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          海音寺潮五郎−青雲の潮(1)

■密使

<本文から> その日の夕方また卯月が新しい情報が入ったと知らせて来てくれた。
 「今日もまた鴻ノ峯の総攻めが行われたそうでございますが、やほり城方の守りがかたくて、昼過ぎには戦いはやめになったそうにございます」
 と、庭先に立って、あたりをはばかるような声で言う。いかにも気の毒げな顔だ。
 あわれまれているようで、松寿丸は愉快でなかったが、愛想よく言った。
 「今朝方別れて立って行かれた早川鮎介殿が仰せられたことじゃが、城攻めはむずかしいものじゃそうな。まして鴻ノ峯と来ては、骨がおれよう。しかし、やがては落ちる。防長二州に味方のいない今では、あの城は大海の中の離れ小島のようなものだ。しかもわずかに五百の勢でこもっているのだ。
 急ぐことはない。兵糧口をしめて、ゆるゆるととり巻いているうちには、餓死するにきまっている。
 わしは少しも心配しておらぬ。しかし、知らせてくれて、ありがたいと思う。礼を言うぞ。これからもよろしゅう頼みおく」
 「そうでございますか。わたくし、心配でなりませなんだので。−余計なことを申上げました」
 卯月の態度はひどくしおらしい。とても昨日の具足をつけたいかめしい姿や、今朝方の括撥な騎乗ぶりを想像することは出来ないような気がした。
 松寿丸はあわてた。笑いながら言った。
 「いやいや、わしは礼を申しているのだ。これからも頼むと申しているのだ」
 いくらか気をなおしたようだが、それでもしおれて、
 「それでは」
 ていねいにおじぎして、庭を出て行きかけたが、ふと立ちどまると、こちらを向いた。
 「あの、今朝方いただきました桔梗、ずっと筧の水につけておきましたが、やっとしゃんとしてまいりましたから、今生けてお居間の床に持ってまいります。仏様よりあなた様のところがよかろうと母が申しますので」
 もうしおれた表情はない。明るくいきいきとした様子になっていた。
 「それはすまぬ。わしはまた花に気の毒に思ったので、仏様にと思うたのだが」
 とまどいに似た気持が、松寿丸にはあった。
 「役に立ちさえすれば、花としては本望でございましょう」
 というと、卯月はぱっと紅くなり、おじぎをし、同時に向うをむいて、急ぎ足に立ち去った。
 松寿丸はもう夕べのけはいの見える床の間をふりかえり、その目を夕日の光の赤く流れている空にうつした。といきが出た。斗目をひねりたいようなものがあった。
 予定より一日早く、新三郎は帰って来た。要求してやった通りの、もし徳地衆が毛利の勢力を二州から駆逐することに協力するなら、徳地一郷は年貢課役なしの作りどり、代官らも一切入れないようにするとの輝弘のみ教書をたずさえていた。
 「意外に早かったな。わしはどうしても明日になるであろうと思っていた」
 と、松寿丸がいうと、新三郎は声をひそめた。
 「実は意外なことで早くなったのでございます。最初、お屋形はなかなかお聞入れがなかったのでございます。城井小次郎様にもお願い申し、城井様もずいぶん申上げられたのでございますが、およそ由緒ある神社・仏閣の所領のほかは、守護不入のためしはない。徳地になんの由緒があればとて、きょうなわがままを言いつのる。しかのみならず、この度諸所におこった一揆勢は皆帰服を申しおくっているのに、徳地だけは一向に知らぬふりをしている。しかるを徳地のねだりを聞いてさようなことを許すとなれば、不臣の者が徳をし、忠順なるものが損をするということになって、政道の上にもよくない。また、徳地にならって、他郷も同様なことを願い出ることになるに相違ないのであるが、徳地に許した以上は、許さねばならぬ。許さぬという道理がないからだ。そうなった暁には、防長二州、大内の所領はどこにもなくなる。わしに霞をくらって生きていよというのか≠ニ仰せられて、いっかなお聞入れになる色はなかったのでございます。いかにもお屋形の仰せられることも道理でございますので、城井様もあぐねておられましたところ、昨夜になって、まことに意外な知らせが入ったのでございます。筑前の毛利勢はついに立花城を攻めおとしてしまい、大いに色を直しているとの知らせでございます。それで、先ず豊後勢が色めき立ちました。