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          三国志 英雄ここにあり(下)

■赤壁の戦いでの孔明の東南の風を吹かせる大賭け

<本文から>
 孔明は、純白の道服をまとい、髪を長くさばいて、素足で、南屏山へ登って来た。
壇へ登る前に、孔明は、ついて来た魯粛をかえりみて、告げた。
「本陣に帰られたならば、都督に伝えて頂こう。直ちに、戦いの用意をなして、待ちたまえ、と。たとえ、二十二日に至っても、それがしの祈祷が、なんの徽もあらわさぬとしても、決して、怪しみ給うな。必ず、二十二日中には、東南より風は吹き起り申す」
「かしこまった」
魯粛が、去るのを待って、孔明は、七星壇を守備する軍士に向って、
「決して、気ままに、命じられて守備位置をはなれてはならぬ。また、勝手な私語を交わすことを禁ずる。いかなる事態が起ころうとも、驚い騒いでは相成らぬ。命に背く者は、直ちに、その首を刎ねるであろう」
 と、戒めた.
凛乎たるその白い姿は、威風おのずからさだまって、軍士らの宴を、ひきしまらせた。ゆっくりと、壇に上った孔明は、方位を見さだめておいて、香を焚き、盆に浄水をそそぎ、合掌して、天を仰ぐと、祈りをこめた。
祈ること一刻。
祈りおわると、壇を下って、帳中に休息した。
この日、孔明は、三度び壇上に端座して、祈った。
二十日は、またたくうちに、過ぎた。
軍士は、命を守って、ひたと沈黙し、端座する孔明は、身じえおきもせず、静寂は、次の日−二十一日に入っても、さらにかわりはなかった。
 しかし、吹いて来る風は、西北の方角からの寒気を乗せているばかりで、壇を飾る旗のなびきかたは、すこしも変る気配がなかった。
 孔明自身、絶対の自信を以て、この祭を為している次第ではなかった。
 老いた漁夫の予想に、たよっているばかりであった。
 もし、この三日間に、東南風が吹かなければ、呉軍は壊滅し、この身もまた生きて、主君の許へ遣ることはおばつかぬ。
 −東南風よ起れ!
 必死に、祈りをこめるものの、壇を下って帳中に憩う時は、不安は胸中に、黒雲のごとくひろがっているのであった。
 まさしく−
 諸葛亮孔明が、一生一代の大賭博であった。 

■孔明の奇蹟に恐れた周瑜が首を狙う

<本文から>
 孔明は、二十二日中に、と云ったのである。
 待つよりほかはなかった。
 ・・・夜が、明けようとした。
と−突然。
 水寒陣から、どっと兵の叫ぶ声が、ひびいて来た。
 周瑜が、すっ〈と立った。
 「風か!」
 魯粛が、無言で、帳外へ奔った。
 すぐに、ひきかえして来るや、
 「都督!旗のなびく方角をごらんなされい」
 と、叫んだ。
 周瑜を先頭に、一同は、われを忘れて、轅門に殺到した。
 見よ!
 各陣に立った千旗万旛は、ことごとく、ひるがえって、西北を指している。
 顔を博つ風は、なまあたたかく、まきに、東南風であった。
 風は、その音を起して、しだいに強まり乍ら、江上を渡って、北岸へ吹きぬけて行く。
 奇蹟が、起ったのである。
 「むむっ!」
 周瑜が、名状しがたい呻きをもらして、白布で、ロを掩うた。
 −また、血を喀くのか?
と、魯粛が、おそれて、見まもる中で、周瑜は、大きく肩でひと喘ぎしてから、
「諸葛亮は、人間では甘い。魔神がの遷った者だ。彼奴は、天地造化をおのが手で法、鬼神不測の幻術を具備して居る。・・・・・・生かしておいては、国の興亡を左右し、人民の生殺与奪権をほしいままモて、黄巾賊にもまさる乱を起こすであろう。禍根を断たねばならぬ」
と、口走って、帳軍護軍校尉丁奉・徐盛の二将を呼ぶや、
「お主らは、それぞれ百騎を引具して、二手から、南屏山へ馳せ行き、有無を云わせず、孔明の首級を挙げて来るがよい。猶予はならぬ!はやく、往け!」
 と、命じた。
 魯粛がとどめる余地もない周喩の狂ったような気色であった。

■周瑜は孔明のために不幸な名将となった

<本文から>
周瑜という人物は、中国四千年の歴史の上でも、屈指の名将であったが、不幸にして、おのれにまさる諸葛孔明という軍師を、同時代に持ったため、孔明の神算鬼謀の前に、その誇りを傷つけられ、その生命を縮めた、といえる。
孔明のために、目の前で、南郡を奪われ、さらに、荊州・妻陽の地も、劉備玄徳の軍勢の占拠するところとなったという報告を受けた周瑜は、その体力も気力も、急速に衰えた。
そして、ついに、再び、三軍の陣頭に立って、縦横の軍略を為すことなく、おわった。
周瑜がもし、肺を患わず、健康な体にめぐまれていたならば、劉備・孔明と雌雄を決する戦いを挑まずにはいなかったに相違ない。

