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          鳥羽亮 真田幸村の遺言(下)覇の刺客

■陰謀によって紀州藩主になる

<本文から>
 吉宗は表向き光貞の四男として生まれた。長男綱教、次男次郎吉、三男頼職、四男吉宗である。ただ、次郎吉は幼くして死んだので、実質は二男である。いずれにしろ、吉宗が家を継ぐ可能性はほとんどない部屋住みであった。さらに、生母のおゆらが身分の卑しい湯殿掛だったこともあり、吉宗は生まれるとすぐ加納家にあずけられ、久通たちとともに行動することが多かったのである。
 吉宗は子供のころから側に仕えてきた久過たちの顔に目をやりながら、
 「それにしても、陰湿な戟いであったな」
 そう言って、顔をしかめた。紀州藩の世継ぎをめぐって、綱教や頼職と苛烈な暗闘を繰り返したのである。
 吉宗が子供のころからひそかに世継ぎ争いはおこなわれていたが、具体的になったのは吉宗が二十二歳のおりだった。
 まず、逝去した大助に代わって真田一党をひきいていた幸美が、隠居した光貞の体調が思わしくなく、藩主の座にいた綱教が帰国する機会をとらえ、
 「いよいよ、われら豊臣と紀州徳川家との合戦でございます」
 そう言って、戦端をひらいたのである。
 ただ、合戦といっても兵を出して敵勢を攻めるということではない。表に出ない忍者や隠密たちによる暗殺戦である。
 事実たちは藩主綱教、三男の頼職のふたりを闇に葬ろうとした。ふたりさえ死ねば、吉宗に藩主の座がころがりこんでくるのだ。
 ところが、藩主の座を狙っていたのは、吉宗たちだけではなかった。三男の頼職が綱教の命を狙っていたのだ。網教を就逆すれば、頼職が紀州藩を継ぐことができるのである。
 頼職は、綱教だけでなくこのころ家臣の間で評判のよかった吉宗の命も狙っていた。そのため、頼職方と吉宗方の暗闘がくりひろげられたのである。
 そして、まず綱教が毒殺された。綱教は領内の和歌祭に出席していたおり、頼職が放った忍者の手にかかったのである。和歌祭というのは徳川家康の霊を慰めるために和歌浦に建立した東照宮の祭礼で、帰国している藩主や重臣たちは参列するのが習わしだった。
 綱教の死で、頼職はただちに紀州藩主に任じられた。
 「されば、敵は頼職ひとり」
 そう言って、幸真は矛先を頼職にむけた。
 だが、頼職は御遺領相続の御礼で将軍綱吉に拝謁するため、あわただしく和歌山城を発駕し、紀州を離れてしまった。そのため、幸真は思うように刺客も差し向けられなかった。
 そうしたおり、病床にあつた光貞が重篤におちいった。頼職はただちに、看病御暇を願い出、和歌山にとって返した。だが、頼職の和歌山城到着を待たずに光貞は没した。
 頼職は慌ただしく帰国し、葬儀の準備に奔走した。
 その頼職を、幸真が狙った。鶉の飛助という伊賀者を和歌山城に侵入させ、特殊な毒を使って病死に見せて頼職を葬ったのである。
 これで、わずか四ケ月ほどの間に綱教、光貞、頼職の三人があいついで急死したことになる。八十歳という高齢の光貞はともかく、綱教は四十姦の男盛り、頼職は二十六歳の若さであつた。しかも、綱教は和歌祭のおりに吐渇して倒れ、そのまま急死したのだ。当然のことながら、藩士の間では生き残った吉宗の陰謀説がささやかれた。
 だが、紀州藩を継ぐ者は、吉宗の他にいなかつた。それに、紀州藩では吉宗のような質素で英邁な藩主が待望されており、吉宗が藩主につくことに異を唱える者はいなかった。
 当時、紀州藩は参勤交代の莫大な費用やたびかさなる江戸藩邸の焼失などのために財政は危機的状況にあつた。そのような逼迫した状況にもかかわらず、光貞、綱教、頼職たち歴代の藩主たちの暮らしは華美を極め浪費をやめなかった。そのため、家臣たちは喜んで吉宗を藩主の座にむかえたのである。
■真田十七家
 まず、幸真は集まった男たちを紹介し、さらに真田一党として尾張領内にひそんでいる加納久通、古坂、野尻、それに、江戸に飛助、茂平、育造がいることを話した。
 「ここに集まってもらった十一人、それに紀州を離れている五人の着たちが薬込役だ。殿に天下人になっていただくため、命を捨てて御奉公してもらいたい」
 幸美がつづけた。
 「ただし、薬込役であると同時に真田一党でもある」
 幸美がそう言い添えると、薬込役のなかでは中心格の弥八郎が、
 「真田十七家でございますね」
 と言った。薬込役ではないが、幸真と久通の家をくわえれば十七家ということになる。
「そうだ。それぞれが家をたて、天下人の直参として子々孫々まで、豊臣家のために御奉公つかまつるのだ」
 幸真は語気を強くして言い、
 「飲むがいい。真田十七家、一門の契りじゃ」
 杯を取って、ささげた。
 オオツ! と声を上げ、一同も杯をささげて、一気に飲み干した。
 真田家を除いたこの薬込役十六家が、後に御庭番となり、後々まで吉宗をささえることになるのだが、このときはまだ、そこまで思っていなかった。 
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■尾張の継友派と吉通派の内紛を煽り将軍の座を狙う

