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          陳舜臣-諸葛孔明(上)

■孔明少年のエピソード

<本文から> 腕ずくでも連れて行く。
 そう言われては、いくら勝気な鈴でも、残留をあきらめるほかなかった。
 股慄をこらえて、孔明少年は、ゆっくりと一座を見まわした。両足を投げ出しているのは窄融だけで、あとの幹部はあぐらをかいたり、正坐したりしている。あぐらは「胡坐」-異域の人の坐り方といわれて、後漠のころ、とくに軍人のあいだに一般的になっていた。
「さぁ、講義せい!」
 ?融は立ちあがり、床につきさした剣を抜き、その柄を振りしめた。
 孔明は唾をのみこんでから、口をひらいた。さすがに唇がふるえ、それをみた窄融の片頻が歪んだ。
 「私たちがこの目で見ている、もろもろのものは、じつは実体のあるものではありません。すべては空しいのです。……」
 「待て!」?融は剣を頭上にかざした。-「わしの目にはおまえが見える。十五にしては大きなからだだ。だが、それも空しいものじゃな? 実体がないものじゃな?さあ、どうだ?」
 「はい」
 孔明は大きくうなずいた。
 「それでは、そのとおりにしてやろう。おまえという実体はない。この世に生きていなかった。空しいしかばねに戻してやる」
 窄融は一歩まえに踏みだした。
 孔明は目をとじた。そして、空を切る剣のうなりを待っていた。だが、それはきこえなかった。ふしぎに股傑はやんでいる。彼は目をひらいた。
 目のまえに紅潮した窄融の顔があった。両眼が燃えるように赤い。口を裂けんばかりにひらいていた。そして、まったくうごかない。異様な静止であった。両眼はみひらいているが、それは焦点を結んでいない。なにも見ていないのである。
 やがて、右の唇の端から血が流れだした。その血が顎から喉もとを伝わり、襟のなかに吸いこまれたとき、竿融のからだは、つんのめって前に倒れた。孔明の足もとを、窄融の髪が払った。背中に手斧がつき立っている。
 「おびえるでない。これは、われわれ一同がやったことだ。全員がきめて、この男を殺すことにしたのだ。われわれは諸葛玄どのに身を寄せたい。取り次いでいただこう」
 小柄な、痩せた、白髪の老人が、よろめくように前に出て、孔明にそう言った。その場にいた窄融軍の幹部たちは、みな立ちあがって、孔明をみつめていたのである。
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■孔明は劉備がわざと人質を置いた意図を見抜き惹かれる

<本文から>「だらしがありませんね」
 報告し終えて、甘海はそう言った。孔明は腕組みをしたまま黙っていた。
 「あら……」.
 そばにいた綬は、甘海のことばに相槌をうたなかった夫の顔を、のぞきこむようにして首をかしげた。甘海がその場を立ち去ったあと、孔明は幼い妻にむかって、
「劉備は私たちが考えている以上に、たいへんな人物かもしれない」
 「どうしてでございましょうか?」
「劉備夫人はなんども檎になっている。頻繁すぎるではないか」
「さようでございますね。……まず呂布と戦ったときむそうでしたね」
 建安元年(一・九六)、呂布は下部にいた劉備を攻め、劉備は敗走し、残された要は呂布にとらえられた。のちに劉備は呂布に和を求め、やっと妻を返還してもらった。
 建安三年(一九八)、劉備が小柿に戻って万余の兵を集めたので、呂布はこれが気に入らず再び攻めた。劉備はこのとき、曹操のもとに逃がれたのである。曹操は劉備を予州の牧に任命した。こんどは劉備のほうから呂布に兵をむけたが、呂布の部将の高順に攻められ、またしても妻をすてて逃げた。高順はとらえた劉備の妻を呂布に送った。その直後、曹操はみずから出陣して、呂布を下郵に囲み、呂布を檎にしてこれを斬った。劉備の妻はまた夫のもとに帰ることができたのである。
 「三度だ、この五年のうちに」
 「あなたがもし将軍となって戦さをなされたら、あたしは見棄てられるのでしょうか?」
 綬は心もちからだを揺するようにして訊いた。
 「妻子は、そんなにかんたんに棄てられるものではない。劉公は敗走するにあたって、人質を置いたのではあるまいか」
 と、孔明は言った。
 家族を置いて逃げた相手を、敵は見くびるであろう。深追いすることもない。軍隊はさほど損害を受けないですむ。残された家族は、対立する敵とのあいだをつなぐ微妙な存在となるのだ。
 「まぁ、いやだ、人質なんて」
 綬は身をよじった。
 孔明は腕組みをしてはそれを解き、けんめいに考えているようだった。
 「端促すべからざる人物か」
 ぽつりと彼は声をもらした。
 「そうね。……」
 綬もわかるような気がした。
 「甘も、あなたには、そんな人物になってほしくないわ」
 と、彼女はつけ加えた。
 「私にはできないことだ。それができる人物は、私と……」
 途中まで言って、孔明は口をつぐんだ。そんな人物と提携できるだろうかと考えたのである。こちらのできないことを、平然とやれる人物こそ、提携の相手としては望ましいのではあるまいか。-若い孔明は、前途に横たわるおびただしい可能性の山を、手さぐりしはじめていた。山のなかに、劉備という名があった。
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■孔明は万民のために劉備に共することを告げる

