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<本文から> 斉軍が黄河を渡らず、その右岸をさかのぼって行ったという報告は、数日の後、邯鄲を包囲しているホウ涓にとどいた。
彼は斉が趙の乞いを入れて援軍をおくることを承諾し、その将軍に田忌を任じ、軍師として田忌をつけたことを知っていた。
田忌とは一度戦ったことがあるから、およそどの程度の武将であるかわかっている。少しもこわくなかった。斉の兵も恐ろしくない。豊富な環境に育ったためであろう、体格も大きく、血色もよく、体力は大いにあったが、精神が弱く、ねばりがない。兵の素質は体力より精神に重きをおくべきものだが、その点において斉兵は大いに弱点がある。こんな兵は恐怖させれば無力になるのである。
おそろしいのは孫ビンであった。彼は?の天才を知っている。少年の頃からその才には驚嘆させられてばかりいる。その日は未然を洞察してあやまりのないこと神のようである。その心は奇手・奇策を案出すること春の蚕の糸を吐くようだ。連々としてつきるところを知らない。
はじめの間は対抗する気持があった。
「おれに指導されて、兵法に志したのではないか。読書も研究もおれほど精を出していない。人の生れつきの才能は似たりよったりのものだ。何ほどのことがあるものか」
と、張り合ったが、やがてその張りはなくなった。
「天授である。おれは遠くおよばない」
と、あきらめた。
自分にとって幸いなことには、?には名利の念がまるでなく、処士として世をおわることを念としていたし、いろいろ世話になる必要もあったので、最も親しい交りを結んでいたのだが、それでも、この男が世に立って働く気をおこしたら、自分なぞ霞んでしまって、とうてい一流の将軍をもって世に立てはしないと考える時もあった。
われながら悪辣だと気がとがめながら、陥れたのも、このためであった。魏につかえたいなどと言い出したので、それではやがて地位をうばわれてしまう、?にその気はなくても、しばらく経つうちには、親の上下の人々が?の才能を認めるにちがいない、認めればいやでも自分の地位を保つことは出来なくなろうと思案したからであった。
「そのおそるべき孫ビンと、対決しなければならないのだ」
と思った時、ホウ涓は戦慄した。
ただ彼が?にまさっていると自負していることは、経験であった。勝はこれまで一度も実戦の経験がない。呉起将軍に従学している頃数回従軍したことがあるが、それは見学であった。実戦すべき兵としても、将校としても、また将軍としても、実戦に臨んだことはない。戦場では、人間の心理は平生の時と大いに違う。智者といわれている人でも、半分も知恵が出ない。初心の間はとりわけそうだ。度々経験をつんで、いわゆる戦場なれして、はじめて平生の知恵がそのままに出るようになるのだ。この点、自分は十分の経験を積んでいる。
「たとえ孫ビンに十の才があり、おれに七の才しかないとしても、膿がその半分五の才しか出ないのにたいして、おれは七の才をもってあたることが出来る。その上、兵の素質はこちらが段ちがいによい。十分に勝てるはずである」
と、計算を立てた。
「算多きものは勝つ″と、やつの先祖も言っている」
と、不安をねじ伏せた。 |
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