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          林真理子-西郷どん・下

■二度目の遠島、絶望から生きることを決意

<本文から>
  一緒に罪を負った村田新人は鬼界島に流されたが、森山新蔵は船の中で自害したという。
 亡くなった者はそれだけではない。徳之島に護送された時、吉之助は伏見の寺田屋での騒動を知った。久光は有馬新七ら精息組の過激派を襲わせたのだ。彼らは久光上洛を機に、京都所司代や幕府に味方する公卿を暗殺しようとしていたのだという。討手となった同じ薩摩藩士の手によって六人が死に、三人が腹を切った。捕らわれた中には、吉之助の弟の信吾(竜助)や、従弟の大山弥助(巌)らが入っていた。
 「説得に応じなかった」
 というのであるが、昔之助は久光の冷酷さに強い不信と憤りがわく。同じ藩の者同士に殺し合いをさせるというのは、いったいどのような考えであろう。自分の思いどおりにならない者に対して、とことん憎しみを抱くという性向は、いずれ自分に向けられるのだ。
 その日は暴風雨となり、叩きつけるような豪雨が吉之助の頼をうった。まるでぶたれているような痛さだ。一枚きりの獄衣はずぶ濡れになった。この何日か下痢が続いていて、衰弱しきった吉之助の体はふらふらと左右に揺れる。
 「おいはこんまま死んでしもとではなかか」
 それでもよいと思った。実はこの何日か、椀にわずかに盛られる飯にも手をつけていない。
 久光の憎悪が、このさいはての島にまで届いていることはわかっている。このまま弱って死ぬのを待っているのだ。もしかすると切腹を申しつけられるかもしれない。腹を切る時は中から臓物が溢れ出す。それに飯粒が入っていたらみっともないと吉之助は考えた。
  雨は冷たい。痛い。無になろうとしていても、肉体のつらさははっきりと感じる。その時吉之助は、この世でいちばんやわらかく甘やかなものを思い出した。生まれたての赤ん坊の手である。菊草は何もわからぬまま、父の顔を見つめ手を差し出す。それをとり吉之助は自分の頻に押しつけ、よしよしと領いた。
 「可愛いのう、本当にお前は可愛いのう……」
 その時、強い力が吉之助を揺り動かした。
 「おいは死にたくなか!」
 死にたくない。死にたくないのだ。何度でも言う。死にたくはないのだと。
 今までいつも死を覚悟して生きてきた。生きたいと願うことは、女々しく卑しいことだと信じていた。しかし生きたいと願うことはなんと自然なことか。愛する者がいて愛されていたら、この世にいたいというのはあたり前のことではなかろうか。
 ようやくわかった。国とは生きたいと思う者の集まりなのだ。それをすべて肯定することから政治というものは始まるのだ。
「おいも生きっ。生きて、生きたいと思う者たちのために働くつとじや」
 思えば自分がいまここに生きているのも、すべて不思議な線からだ。斉彬が亡くなつた時、自分は死のうと決めた。それを救ってくれたのが月照上人であった。彼はすべてを見透かして「自分を抱いてくれ」と言ったのだ。そして進退窮まり、二人で海に飛び込んだ時も、月照は死に自分は助かった。船に乗っていた者たちが、ひと晩中必死に体を温めてくれたのだ。
 奄美大島に流され、自暴自棄になっていた時に愛加那が現れた。美しく賢い女であった。愛加那は自分に二人の子どもを授けてくれ、そして今生きる活力を与えてくれたのだ。
 「誰かがおいに命じちょっ」
 生きろと。それが誰かはわかっている。
 吉之助は天を仰いだ。目つぶしをくらわすように雨が降ってくる。が、それさえも誰かの意志のようだ。
 「天がおいに生きろと言っちょっ」
 自分で死のうと思うのは、なんと倣慢なことであったか。生死はすべて天が決めている。今、自分が激しく生きたいと思ったのも、すべて天の命じたことなのだ。
 そしてその天の下にいる看たち。愛加那、菊次郎、菊芋、薩摩の弟妹たち、奄美大島、徳之島の島民たち、同じ藩の凶刃に倒れた若者たち……。ああ、なんといとおしいのだろうかと吉之助はつぶやく。このいとおしさの前では、すべての人間が同じ価値を持つ。天はこのことを自分に教えるために、この狭い過酷な牢獄へと自分を導いたのだ……。
 「わかりもした」
 吉之助は叫んだ。
 「おいは生きる。そしてすべての人を大切にすっとじゃ」
  嵐はさらに強くなり、強風のためついに吉之助は倒れた。遠くなっていく意識の中で、吉之助はひたひたと近づいてくる足音を聞いた。
 「間切横目をつとめている土持政照です。西郷先生、どうかお立ちください。このようにひどい嵐でございます。別の場所にお移りいただきたく思います」
 手を貸そうとしたのを吉之助は断った。
 「嵐はすぐに去っじゃろう。おいは罪人ゆえにこん牢から出ることは許されん」
 「いえ、それでは困るのです。この嵐で牢はところどころ破損しております。修繕いたしたく、お移りいただきたいのです」
 もう二人男が待っていた。一ケ月半の間、二坪の牢に座っていた吉之助の足は萎えて、両脇からささえられなくては歩くことが出来なかったのだ。
 歩いてしばらく行ったところに土持の屋敷があった。母屋とつながったところに、新築とひと目でわかる一角があった。申しわけばかりに格子の戸が入っている。
 「急がせておりましたが、ようやく工事が終わりました。今日からはどうかここでお過ごしください」
 「土持さあ、そいはいかん。そいは藩命に反するというもんじゃ」
 そう抗ったものの、吉之助は部屋に通されるとへなへなと座り込んでしまった。
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■勝海舟から薩長の会盟の提案

