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          英雄・生きるべきか死すべきか(下)

■姜維の不動の決意

<本文から>
姜維が、前にかしこまると、孔明は、
 「以前、そなたは、魏延という人物に就いて、大きな疑惑を抱いて居ったな?」
 「今でも、魏将軍を信頼しては居りませぬ」
「費韓を、異国に遊わしたところ、孫権も、そなたと同じ意見を述べた由。鋭利の目で視るところ、すべて、その姿は同じである。しかし、いま、魏延を斬ることは、蜀軍にとって、五万の兵を失うにひとしい」
 「よく判って居ります」
 「わが亡きあと、おそらく、魏延は、蜀に就き、そなたと対立するであろう。そのことを想うと、いま、泪をふるって、魏延を斬るべきか、と迷う」
 「丞相っ!」
 「二十年前のわたしならば、なんのためらいもなく、魏廷を追放したであろう。…の孔
明、もはや、むかしの諸葛亮ではない」
姜維から、泪が、どっとあふれた。
 「丞相は、まだ、五十歳をわずかに越えられたばかりではありませぬか。あまりに、自己を衰えたとお考えすぎでございますぞ!」
 「姜維−」
「はっ」
 「わたしは、二十八歳で朝野を出て以来、今日までの二十余年間、他の武将の十倍二十倍の才略を使って、心身を傷めた。申さば、すでに八十九十の老翁にひとしい。このたびの緒戦の敗北が、それを証明いたして居る。この孔明に比べて、司馬懿仲達は、いま、山ならば五合目あたりを、駆けあがって居る。彼我の差は、歴然たるものがある。…待て、きけ。この仲達をむこうにまわして、対等に戦うカを発揮するには、そなたの若さと闘志と頭脳のすばやい働きを必要とする。くどく、くりかえす。将来の蜀を双肩にになうのは、姜維、そなただぞ。たのむ!」
 孔明は、頭を下げた。
 姜維は、万感胸に迫り、ぼうだと泪を流すばかりで、これえる言葉がなかった。
 姜維の決意が、あらためて、不動のものとなったのは、この瞬間からであったことは、疑いない。 

■予期せぬ豪雨で仲達が生きのびる

<本文から>
 たちまちにして、蜀軍があびせかけた火焔は、消えた。
 火矢も役に立たなくなった.
 大捷を目前にして、豪雨が魏軍に味方するとは、きすがの孔明も姜維も、予測しなかったことである。
 この豪雨が、降らなかったならば、中国の歴史は、別のものとなり、この『三国志』も、蜀の国の悲劇を措く必要はなくなっていたであろう。
 「遁げるのは、今ぞ!」
仲達父子は、馬にとび乗るや、無我夢中で、鞭をうち振った。
 「わが命運は、この危機をのがれたおかげで、かえって三十年はのびたぞ」
 仲達は、大きくそう叫んで、いっさんに、渭水南岸のおのが本営めぎして、疾躯した。
 葫廬谷に放て、仲達を火攻めにした馬岱は、わずか千騎しかしたがえていなかったので、追撃することが叶わず、降りしきる雨に向って、
 「このくそ水め!うぬが、仲達に味方をするとは、天帝が血迷ったとしか思えぬぞっ!」
 と、絶叫したことだった。