<本文から>
 孔明は徐州の大虐殺の情景を思い出す。
 (この天下は、曹操にだけは渡してはならぬ。万民のしあわせのために)
 感情から出た思考が、しだいに強められてきた。では、誰が天下を取ればよいのか?
 (おれが輔佐する人だ。現代の桓公をして、天下を取らしめる)
 案陽の宿で血が騒ぎ、隆中に帰る前夜、一睡もできなかった。発熱はかならずしも雪のせいだけではなかったのである。
 庭に、どさ、という音がした。樹の枝に積っていた雪が落ちたのだ。
 (これが桓公だな。……)
 孔明は劉備をみつめつづけた。耳が異常に大きい。だが、この顔にはこの耳でなければ合わない、という気もする。
 「荊州は用武(武を用いるのにふさわしいこと)の地であります。北に漠水、汚水の険があり、南は南海交易の利をおさめることができます。長江によって、東は呉郡、会稽、西は巴萄の地に通じているのです。しかも、ここのあるじは、この用武の地を守ることさえできません。これは、ほとんど天が将軍に下賜されるようなものです。それを受け取るご意思がございますか?」
 孔明は視線をやわらげようとした。みつめている目が、いつのまにか、にらみつけるようになるのだ。劉備はそんな孔明の視線を、まともにうけて、たじろぎもしない。表情には、まるで感情があらわれていなかった。孔明はことばをつづけた。
 「荊州を取るだけでは足りません。それだけでは曹操や孫権と肩をならべることができないのです。いま、天下の人は、曹公そして討虜将軍と、ならべて称しますが、荊州の劉表の名をロにする人はすくのうございます。中原と江東とにくらべて、荊州は小さいのです。曹・孫の両者と比肩するには、益州を加えねばなりません。益州は険塞、沃野千里、古来、天府の地といわれています。高祖(漠の劉邦)はこの地から天下を取りました。帝業有縁の地と申せましょう。それなのに、この地のあるじ劉嘩は闇弱で、北方は五斗米道教団の張魯が、事実上支配しています。国は富み、人口もすくなくありませんが、あるじが民草をいつくしむことを知らないので、有能な人たちは、明君を得たいものだとおもっているそうです。…荊州も益州も、あなたをお待ちしています」
 孔明がロを喫むのを待っていたかのように、庭の木に積った雪が、またびとかたまり、どさ、と音を立てて落ちた。
 そのあと、しばらく沈黙が領した。隆中の草魔の一室、孔明と劉備が二人だけで相対している。鈴、綬、均夫婦、そして孔明といっしょに裏陽から戻った甘海たちは、離れの部屋にいた。劉備に随行してきた家臣たちは、庭に控えていたのである。
 「天がくださるのです」孔明は再び口をひらいた。-「お受けなさい。あなたは漢の皇室の裔宵(末孫)ではありませんか。信義に厚いことは、四海の人がみな知っております。英雄たちを心服させ、賢者を熱心にもとめ、もし荊・益両州を領有するならば、どうなることでございましょう。西南の諸民族と親睦し、江東の孫権と結び、内政を充実させたならば、いかに曹操の中原勢力が強いとはいえ、おそれることはございません。一上将に荊州の兵を授け、あなたはみずから益州の軍衆を率いて覿州(附酎、甘粛)に出撃するなら、平和をねがう人たちは、よろこんであなたをお迎えするでしょう。これでもって覇業の達成は目前にありといえます。漠室を復興し、王道を致すのは、まさに男子たるものの本懐ではありませんか」
 劉備は依然として無表情であったが、心のなかが波立っているのは、彼の肩がかすかに揺れていることで察しられた。しばらくして、劉備は大きなため息をついた。
 「よろしい」
 短いひとことに、劉備は万感をこめたようである。孔明にはそのことがよくわかった。
 「いつお発ちですか?」
 と、孔明は訊いた。
 「明朝、隆中をあとにします」
 「では、新野へお供いたしましょう」
 「それは、かたじけない」
 劉備は深々と頭をさげた。彼は曹操によって、予州の牧に任命され、左将軍の称号を得ている。だが、いまは曹操にそむき、荊州の劉表に身を寄せている身であった。亡命の将軍で、数千の兵、それも蓑紹がつけた兵が主力の軍隊をもつにすぎない。
 諸葛孔明は、なにも劉備に随身しなければならないいわれはなかった。塊邪の名族の出身で、彼ほどの見識をもつ人物であれば、どの勢力でも仕官を歓迎するはずである。彼は主をえらぶことのできる立場にあった。それにもかかわらず、不遇の亡命将軍をえらんだのである。劉備が、かたじけない、と頭をさげたのは、けっして不自然ではない。
 「桓公になれるようにつとめるつもりだが」
 と、劉備はつけ加えた。
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■曹操軍の目くらまし用大群衆を集めて逃げた

