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<本文から>
全然予期しなかったことではないが、開国と同時に日本の経済は擾乱され、おびただしい銀や銅が海外に流れだした。不良な銀貨と、純度の高い日本の銀が、狡猾に取り替えられたり、絹が不足したりして、それでなくとも不景気だった西陣の繊り物産などの倒産が続出しだしていた。
この年の九月二十八日に、九歳になられた皇儲殿下(明治大帝)に親王のご宣下があり、御名を睦仁と定められるという御慶事はあったのだが、孝明天皇はこの不景気を案じられて、苦しいお手許から救地金を出そうと仰せられ、幕府があわてているような有様だった。
いや、それよりも晋作をおどろかせたのは、皇妹和宮のご降嫁が、決まりそうになっているという事だったろう。
すでにご縁談があって降嫁を固辞しておられる皇妹を、将軍家茂に降嫁させ、それで皇室と幕府の間の気まずい空気を緩和しようというのである。
むろんこれは「公武合体」論者の考えだした苦しまぎれの弥縫策で、これが成功すれば倒幕運動をやって来た志士たちは去就に迷う結果になる。
しかも、彼が京へ着いて三日日の十月九日には、家茂の正使として到着していた酒井忠義と、副使として来ていた瀬山貞固の両人が参内し、正式に降嫁を奏請して金吊を進献してしまっていたのだ。
これは世俗の結納に相当する。話はこれで決ったということだった。
むろん志士たちがこれに賛同するはずはなく、高杉晋作の血もまたたぎり立ったに違いない。
おそらくこれで長州藩の立場もひどく微妙になろう。
(なるほど書物棚の書物では、時の流れはさえぎれないぞ……)
彼はただちに、京をあとにして、国許へ急いだ。
こうなれば彼自身、藩主や世子に近づいて、大きく藩論を一定させておかなければどうなってゆくかわからなかった。
国へ帰ると、彼は十一月八日付けで、明倫館の舎長に命ぜられ、十二月十日には都講(教授)にすすんだ。 |
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