<本文から>
 二人は見つめ合った。目の相撲をしているようであった。吉之助の大きな目玉はぴくりとも動かない。声だけが出た。
 「ご会盟でごわすな」
 「そうですよ」
 「幕府はもうあてにならぬ、と安房守さまはおっしゃっとですね。そしていつかご会盟の中に長州も入れろと」
 「そうです」
 「そいではきっと」
  吉之助は言った。
 「きっとご会盟をつくつてごらんにいれもす」
 その夜しばらく吉之助は寝つけなかった。今は亡き斉彬と同じことを考えている人がいた−そしてその人は斉彬があれほど憧れ、欲していた軍艦を操ることが出来るのである。
 吉之助は興奮のあまりついに起き上がった。そして墨をすり、大久保あてに手紙をしたためる。
 「勝氏へ初めて面会仕候処、実に驚入侯人物にて……」
 勝氏に初めて会ったところ、実に驚くべき人物でした。最初はやりこめるつもりでしたが、すぐに頭を下げました。どれだけ智略があるやらわからぬ人に見えました。英雄肌の人で、佐久間象山よりずっと人間の出来のいい人です。
 あれから長州のことがずっと頭から離れない。長州はあの蛤御門での戦いの後、下関であ めりか、えげれす、ふらんす、おらんだの連合艦隊と交戦したのである。もはやタガがはずれたとしか思えない。全部で十七隻の軍艦である。もちろん惨敗した。これでやっと長州は目が覚めたようだ。
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■天皇の崩御で変化

<本文から>
 天皇の死は悲しみよりも、安堵感をもって迎えられた。東宮であられる睦仁(祐宮)は英邁で知られている。しかしまだ十五歳の少年だ。権力を握った者が、彼を掌中に出来るのはあきらかであった。国中に活気が漲る。
 吉之助は若い将軍の死を悼むことは出来たが、天皇のことはそうでもなかった。これですべてのことがうまくいく、という思いの方が強かったのだ。そして吉之助はそんな自分を責める。涙一滴こぼさない自分は、なんと薄情で不敬かとそら恐ろしくなってくる。
 安政の地震で圧死した、藤田東湖の顔が浮かぶ。獣のように首を別ねられた、東湖の息子・小四郎、会ったことはないが吉田松陰、その門下の久坂玄瑞。天皇に恋い焦がれて死んでいった男たち。
 その時不意に、泣かない己を自由だと思った。吉之助の中で天皇は軛となっていなかったのだ。そして将軍からも自分は解き放たれていたのだ。慶喜のやろうとしていることは、とうに斉彬が目指した理想とかけ離れていたのではないか。ようやくわかった、自分はなんと自由なのだろうかと。だからもう戦うべき相手も、守るべきものもはっきりと見えている。
 吉之助は形だけの喪に服すことはやめ、京に向かった。何かが音をたてて崩れ始め、その傍らで何か大きなものが建設されようとしていた。
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■鳥羽伏見の開戦、錦の御旗

