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          海音寺潮五郎−孫子(上)

■孫武は兵法を好み十三篇からなる兵書を完成したが疑問が残る

<本文から>
 史記の孫子呉起列伝に伝える孫武の話はまことに簡単である。呉王園庭に召抱えられる時の話が一つ出ているだけである。
 孫武は斉の人であるという。斉は今の山東省あたりだ。周王朝の創業に最も功績のあった太公望呂尚の封ぜられた国で、春秋時代を通じて第一級の強大国になっている。
 孫武は兵法を好み、研究に励精した結果、十三篇からなる兵書を完成した。この十三篇が今日伝わっている「孫子」であるかどうか、古来の学者は疑っている。
 史記の記述を信用すれば、孫武は孔子と同時代の人である。孔子五十六の時、孫武がつかえたという呉王聞慮が死んでいるから、その生きていた時代は同じである。ところが、今日伝わる孫子の文体は、論語の時代の文体とまるで違う。次ぎの戦国時代の文体に似ている。これは専門の学者でなくても、いくらか漢文をかじっているというにすぎないぼくみたいな者にさえわかる、最もはっきりした疑問点である。
 そのほか、専門学者に言わせると、いろいろな疑問点があって、大体において、
 「孫武という人物は実在しない伝説中の人物かも知れない」
 「実在したかも知れないが、今日伝わっている孫子は春秋時代の孫武の著述ではない」
 「史記の列伝に孫武の何代かの子孫に孫勝というのがあるが、それと同一人物かも知れない。そして今日流布されている孫子はこの孫?の著述かも知れない。これは戦国時代の人であるから、文体の点でも撞着するところはない」
 と、こんな風に考えられている。
 天下一の兵書とされ、古来東洋では論語や老子や、荘子についで珍重された書物でありながら、その素姓はこのように頼りないのである。これはもちろん内容がくだらんという意味ではない。さすがに古来珍重されただけあって、洗練しぬいたみごとなし内容を持ち、しかも朗々として吟諭するにたえるような、力強く、また響きの高い名調子の文案早をもっている。
 古来、七書といって、孫子をトップにして、呉子、六鱗、三略、尉綺子、司馬法、李衛公開対と、七種の兵書が伝えられ、兵法を論ずる人々に珍重されているが、ぼくは孫子が最も根本的なもので、他の六つは孫子の註釈と見てよいとさえ思っている。
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■孫子は応用面がまことに広い。楠木正成の赤坂城の籠城戦

<本文から>
 孫子はもともと兵書として著述されたものだから、戦術の書であることは言うまでもないが、処世の書、政治の書、経常の書としても立派なものと古来考えられている。応用面がまことに広いのである。
 その応用面の広さは、戦術というものの本質から出るのかも知れない。戦術には、元来読心術的面が非常に多いからである。
 太平記によって、楠木正成の赤坂城の籠城戦を見ても、敵の心理を次ぎ次ぎにすばやく読んでは、適当に虚をついて効果をあげている。
 関東の大軍が赤坂城がみすぼらしい小城であるのを見て、
 「あなあわれなる有様や。これはどの小城、片手につかんで投げられようぞ」と言いながら、われ先きにと馬を飛びおり、最も不用意に空濠にとびこんで塀際けおしよせたのを、城内のやぐらの上や狭間の陰から矢じりをそろえてひしひしと射肘ったので、寄手はたちまち千余人が死傷した。
 寄手はあぐねて、この城は急攻めではいかぬ、ゆっくり攻めよう、と退却して、幕舎をこしらえ、馬から鞍をおろし、具足をぬいで休息にかかると、近くの山から伏勢がおこって、猛襲撃して散々な損害をあたえる。
 寄手は一層用心する気になったが、緒戦で特別大損害をこうむった連中はおだやかでない。
 「死ねや者共!この恥辱こうむって、いのち生きて何かせん!」
とばかりに、はやりにはやって、遮二無二、乗り入ろうと塀ぎわにおしよせ、塀をよじのぼりにかかる。塀はあらかじめ二重にこしらえ、外側の塀は縄で吊ってある。城内ではしずまり返って、十分に寄手の兵がとりつくまで待っていて、ぱっと吊縄を切りはなつ。塀にとりついた寄手の兵は塀とともにどうと落ち、下じきになってもがいているところを、上から大木大石を雨のように投げおとし、七百余人をふみつぶした蛙のようにして圧殺した。
 四五日経って、寄手は、丈夫な皮を表に張った大楯を持ち、上から木石の落下物があっても平気なようにかまえて、エイヤエイヤと攻めのぼると、城内では長柄のひしやくで、ぐらぐらと煮え立った熱湯を流しかけた。熱湯では楯も役に立たない。冑の天辺、鎧のすき聞から流れこむ湯に、火傷だらけになって退却した−と、こうなっている。
 実際この通りであったかどうか、わからないことではあるが、最も見事に戦術の本質を語る話になっている。
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■冴えが肝腎な時に長くつづく人が英雄・豪傑・天才

<本文から>
 人間は調子に一乗って意気が昂揚すると、不思議なくらい冴えてくるものだ。この冴えが肝腎な時に長くつづく人が英雄・豪傑・天才などといわれる人になる。厳格な意味においては、生涯天才であり、生涯英雄であり、生涯豪傑である人はない。冴えている期間が長く、しかもその期間がかんじんな時と一致している人がそう呼ばれるようになるにすぎない。つまりは、冴えと運とがかね備わらなければ、天才にも、英雄にも、豪傑にもなれないのである。一早い話が、すぐれた素質をもっていながら、かんじんな時に病気になったり、怪我をしたりしたために、大関にも横綱にもなれなかつた角力とりがいるものだが、同じである。
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■逆境にしずんだことのない人間には他人の心理を読むに暗い

<本文から>
 順境にばかりあって、逆境にしずんだことのない人間にはよいところももちろんあるが、うんと弱点がある。その最も大きなものの一つは他人の心理を読むに暗いことである。これは処世の上では人にたいする同情心がとぼしく刻薄といわれるようになって世の信を失い、戦術家としては相手の出ようにたいする考察不足の戦術を立てることが多い。
 この時の夫概がそうであった。彼は前役の失敗に懲りてはいたから、前夜一応綿密な敵状偵察をさせはしたが、それ以上のことは考えなかった。楚軍がこちらの戦法を十分に飲みこんでいて、その裏をかく策に出ることがあろうなどとは、彼の思いをいたすところではなかったのである。楚軍は彼が行動をおこす直前これまでの陣地を撤退してひろく左右にひらき、夜明けとともに突撃して来るであろう呉軍を中にとりこめて討ちとるつもりにしていたのである。夫概の隊はその待ちもうけた陥穿の真ッ唯中に突ッこんだのであった。
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