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          猪飼隆明-西郷隆盛 西南戦争への道

■島津斉彬にとりたてられる

<本文から>
 西郷は一八二七(文政一〇)年、御小姓与の家柄に生まれた。父吉兵衛は勘定方小頭、ありていにいえば貧乏で子だくさんの下級士族に属していた。隆盛自身が一八歳ではじめてついた役職は、四石取りの郡方書役助であった。農政担当の役人で、助とはいわば見習いである。一〇年後、島津斉彬はその西郷を庭方役にとりたてる。しかも西郷一人を部屋に入れて親しく意見をきき、密事をすら命ずることのできる地位にしたのであった。西郷がのちに師と仰ぐ藤田東湖や親友となった橋本左内との出会いをつくったり、西郷をして国事に奔走させるきっかけをつくるなど、西郷の活動の場はすべてこの斉彬との関係によって開かれたのであった。少なくとも西郷は、そう信じて疑わなかった。その斉彬の信頼に応えなければならない、応えたいとの思い、すなわち斉彬への忠誠と敬慕は生涯を通じて衰えることはなかった。
 斉彬は五八(安政五)年七月、急死した。追って死のうとまで考えていた西郷に奮起をうながしたのは勤王僧月照である。だが西郷は、この月照を安政の大弾圧からのがれさせようとして果たせず、同年二月、ともに錦江湾に身を投げた。このとき西郷には、斉彬とともにすでに死んだ身であるとの思いがあったにちがいない。はからずも蘇生して、大島に流されること三年、帰藩した西郷は内心では嫌悪する久光のもとで藩論の実行に奔走するが、今度は蔑言によって落し入れられるのである。尊攘激派と内通し、その活動を煽っているという蔑言の主は、皮肉にも戊辰の征討戦争における東海道先鋒総督参謀海江田信義(当時、有村俊斎)らであった。久光は激怒して、西郷を徳之島ついで沖永良部島へ流す。西郷は斉彬に報いんとして、かえって賊臣の汚名を着せられたのであるが、これがいっそう斉彬への忠誠の念を強固にした。
 そして六四(元治元)年、赦免されて上京した西郷は、幕末動乱の主役となったのであった。だが、西郷の心底には、国事に奔走するのは斉彬の遺志であり、その恩に報いることであって、薩摩藩を支配したり、従えたりする地位につくことでは全くないし、そうした地位につくことは斉彬の遺志を損うものだ、との思いが強くあったと考えてまちがいあるまい。まして蔑言によったとはいえ、一度賊臣となった身であればなおさらである。
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■藩政改革は場当り的対応

<本文から>
 士・軽卒の地位や生活は一向に改善されなかったり、一般民衆は膨大な常備兵を支えるためによりいっそう厳しい支配・収奪をうけたり、版籍奉還以降に諸藩が行なった改革とは顕著に異なっていた。井上清はこれを「下級士族独裁の西郷王国」と表現する(『西郷隆盛』下)。井上はさらに、この藩政改革に西郷の国家構想の原型を読みとっているが、わたしはそうはいえないと思う。藩主忠義が西郷に期待したものは、戊辰戦争から凱旋した下級士族層の傍若無人の振るまい、跳梁抜底について対策を講じることであったが、先の改革は、それに対する場当り的対応にすぎないものがめだつ。下級士族対策を含めた根本的な改革構想を創りえなかった、また創りうるチームを形成しえなかったことの結果ではないか。いわば彼の行政官あるいは政治家としての無能を示したにすぎない。この改革は藩政総体の改革構想、すなわち政治・制度機構・経済・文化あるいは民衆生活、さらには大島や琉球などまでを一つの論理で貫徹させた改革イメージにもとづくものとは、とても思われない。
 したがって、中央政府に対抗的にこの改革を行なったといえるほどのものではないと考えてよいだろう。西郷が中央政府を批判的に見はじめるのは六九(明治二)年の暮ごろからではないか。
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■政府を去る

<本文から>
 西郷は、岩倉との激論で、もはや使節派遣の実現されないことを悟っていた。勅裁を待たずに二三日、「胸痛の煩いこれあり、とても奉職罷り在り侯儀相叶わず」として、参議および兼任官職の辞職、位記〔西郷は「平隆盛」の名で、正三位に叙せられていた〕返上を願い出ていた。太政官大外史にあてた添え書きには「再勤のつもり決してござなく」と書かれており、西郷は政府を完全に見限ったのである。このとき西郷は、近衛都督であり、陸軍大将であった。一八七二(明治五)年七月に、鹿児島出身の近衛兵が近衛都督であった山県有朋の兵制改革に反対して反乱寸前にまで至ったあと、ただ一人の陸軍元帥となり、山県にかわって近衛都督も兼任していたが、翌七三(明治六)年五月、陸海軍武官官等表の改正によって陸軍元帥が廃止され、あらためて陸軍大将に任じられていたのである。西郷の辞職願いに対して、政府は大久保の意見により陸軍大将のみを残して免職させることにし、二四日付で受理された。
 西郷下野の影響は大きかった。この日、西郷側近の武官、桐野利秋も辞表を提出、翌日には板垣・副島・江藤・後藤の四参議も官を辞した。そして大久保が「左様の事はこれ有るまじく」と思いながら、念のため黒田に説得を依捺していた陸軍少将篠原国幹をふくめ、二九日までに早くも四六人が辞表を提出したという(『西郷隆盛全集』解説)。そして辞表提出者があいついだ。
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■西郷は「有司専制」が打破されて天皇親政が実現を期待した