<本文から>
 しかし吉之助には、深く思い悩む余裕はない。けり″はあっという間につき、一月三日に薩摩の大砲がとどろいた。鳥羽伏見の戦いである。どちらが勝利するか、まずわからぬ。
 兵力でいえば徳川の方が数は多い。少し前、大久保から不思議なものを見せられた。真っ赤な錦に「天照皇大神」と菊の御紋が金糸で刺繍されている。あとふたつには、金銀でそれぞれ日月の紋章があった。
「錦の御旗じゃ。やっと出来上がった。これさえあれば百万の兵と同じじゃ」
 大久保は旗に向かって頭を垂れる。それは岩倉の発案により、長州山口の工房で秘密裏に製作したものだ。大久保の他に長州の品川弥二郎もこれに関わっている。おそらく岩倉が行く末を見据えて、薩長を協力させたに違いない。岩倉は国学者の玉松操と相談し、この図柄を決めたのだという。玉松は討幕の密勅や王政復古の官害を起草するほど、岩倉に信頼されている。
 「吉之助さあ、かたじけないことじゃ。こいこそ官軍である証じゃ。こいを掲げておれば、どげな奴らもひれ伏すじゃろう。刃向かう者はたちまち朝敵じゃ」
 大久保は感激のあまり目に涙を浮かべている。それに水を差すようであるが、吉之助は問わずにはいられない。
 「そいは畏れ多かことじやが、こいがどうして天朝の御旗とわかっとじや。大層威厳があって絡麗なもんではあるが、こいをひと目見て、本当に皆ひれ伏すじゃろか」
 「吉之助さあ、何を言っちょつとじや。さむらいたるもの、詠もが『太平記』を読んじょつ。後醍醐天皇がどげな旗をお持ちだつたか知っちょっじゃろ」
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■西郷が隠遁すると皆が鹿児島に向かった

<本文から>
  大久保卿に告げた時、父はむしろ晴れ晴れとした気分だったに違いありません。中央政界から身をひいて、故郷で隠遁生活をおくるというのが、父の願いだったからです。しかし本当の隠遁などが出来るわけがありません。村田新人をはじめ、桐野利秋、篠原国幹といった鹿児島出身の着たちが、なだれをうって官を辞し帰還したのです。みな軍人か新政府で高い地位を得た着たちです。
 私は何年か前、「ハーメルンの笛吹き男」という話を知りました。
 ドイツの街で、男が笛を吹くと、街中の子どもたちがついていき、もう二度と帰ってこなかったという内容の童話です。これを読んだ時、私は明治六年の父を思い出したのです。数百人の男たちが、まるで何かに魅入られたように父についていきました。
 陸軍中佐をしていたある男は、勤務していた陸軍省の官舎から、そのまま鹿児島へ向かったと言われています。妻子に別れを告げることもなく、布団も起きたそのままになっていたそうです。
 父は笛を吹いたのでしょうか。いいえ、そんなことはありませんでした。鹿児島に戻った父は、いち百姓として生きようとしました。畑を耕し、芋を掘り、そして時々はウサギ狩りに出かけました。大切な犬たちは、留守の看たちが育てていましたので、すぐ連れていくことが出来たのです。犬たちを連れて温泉にも入りました。
 父はとても器用なたちで、味噌を上手につくることが出来ました。うどんも自分でこねま す。養母の糸さんが好物のカボチャの煮付けなどをつくりますと、と手ばなしで誉めるので、まわりの者たちは驚いたと言います。薩摩の男、ましてや父のような立場の男が、人前で妻を誉める、などということは考えられなかったからです。
 私はといえば、父が鹿児島に戻った次の年にアメリカから帰ってきました。いったん身を 寄せたのは、叔父の従道のところです。
 叔父はちょうど台湾出兵の指揮をとるため、海の向こうに渡っていました。叔父は私の帰国を知っていたので、手紙をことづけてくれていました。そこには、
 「兄さあはきっともどってくると自分は信じている。そのために家と土地を買う予定だ。だからお前も鹿児島に帰ることはない。苦労してアメリカで学んできたのだ。これからどんな出世もかなうだろう。だから東京にとどまっていなさい」
 しかし十四歳の私は、迷うことなく鹿児島をめざしました。もしかすると私も、聞こえてこないはずの笛の音を聞いた一人だったのかもしれません。東京で生きていくことよりも、私は父のいる大地を望んだのです。
 武村の家は、私がアメリカへ行く前よりもさらに家族が増えていました。すぐ下の弟の寅太郎は九歳、次弟の午次郎は五歳、末弟の酉三は二歳です。それに父の末弟の小兵衛、戊辰戦争で亡くなった父の次弟章一郎の未亡人園、そして音二郎の前妻の子ども二人がいます。下僕の熊書や女中の他には、居候とも執事ともつかない川口雪蓬がいました。父が沖永良部島で世話になった人です。
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■江藤新平の決起の頼みに対して、不平不満の戦いは負けると告げる

