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<本文から>
考えてみるとおかしかった。
世子定広が、なんとかして晋作を国許へ帰したいと言えば、それを取りつぐのも周布であったし、毛利家の紋所のついた刀を、あっさり晋作にくれてやり、暴れることを黙認してゆくのも同じ周布なのだ。
これでは周布の考えはどっちなのか? と言いたくなるが、これは双方とも真実なのだというよりほかになかった。それほど当時の情勢はめまぐるしく変転しながら、無軌道に動いている。
問題は列強から強引に開国を迫られていながら、実際にはそれに対抗するほどの実力がないところから繰り返されてゆく変転なのだ。
高杉晋作はとうにそれを見ぬいている。
ここではとにかく日本人の「意気−」だけを信じてこれを奮い起させ、さて、その結果を見るよりほかに手だてはないのだ。
そのためには、まず幕府を倒していく。どうせ幕府は、列強という蛇に睨まれてすくみあがったどうにもならない蛙なのだ。この蛙によって勝つ見込みは全くないのだから、これはこっちの手で踏みつぶす。
踏みつぶしたあとに、また蛙しか出て来ないか、それともたくましい鳶か鷲でも現われて来て蛇に勝つかどうか…
必ず鳶か鷲が、蛙にかわって現われるとは予期しがたいが、そこに望みをかけて暴れてみるよりほかに日本の独立を維持する方法は皆無なのだ。
その事は、実は、周布にもよくわかっている。
したがって、あまり暴れるなというのもその時の真実ならば、大いに暴れてみろというのも周布の真実なのだ。 |
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