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<本文から>
時代を覆すような大事件というものは、たいてい、三つの大きな要因をもって引きおこされるものであった。
その一つはすでに書いた。
時の流れが指し示している文明の年齢である。これはよほど達眼な先覚者でなければ早期には発見し得ない。多くの場合、さまざまな老衰現象が表面に現われて来て、それから狼狽して収拾にあたるという順序になる。
したがって巧みに収拾された場合よりも、収拾しきれずに、酸鼻をきわめた流血革命になってゆく場合の方が多いことは、世界の歴史がハッキリとこれを証明している通りある。
日本も列強の軍艦が沿岸を侵すにいたって、果然この老衰に気づいた。
世界の文明は、もはや日本だけが安穏として鎖国し、孤立していることを許さない条件を備えて来ていたのだ。
さて第二の要因は、こうした狼狽に直面しても、すぐさま人間の頭脳は、それに即応し得ないものだということだった。
外国の意志は、日本を侵略して、これを自己の植民地にしようとしているのだということは分りきっていながら、まだまだ旧態から脱しきれず、必ず上層部に勢力争いがつきまとう。
これはけして、誰が正しく、誰がより悪党で野心家だからというようなものではない。みな善意であっても争いはたいてい起っている。ある意味ではそれが人間の宿命ででもあるかのように…。
幕府の内部にも当然それがあった。水戸の老公を中心とする、皇室と緊密な連絡をとりながら、撰夷をしようという一派と、それでは志士たちの跳梁を許して、いよいよ国内は混乱するばかりだから、幕府の手で進んで開国し、朝廷にはこれを承認させればよいとする井伊直弔の一派である。
しかも、その両派の争いに、幕府の後嗣問題がからんで、その争いはさらに暗さを加えていった。
前将軍徳川家定はこの年の七月六日に死んでしまっている。家定には子供がない。そこで水戸の老公一派は、家定の生前から、老公の子の慶喜を推そうとし、井伊直弼一派は紀州から慶福(将軍となって家茂と改む)を迎え入れようとして争った。
この争いもむろん黒船の渡来と直接大きな関係を持っている。
慶喜を推した方は、こういう非常の際ゆえ、将軍はもう立派な大人になっている、しっかりした人物でなければならぬと主張し、家茂を支持する一派は、慶喜に将軍になられて朝廷と接近され、できない撲夷など押しつけられてはそれこそ一大事、将軍は却って何もわからぬ子供がよいという考え方だった。
この将軍継嗣問題は、井伊側の一応の勝利となって、十四代将軍は家茂と決った。
さて第三の要因は、こうして争いが次第に激化して来ると、こんどは、その混乱した空気の中で、いずれかに便乗して手柄を立てようという人物が必ず現われて乗るということだった。
これとて一概に野心家とか、出世主義とかいって一様に排撃はできない。その時点で、その人々は、これこそ真理と信じ込んで動く場合が多いからである。 |
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