■孔明の最期

<本文から>
「姜維、わたしが死んだならば、次のことを実行してもらいたい。・・・わたしの死を、絶対に秘密し、決して喪を発してはならぬ。巨きなずしを造って、わたしの死体をその中に端座させよ。次に、口の中に米七泣を入れ、脚元に、一基の灯明を置き、あかあかとともすがよい、決して、全軍兵に、哀しみの顔色も声も示きせてはならぬ。常のようにいたせ。されば、わが将星が、地に野ちたことは、敵に知られないであろう。…仲達は、わが将星が堕ちぬはずはない、と疑うであろう。そこで、姜維、そなたが、総指揮をとり、後詰となって、一陣毎に、しずしずと引きあげよ。もし万一、仲達が追撃して参ったならば、そなたは、鉄壁の陣を布いて、待ち受けよ。・・・仲達が、姿の見える近い距離まで迫って参ったならば、わたしが、あらかじめ作っておいたこの孔明そのままの木像を、四輪車に安置し、左右に将士をひかえさせ、あたかも生きて陣頭で指揮するがごとく、押し出すがよい。そういたせば、仲達は、この孔明がいまだ死せず、とみとめ、恐怖して、追撃を中止いたすであろう」
 孔明は、馬玄にささえられて、幕外へ出ると、二十余年間、兵馬を自由自在に動かした白羽扇を、ゆっくりと挙げた。
 孔明が指さしたのは、北斗星の煌めく方角であった。
 北斗星の彼方に、ひとつ、星がまたたいていた。
 孔明は、諸将に向って、その星を、白羽扇で治した。
 「あれが、この孔明の星である」
 孔明が、そう云ったとたん、その星は、すうっと、光をうすれさせた。
 姜維は、その孔明の悽愴な横顔を、じつと見まもっていた。
 孔明は、口のうちで、何か、呪文をとなえたが、となえ終えると、馬玄の眉に、片手をかけ、支えられ乍ら、幕中へもどった。
寝台に仰臥した時、孔明の意識は、なかった。

■死せる孔明、生ける仲達を走らす

<本文から>
「仲達は、敵の重囲に陥る恐怖にかられると、無我夢中で、馬首をめぐらした。
 すると−。
「司馬懿仲達、ここまで追撃して来乍ら、われらが丞相の姿を一見しただけで、遁れんとするとは、後世までも、腰抜けの恥をさらすぞ!」
 後方から、大音声がののしったのは姜維であった。
 仲達は、その罵倒をきいて、孔明の軍略がまことであると思わぎるを得なかった。
なんとののしられようと、仲達は、いまは、生きのびることした念頭になかった。
 総大将が無我夢中で遁走するからには、その部下たちが、生きた心地もなく、われ勝に逃げ出したのは、当然であった.
 甲をすて、兜も投げ出したばかりか、重い戈戟まで、ほうり出しておいて、もう盲滅法に、走りに走った。
 仲達が、宙を翔る思いで、ものの五里も遁走したであろうか、ようやく、うしろから追いついた魏将二名が、左右へならんで、馬の轡をつかんで、疾駆を止めさせた。
 「大都督、お気をしずめられませい!」
 そう云われて、仲達は、われにかえった。
 われにかえりつつも、片手を頭にあてて、
 「おお、頭は、胴からはなれては居らぬ」
 と、呟げた。
 二人の部将は、こもごも、
「蜀軍は、追って来ては居りませぬぞ」
「ご安堵なされ。敵は、途中にて、追撃を中止つかまつりました」
と、告げた。
 仲達は、左右を見やり、それが、夏侯覇と夏侯恵であることをみとめて、ふかく吐息した。
「見苦しいていたらくを、お主らに見せてしまった。許してくれい」
 正直に、頭を下げた。
「孔明が絶対に亡き者になっていた、と確信していたにもかかわらず、生きて居り、我を術策にかけ居ったので、つい、動転してしまったのだ」
「お気持のほど、お察しつかまつる」
「それにしても・・・」
仲達は、空を仰ぎ、
「あの赤い光芒角のある星が、蜀の陣中に落下いたしたのは、孔明の死を意味していたに相違ないのだが・・・、解せぬ。どうしても、解せぬ」
 と、首を振った。
 ともあれ、孔明がいまだ存命であると知ったからには、本陣へ逃げもどって、ふたたび、かたく守って、討って出てはならなかった。
 仲達は、部将全員に下知して、四方の陣地で、迎撃の陣形をとらせた。
 二日後−。
「蜀軍は、国境までひきあげて来ると、将士兵卒、ことごとく、地にひれ伏して、慟哭いたしました。・・・後詰は、姜維が一千騎を率いて居ただけゆえ、どうもあやしいと存じ、地下の者に化けて、四輪車の近くまで忍び寄ってみましたところ、孔明は木像でございました」
 「そうであったか!やはり、わしの占星は、的中して居ったのだ。孔明は、この世を去って居った。それにしても、諸葛亮孔明とは、おそるべき軍師であることよ、死してなお、この仲達を術策にかけた。あっばれと申すよりほかはない」
 この一事によって、後人は、
 『死せる孔明、生ける仲達を走らす』
 ということわざをつくった。

