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<本文から> 吉宗は表向き光貞の四男として生まれた。長男綱教、次男次郎吉、三男頼職、四男吉宗である。ただ、次郎吉は幼くして死んだので、実質は二男である。いずれにしろ、吉宗が家を継ぐ可能性はほとんどない部屋住みであった。さらに、生母のおゆらが身分の卑しい湯殿掛だったこともあり、吉宗は生まれるとすぐ加納家にあずけられ、久通たちとともに行動することが多かったのである。
吉宗は子供のころから側に仕えてきた久過たちの顔に目をやりながら、
「それにしても、陰湿な戟いであったな」
そう言って、顔をしかめた。紀州藩の世継ぎをめぐって、綱教や頼職と苛烈な暗闘を繰り返したのである。
吉宗が子供のころからひそかに世継ぎ争いはおこなわれていたが、具体的になったのは吉宗が二十二歳のおりだった。
まず、逝去した大助に代わって真田一党をひきいていた幸美が、隠居した光貞の体調が思わしくなく、藩主の座にいた綱教が帰国する機会をとらえ、
「いよいよ、われら豊臣と紀州徳川家との合戦でございます」
そう言って、戦端をひらいたのである。
ただ、合戦といっても兵を出して敵勢を攻めるということではない。表に出ない忍者や隠密たちによる暗殺戦である。
事実たちは藩主綱教、三男の頼職のふたりを闇に葬ろうとした。ふたりさえ死ねば、吉宗に藩主の座がころがりこんでくるのだ。
ところが、藩主の座を狙っていたのは、吉宗たちだけではなかった。三男の頼職が綱教の命を狙っていたのだ。網教を就逆すれば、頼職が紀州藩を継ぐことができるのである。
頼職は、綱教だけでなくこのころ家臣の間で評判のよかった吉宗の命も狙っていた。そのため、頼職方と吉宗方の暗闘がくりひろげられたのである。
そして、まず綱教が毒殺された。綱教は領内の和歌祭に出席していたおり、頼職が放った忍者の手にかかったのである。和歌祭というのは徳川家康の霊を慰めるために和歌浦に建立した東照宮の祭礼で、帰国している藩主や重臣たちは参列するのが習わしだった。
綱教の死で、頼職はただちに紀州藩主に任じられた。
「されば、敵は頼職ひとり」
そう言って、幸真は矛先を頼職にむけた。
だが、頼職は御遺領相続の御礼で将軍綱吉に拝謁するため、あわただしく和歌山城を発駕し、紀州を離れてしまった。そのため、幸真は思うように刺客も差し向けられなかった。
そうしたおり、病床にあつた光貞が重篤におちいった。頼職はただちに、看病御暇を願い出、和歌山にとって返した。だが、頼職の和歌山城到着を待たずに光貞は没した。
頼職は慌ただしく帰国し、葬儀の準備に奔走した。
その頼職を、幸真が狙った。鶉の飛助という伊賀者を和歌山城に侵入させ、特殊な毒を使って病死に見せて頼職を葬ったのである。
これで、わずか四ケ月ほどの間に綱教、光貞、頼職の三人があいついで急死したことになる。八十歳という高齢の光貞はともかく、綱教は四十姦の男盛り、頼職は二十六歳の若さであつた。しかも、綱教は和歌祭のおりに吐渇して倒れ、そのまま急死したのだ。当然のことながら、藩士の間では生き残った吉宗の陰謀説がささやかれた。
だが、紀州藩を継ぐ者は、吉宗の他にいなかつた。それに、紀州藩では吉宗のような質素で英邁な藩主が待望されており、吉宗が藩主につくことに異を唱える者はいなかった。
当時、紀州藩は参勤交代の莫大な費用やたびかさなる江戸藩邸の焼失などのために財政は危機的状況にあつた。そのような逼迫した状況にもかかわらず、光貞、綱教、頼職たち歴代の藩主たちの暮らしは華美を極め浪費をやめなかった。そのため、家臣たちは喜んで吉宗を藩主の座にむかえたのである。
■真田十七家
まず、幸真は集まった男たちを紹介し、さらに真田一党として尾張領内にひそんでいる加納久通、古坂、野尻、それに、江戸に飛助、茂平、育造がいることを話した。
「ここに集まってもらった十一人、それに紀州を離れている五人の着たちが薬込役だ。殿に天下人になっていただくため、命を捨てて御奉公してもらいたい」
幸美がつづけた。
「ただし、薬込役であると同時に真田一党でもある」
幸美がそう言い添えると、薬込役のなかでは中心格の弥八郎が、
「真田十七家でございますね」
と言った。薬込役ではないが、幸真と久通の家をくわえれば十七家ということになる。
「そうだ。それぞれが家をたて、天下人の直参として子々孫々まで、豊臣家のために御奉公つかまつるのだ」
幸真は語気を強くして言い、
「飲むがいい。真田十七家、一門の契りじゃ」
杯を取って、ささげた。
オオツ! と声を上げ、一同も杯をささげて、一気に飲み干した。
真田家を除いたこの薬込役十六家が、後に御庭番となり、後々まで吉宗をささえることになるのだが、このときはまだ、そこまで思っていなかった。 |
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