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          新田次郎「武田勝頼(一)陽の巻」

■勝頼後継の進め方が武田信玄の一生一代の誤り

<本文から>
 勝頼にとっては思いもかけないような事態になったのである。義信が死ねば信玄の後継者は勝頼である。信玄はそう心に決めた。
 同じ年、勝頼に嫡男信勝が生れた。母は苗木(中津川市)城主遠山勘太郎の女で、織田信長の養女として勝頼のところへ十五歳で嫁して来たのであったが、信勝を生んで本人は死んだ。十四、五歳で政略結婚をし、子供を生むと同時に死んだ例は非常に多い。信玄の最初の妻、上杉朝興の女も十五歳で出産し母子共に死んだ。
 永禄十年に義信が病死すると、武田信玄はいよいよ駿河進出に着手した。永禄十一年(一五六八年)、武田信玄は三河の徳川家康と駿州遠州分割の密約を交わし、大軍を率いて駿河に侵入して今川氏真を追放した。このために、信玄は、隣国の北条氏康、氏政父子を敵とすることになったが、永禄十二年(一五六九年) の三増峠の合戦で武田軍が北条軍を被り、元亀二年(一五七一年)には再び武田家と北条家との和が成立した。これ等の合戦には、勝頼は一軍の将としてその度毎に参加していた。
 勝頼が高遠城から古府中の鄭蹄ケ崎の館に帰ったのは元亀二年である。武田信玄は跡目たるべき者として武田勝頼を決め、側近に置き椎幕の将としたのである。
 時に勝頼は二十五歳であった。この日までには城主としての経験を積み、戦争にもしばしば出征しているから、武田家の跡目としての貫禄は充分であった。
 だが、ここに問題がないではなかった。武田家が一代にして大国に伸し上がったのは信玄一人の力ではなく、陰の人達がいたからである。
 山県昌景、馬場信春等のような腹心の家臣団の多くは、信玄が、その才能を認めて取り立てた人たちであり、まさに、百戦練磨の将軍であった。
 また穴山信君や武田信廉(信綱)などのように武田家内で強い発言権を持つ御親類衆がいた。この人たちも武田信玄の下で大きな力となっていた。
 これらの家臣団や御親類衆はそれぞれ、土地を持ち兵を持っていて、合戦に於てはそれ相応の働きをする頭(軍団の大将)でもあった。
 ところが、若くして帳幕に加えられた勝頼には彼自身の戦いの経験もとぼしいし、直接の家臣団というようなものは少なかった。高遠城時代から勝頼に従っている数少ない側近家臣がいるだけであった。
 信玄はこの勝頼を武田の跡目にするまでには、尚かなりの時間がかかるだろうと思った。急に勝頼に実権を与えるようなことをすれば家臣団や御親類衆から不平が出る。
 信玄はそれを見込んで、勝頼を惟幕の将として作戦や実戦に従事させ、徐々に総大将としての器に仕上げようとした。このために、信玄はわざと勝頼には一部将としての待遇を与えていたとも考えられる。
 しかし、これは武田信玄の一生一代の誤りであった。もし彼が自らの死期を知っていたならば、勝頼に正式に跡目を譲り、自分は隠居として勝頼に助言を与えたであろう。しかし武田信玄はそうはしなかった。彼は、西上の野望にまっしぐらに進んでいた。今こそ織田信長軍を打ち破って、京都へ進出する機会であると信じ、織田信長に敵対する、浅井長政、朝倉義景、本願寺顕如、等と連絡を取り、織田信長包囲作戦を取ったのである。
 勝てる戦さと思った。彼は宿病の労咳を充分自覚していたからこそ西上を急いだ。京都に武田の旗を立てたところで家督を勝頼にゆずりたいと思っていた。
 元亀三年(一五七二年)十月、武田信玄が率いる西上の大軍は古府中を発し、十二月には遠江の二俣城を落とし、浜松城の近くの三方ケ原で、徳川、織田の連合軍と戦い、これを打ち破った。
 信玄はこのまま一気に西上の途を急ごうとした。しかし、この三方ケ原の合戦で風邪を引いた信玄は、それがもとで労咳を再発させた。
 武田軍は進軍を停止し遠江の刑部で越年した。信玄が病に伏していることをかくすために武田軍は一所懸命だった。越えて元亀四年(一五七三年)の二月には野田城を攻め落としたが、西上の軍はそのまま動かず、四月になって、いよいよ信玄の病が重くなったのを見て、古府中への帰途についたのである。
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■有能な宿将は信玄と同じように勝頼に仕えることができなかった

