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          正亀賢司-西郷隆盛と西南戦争を歩く

■西郷の決起は火薬庫襲撃が先で西郷暗殺計画があと

<本文から>
  では、なぜ西郷は決起したのか。
 明けて明治十(一八七七)年一月、ついに鹿児島士族が暴発する。私学校党が、陸軍の草牟田火薬庫を襲撃したのだった。発端は、政府がこの火薬庫から秘密裏に火薬を運び出そうとしたことだった。酒を飲んでいた私学校党の面々がこれを知って激怒し、日頃の不満も重なってか、火薬庫を襲撃し、小銃や弾薬を奪ったのだった。なお、弾薬を運び出すにあたっては事前に県庁に通報する取り決めがあった。にもかかわらず通報しなかったのは、政府が鹿児島士族を暴発させるための挑発だったとの説もあるが、確定する証拠はない。
 狩猟中だった西郷のもとに末弟の小兵衛が襲撃事件のことを告げに行くと、西郷はこう言ったという。
 「しもた」
 火薬庫襲撃と同じ時期、政府密偵による西郷暗殺計画″が動いていたとされる。鹿児島出身の警視庁警察官を鹿児島に派遣して、西郷や私学校党の動向を探らせ、いざというときは西郷を刺殺するというものだ。
 この計画を実行するために密偵を放ったのが、薩摩藩出身の川路利良大警視(後の警視総監)だ。川路は身分が低い士分だったが、禁門の変や戊辰戦争で戦功を挙げ、西郷によって出世を遂げたとされている。川路については後に詳述する。
 西郷に恩がある川路の仕業と知った鹿児島士族は、当然ながら烈火のごとく激怒した。さらに、川路を背後から動かしているのは西郷の永遠の盟友、大久保利通だということになり、私学校党の怒りは最高潮に達した。
 ただ、ここで注意しなければならない点がいくつかある。
 一つは西郷暗殺計画″は、私学校党による拷問の末の密偵の自白に依っており、この密偵となった警察官は後に、供述書はねつ造だと告発している点だ。
 もう一つは、草牟田火薬庫の襲撃は一月二十九日で、政府密偵の逮捕は二月三日から七日にかけてという出来事の順だ。つまり、火薬庫襲撃で後戻りができなくなってしまった私学校党が、密偵に無理やり「西郷を刺殺」を白状させ、西郷が起たざるをえない状況に追い込んだ可能性があるということだ。 
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■なぜ熊本城を攻撃したのか?

<本文から>
 一方の薩摩軍は、熊本南部の人吉や水俣から川尻(現・熊本市両区)に入り、軍議を開く。尋問のための率兵上京なのだから、熊本城を無視して突き進めばいいはずだが、なぜかここで熊本城攻撃が決まってしまう。これも篠原の主張が通ったとされるが、熊本城を攻撃した理由は二つ考えられる。
 一つは、前年に起きた神風連の乱で熊本鎮台はその拠点となり、熊本城が一度は占拠されていたためだ。熊本鎮台司令長官は谷干城だったが、桐野が司令長官を務めていた時期もあり、農民兵の実力を低くみていたことも想像に難くない。桐野が「熊本城は青竹一本で落とせる」と豪語したことば、そのあらわれであろう。
 もう一つは軍議が開かれる前日、鎮台の偵察隊が薩摩軍めがけて発砲してきたことだ。様子をうかがう程度の偵察ではなく、攻撃の意図もある威力偵察だった可能性があり、これで喧嘩を売られて火がついたと考えられる。
 このとき西郷は陸軍大将の軍服を着て行軍していた。このこと自体が、「自分が起てば全国の不平士族はともに起つ」と西郷が考えていた証拠であると考えられる。さらに鹿児島県令の大山綱良は熊本鎮台に対し、「薩摩軍が熊本城に行くから出迎えるように」という居丈高な通達を出していた。西郷もこの通達にはさすがに激怒して取り消しを指示したようだが、西郷に出迎えを期待する気持ちが全くなかったとも言い切れないだろう。
 そして二月二十二日から薩摩軍による熊本城総攻撃が始まった。だが、大砲が届かないこともあり、「青竹一本で落とせる」はずが攻め落とすことができない。戦国時代の名将、加藤清正が築城した熊本城に天下の名城との評価が確立したのは、西南戦争によってとしてもいいだろう。
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■西郷家と大久保家が姻戚関係に

