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          英雄・生きるべきか死すべきか 上

■孔明は南蛮の王・孟獲を神から人間の地位にひきずり落とすまで生け捕る

<本文から>
趙雲は、確然たらざるを得なかった。
 孔明が、一足さきに幕中に戻ると、諸将は、ようやく、孟獲を解き放ってやった理由をうかがおうではないか、と話し合った。
 趙雲、魏延はじめ大将たちが、うちそろって罷り出て、その理由の説明を求めた。
 孔明は、無表情で、冷たく、
「わたしは、孟獲の身を捕らえるのではなく、心を捕えたい、と考えて居る。それだけのことだ」
 と、こたえた。
 しかし、この短い言葉は、一同をして、成程、と納得させることはできなかった。
 −孟獲を殺してしまえば、南蛮夷は、完全に蜀のものになり、身毒その他の南方諸国と、自由に交易する道が、わがものになるではないか。
 諸将が、そう考えたのも、当然のことであった。
  たしかに−。
 蜀の国とって、昆明から西へ下り、雲南を横断し、サルウィン・イラワジ河の上流に沿ってビルマに入り、ビルやからインドに至る道は、絶対に確保する必要があった。
 中国大陸が、三分され、北は魏、東は呉に占められた蜀が、物資を輸入し、国を富ませる唯一の交通路となるのであった。
 さらにまた、昆明から東へ進んで、貴州に入って、水路を利用すれば、インドシナ半島へ至ることもできるのであった。
 諸将は、孔明が、孟獲という蛮王の器量を買いかぶり、これを蜀廷の一員に加えよう、という気特になっている、としか受けとれなかった。蛮王孟獲が、侵略者蜀帝の下に就くとは、全く考えられぬことだった。むしろ、死を、えらぶに相違なかった。
 かれらは、孔明のまことの心中を測ることができなかったのである。
 孔明は、知っていた。
 南蛮夷の民族は、魏・呉・蜀の漢民族とは、全く異質な民族であることを−。
 南蛮夷人は、その総帥孟獲を、神に等しい存在として、信仰しているのであった。この蛮王を殺せば、南蛮夷人は、神を失った憤怒を抱くに相違なかった。かれらに対して、孟獲という神のかわりに、軍帝という神を信仰させることは、不可能であった。
 孔明が、為さねばならぬのは、南蛮夷人に対して、孟獲を、神の地位から、ただの人間の地位にひきずりおろしてみせることであった。
 生捕った孟獲の首を刎ねることは、たやすい。しかし、その瞬間から、蛮王は、南蛮夷人にとって、完全に永遠の神となってしまうであろう。
南蛮夷人は、子々孫々、神になった孟獲を信仰しつづけることになる。そして、蜀帝は、神の敵である悪魔として、のろわれつづけることになるのであった。

■ついに孟獲の心をとらえる

<本文から>
 孟獲は、土まみれの顔をあげて、孔明を視た。
清雅な気品をたたえたその姿に、孟獲は、はじめて、心が砕け、総身から力が抜けた。
「わが妻までを、裏切らせたとは…なんというおそるべき軍師か」
 孔明が、孟獲の縄目を解かせると、馬を与え、四海草に従わせて、ともなったのは、銀坑洞の宮殿であった。
 孟獲を、元の王座に就けた孔明は、
「孟獲殿、わたしが弄した策は、まさしく、卑劣であり、深く恥じ入って居り申す。御辺の夫人を裏切らせたのは、軍師としてやむを得ぎる計であったとは申せ、男子としての面目に泥を塗ったものと、みとめぎるを得ぬ。おそらく、御辺の胸中は、憤怒で煮えたぎって居ることであろう。・・・御辺が、望むならば、わが蜀軍は、再び三江城まで退き、いま一度軍勢をかり集めて、決戦をされることを、拒むものではない」
 と、云った。
 「丞相!」
 孟獲は、思わず、王座をすべり降りて、両手をつかえた。
 「敵を七度び捕えて、七度び放つとは、古今東西、その例をきいたことがござらぬ!・・・もはや、この孟獲に、戦う意志はござらぬ。すみやかに、この首を刎ねられい」
 そう云うや、身につけていた上衣を脱いで、平伏した。これは、肉胆といい、全き降伏を表す振舞いであった。
 「御辺の生命を奪う気が、こちらにあれば、最初に捕らえた時、すでに、首を刎ねて居る。わが蜀は、南蛮の国を属領にせんとするものではなく、末永く、友好の盟約をしたいばかりに、はるばるとやって参った」
 「相判りました。斯くまでに丞相のご寛容をこうむった上からは、わが領土は、こん後、蜀帝陛下に対して、決して、敵対つかまつりませぬ」
「かまえて違約せぬよう、お願いする」
「子々孫々にいたるまで、丞相のご恩顧をつたえ、背くことはないと、誓いたてまつる」
 孟獲は、おのが右手の小指を、がっと噛みくだき、食いちぎってみせた。
 その時 −。
 孟獲の背後に控えていた祝融が、ひくい坤きをもらして、のめり伏した。
 趙雲が、いそいで、抱き起してみると、唇から鮮血をしたたらせて、目蓋を閉じていた。
 舌を噛み切ったのである。
−あわれな!
 孔明は、暗然として、万夫不当の女丈夫の最期を見まもった。
 「妻を死に追いやったのは、わが罪でござる」
 孟獲は、云った。
 斯くして −。
 孔明は、ありとあらゆる苦心の計を用いて、ついに、南蛮を帰服せしめ、孟獲には元の洞主の地位を与え、奪った土地は、ことごとく返してやった。

