|
<本文から>
彼らのそんな呑気な会話は二年近く続いた。そして突然お由羅騒動≠ヘ始まったのである。
まずは町奉行近藤隆左衛門ら六人に切腹の沙汰が下った。徒党を組み、謀反を企て、藩主斉興を隠居させようとしたというのである。近藤隆左衛門が、斉彬の側近として藩の情報を江戸へ送っていたのは確かである。が、それとひき替えに近藤には死という藩命が下った。
しかも最初言いわたされた、切腹という武士にふさわしい死ではない。憎しみがつのってか、埋葬後に掘り返されて、改めて礫のうえ鋸挽とされた。士籍を剥奪してのことだ。
近藤らは、お由羅、久光らの暗殺を計画していたのだという噂が、たちまち城下を駆けめぐった。計画といっても、仲間うちで半分笑い話のようにしたのを密告されたのである。
「そげなことまで許されんとか」
吉之助は唇を噛んだ。
その間にも斉彬派といわれる者たちが、次々と処罰されていった。切腹は十三人、島流しは十七人にのぼった。取り調べの拷問に耐えられず自害した者もいる。
その切腹した者の中に、日置郷を領する日置家出身の、赤山敬負もいたのである。
物頭の赤山のところへは、長いこと吉兵衛が経理の手伝いに出向いていた。ここでの報酬は、かなり西郷家を助けていたのである。郷中では二才の赤山に、剣の教えを受けたこともある。赤山は吉之助に目をかけ、大層可愛がってくれた。
しかし突然、赤山に切腹の命が下ったのだ。
「おいは何もやっちょらん。どうしておいが腹を切らなくてはならんとじゃ」
と抵抗していた赤山であったが、最後は諦めて家を清め、仏間に新しい畳を敷いた。
赤山は立会人として、弟の久武と吉兵衛を選んだ。
その日、吉之助も身なりを整え、正座して父の帰りを待った。父と一緒に、何度か赤山のところへ行ったことがある。二十七歳という若さの赤山は、吉之助をひと晩中離さず、藩の未来についてもあれこれ語ってくれたものだ。
その赤山が今日、自ら腹を切るという。
吉之助も武士の子として、切腹の大まかな作法を知っている。三方を前に置き、左から刀を走らせ腹を十文字にかっ切るのである。傍らには介錯人″という者がおり、本人がこれ 以上苦しまぬように首を落としてくれる。この時、首を切られる罪人と区別するため、皮一枚を残すのが、腹を切る者に対する礼儀である。
午後になってから、大層疲れた様子で書兵衛が帰ってきた。満佐が無言で塩をまく。
書兵衛は仏間で、息子と二人きりになった。
「こいを見よ」
手にした風呂敷包みを開けた。血に染まった白い肩衣である。
「介錯人がこられる前に、ちっとばかり時間があってな。そん時に赤山さまがおっしゃったとじや。西郷よ、どうかおいの肩衣を形見に持っていってくれんか。おいの無念をわかってくるっとは、西郷しかおらんと言われてな。そん時、弟御の久武さまが、兄上、この期に及んで見苦しか、と言ったらな、あたり前じゃ、何も悪いこともせんで、死んでいくおいの気持ちがわかってたまるか、義のためには喜んで命も差し出すが、謀のせいでは、見苦しかのはあたり前じゃとな……」
声が震えている。
「赤山さまは、どんだけ口惜しかったじゃろうか。あん方はお役目柄、斉彬さまにご報告申し上げただけであったに」
「こげなことが許さるっとですか」 |
|