<本文から>
 不仲説はデマだとわかったが、真に恩讐を乗り越えることはできるのか−−。
 南洲墓地での恩讐を越えての式典で、西郷家を代表して挨拶したのは直系の吉太郎氏だった。
 式典終了後、吉大郎氏と大久保利泰氏の二人に感想をうかがった。もちろん二人並んでのインタビューだったが、「やっぱり許せない」などとなったらどうしようと少し気をもんでいた。
 西郷家と大久保家でこの百四十年間、わだかまりがあったのかと尋ねたところ、こんな答えが返ってきた。
 「じつは利通の妹の孫が西郷隆盛の孫と結婚している。だから親戚なんですよ」
 私は驚いた。利通の妹・スマの孫の太郎(山田家)と、隆盛の次男・午次郎の子の芳子が結ばれたというのだった。直系同士の結婚ではなかったが、西郷家と大久保家は、わだかまりどころか親戚になっていたのである。
 利春氏によると、近年では西郷家と大久保家のそれぞれの集まりに、双方が招かれることがあるという。
 敵対どころか、親しい交流が続いている。現在の西郷家と大久保家は、西南戦争以前の隆盛と利通がそうであったように、盟友関係を結んでいるのかもしれない。
 吉太郎氏はこの日の供養塔建立の式典の意義について、「何年経過すれば敵対関係が和らぐかはわからないが、今日の式典を機会に本当に敵味方なく仲良く日本の平和のために頑張っていくということが大事だ」と強調していた。
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■恩讐を越えた島津家、西郷家、大久保家

<本文から>
 さらに両家をつなぐエピソードが出てきた。またしても西郷隆盛の次男の午次郎の家系だが、午次郎の孫、つまり西郷の曾孫の伊津子氏が昭和四十二(一九六七)年、島津家現当主の修久氏と結婚している。西郷を嫌いに嫌ったことで有名な久光の子孫が西郷家から妻を迎えたことに驚きが広がったという。そして、結婚式の仲人を務めたのが利春氏の父、大久保利謙だった。この結婚は当時、話題を集めたという。
 利春氏は『翔ぶが如く』がNHK大河ドラマで放送された平成二(一九九〇)年に、ドラマと並行して開催された「『翔ぶが如く』展」でのエピソードを紹介してくれた。
 鹿児島会場のテープカットには西郷、大久保、島津の三家がそろって出席し、利春氏が大久保家代表だった。三家を代表して西郷の孫で元参議院議員の吉之助氏が「島津家ご当主の島津修久氏の奥様は西郷家の出で、仲人してくださったのが大久保利春氏の父上の利謙氏でした。世間ではいろいろ言われておりますが、今ではみな仲良くしておりますので、皆様どうぞご安心下さい」と挨拶したという。会場に集まった人たちは一瞬驚いたようだったが、やがて和やかな笑いがあふれたとのことだった。
 また、『薩摩のキセキ』(総合法令出版)という本も出版されているが、これは利春氏をはじめとした西郷、大久保、島津の子孫たちの共著となっている。
 ここまで紹介してわかるとおり、西郷家と大久保家(島津家を含めてもいい)は、はるか昔にすでに恩讐を越えていたのだった。わだかまりがいまだに残っていると邪推していたのは当事者以外の人たちで、大久保家と西郷家は西南戦争の悲劇を乗り越えてその先に進んでいたのだった。
 西郷と戦争になったことについても、大久保が挑発したからだとされることがあるが、利春氏は「利通は戦争を望んでいなかった。薩摩が蜂起したと知っても、西郷が加わっているとは信じようとせず、西郷が入ってしまったことを知ると決別の涙を流した」と二人の絆の探さを強調していた。
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■熊本城攻撃に理由

<本文から>
 「拙者はこれから政府に尋問することがあるため陸軍少将の桐野利秋、篠原国幹や旧陸軍のものたちを引き連れて上京するが、熊本を我々が通過する際は鎮台の兵隊たちを整列させて出迎えるように」といった趣旨の通知を鎮台側に通達していた。この通知は二月十九日に届けられたとされるが、すでに政府は薩摩軍征討令を出しており、そもそも谷を始めとした鎮台側がこのような通知を受け入れるわけがない。じつは西郷はこうした高圧的な文面が出されたことを後になって知り、激怒した。そして、撤回するように大山に求めたが、間に合わなかったという。
 桐野が熊本城を「青竹一本で落とせる」と豪語したことは先に紹介したが、西郷が熊本の川尻に入った二月二十一日の深夜に軍議が開かれた際、薩摩軍の自信は満々だったものの、戦略がない様子が浮き彫りになっている。
 熊本士族が中心となって結成した熊本隊の池辺吉十郎が戦略を尋ねたところ、桐野の従弟で六番・七番連合大隊長の別府晋介が「別に方略の定まるものなし。鎮台若し我行路を遮らば、只一蹴して過んのみ」(佐々友房『戦鞄日記』)と桐野と似たような豪語を飛ばし、池辺をあきれさせている。別府は要するに、とくに戦略はなく、敵が攻めてきたら蹴散らせばいいだけだという精神論めいた話をしただけだった。
 いずれにしても、薩摩軍側は熊本鎮台、さらには政府軍をなめきっていたのだろう。熊本鎮台は先に触れたように、神風連の乱で、敬神党に熊本城侵入を許していたという事実もあった。こうした背景から薩摩軍は熊本城攻めを安易に決定してしまったのかもしれない。
 じつは二月二十日の深夜、鎮台が薩軍に奇襲をかけようとしたが、怖くなった鎮台兵士があわてて発砲して成功しなかったとの記録がある。これまでは鎮台側の偵察だったとされてきたが、近年では威力偵察とされるほど鏡台側も攻撃を仕掛ける気が満々だったことが明らかになりつつあるという。
 なめてかかっていた熊本鎮台に喧嘩を売られた天下無敵の薩摩士族はこの一件で激高する。彼らにとって選択はただ一つ、熊本城を攻め落とすことだった。
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■西郷の末弟の戦死