<本文から>
  この時の会話を、まだアメリカ留学中だった私が知るよしはありません。しかし西南の役の最中、私につき添ってくれた下僕の熊告が話してくれました。あの時私と彼の目の前には、死がひたひたと迫っていました。覚悟というよりも、もはや逃れられないものとして、それは本当にすぐそこにあったのです。だから熊吉も主人の秘密をあれほどこと細かく語ってくれたのでしょう。
 畳に手をついて、江藤は力を貸してくれ、一緒に起ってくれと言ったそうです。
 「西郷さんがおいたちについちくれたら、九州の、いや、全国の士族たちが起ち上がるはずですたい。なあ西郷さん、もう一度世直しですたい。御一新ばおいたちの手でやり直すばい」
 それは無理だろうと父は答えました。
「政府の力というもんは、おいたちが考えているよりも大きくなり、完成されておっとじゃ」
「ばってん西郷さん、あんたは今の世の中を見てどう思うな」
 江藤は畳みかけるように問うてきます。
 「守銭奴の井上馨は商人ば罠に飲めても、鉱山ばわがもんにしようとしとらす。あんたの親友の大久保にしても、でっかか西洋館ばつくるらしか。みんな金と権力を手にしち、贅沢な暮らしばしとらすですよ。そいにひつかえ、命ばかけて戦うてきたさむらいはどがんか。藩ちゆうもんがのうなって、みな息もたえだえに暮らしよります。西郷さん、今、日本中に不平不満と怒りが渦まいよっばい。これば武器にしてもういっペん戦う時が来ちょつちゃなかと」
 すると父は静かにこう言ったと、熊吉は口調まで再現しました。
 「江藤さあ、不平や不満というもんは決して力にはなりもはん。それで始めた戦いは必ず負くつとじゃ。不平と不満は、人間の持っている卑しかもんごわす。そいを戦に使ってはいけもはん」
「なんね。西郷さんは、おいたちが卑しかて言うとか」
「そげきとは言っちょらん。じゃっどんおいたちの六年前の戦のことを思い出して欲しか。あん時おいたちは、もつと貴かもんのために戦をしもした。そん記憶が残っちょつ限り、おいはおはんにつくことは出来もはん」
 それから一ヶ月もしないうちに、江藤は捕縛されました。そして裁判にかけられたのです。
 そこでは彼がつくり上げようとした近代的裁判は行なわれませんでした。もはや判決は決まっており、その後の処刑は江戸時代もかくや、と思われるは拉残酷で前近代的なものだったのです。斬首され、長いことさらされました。恐ろしい臭首の写真を今も見ることが出来るのは、これが全国にばらまかれたからです。そう命じたのが大久保卿だと聞いて、父は衝撃を受けたといいます。これほど情けない男になり下がったかとしばらく身を震わせた後、熊吉に向かってこうつぶやいたと彼は私にうちあけてくれました。
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■解軍宣言、菊次郎との別れ

