して、
「もし、拙者のいうことを訊いて貰わねば、ここで切腹するつもりだ」
と云って、その支度にかかろうとした。
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■佐久間信盛の裏切りを信じたくなかった御親類衆

<本文から>
 その雨の音を聞きながら、設楽ケ原の本陣では、武田勝頼、穴山信君、武田信廉、山県昌景、馬場信春、そして勝頼の使番衆の真田昌幸と曾根内匠が最後の決定の場に立っていた。
 穴山信君が腰の刀に手を掛けたほど、むき出しの怒りを真田昌幸に示したのは、それだけの理由があった。
 信玄は御親類衆より家臣団を重く見ていた。能力ある者はその家柄がどうであろうが、いっさい気にせずに取り立てた。馬場信春がそのような経歴の大将だった。真田昌幸もまたその能力を認められて、常に信玄の側近にあった。真田昌幸は甲斐の人ではない。信濃小県の真田幸隆の子である。いわゆる譜代の家来ではなかった。信玄はその昌幸と、そして曾根内匠の二人を指して『余の二つの目』と云った。一度や二度ではなかった。二人が信頼されていたのはそれだけ、二人の智能が抜群だったからである。信玄が二人を重く見れば見るほど、御親類衆を代表する立場の穴山信君にはにがにがしく思われてならなかった。勝頼は父信玄の『二つの目』の遺産をそっくり受け継いだ。これがまた信君には我慢できないことだった。
 信君が昌幸を叱ったとき、彼は御親類衆すべての力を背に負っていた。もし、勝頼が、昌幸の肩を持つようなことになれば、刀の柄にかけたその手の肘は勝頼に向けられることになるかもしれない。そうなれば武田家は分裂崩壊することになる。あってはならないことだ。
 信君はそこまで勘定に入れて、自説を押し通そうとしたのである。この場合、家臣団の代表、山県昌景と馬場信春の立場が重大だった。勝頼が内心、昌幸の言を入れようとしていることは明瞭だし、昌幸や内匠の云うとおり、信長の謀略が目の前にちらつき出したのだから、山県、馬場が口をそろえて昌幸の言を支持すれば、勝頼をして、作戦中止に踏み切ることもできた。だが、昌景も、信春も黙っていた。
 穴山信君と武田信廉の意見が合一したところで、二人は発言できなくなっていた。信君が刀に手を掛けて昌幸を叱ったとき、両将は、御親類衆の勢力が勝頼を圧倒したのをはっきり見た。両将の発言によって、力の均衡を破ることはむずかしいと思った。それに両将とも誓書までざし出した佐久間信盛の行動がすべて信長の指図だとは思いたくなかった。武士とはかくあるべきものであるという定義の中には、武士たるものが偽りの誓書をしたためることなどあろう筈がなかった。
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■勝頼は設楽ケ原の合戦を避けたかった

<本文から>
 疑わしいと思いながらも、昌幸の言を積極的に支持せず、長い沈黙となったのである。
 「黙っていたのでは分からない、そこもとたちの意見を申してみよ」
 勝頼は昌景に云った。乞うような眼ざしだった。真田昌幸の意見を支持してくれと頼みこむ目つきだった。すがりつくような勝頼の目を振り切って、
 「今ここで作戦を変更すると、混乱が生じます。すでに、その時は経過しました。なにとぞ出陣のおふれを……」
 昌景は云った。その言葉の中には自ら心の底まで浸みこむようなむなしさがあった。昌景は自ら慄然とした。
 「そちはどうか」
 勝頼が馬場信春に向けた目には最後の懇願があった。その目に打たれたように信春は目を伏せたままで云った。
 「総攻撃に出るならば、雨が障っている間のほうがよいかと思います。敵の鉄砲は、この雨では、ものの役には立ちますまい」
 信春はそう云って顔を上げたとき、勝頼の冷やかな目に当った。その目は、あの時の信玄の目に似ていた。川中島の合戦の時、迂廻して敵を討つべしという策を持ち出したのは馬場信春(当時は民部)だった。そして、その作戦の裏をかかれて味方は大損害を受けた。その時の軍議の席上で、馬場信春の発言が大勢を制したとき、信玄が信春に向けた目が、いま勝頼が信春に投げかけた冷やかな目であった。
 (われ誤てり……)
 信春はそう思った。だがもう遅かった。勝頼の目は信春から去っていた。
 「今朝卯の刻(午前六時)総攻撃を開始する。御旗、楯無に誓って余は織田信長、徳川家康の首を申し受けるであろう」
 勝頼の声の中には、幾許かの淋しげな余韻があった。そこに居ならぶ者のことごとくが平伏して、御旗、楯無の武田重代の宝物にかけて戦うことを誓った。武田家の統領が、御旗、楯無に誓うと云った以上、いかなることがあっても、それに従わざるを得ないのが武田家の捉であった。
 武田信実は長篠城の方角から坂道を雨に濡れながら駈け登って来る人影が見えるという報告を受けたとき、おそらく本陣からの使者だろうと思った。
 信実の予想は当った。勝頼から派遣された使者、土屋昌恒は武田信実の前に手をつかえて勝頼の言葉を伝えた。
 「卯の刻(午前六時)を期して、総攻撃に移る。鳶ノ巣山城守備軍はよきように敵をあしらいながら機を見て長篠城包囲隊と合流せよ」
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■設楽ケ原の合戦を「馬と鉄砲」の戦いと誤謬

