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<本文から> 「ただお気づかい申し上げていただけで、なにごとをなし申したわけでもございませんのに、恐れ入ったおことばでございます」
と、幸村は答えた。謙辞ではなく、このことばそのままであったことを申訳ないことに思った。
しばらく、尼公からも語らず、幸村からも語らず、沈黙がつづいた。遠いところから聞
こえて来る蜩の声がその沈黙をつないだ。
幸村は言いたいことが、胸一ぱいに充ちている。しかし、それは言ってはならないことだ。切ないと思った。
やがて、やっと言うことばをさがしあてた。真に言いたいことではないが、この上黙っているわけには行かなかった。
「拙者が今日まいって、ご静居をおどろかし申しましたのは、先日召し使う小童が率爾な推参をいたしましたにかかわらず、お短冊とありがたいご由緒のあるお短刀とを下し賜わりましたお礼言上がためと、もはやご安心の世となりましたが、何かお役に立つべきことがございますなら、仰せつけていただくためでございます」
と言って、引出ものの礼を述べてから、
「何ごとにもあれ、ぜひ仰せつけて下さいますよう」
と言った。
尼公は両手に水晶の数珠を爪ぐりながら、落ちついた表情で聞いている。小さくて、真白で、形のよい手は掌が紅く、美しい桃色の爬をしている。明るい外光をはじき返してすきとおる水晶の玉とはえ合って、何ともいえず美しかった。
「ありがたいおことばではありますが、皆がよくしてくれますので、今のところは格別お願いするようなこともありません。これから先き、そんなことがありましたら、何にまれ、お願いするでありましょう」
こう言われては、幸村としては何にも言えない。なごりはおしくても、礼儀である。長居はすべきではない。おいとましなければならないと思っていると、尼公は自分のことばがあまりにそっけないようで、気の毒に思ったのであろう、また言った。
「ご忠節−いえ、もうこう申してはいけないのでした。ご親切は心からありがたいと思っています。この心はこの前さし上げた腰折にあらわしたつもりでいます」
あるかなきかの微笑に目もとをゆるませていうのである。
「恐れ入るおことばでございます。お家はなくなられましても、お人のおわすかぎり、君臣の関係はつづいているのでございます。拙者はあなた様を昔ながらの主家の方と仰いでいるつもりでございますので、お和歌の趣きは、身にあまる仰せと、ただ感泣いたしています」
言っているうちに、涙がにじみ、声がふるえて来た。
つとめて平静を保っていた尼公の胸にもせぐり上げて来るものがあったのであろう、袈裟をかけた胸が高まり、白い手を上げて目もとをおさえた。
その眉根に近く、細く真直ぐな鼻梁の両わきに、薄い皮膚をすかして、薄青い静脈がほのぼのと浮いている。いかにも繊弱で、いかにも繊細な感じで、いかにも可憐な感である。それを見た時、幸村の胸にどっとあふれて来る情感があった。
(この君のために死をもおしむまい!)
胸の痛いような気持を懸命にこらえ、平静を保った。 |
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