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<本文から> 氏は現地において長篠城攻略戦及び設楽ケ原の戦いの研究にその生涯をかけている郷土史家である。丸山氏が指摘しているとおり、長篠城は落城寸前であった。それなのに落城しなかったのは、(長篠城が落城すれば、織田勢はこの前の高天神城のときと同じように、援軍の使命を失ったと称して、さっさと岐阜へ引き揚げてしまうだろう。そうなれば、織田軍と戦うことができなくなる。この際織田、徳川連合軍に大打撃を与えなければ、彼等はますます増長し、ついには手に負えぬものになるだろう)
これが武田方の部将たちの総合した見解であり、
(織田信長を引き寄せるためには長篠城をもうしばらく生かして置く必要がある)
という結論に達していたからである。
急に武田方の攻撃が弱くなったので、長篠城内の将兵はむしろ奇怪にすら感じたであろう。
武田軍が長篠城攻撃の手抜きをしているという報は直ちに、織田軍及び徳川軍の知るところとなった。
「勝頼は飽くまでやる気なんだな」
織田信長はその情報を十六日の夕刻牛久保城で聞いたときつぶやいた。勝頼が全軍を挙げて迎撃に来るならば、それこそ味方にとつて有難いことで、この時点で既に戦略的に連合軍が有利に立っているのだと思った。
織田信長は丸毛兵庫と福田三河守を牛久保城警固のために置き、その翌朝、野田に向った。
(信長は敗戦となったときのことを考慮して、丸毛兵庫と福田三河守を牛久保城に入れたらしい)
という情報が武田の陣営にもたらされた。このような風説をばらまかせたのは、織田信長自身であった。織田信長はおっかなびっくり、それでも徳川家康との盟約の手前、軍隊を引き揚げることもできずに、長篠へ向って進軍中であるというふうに武田軍に思わせるため、あらゆる手段を用いたのである。
棒と縄束を持たせられた織田軍三万五千の軍兵もまた、直径三寸長さ六尺の棒に嫌気がして、士気がさっぱり上がらなかった。
「合戦の前から馬塞ぎの棒をかついで歩くなどというばかばかしい戦があるものか、これでは初めっから逃げ腰と云われてもしようがあるまい」
と洩らす兵もいた。
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