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<本文から>
一緒に罪を負った村田新人は鬼界島に流されたが、森山新蔵は船の中で自害したという。
亡くなった者はそれだけではない。徳之島に護送された時、吉之助は伏見の寺田屋での騒動を知った。久光は有馬新七ら精息組の過激派を襲わせたのだ。彼らは久光上洛を機に、京都所司代や幕府に味方する公卿を暗殺しようとしていたのだという。討手となった同じ薩摩藩士の手によって六人が死に、三人が腹を切った。捕らわれた中には、吉之助の弟の信吾(竜助)や、従弟の大山弥助(巌)らが入っていた。
「説得に応じなかった」
というのであるが、昔之助は久光の冷酷さに強い不信と憤りがわく。同じ藩の者同士に殺し合いをさせるというのは、いったいどのような考えであろう。自分の思いどおりにならない者に対して、とことん憎しみを抱くという性向は、いずれ自分に向けられるのだ。
その日は暴風雨となり、叩きつけるような豪雨が吉之助の頼をうった。まるでぶたれているような痛さだ。一枚きりの獄衣はずぶ濡れになった。この何日か下痢が続いていて、衰弱しきった吉之助の体はふらふらと左右に揺れる。
「おいはこんまま死んでしもとではなかか」
それでもよいと思った。実はこの何日か、椀にわずかに盛られる飯にも手をつけていない。
久光の憎悪が、このさいはての島にまで届いていることはわかっている。このまま弱って死ぬのを待っているのだ。もしかすると切腹を申しつけられるかもしれない。腹を切る時は中から臓物が溢れ出す。それに飯粒が入っていたらみっともないと吉之助は考えた。
雨は冷たい。痛い。無になろうとしていても、肉体のつらさははっきりと感じる。その時吉之助は、この世でいちばんやわらかく甘やかなものを思い出した。生まれたての赤ん坊の手である。菊草は何もわからぬまま、父の顔を見つめ手を差し出す。それをとり吉之助は自分の頻に押しつけ、よしよしと領いた。
「可愛いのう、本当にお前は可愛いのう……」
その時、強い力が吉之助を揺り動かした。
「おいは死にたくなか!」
死にたくない。死にたくないのだ。何度でも言う。死にたくはないのだと。
今までいつも死を覚悟して生きてきた。生きたいと願うことは、女々しく卑しいことだと信じていた。しかし生きたいと願うことはなんと自然なことか。愛する者がいて愛されていたら、この世にいたいというのはあたり前のことではなかろうか。
ようやくわかった。国とは生きたいと思う者の集まりなのだ。それをすべて肯定することから政治というものは始まるのだ。
「おいも生きっ。生きて、生きたいと思う者たちのために働くつとじや」
思えば自分がいまここに生きているのも、すべて不思議な線からだ。斉彬が亡くなつた時、自分は死のうと決めた。それを救ってくれたのが月照上人であった。彼はすべてを見透かして「自分を抱いてくれ」と言ったのだ。そして進退窮まり、二人で海に飛び込んだ時も、月照は死に自分は助かった。船に乗っていた者たちが、ひと晩中必死に体を温めてくれたのだ。
奄美大島に流され、自暴自棄になっていた時に愛加那が現れた。美しく賢い女であった。愛加那は自分に二人の子どもを授けてくれ、そして今生きる活力を与えてくれたのだ。
「誰かがおいに命じちょっ」
生きろと。それが誰かはわかっている。
吉之助は天を仰いだ。目つぶしをくらわすように雨が降ってくる。が、それさえも誰かの意志のようだ。
「天がおいに生きろと言っちょっ」
自分で死のうと思うのは、なんと倣慢なことであったか。生死はすべて天が決めている。今、自分が激しく生きたいと思ったのも、すべて天の命じたことなのだ。
そしてその天の下にいる看たち。愛加那、菊次郎、菊芋、薩摩の弟妹たち、奄美大島、徳之島の島民たち、同じ藩の凶刃に倒れた若者たち……。ああ、なんといとおしいのだろうかと吉之助はつぶやく。このいとおしさの前では、すべての人間が同じ価値を持つ。天はこのことを自分に教えるために、この狭い過酷な牢獄へと自分を導いたのだ……。
「わかりもした」
吉之助は叫んだ。
「おいは生きる。そしてすべての人を大切にすっとじゃ」
嵐はさらに強くなり、強風のためついに吉之助は倒れた。遠くなっていく意識の中で、吉之助はひたひたと近づいてくる足音を聞いた。
「間切横目をつとめている土持政照です。西郷先生、どうかお立ちください。このようにひどい嵐でございます。別の場所にお移りいただきたく思います」
手を貸そうとしたのを吉之助は断った。
「嵐はすぐに去っじゃろう。おいは罪人ゆえにこん牢から出ることは許されん」
「いえ、それでは困るのです。この嵐で牢はところどころ破損しております。修繕いたしたく、お移りいただきたいのです」
もう二人男が待っていた。一ケ月半の間、二坪の牢に座っていた吉之助の足は萎えて、両脇からささえられなくては歩くことが出来なかったのだ。
歩いてしばらく行ったところに土持の屋敷があった。母屋とつながったところに、新築とひと目でわかる一角があった。申しわけばかりに格子の戸が入っている。
「急がせておりましたが、ようやく工事が終わりました。今日からはどうかここでお過ごしください」
「土持さあ、そいはいかん。そいは藩命に反するというもんじゃ」
そう抗ったものの、吉之助は部屋に通されるとへなへなと座り込んでしまった。 |
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