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<本文から> 姜維が、前にかしこまると、孔明は、
「以前、そなたは、魏延という人物に就いて、大きな疑惑を抱いて居ったな?」
「今でも、魏将軍を信頼しては居りませぬ」
「費韓を、異国に遊わしたところ、孫権も、そなたと同じ意見を述べた由。鋭利の目で視るところ、すべて、その姿は同じである。しかし、いま、魏延を斬ることは、蜀軍にとって、五万の兵を失うにひとしい」
「よく判って居ります」
「わが亡きあと、おそらく、魏延は、蜀に就き、そなたと対立するであろう。そのことを想うと、いま、泪をふるって、魏延を斬るべきか、と迷う」
「丞相っ!」
「二十年前のわたしならば、なんのためらいもなく、魏廷を追放したであろう。…の孔
明、もはや、むかしの諸葛亮ではない」
姜維から、泪が、どっとあふれた。
「丞相は、まだ、五十歳をわずかに越えられたばかりではありませぬか。あまりに、自己を衰えたとお考えすぎでございますぞ!」
「姜維−」
「はっ」
「わたしは、二十八歳で朝野を出て以来、今日までの二十余年間、他の武将の十倍二十倍の才略を使って、心身を傷めた。申さば、すでに八十九十の老翁にひとしい。このたびの緒戦の敗北が、それを証明いたして居る。この孔明に比べて、司馬懿仲達は、いま、山ならば五合目あたりを、駆けあがって居る。彼我の差は、歴然たるものがある。…待て、きけ。この仲達をむこうにまわして、対等に戦うカを発揮するには、そなたの若さと闘志と頭脳のすばやい働きを必要とする。くどく、くりかえす。将来の蜀を双肩にになうのは、姜維、そなただぞ。たのむ!」
孔明は、頭を下げた。
姜維は、万感胸に迫り、ぼうだと泪を流すばかりで、これえる言葉がなかった。
姜維の決意が、あらためて、不動のものとなったのは、この瞬間からであったことは、疑いない。 |
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