<本文から>
 幸美は飛助たちにひきつづき尾張藩を探るよう命じ、久通を連れて吉宗のいる御殿へむかった。
 吉宗と奥の書院で対座した事実は、まず尾張藩邸で武芸の御前試合がおこなわれたことやその後の酒宴で吉通が吐血したことなどを話し、
 「おそらく、継友どのの陰謀にございましょう」
 そう言って、吉通の毒殺のために事前に打った手であろうことを言い添えた。
 「継友め、なかなかの策士ではないか」
 吉宗が虚空を見すえながら言った。
 「ですが、われら紀州にとっては、望みどおりの展開でございます」
 吉宗を大将とする豊臣一党は、天下取りのため、まず尾張の継友派と吉通派の内紛を煽り、継友に吉通を拭虐させるための策をすすめてきた。尾張は御三家筆頭格の家柄でしかも尾張家直系の吉通の血の渡さが、吉宗の天下取りのためには大きな障害になるとみていたからである。
 ところが、継友は尾張家の傍系であり、家康の玄孫でもあった。家康の曾孫にあたる吉宗と継友をくらべた場合、将軍家との血統の近さとしては吉宗の方が上なのである。
 いざとなったら、血の潰さがものをいう。
 と、事実と吉宗はみていた。
 そのためにも、なんとかして吉通を亡き者にしたかったのだ。それが、紀州家で手を下さずに、尾張家の内紛によって吉通が暗殺されるなら、それ以上の結果はないのである。
 「いまは、継友のお手並拝見というわけか」
 吉宗は愉快そうな笑みを浮かべた。
 幸真はうなずいたが、
「ただ、紀州として、いまだからこそ、やっておかねばならぬこともございます」
 と、声をあらためて言った。
「たとえ、紀州が将軍の座をめぐる争いで尾張より優位に立ったとしても、家継さまがすこやかに育ち間部どのと白石の体制がつづくなら、豊臣が天下を取るなど夢のまた夢でございましょう」
▲UP

