|
<本文から> 史記の孫子呉起列伝に伝える孫武の話はまことに簡単である。呉王園庭に召抱えられる時の話が一つ出ているだけである。
孫武は斉の人であるという。斉は今の山東省あたりだ。周王朝の創業に最も功績のあった太公望呂尚の封ぜられた国で、春秋時代を通じて第一級の強大国になっている。
孫武は兵法を好み、研究に励精した結果、十三篇からなる兵書を完成した。この十三篇が今日伝わっている「孫子」であるかどうか、古来の学者は疑っている。
史記の記述を信用すれば、孫武は孔子と同時代の人である。孔子五十六の時、孫武がつかえたという呉王聞慮が死んでいるから、その生きていた時代は同じである。ところが、今日伝わる孫子の文体は、論語の時代の文体とまるで違う。次ぎの戦国時代の文体に似ている。これは専門の学者でなくても、いくらか漢文をかじっているというにすぎないぼくみたいな者にさえわかる、最もはっきりした疑問点である。
そのほか、専門学者に言わせると、いろいろな疑問点があって、大体において、
「孫武という人物は実在しない伝説中の人物かも知れない」
「実在したかも知れないが、今日伝わっている孫子は春秋時代の孫武の著述ではない」
「史記の列伝に孫武の何代かの子孫に孫勝というのがあるが、それと同一人物かも知れない。そして今日流布されている孫子はこの孫?の著述かも知れない。これは戦国時代の人であるから、文体の点でも撞着するところはない」
と、こんな風に考えられている。
天下一の兵書とされ、古来東洋では論語や老子や、荘子についで珍重された書物でありながら、その素姓はこのように頼りないのである。これはもちろん内容がくだらんという意味ではない。さすがに古来珍重されただけあって、洗練しぬいたみごとなし内容を持ち、しかも朗々として吟諭するにたえるような、力強く、また響きの高い名調子の文案早をもっている。
古来、七書といって、孫子をトップにして、呉子、六鱗、三略、尉綺子、司馬法、李衛公開対と、七種の兵書が伝えられ、兵法を論ずる人々に珍重されているが、ぼくは孫子が最も根本的なもので、他の六つは孫子の註釈と見てよいとさえ思っている。 |
|