<本文から>
 そして、西郷は自らの死後、事態がいかに進行すると期待していたのか。下野後も西郷はこの問題について沈黙したままであったから、以下はわたしの憶測の範囲を出ない。
 「使を発するの日、すなわち戦を決するの日」とは岩倉の言だが、使節派遣そのものが、日本の政府と国民に決断と緊張を要求するものであった。政府と国民は勅使西郷の死地に向かう決意をたたえ、その行く末を注視するだろう。そして死。いまこそ起つときである。朝鮮の罪を鳴らして出兵する。この過程において、一挙に日本にナショナリズムが高揚するであろう−西郷はそう考えた。
 ここまでは十分予想できることであり、西郷使節が実現すればこういう状況が現出したに違いない。さらに西郷は、天皇を核にナショナリズムが収赦する、それによって天皇の地位は名実ともに高まり、「有司専制」が打破されて天皇親政が実現する、そう期待したのではなかっただろうか。
 では西郷の考えた天皇親政とは、一体、どんな形態のものだったか。打倒対象は明確でも、新たに樹立する体制は漠然たるものだったと思う。西郷は一方で立憲制に理解を示していたことが確かめられるから、一定の立憲的形態を許容した天皇専制というものだったのではないだろうか。おそらく西郷も詰めきれておらず、また詰めきる意思もなかったのかもしれない。死後の政治過程については、もっとあいまいなものだったと思う。実現の手段や過程は不明確でも、何より行動に決起すること、そのことによって転機をもたらすこと、これこそが重要であると考えたのではなかったか。
 さきに、「西郷の死後、指導者がいないではないか」と原口清が井上清を批判したことにふれたが、井上はこれにこたえて、たとえ西郷自身がその新政を指導できなくても、「征韓の大戦争」が政治の転機となることを期待したのだと述べている(『西郷隆盛』下)。わたしは西郷の望んだものは、「有司専制」を克服し、立憲的形態を許容しながらも、限りなく天皇専制に近い国家形態と考えるから(終章参照)、期待する政治のあり方の理解が井上と違うが、西郷の行動の意味についてはまったく同感である。
 わたしのこの推測は、のちに大隈が板垣らを次のように評したように、征韓派参議たちの思惑を考えるならば、十分ありうることだったと思う。
 大隈重信は次のように観測した。「彼らは「征韓論」いな実に「征韓」てふ一大事変をかりて、各々その隠密的意志を行はんと欲せしのみ」と述べて、江藤や後藤は、「事を外に構へて、もって薩長の権力を打破し、藩閥的政府をもつて国民的政府と為さん」と欲していたのであり、板垣は「権力の偏在を憤慨してこれを矯正せん」としたのだというのである(『大隈伯昔日渾』)。
 ここに薩長藩閥政府といわれるものは、むしろ内閣制あるいは明治憲法体制成立以後の官僚供給システムを基礎とした権力の実態であって、それを佐賀藩出身の大隈が、それ以前の時期一に投影して表現したものであって、この期の権力の本質は、繚々述べてきたように有司専制と呼ぶのが正確である。とすれば、板垣の「権力の偏在」も、結局は同じものを指しているといってよいだろう。ともあれ、この有司専制のあとに江藤や後藤は国民国家を実現したいと思っていたのだと大隈はいうのである。板垣については、その目標について大隈はふれていないが、前二者とそれほど隔たっているとは思えない。
 彼らの場合も、西郷同様、その目的とする国家形態の実現へのプロセスを、征韓挙兵以後どこまで具体的に描きえていたのかといえは、あいまいなものに違いない。またはたして、江藤や後藤らが有司専制打破の方法として、征韓論しかないと考えていたかどうかは別に検討しなければならないだろう。
 しかし、自ら権力の中にいながら、権力の行使を実感できないもどかしさとはがゆさ、そのもどかしさとはがゆさの原因を「有司専制」に求めながら、かれらが天皇を掌中におさめているがゆえに、直接彼らに向けられない刃を朝鮮に向けようとしたのである。そして、それに代わる新たな国家をそれぞれに思い描き、「征韓」がその国家の実現につながることを期待したのであった。そしてここには、「征韓」を手段化するという、日本近代の重大な問題が季まれていたのである(それぞれの国家構想の内容については、終章でふれる)。
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