必定この次ぎには毛利方は九州から手を引くとて和議を言い出すであろう。宗麟様がお聞入れなくばそれまでのことながら、長陣にあぐねておられること故、ひょっとしてお聞入れになれば、毛利勢は怒涛の勢いで帰国してまいるであろうとの、取沙汰がしきりに行われはじめたのでございます。それで、お屋形もにわかに思案をかえられまして、こうなれば一刻も早く二州をかためねばならぬと思われたのでございましょう。今朝方、にわかに拙者をお呼び出しになり、このみ教書をたまわったのでございます。仰せつけ通りのみ教書をいただくことが出来たわけではございますが、よろこんでよいことではございません。城井様もきつう先きざきを案じてお出ででございます」
 松寿丸の萎えていた事態になったのだ。しかし、あまりにもそれは早すぎた。
 もう日が暮れていたが、松寿丸は使いを明証寺の助左衛門に出した。
 「使いの者がお屋形のみ教書をもらって来た。それについて、その方共が皆そろっているところで話したいこともあるから、そちらに行きたいと思う。会ってくれるであろうか」
 という口上。
 使いはすぐ帰って来た。
 「わざわざのお運びは恐縮でございますが、そちらさまからのご所望でありますれば、お待ち申しています」
 という返答であった。
 松寿丸は供まわりの者を三人だけ連れて、徒歩で出かけた。
 どうせ毛利家が立花城を奪取したことは、一両日のうちには助左衛門らの耳にも入るにちがいないから、かくしても無駄だと思ったのだ。うわさとしてゆがんだ形で、あるいは針小棒大に聞かせるより、こちらの口からありのままに耳に入れた方が有利であるとの計算もあった。
 こうなった以上、一揆の幹部らの心理は相当動揺し、あるいは前とは模様がかわって来たなどと言い出して、間窺はむずかしくなるかも知れないが、それにしてもこの際としてはこちらから正直に打出すのが最上の方法であると判断したのだ。
 松寿丸は心中きびしく緊張して、宵暗の道をたどった。
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■瀬戸内海海賊団

<本文から> この小説の少し前に、毛利元就が陶晴賢を厳島にさそい出して撃滅した時のことだ。陶も元就もともに海賊衆に、
 「船三宮槻を貸したまわりたい」
 と申しこんだ。その際、陶の方は貸してもらいたいとだけであったが、元就の方は、
 「一日だけ貸してもらいたい」
 と言うのであった。
 海賊団の首領らは集まって、いずれに貸すべきかを相談した。当時は陶と毛利の勢力の差は大へんなものがある。陶が十なら、毛利は三くらいのものだ。競馬なら陶が本命だ。首領らの多くは、
 「陶に貸してしかるべし」
 と主張したところ、来島党の首領通泰は、
 「おぬしらの見るところ暗い。毛利がええ。一日だけ貸してくれ≠ニいうことばには最も思い切ったる覚悟がうかがわれる。わしは毛利に貸すことを主張する」
 と言った。
 「なるほど。来島はええところを見た。元就の言いぐさには男の意気ごみがあるのう」
 と人々も同意して、元就に貸すことにしたという話がある。また、この小説で山中鹿介が尼子家再興のために、大友家と結んで毛利氏にたいする挟撃態勢をこしらえたことはずっと書いて来た通りだが、鹿介は瀬戸内海海賊団にも働きかけているのだ。成功はしなかったが。
 これらのことをもっても、この海賊団が内海周辺の諸大名の問にキャスチングボートをとって、いかに恐れはばかられていたかがよくわかるであろう。
 厳島合戦の時、瀬戸内海海賊団が毛利氏に味方したことを前に述べたが、その時からこめ連中は毛利氏と深い関係が出来た。
 毛利氏の勢いが朝日ののぼるように盛んになり、かつての大内氏のような強大さになる形勢であったため、これと結んでいることが利益であったためであるが、この頃までは必要に応じて味方するというだけで、服属というのではなかった。
 彼らは毛利からの頼みで、九州撤退を手伝った後、一旦、それぞれの根拠地に引上げたが、大内勢と豊後勢とが山口を放棄して防府や秋穂に落ちて来たと聞くと、また出動して来た。知らせのとどくのが遅かったので、彼らが防府の海に到着した時には大内輝弘はすでに戦死して、その兵は四散しており、秋穂の海には豊後の船団が来て、引上げて来る兵を収容しつつあった。
