その他の作家
ここに付箋ここに付箋・・・
          一坂太郎−高杉晋作の「革命日記

■増長する奇兵隊

<本文から>
 藩内戦が一段落すると、奇兵隊などの諸隊が政治的発言力を強めた。藩政府を監視、威嚇するため、諸隊の一部は萩に進軍し、東光寺に駐屯する。東光寺は藩主の菩提寺で、歴代藩主の墓所もある。そうした権威の象徴に、庶民を含む兵士たちが乗り込む。
 藩士たちにすれば封建秩序を破壊しかねない、諸隊の増長は看過出来ない。もっとも苦しんだのが、晋作だった。そして封建制度が傾き始めると、その立て直しに懸命になるところが、「毛利家恩顧の臣」を誇りとした晋作らしい。
 そのころ晋作は、同志の佐世八十郎(前原一誠)に長い手紙を書いている(『高杉晋作史料二』)。その中で「やむをえず奇兵隊など思い立ち候事にござ候」と、結成時の事情を言い訳がましく記す。また同じ手紙で晋作は、馬廻りなどのれっきとした藩士百七十六人からなる干城隊に期待を寄せる。すべての諸隊の頂点に干城隊を君臨させ、干城隊の命令が無ければ、諸隊が動けないよう構想するのだ。武士に民をコントロールさせるという構図を、再びはっきりさせようとする。
 それから、再び藩政の本拠となった山口に集結し、巨大な権力と化していた諸隊を、藩内各地に分散させるとも言う。「奇兵隊半分・遊撃隊半分、赤間関・小瀬川口へ交代にして出張させおき、その外八幡・御楯・南園・集義諸隊、馬関・小瀬川・石州国へ手分けして出張させ、干城隊鴻城人山口)に常居」などと、晋作は提言する。
 諸隊は外敵に備える目的もあり、港内各地に散ってゆく。ところが晋作が考えたようには、封建秩序は回復しなかった。たとえば各地に転陣した諸隊は「御親兵」と称し、なかば強引にそれぞれの分隊を山口に送り込み、藩政に圧力をかけ続けたりしたのだ。それほど民衆の力は、達しく成長していた。藩としては、民衆を利用しなければ外敵を防げないので、弾圧するわけにもいかない。
 こうした状況が、晋作には面白くない。
▲UP

■定広と晋作の関係

<本文から>
 ここで少し、定広と晋作の関係について説明しておく。
 世子の定広は天保十年(一八三九)生まれだから、晋作とは同年齢だ。長州支藩のひとつ、徳山藩の藩主毛利広鎮の十男として周防徳山(現在の山口県周両市)に生まれた。十三歳の嘉永四年(一八五一)十一月、萩の宗藩主毛利慶親の養子となる。
 藩主の信頼を得ていた晋作の父小忠太は、長井雅楽(隼人)とともに?(ろく)尉の教育掛を任ぜられる。そこで小忠太は機を見て、?(ろく)尉と同年齢のわが子を接近させたようだ。たとえば安政元年(一八五四)二月、?(ろく)尉は江戸に赴き、元服の式を行う。将軍徳川家定に世子として公認してもらい、その名から一字貰って(偏き)、定広と称するのだ。小忠太は晋作を連れ、この儀式に従う。長州萩から江戸まで約一カ月の道中をともにしたわけだ。定広と晋作の間には、たんなる主従を超えた特別な信頼関係が育まれてゆく。晋作の初出仕が藩主世子側近の小姓役だったのも、こうした前段があったのだ。
▲UP

■中国で支那人が外国人にこき使われ姿をみる

<本文から>
 五月二十一日 骨董店に行き、書画を見て過ごす。
 この日、終日閑坐してよくよく上海の形勢を考える。支那人はことごとく外国人にこき使われ、イギリス・フランス人が市街を歩けば、清人はみな傍らに避けて道を譲る。実に上海の地は支那に属すといえども、イギリスやフランスの属地といってもよい。北京はここを去ること三百里。そこには必ずや、中国の美風が残っているはずである。期待してこの地を訪れたら、ああ、慨嘆してしまうだろう。よって、呂蒙正が宋の太宗を、見聞を広めねばよろしくないと諌めたことを思う。
 わが国といえども油断してはならない。支那だけのことではないのだ。この日手紙を書き、名倉に託して随汝欽に送る。
▲UP

■儒教を信奉した晋作は孔子廟を踏みにじる光景が衝撃だった

<本文から>
 江戸時代の武士にとってもっとも信奉するものは仏教でも神道でもなく、儒教であった。晋作が学んだ藩校明倫館にも幕府昌平撃にも、立派な孔子廟があり、もっとも神聖な場所として崇められていた。
 ところが、儒教の本場に来て晋作が見たものは、神聖であるはずの孔子廟を、政府公認のもと、外国兵が土足で踏みにじっているような光景だったのである。これは、現代のわれわれでは想像もつかないほどの大きな衝撃だったに違いない。しかも、外国に内政干渉の隙を与えている清朝のだらしなさに、晋作は「内乱」の恐ろしさも痛感する。
▲UP

■野山獄で松陰先生に誓う

<本文から>
 吉田松陰先生は、かつて言っておられた。「自分は東国に遊んださい、たくさんの詩酒放蕩の人に会った。その中には赤穂義士の赤垣源蔵のような者もいた。だが、あれは源蔵だから良いのだ。後の源蔵を気取る者は思慮浅く、心は薄っぺらだ。とても大義を語るには足らない」。今にしてこの話を思い出すと、僕は先生の教えに背いており、恥ずべきことが多い。しかし、どうやって昔の過ちを悔いればいいのか。古語に、「過ちを改めれば、それは過ちではないのだ」とある。
 そこで、僕は地下の先生に誓い、翻然として心を改めた。早起きして室を掃除し、虚心黙語、従容として天命を待つのみだ。口に一杯の酒も含まず、耳に管弦の声も聴かない。そうすれば、真心はすこぶる愉快だ。獄の窓の草花、机上の小石もまた、東山や墨水の景色のように思えてくる。
▲UP

メニューへ


トップページへ