■孔明は姜維を後継者と決め語る

<本文から>
「姜推伯約、乗るがよい」
 孔明は、自分の傍らの席をすすめた。
 姜推は、魅せられたように、孔明のすすめにしたがった。
 孔明は、身に寸鉄もおびて居らず、姜維は、腰に剣をつけていた。
 いま、姜雑は、孔明を刺そうとすれば、いともたやすい業であった。
蜀軍は、密林中に居り、兵影はあたりに全く見当らなかった。
孔明は、四輪車を走らせ乍ら、姜推に云った。
 「三年前、わたしは、そなたが、刺客となって、わが生命を狙って来た時、この若者こそ、将来、大軍を率いて、見事な戦いをくりひろげる器量の持主、と看た。また、そなたは、いずれ、魏をすてて、わが蜀の一将に加わるであろう、と予知した。……そなたは、中郎将となり、わが蜀軍を、さんざんになやました。あっぱれな戦いぶりをみせてくれた」
 「……」
 「いかんせん、魏の総帥夏候楙も、そなたの主人馬遵も、そなたの器量を、評価するだけの人物ではなかった。それゆえ、わが計略にかかって、そなたを見すててしまった」
 「……」
 姜推は、うなだれたままであった。
 孔明は、つづけた。
「わたしは、茅廬を出て以来、わが軍略兵法をすべてさずけるべき軍師をさがしもとめていた。一騎当千の勇猛の武将は、趙雲子竜、魏延をはじめ、十指にあまるほど、わが下に集った。しかし乍ら、ついに、わが軍略兵法ことごとくを伝えて、わがあとを継いで、軍師となってくれる人物を見出すことは、叶わなかった」
「……」
「いま一人、はじめて、わたしは、その者を見出した」
「……」
「それは、姜維伯約、そなたにほかならぬ」
「孔明殿!」
 姜維は、感動のあまり、胸が熟くなった。
「そなたの父上は、もともと、魏の家臣ではなく、天水郡の豪族であった、ときく。曹操に乞われて、天水城に入り、功曹となったが、羌人が乱を起し、四方をあらしまわった際、王から、その責任を問われ、一言の弁明もせず、職に殉じた由。申さば、そなたの父上ならびにそなたは、べつに、魏より、恩顧を蒙っては居らぬ。したがって、魏をすてて、蜀についても、べつに、背信の人とは相成るまい」
一姜維や自分の素性をすべて、孔明が調べあげているのを知った。

■馬謖を斬る

<本文から>
「語気こそおだやかであったが、孔明の面上には、みじんも許さぬ厳しい裁きの色が刷かれていた。
「丞相!」
馬謖の双眼から、ぼうだとして、泪がしたたり落ちた。
「丞相には、それがしをわが後継者とまで、お目をかけて下されたにもかかわらず、七禁を冒した、とうてい弁解の余地はございませぬ。何卒、いかなる処刑でもたまわりますよう、お願い上げます。・・・・・・ただ、舜が、鯀を罰し乍ら、その子の禹をして鯀のあとを継がせた例を、ご存念の一端におとどめ下さいますれば、この上のよろこびはございませぬ」
 と、嘆願した。
 馬謖には、二人の男子があったのである。
 「しかとききとどけてくれよう」
孔明は、約束した。
 後世、孔明が、泣いて馬謖を斬った、とつたえられているが、軍令を正す軍師として、その精神は、きわめて平静であった。

■姜推への後継

<本文から>
「「御辺こそ、わたしのあとを受け継いで、蜀三軍を率い、骨を粉にし身を砕いて働いてくれる軍師となる身だ」
「丞相!」
「わたしは、これまで、かぞえ尽くせぬ戦いを、たたかって来たが、しかし、いまだかつて、一度も、ここがおのれの身の果てる時と場所か、と絶望したことはなかった。・・・・・・しかし、人間というものは、絶対に勝てぬ敵が居る」
「司馬懿仲達ごときを、左様に評価きれますのは、丞相にあるまじきお言葉と存じます」
「ははは・・・・・・・・、姜推、なるほど仲達は、曹操にまきるとも劣らぬ軍略の天才だが、この孔明が、絶対に勝てぬ敵ではない。また、勝利ののぞみなしと知れば、かれと戦いはせぬ」
「なれば、絶対に勝てぬ敵とは?」
「それは、死だ」
「はっ!」
「いかなる人間も、死には勝てぬ」
「なればこそ、丞相には、あと一年のご静養が必要でございます」
「姜推−、わたしは、占星の術に通じて居る。人の運命と申すものは、生れた時から、定められて居る。これを、おのが力で変えようとしても、不可能だ。・・・・・・・・わたしは、この三月の蟄居の間に、おのれが寿命の尽きるのを、占った」
 「・・・・・・・・」
 姜維は、息をつめて、孔明を見まもった。
「きいわいなことに、わが生命は、この一二では、相果てぬ!」
「それは、なんという有難き占いでございましょう」
「もとより、この病痍が、あと十年も生きのびることは叶わぬ。・・・・・・・・姜推、よいか、これより、この孔明の戦いぶりを、つぶきに見とどけて、わがあとを継ぐ性根を、しかと、肝に据えておくがよい」

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