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<本文から> 藩内戦が一段落すると、奇兵隊などの諸隊が政治的発言力を強めた。藩政府を監視、威嚇するため、諸隊の一部は萩に進軍し、東光寺に駐屯する。東光寺は藩主の菩提寺で、歴代藩主の墓所もある。そうした権威の象徴に、庶民を含む兵士たちが乗り込む。
藩士たちにすれば封建秩序を破壊しかねない、諸隊の増長は看過出来ない。もっとも苦しんだのが、晋作だった。そして封建制度が傾き始めると、その立て直しに懸命になるところが、「毛利家恩顧の臣」を誇りとした晋作らしい。
そのころ晋作は、同志の佐世八十郎(前原一誠)に長い手紙を書いている(『高杉晋作史料二』)。その中で「やむをえず奇兵隊など思い立ち候事にござ候」と、結成時の事情を言い訳がましく記す。また同じ手紙で晋作は、馬廻りなどのれっきとした藩士百七十六人からなる干城隊に期待を寄せる。すべての諸隊の頂点に干城隊を君臨させ、干城隊の命令が無ければ、諸隊が動けないよう構想するのだ。武士に民をコントロールさせるという構図を、再びはっきりさせようとする。
それから、再び藩政の本拠となった山口に集結し、巨大な権力と化していた諸隊を、藩内各地に分散させるとも言う。「奇兵隊半分・遊撃隊半分、赤間関・小瀬川口へ交代にして出張させおき、その外八幡・御楯・南園・集義諸隊、馬関・小瀬川・石州国へ手分けして出張させ、干城隊鴻城人山口)に常居」などと、晋作は提言する。
諸隊は外敵に備える目的もあり、港内各地に散ってゆく。ところが晋作が考えたようには、封建秩序は回復しなかった。たとえば各地に転陣した諸隊は「御親兵」と称し、なかば強引にそれぞれの分隊を山口に送り込み、藩政に圧力をかけ続けたりしたのだ。それほど民衆の力は、達しく成長していた。藩としては、民衆を利用しなければ外敵を防げないので、弾圧するわけにもいかない。
こうした状況が、晋作には面白くない。 |
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