■将軍となり豊臣が徳川から天下を奪い取った

<本文から>
 綱条の謂は、血統の上からも吉宗を後見人として相応しい人物であることを意味していた。家康の血縁関係でいえば、尾張の方が紀州より上だが、吉宗は家康の曾孫であり、継友は玄孫であった。つまり、吉宗の方が一世代家康に近く、血は濃いというわけだ。
 継友は綱条の言葉に打ちのめされたように肩を落とした。視線を落としたまま吉宗を見ようともしなかった。
 綱粂につづいて、間部がさらに言いつのった。
 「中納言さま、天下万民のためでござる。ご辞退なく、お受けなされ」
 すると、綱条が立ち上がり、吉宗の手を取って上段の間へみちびき、己は下段に下がり、侃刀を取って平伏した。
 それを見て間部、老中たちも平伏したため、継友も頭を下げた。おそらく、胸の内は屈辱と無念で煮えたぎっていたであろう。だが、吉宗の後見人の立場が固まった以上、そうせざるを得なかったのである。
 吉宗はそのまま江戸城内にとどまった。
 吉宗の従臣として控えていた幸真、久通、京からもどっていた田沼意行などは殿上にのぼることを許され夕餉を供せられた。
 その後、吉宗は幸美たち側近とともに二の丸御殿に移った。吉宗は一息つくと、奥の書院に事実と久通を呼んで城内での一部始終を話した。
 「殿、思いどおりにことが運びましたな」
 事実が目を細めて言った。
 「大坂城が家康の手で落城してから百年余、ついに、わが豊臣が徳川から天下を奪い取ったのだ」
 さすがに、吉宗の声は昂っていた。
 幸美と久通も高揚していた。顔が紅潮し、目が燃えるようにひかっている。いっとき三人は感慨の表情で虚空に視線をとめていたが、
 「殿、こんどこそ、豊臣の天下を揺るぎないものにせねばなりませぬ」
 幸真が吉宗を見つめて言った。
 「そのためには、まず側近を殿の眼鏡にかなった紀州の家臣と真田一党の者でかためてくだされ」
 「おれもそのつもりだ」
 「さらに、世継ぎでございます。向後は徳川の血を排除し、殿の血筋が将軍の座を継いでいけるよう、新たに殿の血を引く家をたて、御三家を蚊張の外へ追いやることが大事でございます。さすれば、末永く豊臣の天下がつづくことになりましょう」
 幸真が言った。
 豊臣が徳川に代わって天下を取るとはそのことであった。天下太平の世、いまさら合戦で徳川を倒すことなどできようはずがない。そこで、豊臣秀吉の直系である吉宗が将軍の座に就き、向後豊臣の血で徳川の血を政権の座から一掃するのである。
 「分かっておる」
 吉宗は顔をひきしめて言った。
 その夜遅く、家継は大奥で息を引き取った。わずか八歳であつた。
 翌日、老中より登城した大名や旗本たちに、家継の売去が知らされ、「先代の御遺命により、中納言殿に勤仕するよう」伝えられた。
 さらに、翌五月二日に、諸大名諸士に「今日より吉宗を上さまと称し奉るよう」との沙汰があった。ここにおいて、吉宗は将軍として天下に君臨することになったのである。むろん、吉宗が豊臣の直系であることは、本人と幸美をはじめとするわずかな真田一党の者しかしらない。
▲UP

■真田一族の手で豊臣家の再興を果たす遺言が実現

<本文から>
 その後、吉宗は将軍としての立場を磐石にするため様々な手を打った。
 まず、田沼意行を御小納戸頭取として身近に置き、加納久通を将軍と老中の間を取り次ぐ御側御用取次に就任させた。さらに、水野忠之を老中に抜擢して幕閣の中核に据えたのである。
 さらに、薬込役として活躍した真田十六家は、これまでの戦いのなかで落命した者はその子に家を立てさせた上で、御庭番として幕臣にとりたてた。そして、吉宗の直属の隠密として仕えさせたのである。
 吉宗は豊臣の血で徳川の血を駆逐するため、御三家に取って代わるべき新たな家を立てることも忘れなかった。
 吉宗は次男の宗武に田安家、四男の宗声に一橋家、吉宗の跡を継いで将軍の座についた家重の次男の重好に清水家を立てさせ、御三脚とした。将軍家にもしものことがあった場合、御三家からでなく吉宗の血を引く者から将軍を迎えることができるようにしたのである。今後、豊臣の血が徳川に代わって天下に君臨していくことになるだろう。
 ここにおいて、真田幸村が大坂夏の陣に臨み、一子大助に託した『真田一族の手で豊臣家の再興を果たせ』との遺言が実現したのである。
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