<本文から>
 信玄の時代にもこのようなことがあった。太郎義信が謀叛を起そうとして、捕えられ、幽閉された直後に、信玄は諸将との間に誓書を交換して団結を計ったことがあった。勝頼が内藤昌豊と誓書を交換したのは、おそらく信玄という巨星が墜ちたあとの人心統一の手段であろう。もしそうであるならば、なるべく早く勝頼と誓書を交わしたほうが、後々有利ではなかろうかと考えて、勝頼の側近を通じて、誓書をさし出す者がぼつぼつ出て来た。
 (信玄様の御存命中は粉骨砕心の忠義の誠を尽しました。此度勝頼様の代になっても、同じような心掛けで働きます。どうか先代様同様にお目を掛けてくださるようお願い申し上げます)
 というような内容のものであった。勝頼はこれに対して、いちいち誓書を返した。
 見方によれば、代替わりに際しての君臣の再契約のようなものであったが、部将の中には勝頼が武田家の後継者としての正式な世継ぎの儀式もしてないうちに、先走った行為をする奴もいるも秒だと、不快な顔をする者もいた。
 信玄が死んだからには跡目は勝頼に決まっていた。生前中信玄はできるかぎり勝頼を表面に立て、後継者であることを実質的に家臣たちに示していた。家臣団も信玄の意志に反するようなことを云う者もなく、次の代は勝頼様だと思いこんでいた。ところが、信玄が死ぬと、その家臣団たちは、この新しい支配者の前に信玄に対すると同じような気持でひざまずくことにいささかの抵抗を感じた。
 信玄の下に勝頼があり、勝頼の下に家臣団があったのではなく、信玄の下に家臣乱は隷属しており、見掛け上は勝頼も家臣団の一人のような恰好になっていた。
 確かに勝頼は勝れた武将であり、一軍団を率いての戦いには常に手柄を立てていた。勇猛な武将としてそのころ遠近に勝頼の名は知られていた。だが勝頼はそのとき二十七歳だった。二十七歳の勝頼に対して、はとんどの諸将は彼より年上であり、信玄が直接育て上げた人たちだった。山県昌景にしろ、馬場美濃守信春にしても、信玄の両腕的存在ではあったが、勝頼の家臣ではなかった。そしてこれ等の宿将は武略において勝頼よりはるかに勝れてもいた。信玄の死と同時に、これらの宿将に、信玄に対すると同じような気持で勝頼に仕えよと云ってもそう簡単には行くものではなかった。
 信玄の死が早過ぎたのである。信玄がもう十年も生きていたら、その間に、武田の家督が自然に勝頼に移るようになったのであろうが、それができなかった。勝頼にとっては重すぎる統領の座であり、家臣団に取っては軽すぎる統領の下で働かねばならないという不満があった。
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■勝頼と信君との確執を昌景、信春の二大宿老が調停した

<本文から>
 勝頼がお館様になって、直ぐ鉄砲足軽の調練を行ない、馬場では早朝から騎馬隊の調練が行なわれ、常にその先頭に勝頼が立っているのを見る家臣団の多くは、信玄は死んだが、次代を担う勝頼を頼もしいと思っていた。だが、中には、信玄が死んで一周忌も来ないうちに、慎しみがないことをする人だというふうな眼で見ている者もあった。しかし、これはごく少数で、館全体としては暗さが明るさに転じようとしていることは事実だった。
 山県昌景と馬場信春が顔を合わせたとき、どちらからともなく、よかったなという声が出た。
 勝頼と信君との確執を心配していたこの二人の宿将は、とくと申し合わせた上で、武田信綱のところに行って、取りなしを頼んだのである。信綱が重臣たちの前で、信玄の声色など使って、勝頼を正式統領の座に据える大芝居を打たせた影の人は山県昌景と馬場信春であった。穴山信君の方にも渡りをつけてのことだった。
 昌景、信春の二大宿老は、たとえ信玄が死んでも武田の重鎮であり、この二人の動きを無視はできなかった。
 勝頼も、跡部膠資の口を通じて昌景、信春等の苦心の調停工作のことを聞かされていたから、信君の訪問を快く受け、それまでのことはいっさい水に流したような気軽さで、本館へ移ることを承知したのである。
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■勝頼は当時としてはめずらしく演説で居並ぶ武将に感動を与えた

<本文から>
 勝頼は一般的なことを云ったあとで突然語調を変えた。
「余は、武田家の統領としてはじめてこの合戦に出て、そして輝かしい戦果を得た。戦勝の主たる原因は、若い将兵たちの果敢なる行動にあった。余は若い。智略においても、武勇においても、父信玄に比較すべくもないほど若い。しかし、やる気だけはある。織田信長がごとき成り上がり者に天下を取られたくはない。余の若さを補う者は、若い将兵の力である。時代は変わりつつある。若い時代には若い者が力を合わせて向わねば勝利は得られない。みなの衆、やろうではないか、織田信長、徳川家康、なにするものぞ、武田の団結が固いかぎり、恐るべき相手ではない」
 勝頼はそう云い切って座についた。
 現代風に云えば、これは演説であったが、当時にしてみればまことにおかしなことであった。宗教家は衆の前で説法をしたが、大国の統領たる者が、将士の前でこのような方法で意見表示をやったことは聞いたことがなかった。しかしこの勝頼の演説はそこに居並ぶ多くの将士に或る種の感動を与えた。
 勝頼が若い世代に呼びかけたのは、そこにいる若い将兵の心を打った。これからはおれたちの時代だという認識を与えるのに充分だった。老将はまたこの演説を聞いて、信玄から勝頼へ、世代の移行が行なわれたことをはっきりと知った。これでいいのだと思った。
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