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<本文から>
孔明は、純白の道服をまとい、髪を長くさばいて、素足で、南屏山へ登って来た。
壇へ登る前に、孔明は、ついて来た魯粛をかえりみて、告げた。
「本陣に帰られたならば、都督に伝えて頂こう。直ちに、戦いの用意をなして、待ちたまえ、と。たとえ、二十二日に至っても、それがしの祈祷が、なんの徽もあらわさぬとしても、決して、怪しみ給うな。必ず、二十二日中には、東南より風は吹き起り申す」
「かしこまった」
魯粛が、去るのを待って、孔明は、七星壇を守備する軍士に向って、
「決して、気ままに、命じられて守備位置をはなれてはならぬ。また、勝手な私語を交わすことを禁ずる。いかなる事態が起ころうとも、驚い騒いでは相成らぬ。命に背く者は、直ちに、その首を刎ねるであろう」
と、戒めた.
凛乎たるその白い姿は、威風おのずからさだまって、軍士らの宴を、ひきしまらせた。ゆっくりと、壇に上った孔明は、方位を見さだめておいて、香を焚き、盆に浄水をそそぎ、合掌して、天を仰ぐと、祈りをこめた。
祈ること一刻。
祈りおわると、壇を下って、帳中に休息した。
この日、孔明は、三度び壇上に端座して、祈った。
二十日は、またたくうちに、過ぎた。
軍士は、命を守って、ひたと沈黙し、端座する孔明は、身じえおきもせず、静寂は、次の日−二十一日に入っても、さらにかわりはなかった。
しかし、吹いて来る風は、西北の方角からの寒気を乗せているばかりで、壇を飾る旗のなびきかたは、すこしも変る気配がなかった。
孔明自身、絶対の自信を以て、この祭を為している次第ではなかった。
老いた漁夫の予想に、たよっているばかりであった。
もし、この三日間に、東南風が吹かなければ、呉軍は壊滅し、この身もまた生きて、主君の許へ遣ることはおばつかぬ。
−東南風よ起れ!
必死に、祈りをこめるものの、壇を下って帳中に憩う時は、不安は胸中に、黒雲のごとくひろがっているのであった。
まさしく−
諸葛亮孔明が、一生一代の大賭博であった。 |
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