■曹操は同志の荀ケの諫言を退け自殺させた

<本文から>
「 その諌言に、流石の曹操も、顔色を一変させた。
 その時は、曹操は、一言も発しなかった。もし、諌言者が余人であったならば、曹操は、一喝のもとにしりぞけたに相違ない。
 対人は、苦楽を倶にし、互いに手をたずさえて生死の危機をくぐりぬけて来た荀ケであった。荀ケいう謀士がかたわらにいなければ、おのれは、今日こうして丞相の地位に在ることもかなわなかったかも知れぬのである。
 曹操は、荀ケを、怒鳴りつけることはできなかった。
  しかし−。
 荀ケが退出したあと、董昭が現れて、
「謀士ただ一人が、衆望をはばもうとしても、それは、できぬことでありましょう」
 と云うや、曹操は、ついに荀ケの諌言をしりぞけることにした。
 董昭は、上奏文を草した。
 天子には、この上奏を却下するカなど、なかった。
 このことをきいた荀ケは、長嘆息した。
「なんということだ!百年の後世まで英名をのこせるほどの大器も、野望に目くらむと、ついに、おのれを忘れてしまうとは−」
 その日から、荀ケは、自館にとじこもって、妄も出なくなった。
 丞相好から、幾度も使者が、迎えに来たが、荀ケは、ついに、病いを口実にして、もむこうとしなかった。
 曹操は、建安十七年冬十月、五十万の軍勢を率いて、江南へ攻め下るにあたって、荀ケの同行をもとめた。
 しかし、荀ケは、その命令にもしたがわなかった。
 ここにいたって、曹操も、ついに、荀ケを憎んだ。
 曹操は出陣にあたって、荀ケに贈る食物一合を用意し、その蓋に、自ら筆を執って、封をした。荀ケは、それが届けられたので、蓋をとってみた。
 中には、何も入っていなかった。
 「そうか!」
 荀ケは、ふかく、うなずいた。
 その夜、荀ケは、毒をあおいで、この世を去った。時に五十歳であった。

■二十有年にして劉備が一国を得、孔明の更なる決意

<本文から>
「故郷琢県の一寒村から、立ち出て、二十有年−ついに、劉備は、一国を得た。
益州牧−それが、劉備の座であった。
(中略)
 これらの人事は、孔明一人が、為した。
 孔明は、軍師として稀代の天才であったのみならず、政治家としても、その才能は、卓絶していた。
劉備と生死をともにして来た股肱たちも、蜀の旧臣たちも、その人事に対して、不平を鳴らす者は一人もいなかった。

 深更−。
孔明は、飾りの何ひとつない自室に、燭も点さず、そそぎ入る蒼い月光に長身をひたして、じっと孤座していた。
 建安十二年、劉備から三顧の礼を執られて、出廬して以来、今日−建安十九年まで、七年の歳月は、またたく間の短かを過ぎていた。しかし、七年間に心胆をくだいた軍師としての任務は、筆紙につくせぬほどであった。
 いずれの戦いも、興るか亡びるかの賭であった。孔明は、その特に、ひとつひとつ、勝って来た。
「三十四歳か」
 孔明は、おのれの年齢を、呟いた.
「まだ、あと十六年ある」
 孔明は、おのが寿命を、五十歳とみていた。この希有の知性と感性を兼備している天才は、自らの生命に就いても、鋭い予感を働かせていた。
「十六年あれば、やれる!」
 自身に、そう云いきかせた時、しのびやかな人の気配が近づいた。
 入って来たのは、劉備であった。
「軍師−」
 座に就くと、劉備は、ふかく頭を下げた。
「無能無才のこの劉備を、よくこそ、今日まで、輔佐して下された。このお礼は、とうてい、言葉にはつくせぬ。あらためて、心よりお札申し上げる」
「わが主君―」
 孔明は、しずかな声音で、云った。
「まことの努力は、明日より、はじまりましょう。…戦って国を取ることより、取った国をいかにして守るか−その方が、幾十倍も、いや幾百倍も困難であります。お覚悟のほどを−」
 「うむ。…軍師が、余のそばにいてくれるかぎり、この劉備は、いかなる努力もいといはせぬ。おねがいする」
 劉備が、そっと、立去ったのちも、孔明は、なお、長いあいだ、動かなかった。
 深い沈黙ののち、孔明は、呟いた。
「あと十六年−生きねばならぬ。生きて、たたかいつづけなければならぬ!」

■仲達は動かず孔明の死を待つ、孔明は遺書をしたためた

<本文から>
「 五丈原。
 それが、孔明のえらんだ戦場であった。
 五丈原は、宝鶏県の西南、太白山の山裾が、渭水の流れに接する丘陵地帯で、中原へ向って突出した形状であった。
 この年三月、後漠最後の天子である献帝が病没した。
 孔明は、この五丈原に於て、魏軍に致命の打撃を与え、司馬懿仲達を生捉って、魏の明帝をして屈服せしめる覚悟であった。
 しかし、仲達は、孔明がいかなる誘いをかけても乗っては来なかった。
 すでに、孔明の命脈は尽きんとして、痩躯鶴のごとくになり、蒼白の顔面は死相を呈していた。
仲達は、おそらく、細作によって、孔明の容子を報らされていたであろう。
 孔明は、いかに誘っても、仲達が応じないので、巾梱と素衣を、伸達に贈った。巾帽は、女性が頭にかぶる布であり、素布は、同じく女性の喪服であった。
 それでも、なお、伸達は、出なかった。
 陣中に在って、孔明の生命は、日一日と、けずりとられ、ついに、とこから起つことができなくなった。
 孔明は、ひそかに、後主劉禅に捧げる遺書をしたためた。
(中略)
 まことに、史上例をみないつつましい生涯を送った丞相であった。
 中国四千年の歴史を眺め、蜀ぐらい、質素を守った宮廷はない。劉備は、はじめ皇后も立てず、まして、夫人とか昭儀とか貴人とかの側室を一人もつくらなかった。曹操が、武帝となって、後宮千人の美女を擁し、十数人の妾に、二十五男二女を産ましめたのと、まことに対照的であった。

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