■姜維は仲達より器量は劣っても若い精気に勝っていると自覚

<本文から>
「 姜維は、窓外へ−東方へ、視線を据えて、
 「いま、三軍を指揮する権を、与えられても、この姜維には、司馬懿仲達をうち破る自信がない」
 と、自分に云うようにもらした.
 「そんなことはない。貴下は、故丞相から、すべての軍略兵法をさずかって居る」
 「さずかっただけでは、ただの書学者にすぎぬ。その軍略兵法を、活かし、応用し、機に臨んで自由計在に、敵を翻弄してこそ、故丞相の恩顧にこたえ得る」
 「貴下には、それがやれる!」
 「いや−」
 姜維は、かぶりを振った。
「器量が足りぬのだ」
「・・・・・・?」
「司馬懿仲達に比べて、わたしは、器量が足りぬのだ!」
 姜維は、そう吐いて、歯ぎしりした。
 馬岱は、なんと云っていいか、わからなかった.
「わたしは、おのれを知っている。孫子も申して居る。おのれを知り、彼を知ってこそ、戦いというものができる、と。いま、同じ十万の兵を率いて、中原で、仲達と決戦せんか。・・・・・・この姜維は、必ず、敗北する」
「そんな・・・、自らを、卑下することはない!」
「正しい予測をしているのだ、わたしは−」
 姜維は、語気つよく云った。
「しかし、ひとつだけ、わたしが、仲達にまさっているものがある」
「なんであろう、それは?」
「若きだ!」
 姜維は、にっこりした。
「すなわち、仲達と比べて、わたしは、かれに倍する若い精気を、五体にみなぎらせている。敗れても、敗れても、立ち上る若い精気がある。仲達は、すでに、老いて、それがない」

■姜維は二十余年間、魏を攻め滅すことに心身をうち込んで来た

<本文から>
「姜維が、孔明から、三軍を統べる権を与、えられてから、二十余年の歳月が経てている。その二十余年間を、姜維は、ひたすら、魏を攻め滅すことに、心身をうち込んで来たのである。
 内政に関しては、姜維は、自分には政治家としての才能はない、と知って、一切首を突っ込んではいなかった。
 蜀は、孔明亡きのち、治政に関しては、蒋?が立ち、蒋?は、孔明があまりに偉大すぎたために、ことごとく比較されて、不平不満の声をあびせられて、丞相の座を退いたのであった。
董允・費緯ら、逸材もいたが、なにさま、孔明の偉大さが、かれらにも、一種の威圧となって、内政がうまくいかなかったのが、実情であり、かれらは、憂悶のうちに、この世を去っていた。
そして、いまは、宦官黄皓が、天子のそばに、べったりとつき添うて、しだいに勢力を持っていた。
 まさに、これは、亡国のしるしであった。姜維とすれば、礁周が中散大夫ならば、何故に、一命をなげうっても、黄皓ごとき奸臣を、天子の傍から除かないのか−それが、不満であり、怒りとなっている。
 姜維自身、あくまで、武人として、戦い、そして、戦場に相果てたかった。それが、おのが運命である、と自分に云いきかせていた。
 姜維は、孔明から授けられた兵法書のうちから、占星による国家・人間の運命を占うことを学んでいた。
姜維は、自分の運命を占い、はっきりと、戦場に屍をさらす、と知っていたのである。
だからこそ、成都に還らず、漢に在って、魏に対して、侵攻の計画に、昼夜、骨身をけずっていたのだ。