 豊後船は堅牢である上に優秀な武器をもって装備されており、大船団だ。うっかりしかけては手ひどく反撃される。すべて抵抗の多いところには攻撃を避けるのが戦術の定法だ。とりわけ、海賊船はそうだ。犠牲少なくして獲物を多く得たいのである。しようがいなのだ。損ときまったしょうばいをする者はいない。
 彼らは防府の東南方二里の中ノ関に集結して、時々偵察の舟を出して、豊後船の様子をうかがっていたが、次第に船が退去して、ただ一隻だけがいつまでも千石岩の陰に碇泊して動かないでいるのを知って、襲撃の計画を立てた。しかし、天気がくずれて来て、大雨になったので、しずまるのを待った。
 その雨がやんだ。潮も上々だ。
 「それ行こう」
 一発の銃声を合図に中ノ関を船出して、総舟数百余隻、親船の一隻だけが大きく、小さい舟ばかりだ。順風に帆をあげて西に向った。
 この船団は秋穂半島の東端に突出している赤石鼻まで来ると、一旦そこを曲ったところにある小湾に入って、陣列を組みなおして、攻撃体形をととのえた。
■海賊教徒
 「あなた様は、阿波の屋形細川持隆公の北の方として大内家から輿入れ遊ばされた姫君のことをごぞんじでございましょうか」
 「話には聞いている。義隆公のご実妹であろう」
 遠い昔の記憶だが、思い出して答えた。もちろん、松寿丸は直接知ってはいない。昔語りとして母から聞いたことだ。
 「さようでございます。姫君がお輿入れなされて二年立つか立たぬに、阿波の屋形は逆臣三好実休に暗殺され給いました。その時、姫君はご妊娠中でありましたが、阿波を去って当国へお帰りになりました。しかし、お帰りになるべきご実家は、この前年に陶の逆乱によってほろびています。せん方なく、お供の者共が拙者の父を頼ってこの島にお供してまいり、しばらくお過ごしでありました。しかし、間もなくご一族で大内家の旧臣であります内藤家が、陶とまあ折れ合っていなさるので、島を出て内藤家にまいられ、そこで身二つになられました。お生まれになったのは姫君でございました」
 「…………」
 「ご承知でもございましょうが、内藤様はフランシス・ザビエル師によって福音にふれ、最初に山口でバプテズマ(洗礼)を受けられた方でございます。その感化で、阿波ご前も、生まれ給うた姫君
 も、バプテズマをお受けなされました。−アーメン」
 兵衛は敬虞なおももちで十字を切る。松寿丸もならった。
 兵衛の話で、松寿丸は先っきの洞窟の中の修道尼はその阿波の屋形持隆の遣れがたみである姫君にちがいないと思った。高雅で優腕な姿は高貴な血のためであるとも思った。
 兵衛の話はつづく。
 「やがて、大内家には大友家から宗麟殿のご実弟義長様がご養子という名目でまいられました。義長様のご実母は阿波ご前の姉君にあたらせられますから、阿波ご前にとっては義長様はまさしき甥ごにあたられるのでありますが、承知の通り、上つ方は肉親の愛情の薄いものでありまして、まことによそよそしくあられました。義長様の方では内藤家にそんな叔母ご様がおいでであることもご存じではなかったのではないかと、拙者は今に至るまで考えています」
 兵衛の言う通りだ。貴族の社会では父子同胞の間でも愛情の薄いことを、松寿丸は知っている。おたがいがじかに触れ合うことが少なく、侍役だの、乳母だの、側つきの家来だのが多数介在するからのことだ。この点では、家の非運のために母の愛情にじかに抱かれて育った自分であることを、松寿丸は幸福であったとさえ思っている。
 「ともあれ、阿波ご前はご実家からはほとんどお世話も受けられることなく、内藤殿のご庇護のもとに、内藤殿のお導きで入信されたみ教えのご信仰と、姫君のご生長だけを力にして、数年をお過ごしでありましたが、厳島合戦の翌年、かりそめのご病気が次第に重りなされて、はかないことになられました。陶は逆臣ではありますが、これの健かでいるかぎり、形だけなりとも大内家は立っていることが出来ますが、その陶がほろんだ以上、もはや大内家の滅亡は遠からぬことと、なげき思し召されたのが、お気の弱りになって、このようなことになったのであろうとご推察申すのでございます」
 さもあろうと、松寿丸もうなずいた。美しく高雅な女性が、病みおとろえて、透きとおる白い枯木のようになった手で、十字架をいただきながら呼吸を引取る情景が、まざまざと思い浮かんだ。
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