<本文から>
 やがて夕刻近く、父が口を開きました。それがあの解軍宣言です。
 「降伏する者は降伏し、死にたい者は死にやんせ。みな自分の欲するところに従っとじゃ」
 いかにも父らしい態度です。降伏をしろ、と言うのではなく、兵士たちの誇りを守ってやったのです。
 父は児玉家の庭で陸軍大将の軍服を焼き、二匹の犬を放ちました。軍務と犬。愛していたもの二つを手放したのです。犬はしばらく父のまわりをくんくんうなって走り回っていましたが、やがて児玉家の裏山、古墳の方に消えていきました。そのうちの一匹ツンは、なんと鹿児島武村の家に帰りつき、もう一匹のシロは、地元の者に拾われ「西郷さんの犬」として大切に育てられたということです。
 そして犬に別れを告げた後、次は私でした。父は司令室の隣家で寝ている私のところヘやってきました。まず熊吉に、
「菊の命をよう助けてくれた。礼を言うでな」
 と頭を下げました。
「旦那さあ、そいはなか。礼を言うとは武村のうちでしてくいやんせ」
 熊吉の言葉に黙ってうなずき、私の方を見ました。
「脚の傷は痛むか」
「日に日に痛みはおさまっておいもす。もう脚がなかことにも慣れもした」
「そいはよかった」
 と父は私の強がりに笑いました。お前にこれを持ってきたと、父は小さな包みを取り出します。それは新のふんどしでした。
「死ぬ時は着替えてくれと、糸が持たせてくれた最後の一枚じゃ。いまおいの持っちょつもんで、白かもんはこいだけじゃ。こいがお前の命を救ってくるつじやろう。熊吉も頼んだぞ」
 私と熊吉とは顔を見合わせました。
「未明、可愛岳を突破して三田井に向かう。そこを抜けて鹿児島に帰る。包囲を抜けらるるかどうか、もし生きて帰ることが出来たら、そこで死ぬことになつじやろう。よかか、お前と能吉はここにとどまっとじや。今は有難か時代で、白旗をかかげた者は、降参したということで殺されることはなか。国際法というもんに守らるっとじや。動けず残った者たちには『病院』という札を貼るように言っておいた。軍医も置いちょこう」
 私にはその白旗代わりのふんどしが、このうえなく屈辱的で滑稽なものに見えました。
「こげなもんで助かるはずがなか」
叫びました。
「おいはどげなことをしても、ついていきもす。這ってでもついていきもす」
「お前の頭には新しかことが詰まっちょる。むざむざ死なれたらたまらん。ふつう戦というのは、年寄りがやりたがって、若い者が死んでいくもんじゃが、こん戦は反対じゃ。若い者がやりたがって、年寄りも死んでいく」
▲UP

■父の死の回想

<本文から>
  父は自分のめざしていたものが、若者たちの暴発によって中断されても何も言うことはありませんでした。黙って彼らに従ったのです。それは最後に言った、
「区切りにいる者は死ななくてはならん」
という考えによるものだったのでしょう。
 そして意外なことに、大久保卿も区切りの人でした。卿は西南の役が終結した次の年、馬車で赤坂仮御所へ向かう途中暗殺されるのです。ふところには、昔の父の手紙があったということですが定かではありません。
 父が城山で亡くなる少し前から、日本の空に火星が近づいてきました。人々はそれを西郷星と名づけ大騒ぎしたのです。赤く光る星の中に、軍服姿の父が確かに見えたと錦絵にも描かれています。そしてその横の小さな星は桐野利秋だと。桐野の魂が寄り添っているのだと。二つの星は寄り添いながら十一月まで光り続け、人々は熱狂しました。
 私は考えるのですよ。あの熱狂は何だったのだろうと。単なる判官晶屑でもない。失われた時代への懐古でもない。
 悲しいことに、私はまだそれを見つけることが出来ません。しかしあと百年たったら、答えが出るような気がします。
  その時の日本は父が言ったとおり、どれほどかましな国になっているでしょうか。
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