|
<本文から>
では、なぜ西郷は決起したのか。
明けて明治十(一八七七)年一月、ついに鹿児島士族が暴発する。私学校党が、陸軍の草牟田火薬庫を襲撃したのだった。発端は、政府がこの火薬庫から秘密裏に火薬を運び出そうとしたことだった。酒を飲んでいた私学校党の面々がこれを知って激怒し、日頃の不満も重なってか、火薬庫を襲撃し、小銃や弾薬を奪ったのだった。なお、弾薬を運び出すにあたっては事前に県庁に通報する取り決めがあった。にもかかわらず通報しなかったのは、政府が鹿児島士族を暴発させるための挑発だったとの説もあるが、確定する証拠はない。
狩猟中だった西郷のもとに末弟の小兵衛が襲撃事件のことを告げに行くと、西郷はこう言ったという。
「しもた」
火薬庫襲撃と同じ時期、政府密偵による西郷暗殺計画″が動いていたとされる。鹿児島出身の警視庁警察官を鹿児島に派遣して、西郷や私学校党の動向を探らせ、いざというときは西郷を刺殺するというものだ。
この計画を実行するために密偵を放ったのが、薩摩藩出身の川路利良大警視(後の警視総監)だ。川路は身分が低い士分だったが、禁門の変や戊辰戦争で戦功を挙げ、西郷によって出世を遂げたとされている。川路については後に詳述する。
西郷に恩がある川路の仕業と知った鹿児島士族は、当然ながら烈火のごとく激怒した。さらに、川路を背後から動かしているのは西郷の永遠の盟友、大久保利通だということになり、私学校党の怒りは最高潮に達した。
ただ、ここで注意しなければならない点がいくつかある。
一つは西郷暗殺計画″は、私学校党による拷問の末の密偵の自白に依っており、この密偵となった警察官は後に、供述書はねつ造だと告発している点だ。
もう一つは、草牟田火薬庫の襲撃は一月二十九日で、政府密偵の逮捕は二月三日から七日にかけてという出来事の順だ。つまり、火薬庫襲撃で後戻りができなくなってしまった私学校党が、密偵に無理やり「西郷を刺殺」を白状させ、西郷が起たざるをえない状況に追い込んだ可能性があるということだ。 |
|