<本文から>
 この高瀬大会戦で、西郷の末弟で一番大隊一番小隊長、西郷小兵衛が死んだ。満年齢で三十歳だったとされる。風貌や体格、寡黙でものに動じない落ち着いた性格も西郷に似ていたと、熊本隊の佐々友房はその日記に記している。
 ただ外見が西郷に似ているだけでなく、物事の本質を見ることに長けていて、兵略にも優れた素質を持っていた点では、薩摩軍の中では知将・野村忍介と双壁であったとされる。
 人柄も良く、指揮官としては我が身をかばうことなく兵の先頭に立って進んだため、どの兵士からも愛されていたという。
 小兵衛は村田の指示を受けて、菊池川の渡河に成功する。ところが、菊池川支流の繁根木川の堤防で指揮を執っていた小兵衛の左胸を銃弾が貫いた。一緒に戦っていた配下の貴島良蔵が撤退を進言した瞬間のことだったという。小兵衛は「兄どんに先に逝ってすまぬと伝えてくれ」と言い残して息を引き取ったという。
 佐々は、小兵衛の死を聞いた者で悲しまなかったものはいないと記している。それほどまでに小兵衛は誰からも頼りにされ、愛された薩摩隼人だったのだ。
 小兵衛が銃弾に倒れた堤防の土手には、小兵衛を偲ぶ碑が建てられている。戦死の地と書かれた説明板には、銃弾に倒れた小兵衛を担ぎ出すために橋本鶴松家から雨戸一枚をもらい受け、戦後に小兵衛の夫人の松子から寄せられた丁寧な礼状は六通にも及んだと書かれている。小兵衛、さらにはその夫人の人柄の良さをうかがわせるものだ。
 形勢が逆転したことから西南戦争の関ケ原の戦いと称される高瀬大会戦。しかし、この戦いによって、政府軍がすぐに勝利に突き進んだわけではなかった。三月四日からは田原坂の激闘が始まったのだ。
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■西郷の「情勢判断の甘さ」や「軍略家能力への疑問」

<本文から>
 大山は三月九日に勅使が鹿児島に来たことを西郷に手紙で知らせている。これに対して西郷は三月十二日付で返信を書いているが、すでに大山は拘束されており、受け取ることはできなかった。
 西郷はこの返信で、勅使が鹿児島に来たことを承知したとした上で、「敵方は策も尽真果てて調和(和睦)の論に落ち着いたのでしょうか」と書いている。勅使は和睦のためにやってきたと考えたのだ。さらに、敵が熊本城に龍城してしまっては、各県の政府に対する不満分子も我々に続いて蜂起するだろうと予測し、「すでに戦いの峠は過ぎて、六、十分の所まで来た」と勝利は目前とばかりに述べている。だからこそ、政府の和睦交渉は我々を油断させて策をめぐらすものだとして、決して騙されてはいけないとしている。
 西郷がこれを書いた三月十二日時点で、熊本城龍城戦はこう着状態で、田原坂方面での激闘が続いていた。西郷が愛した一番大隊長の篠原国幹、末弟の小兵衛はすでに亡く、自軍の死傷者が増えているため鹿児島に戻っての募兵も協議されており(実際に三月二十日頃に別府晋介らが鹿児島に戻っている)、薩摩軍側が優勢でないことが明らかになっている時期だ。何よりも西郷がないと見ていた熊本鎮台の抵抗は、あっさり予想を裏切った。
 西郷の「情勢判断の甘さ」や「軍略家能力への疑問」があらためて浮かび上がるが、この返信には以下の内容が続く。
 「最初より我等においては勝負を以て論じ候訳にてはこれなく、元々一つ条理に集れ候見込の事に付き、能々其の辺は御汲み取り下さるべく候様、偏へに企望致し候也」
 条理のために戦っているだけで勝敗は関係ないとしているところを見ると、西郷も自軍の苦境をよく認識していたのではないだろうか。かといって、総大将の西郷自身が敗北の予感を口にしてしまっては、必死に戦っている兵士らの士気を低下させてしまう。情勢の認識不足もあったかもしれないが、西郷の苦しい胸の内を考えさせられる。
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