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<本文から> 二人は植込の背後から座敷をうかがった。
簾のむこうに人影がぼんやり見える。人影は二つである。
三味のつややかな音色がつづいた。
二人は聴き入った。
「保名だ」
弁之助がつぶやくと、友蔵はうなずいた。
弁之助は背筋がぞくりとするのをおぼえた。(保名)は清元の名曲である。
「葛の葉ですよ」
今度は友蔵が言い、弁之助がうなずいた。
(葛の葉)は竹田出雲作の義太夫狂言であり、(産屋道涌大内鑑)のことである。信田の森の狐が安倍保名とちぎって、安倍晴明を生んだという信田妻の伝説をもとにした作品であり、四段目の(子別れ)が全篇のヤマだ。
中村座の盆興行は(産屋道滴大内鑑)で、勘太郎の初舞台がこの作品である。
「勘太郎がいそうだな」
夕闇がしだいに濃くなり、二人は植込の背後からでて、座敷に近づいた。
座敷には行灯がおかれ、その明りのなかで、女が三味線をひき、幼ない子が(保名)をおどっている。
「勘太郎だ」
おどっている色白で瞳のおおきな童児は勘太郎に間違いなかった。
(よくぞ元気でいてくれた!)
弁之助は感動のおもいがこみあげた。今までさがしてきた甲斐があった。
勘太郎はふっくらとしたあどけない顔で(保名)をおどりつづけている。
弁之助と友蔵は勘太郎の踊りに釘づけにされた。
勘太郎は真剣におどっている。初舞台の稽古にかけた気迫が幼ないながらもつたわってきた。
さすがは名門の血筋だと弁之助はおもった。
三味線をひいている女は縞の着物を着ており、ほっそりとした柳腰だ。年ごろは二十一二に見えた。
「勘太郎はこの寮に閉じこめられているあいだ、初舞台が気になって、稽古がしたいとぐずって困らせたんだな。それであの女が三味線をひき、稽古をさせてずっと勘太郎をなだめていたのだろう」
弁之助が言うと、友蔵が宵闇のなかでうなずいた。
その翌朝、まだ暁闇につつまれたころ、南町奉行所の与力安部次郎左衛門と同心貝塚又右衛門の指揮する捕万一行が、扇屋の寮を取りかこんで急襲した。その先頭にたったのはのっぽで顔のながい男、鶴吉である。
勘太郎は無事にたすけだされ、扇屋の女中払みねと若い者一人がつかまり、さらに伝兵衛も後刻、吉原江戸町の見世で取りおさえられた。
やはり盆興行で中村座が一館かぶりとなるのをおそれての犯行だった。犯行の前日、江戸屋に伝兵衛がやってきたのは、下見のためである。
「初日までには、まだ六日ある。勘太郎なら、今から稽古をすれば初舞台に間に合うだ
ろう」
勘太郎が中村屋にもどってきたと江戸屋で聞いたとき、弁之助はおわかの肩にそっと
手をおいて言った。
おわかの顔は今にもくずれてゆきそうである。
今日から月替りである。けれども江戸の暑さはこれからが本番である。 |
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