■三十年に近い歳月を経て人の心も変ったが姜維だけが変わらない

<本文から>
「 姜維とケ艾は、攻めつ、攻められつ、秘策を縦横に発揮しつづけていた。
この両雄を、背後から援助しなければならぬ蜀・魏の二つの宮廷は、
「勝手にやらせておけ」
 というひややかな態度であった。
そのために、双方しばしば、戦いをひきわけて、都へ懲らなければならなかった。
 しかし−。
 こうなると、姜維も、ケ艾も、意地にも、兵をおさめるわけにいかなくなった。
 いずれかが、弊れるまでは、死闘をつづけなければならぬ宿命観が、両者の心中を占めていた。
 蜀の景耀五年(二六二年)冬十月−。
 姜維は、
 −これが、最後の出陣に相成ろう!
 と、予感しつつ、上奏文を蜀帝劉禅に奉った。
 臣、しばしば出陣いたせしも、いまだ魏を滅すことあたわず、さりとて、戦わざれば怠惰の心おこり、怠惰の心おこらば、病いおこらん。いま、兵は一死奉公の念に燃え、将は勅命の下るを待つ。臣、もし勝たぎる時は、甘んじて、死罪を受けん。
 かつて、孔明が、『出師の表』を奉っておいて、中原へ四輪車を進めた時は、天子をはじめ蜀の人民が一人のこらず、孔明にわが身の運命をあずけたつもりであった。
 あれから、三十年に近い歳月を経て、いまは、姜維の出陣は、ただ、冷やかな沈黙のうちに、見送られた。
 時代が移るにつれて、人の心も変っていた。
 変っていないのは、ただひとつ、故孔明に誓った姜維の決意だけであった。

■成都では戦わず降伏、姜維は猛然たる憤怒

<本文から>
「成都の宮殿内では、いたずらな評議が、くりかえされていた。
魏に降ることを主張したのは、光禄大夫?周であった。
断乎、戦うことを主張したのは、北地王・劉ェは、劉禅の五男であった。
 そして、ついに・・・。
 前者の主張が通り、?周が、降伏する国書をしたため、玉璽をあずかって、ケ艾の本陣へ、使者として、出発した。
 劉ェは、これを城壁上で、見送ったが、
 「ケ艾ごときを、おそれるとは、なんというなさけないお父上か!」
 と、血汐をしばるように呻いたのち、短剣で、咽喉を貫いて、相果てた。
 翌日−。
 ケ艾の率いる大軍が、成都に到着すると、劉禅は、太子、諸王、臣下六十余人を従えて、北門外一里の地点へ出て、降伏した。
 ここに、事実上、蜀の国は、滅びたのである。
「なにっ?!陛下が、ケ艾に、降られたと?!」
 姜維は、沓中から剣閣に移って、いよいよ、猛反撃の態勢をととのえていた矢先であった。
 使者として馳せつけて来た太僕・蒋顕から、この事実をきかきれて、一瞬、わが耳をうたがい、聴きなおしてから、茫然自失した。
 数分ののち、総身すべての血管の中を、無数の小悪鬼が駆けまわるごとく、猛然たる憤怒が来た。
 姜維は、あまりの憤怒ゆえに、むしろ、態度は平静であった。なんの言葉も出さなかった。


■姜維の最期、蜀はわずか二代で滅亡

<本文から>
「絶叫して、修羅場のまっただ中へ、斬り込んで行った。
 それきり、ふたたび、姜維の姿は、地上に見ることはなかった。
 その生身は、矢を射込まれ、ずたずたに斬られて、姜維とは見分けがたい屍骸となって、血潮の海に沈んだが、その魂は、恩師孔明の待つ天へ昇ったのであった。
 名将ケ艾もまた、この修羅場裡で、味方の兵の放った一矢を胸に受けて、斃れた。尤も、たとい、長安へひきあげて、司馬昭に目通りしても、ケ艾は、罪を問われて、処刑をまぬかれなかったであろう。
 姜維が討死し、ケ艾が斃れたこの日をもって、この長い物語は、終るのが、ふさわしい、と作者は、考える。
 ついに・・・。
 天下三分の計をたてて、蜀という一国を成した孔明の功績は、偉大であったとしても、二代を以て、蜀は滅び去ったのである。わずか四十三年の短いいのちであった。

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