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          海音寺潮五郎−青雲の潮(2)

■珠之助

<本文から>
 珠之助は目をつぶった。遠く本国をはなれて、こんなところで戦死するのはどんな気持であろう
と、切ないものが胸にせまって来た。
 鳳児と陳とがかわるがわる語るところを綜合すると、こうであった。
 嘉靖四十四年というから、五年前のことだ。その年の暮、胡素意大総督は、当時南渡島に拠っていた呉平を討伐するために、水陸の両軍を編成して、急襲した。水軍は愈大猷、陸軍は戚継光が司令官となった。二人とも、当時のみならず歴史的に見ても名将軍だ。これが緊密な連結をとって、しかも不意を打って急襲したのだから、呉平は一たまりもなかった。
 とるものもとりあえず、船に乗り、本土にわたり、この山にこもった。
 呉平の撃下には多数の日本人がいた。彼らは慄悼で勇武で、その点でなかまに重んぜられていた。
呉平の部下には形勢不利と見て、逃徹する者が多かったが、日本人は一人も散らず、最も勇敢に戦って、八十余人、枕をならべて仙戦死したのだという。
 倭人は中国人にとっては東海の蛮人としか思われないものだし、とりわけ倭造と来ては恐怖戦慄、最もいとうべきものではあるが、こう一挙に多数殺してしまったとあっては、腐鬼となって崇ることもこわい。この山に墳をこしらえて埋葬し、仏事を供養したのだという。
 「呉平もここで死んだのか」
 「いいえ、呉平は日本人らが防戦してくれている間に、ひそかに間道から山を下り、命大猷の部将である湯克寛と李勉という者とが、梅を上って休息をとっているところにおし寄せて散々に撃破して、海に出ました。ちょうどその頃、この港の近くに倭冠の連中が数十ばいの舟をもって近づきつつありましたので、この連中と話をつけて、河口におしよせて来たのです。愈大献の水軍と決戦するつもりなのでした」
 「なるほど、それで」
「それはあとで、そこへ行ってからお話ししましょう。もっとお上りなさいな」
 鳳児は洒をすすめた。
−時間ほどの後、山を下ったが、陳は先きに立って別な道をとった。
 半分ほど下ったところに、路傍に石を集めて鈍円錐形の塚を築き、上に大きな岩をおいてあった。
石の聞から雑草や小さい樹が生えている。
「これが、この山で死んだ日本人の死骸をあつめて埋めたところです。倭子碩と土地でほ言っています」
 と、鳳児は説明した。
 皆韓をおりた。
 珠之助は長い裾をからげて、塚を上って行った。
 塚の上にすえられた岩は高さ四尺くらい、積もその程度のものだ。賓草がまといついていた。前面にきざんだ「倭子墳」という文字も、その革単に半ば蔽われていた。
 珠之助はそれをむしりとった。
 「年に一度、このへんの入が供養します。その時、この草やなんぞもきれいに抜きとるのですが、すぐ立たこんなになってしもうのです」
 と、また鳳児が言った。
 多雨多熱のこの地方では、植物の生長が速かで、夙に吹かれて飛んで来たり、烏が啄ばんで糞とともにおとしたりした種子は、土を得ると、忽ち根をおろし、芽をのばし、葉をひろげて、たくましく成長して行くのだと思われた。
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