<本文から>
『信長公記』は、文献資料としては良質なものではあるが絶対的なものではない。この記録にも見られるとおり、鉄砲の偉力を強調しすぎている。確かに設楽ケ原の合戦では、その日に丁度梅雨が上がったので連合軍の鉄砲がフルに活躍した。しかし、鉄砲だけで勝負が決まったのではない。武田隊も、鉄砲の偉力は充分知っている。無防備で向って行けば鉄砲に負けることは分かりきったことだ。分かっていて、自殺的攻撃を六時から午後の二時まで、実に八時間も繰り返すということはあり得ない。緒戦では連合軍の鉄砲が偉力を発揮して、武田軍に損害を与えたであろうが、その後になってからは、武田軍は鉄砲を防ぎながらの攻撃方法を取ったに違いない。実際に設楽ケ原の合戦場を見て廻って、武田側の部将の墓(戦死した場所)を見ると、土屋昌統一人が柵の近くで死んでいるだけで他のほとんどの部将は、柵からほど遠いところで討たれている。
 つまり武田軍が多くの死傷者を出したのは、八時間戦った後の敗戦の最中、即ち退却の途中であったと考えるべきである。
 一部の史家が設楽ケ原の合戦を「馬と鉄砲」の戦いだと単純に解釈して以来、それが、俗説を次々と生み、武田勝頼をして悲劇の中の愚将に仕立て上げたのであろう。勝頼が愚将なら、勝頼の下で働いた武田の諸将もまたすべて愚将ということになる。当時の武田の内部事情を分析せず、勝頼一人の考えで武田軍一万五千を生かすも殺すもできるという、そもそもの仮定が間違っているから、「馬と鉄砲」の誤謬が出たのであろう。勝瀕も武田の諸将も決して愚将ではなかった。やるだけやって敗れたのである。なによりも八時間の戦いの長さがそれを示している。
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■鉄砲を自製

<本文から>
 また、合戦に備えて充分な火薬を蓄えて置くことも勝ち残るための必須条件だった。
 しかし、鉄砲は余りにも高価であった。堺で製作された鉄砲を買うためには、何人かの商人の手を経なければならなかった。火薬もそうだった。
 「これでは、みすみす信長のふところを肥すようなものだ」
 勝頼はなんとかして、鉄砲を自製できないものかと考えていた。鉄砲を自製しようという動きは各地にあった。事実、堺だけではなく、種子島、鹿児島、平戸、紀州根来、近江国友等でも鉄砲を製作していたが、なんと云っても、多量生産ができるのは堺であった。多量生産できるから販売競争に勝った。
 武田家では信玄の生存中に諸国御使者衆を動員して、鉄砲製造の方法を探り、ほぼ製造法はつき止めていた。問題は鉄砲に使う材料の鉄であった。銃身に使う玉鋼は、出雲、伯着で採れる砂鉄が最も適していた。その鉄を輸入するには海路を取るにしても陸路を通るにしても、甲斐はあまりに達すぎた。輸送費がかかった。これらのことを勘定に入れて考えると、結局は自分で作るより、堺で多量生産される鉄砲を買う方が安上がりとなった。武田家が、製法が分かっていても、製造に取り掛からなかったのは、もっぱらこのような経済的理由があったからである。
 しかし、勝頼は鉄砲自製の方針を決定した。彼は父信玄の時代から鉄砲製造の研究をしていた小池勝左衛門に、少なくとも一日二挺の割合で鉄砲を作るように命じた。このために必要な経費のいっさいを出すことを約束した。鉄砲鍛冶の経験がある者が他国から招かれ、腕のいい鍛冶屋が集められた。
 鉄砲工場は、勝沼の菱山三光寺前に設けられた。古府中に置かなかったのは、このことが外部に洩れることを虞れたからであった。
 熔鉱炉が作られ、五人用の鞘が取り付けられ、煙突からは一日中火の粉が吐き出すのが見えた。錐操機やネジ切り機械などが設備された。しかし、表面上は、刀鍛冶であって、ここで鉄砲が作られていることを知っている者はごく少数でしかなかった。一日に二挺は無理だったが、十日に一挺の割合で鉄砲ができる見込みがついた時
に、勝頼は、
 「ここで作られた鉄砲の経費を考えると、堺で作られる鉄砲の倍か三倍にはなるだろう。しかし、やがて、多量に生産できるようになれば、武田の鉄砲として世間の注目を惹くことになる」
 と云った。たとえ、生産原価が高くついたとしても、堺の鉄砲を買って、信長や中間業者の腹を肥すよりましだと彼は考えていたのである。当時堺で製作されている鉄砲の値段は一挺二十両という高額なものであった。
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