<本文から>
 劉備はそこまで言って、ことばを切った。
「曹操は徐州で大虐殺をおこないました」と、孔明は言った。--「少年のころ、私は与れをこの目で見ていますけれども、それ以後はありません?あのときは、父を殺されて、憎悪が燃え狂ったのです。それが彼の本性かもしれませんが、いまは天下を望んでいます。一人の孔融を殺しても、民衆は殺すことができないのです。ご安心下さい」
「そうであろう。……そうであってほしい」
 と、劉備は呟いた。
 さきほど劉備が言おうとしたのは、「まさかおまえは、曹操軍の目くらまし用に、こんな大群衆を集めたのか!」という詰問であった。曹操軍は十余万のほとんど非戦闘員である群衆にさえぎられて、劉備の戦闘軍団を見失っていたのである。こちらにとっては都合がよかった。群衆にかくれて、うまく所定の場所に脱出できる。その場所を、曹操軍の砂煙をみたとたん、孔明は戦闘部隊に明示したのである。
 -斜めに東にむきをかえ、漠水の方向にむかう。落ち合うのは漢津である。そこに関羽の水軍と劉埼の軍隊が待っている。
 このことは、孔明はすでに地図を示しながら、劉備に説明してあった。ただ群衆を集めることだけは伏せたのである。
 群衆を目くらまし用に使い、その陰にかくれて、うまく方向転換をするなどといえば、劉備はまた「われ、忍びず」と言うにちがいない。孔明はじつはそんな劉備に惚れこんでいたのだが、彼はもっとさめた現実主義者であったのだ。彼はていねいに、劉備にむかって事後解説をおこなった。
 天下びとをめざす曹操は、十余万の群衆を飢えさせるわけにはいかない。当陽を南下すればすぐに江陵なので、曹操は彼らを連れてそこまで行くほかないのである。江陵の糧食の備蓄の一半は、彼らにあてがわれることになるであろう。その群衆は、曹操の力を弱めるものでもある。
 「群衆をそのように利用するのは、仁者のなすべきことでないかもしれません。私は心のなかで彼らに詫びています。そしてその償いの一端として、私は妻を群衆のなかにいれました。群衆の苦しみを我が苦しみとするのです。この作戦を妻に語りきかせましたとき、彼女は進んでそうしたいと申したのでございます」
 と、諸意孔明は言った。
 そこには、張飛、趨雲、秦竺、簡薙、孫乾といった諸将がいた。関羽はいない。彼はひそかに水軍を率いて、漠水をくだっていたのである。諸将のあいだから、ため息がもれるのがきこえた。
 「おなじことを考えるものだ」しばらくして劉備が言った。-「私も妻子を特別の車輌にのせたが、昨日、彼らを群衆のなかに放つことにした」
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