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          高杉晋作2

■皇妹和宮のご降嫁で倒幕運動をやって来た志士たちは去就に迷う結果

<本文から>
 全然予期しなかったことではないが、開国と同時に日本の経済は擾乱され、おびただしい銀や銅が海外に流れだした。不良な銀貨と、純度の高い日本の銀が、狡猾に取り替えられたり、絹が不足したりして、それでなくとも不景気だった西陣の繊り物産などの倒産が続出しだしていた。
 この年の九月二十八日に、九歳になられた皇儲殿下(明治大帝)に親王のご宣下があり、御名を睦仁と定められるという御慶事はあったのだが、孝明天皇はこの不景気を案じられて、苦しいお手許から救地金を出そうと仰せられ、幕府があわてているような有様だった。
 いや、それよりも晋作をおどろかせたのは、皇妹和宮のご降嫁が、決まりそうになっているという事だったろう。
 すでにご縁談があって降嫁を固辞しておられる皇妹を、将軍家茂に降嫁させ、それで皇室と幕府の間の気まずい空気を緩和しようというのである。
 むろんこれは「公武合体」論者の考えだした苦しまぎれの弥縫策で、これが成功すれば倒幕運動をやって来た志士たちは去就に迷う結果になる。
 しかも、彼が京へ着いて三日日の十月九日には、家茂の正使として到着していた酒井忠義と、副使として来ていた瀬山貞固の両人が参内し、正式に降嫁を奏請して金吊を進献してしまっていたのだ。
 これは世俗の結納に相当する。話はこれで決ったということだった。
 むろん志士たちがこれに賛同するはずはなく、高杉晋作の血もまたたぎり立ったに違いない。
 おそらくこれで長州藩の立場もひどく微妙になろう。
 (なるほど書物棚の書物では、時の流れはさえぎれないぞ……)
 彼はただちに、京をあとにして、国許へ急いだ。
 こうなれば彼自身、藩主や世子に近づいて、大きく藩論を一定させておかなければどうなってゆくかわからなかった。
 国へ帰ると、彼は十一月八日付けで、明倫館の舎長に命ぜられ、十二月十日には都講(教授)にすすんだ。 
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■晋作は中国の植民地の惨状を知る

<本文から>
長髪賊にねらわれている故でもあろう。門の前にはゲベル銃を肩にした門番兵が、ものものしく立っていて、いちいち彼らの身体検査もしかねない様子であった。
 それでもようやく門内に通されてみると、そこここに野砲、臼砲、小銃などがずらりとおかれてあって、戦陣さながらの緊迫した備えであった。
(なるほど、これでは嫌われよう)
 しれし、問題は、その嫌われ者が、実はいちばん深く、支那大陸に噛みついているという事実であった。
 平和進攻などのできる時代ではない。いちばん多く殺し、いちばん多く血を流したものがその代償として羽ぶりを利かす暴力万能の世界なのだということが、そこには鮮やかに描き出されていた。
「フン、これがイゲレスか」
 晋作は、彼らははじめから東洋人など眼中においていないのだと知った。正義、不正義は問題ではなくて、強い者が弱い者を支配する…その当然なことをしているのだという傲拝さが、出て来る者出て来る者の顔にありありと見てとれた。
 これには幕府の役人たちも少なからず面喰らったらしい。
「無礼なものだぞイゲレス人は」
「いや、戦争中だから昂奮しているのだ」
「それにしてもフランスとは違いすぎる。これは油断のならない夷人どもだぞ」
 役人の中にも、うすうすイギリスが反幕府の側に立って、日本に根をおろそうとして一いることに気づいている者もあるようだった。
 事実、この頃にはすでに英国の方針は、幕府を倒す側に援助の手をさしのべた方が、そのあとの利益が大きいと計算しだしていたのだが・・・
 万一その新勢力が弱体だったら、アヘン戦争と同じように、彼らみずからの手で幕府と戦端を開いてもよい。そうなれば、そっくり日本列島は頂戴できるし、その補給基地はすでに支那の各地にできているのだ・・・
 そうした考え方が、あるいはこのあたりまで浸透しだしていたのかもしれない。
 とにかく、幕府の役人どもから挨拶を受けてやる……そうした態度で、そのまま門外へ追い出された。
 出て来てみると、すぐ十五、六間ばかり離れたところに新大橋が架けられていた。
 後のガーデン・ブリッジである。
 それはもともとあった橋を英国人の手で架け替えたからというので、支那人たちからいちいち橋銭を取っていた。わずか一銭宛ながら、みな番卒に頭を下げては払ってゆく。この事実は晋作を考えこませるに充分だった。
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■攘夷が倒幕のためのロ実に変ってしまっている現実

<本文から>
 当時に比べて国難はいよいよ深まるばかりなのに、その旗印はすでに空しい嘘になっている。
「尊皇津夷−」
誰も「尊皇開国−」と改めたものはなく、ただ開国した幕府をいよいよ激しく責め立てながら、それぞれ開国の準備に没頭している。そして、今では尊皇攘夷は完全に「幕府を倒せ!」という合い言葉にすぎなくなってしまった。
 この内容の変化は、当然「尊皇−」の精神もまた倒幕の目的の中へ消滅させかねない。そうなると、松陰の最後まで呼号していった「大義−」はいったいどうなるのか・・・。
(先生の激語の意味がはじめてハッキリわかったぞ)
 先生は江戸送りになる前に、すでに藩の存在などは問題ではないと言った。これは関ケ原以来、藩祖毛利元就の理想とした「首万一心−」の団結を誇って来ている毛利家の藩士たちにとっては、カツンと一つ、石を噛まされたような抵抗だった。
 晋作もたしかにこれには抵抗を感じた。忠孝はどこまでも一本のものであり、藩主への忠はそのまま天皇への忠に通じるところがなければならないと信じていた。
ところが攘夷が、倒幕のためのロ実に変ってしまっている現実にぶつかると、尊皇もまた、以前のままの、松陰が唱え、松陰が叫んだような清純な尊皇であるかどうかを反省してみずにいられなくなって来る・・・
 (先生は、尊皇もまた、ほう置すれば汚れてゆくことを見通されていたのだ・・・)
 それなればこそ、最後には「藩もない!」と、みんなの抵抗を知っていながら叫ばれたのだ。
 このままでも、薩摩や長州を中心にした勢力が結束すれば、倒幕は成功するだろう。
 時の流れがすでに幕府にハッキリと背を向けている。
 しかし、そのあとに生れてくる政権はいったいどんなものになるというのだろうか
 尊皇を口にしながら、実は野心家どもの集まった島津幕府であったり毛利幕府であったりするおそれはないであろうか・・・
 もしそうであったら、いちおう人心の一新はなし得ても困難はそのまま深い禍根となって残ってゆくのではないか・・・
 晋作は、七月十四日、船が長崎へ着いて上陸すると、そのままさっさとオランダ商会を訪ねていって、「世界で最新鋭の軍艦を一隻買い受けたい。金に糸目はつけぬぞ」と言った。
 これが藩の束縛を無視した晋作の第一の行動であった。
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