その他の作家
ここに付箋ここに付箋・・・
          海音寺潮五郎−真田幸村(下)

■尼公のために死す決意をする

<本文から>
 「ただお気づかい申し上げていただけで、なにごとをなし申したわけでもございませんのに、恐れ入ったおことばでございます」
 と、幸村は答えた。謙辞ではなく、このことばそのままであったことを申訳ないことに思った。
 しばらく、尼公からも語らず、幸村からも語らず、沈黙がつづいた。遠いところから聞
こえて来る蜩の声がその沈黙をつないだ。
 幸村は言いたいことが、胸一ぱいに充ちている。しかし、それは言ってはならないことだ。切ないと思った。
 やがて、やっと言うことばをさがしあてた。真に言いたいことではないが、この上黙っているわけには行かなかった。
「拙者が今日まいって、ご静居をおどろかし申しましたのは、先日召し使う小童が率爾な推参をいたしましたにかかわらず、お短冊とありがたいご由緒のあるお短刀とを下し賜わりましたお礼言上がためと、もはやご安心の世となりましたが、何かお役に立つべきことがございますなら、仰せつけていただくためでございます」
 と言って、引出ものの礼を述べてから、
 「何ごとにもあれ、ぜひ仰せつけて下さいますよう」
と言った。
 尼公は両手に水晶の数珠を爪ぐりながら、落ちついた表情で聞いている。小さくて、真白で、形のよい手は掌が紅く、美しい桃色の爬をしている。明るい外光をはじき返してすきとおる水晶の玉とはえ合って、何ともいえず美しかった。
 「ありがたいおことばではありますが、皆がよくしてくれますので、今のところは格別お願いするようなこともありません。これから先き、そんなことがありましたら、何にまれ、お願いするでありましょう」
 こう言われては、幸村としては何にも言えない。なごりはおしくても、礼儀である。長居はすべきではない。おいとましなければならないと思っていると、尼公は自分のことばがあまりにそっけないようで、気の毒に思ったのであろう、また言った。
「ご忠節−いえ、もうこう申してはいけないのでした。ご親切は心からありがたいと思っています。この心はこの前さし上げた腰折にあらわしたつもりでいます」
 あるかなきかの微笑に目もとをゆるませていうのである。
「恐れ入るおことばでございます。お家はなくなられましても、お人のおわすかぎり、君臣の関係はつづいているのでございます。拙者はあなた様を昔ながらの主家の方と仰いでいるつもりでございますので、お和歌の趣きは、身にあまる仰せと、ただ感泣いたしています」
 言っているうちに、涙がにじみ、声がふるえて来た。
 つとめて平静を保っていた尼公の胸にもせぐり上げて来るものがあったのであろう、袈裟をかけた胸が高まり、白い手を上げて目もとをおさえた。
 その眉根に近く、細く真直ぐな鼻梁の両わきに、薄い皮膚をすかして、薄青い静脈がほのぼのと浮いている。いかにも繊弱で、いかにも繊細な感じで、いかにも可憐な感である。それを見た時、幸村の胸にどっとあふれて来る情感があった。
 (この君のために死をもおしむまい!)
 胸の痛いような気持を懸命にこらえ、平静を保った。
▲UP

■決して思いつきに迷わずふだん熟考してきめておいた方法を厳守すべき−武田勝頼滅亡の教訓


<本文から>
「形勢がさしせまっているので、依田はあせっているのでございますね」
「その通り。ぜがひでも話をまとめ上げんと、徳川殿は甲州でのたれ死にすることになる。あせらんではおられんところだ。−しかし、わしはこう言うたよ。滝川殿から譲り状を受けたのは仰せの通りでありますが、拙者は佐久郡には望みはござらぬ。佐久郡は譲り状だけのことで、まだ実際に手に入れたのではござらぬ。しかし、小県郡は伝来の地であるものを、時の勢いに制せられて、織田殿に収められてしまっていたのでござる故、早やとりかえしました。譲り状のあるなしにかかわらず、拙者の家のものとして、末代まで確保いたしたい。また、上州部宗郡と、秤肝郡の沼田とは、拙者の代になって武力をもって切り取ったもので、武田家からも拙者の家の所領として認められています。これも末代まで確保いたしたい。拙者の望みは以上申し上げただけ。滝川殿からの譲り状ある佐久郡すら望まぬのでござれば、他に望みは露ばかりもござらぬ。以上申し上げた拙者の望みを認め
ていただけるなら、徳川殿の野獣となって、ずいぶん犬馬の労をとり申すでござろうと言うた」
 こんどは欲を出さぬつもり、小県郡の本領と上州の所領との確保が出来ればそれでよいことにしているという父のことばは前から聞いていることではあるが、先方がずいぶん甘い条件を出しているのにと、惜しい気もした。しかし、何とも言わなかった。底の底まで周到な思慮をめぐらしている父である。こうしなければならないものがあるのであろうと思った。
 昌幸はこちらの心がわかったように、また薄く笑った。
「わしもちょいと迷ったのだが、思いつきというものは、ちょいとはいいようでも、ふだん長い時をかけて考えに考えぬいたものに優ることは、まあないものだ。大きい領地を守るには守るだけの力がなくてはならぬ。今のわが家の力では、畷令の領地で手一ぱいだ。それに、こういう際の所領の約束などあてにならぬものはないのだ。当座の急を急ぐため故、ずいぶんうまいことを言うて誘うが、事定まったあとでは、大ていは知らぬ顔だ。約束をたてに談じこむと、五分の一ならまだよい方、大ていは十分の一くらいをくれて、それで済まそうとするものじゃ。これでは約束がちがい申す、約束通りにして下されと、こわ論判すると、きつう憎まれ、あげくの果てに亡ぼされてしもうということになる。
 力がもの言う世の中じゃ。かたい約束でござるなどと言い張っても、力の弱いものはゴマメの歯ぎしりはどの力もないのだ。無念なものよ。じやから、ここは欲を出すところでないと、最初からきめていた思案に従った。
 よく心得ておくがよいぞ。人間一生の間には、こんなことがよくある。決して思いつきに迷わず、ふだん熟考してきめておいた方法を厳守すべきものだ。
 何年か前の話だ、勝頼公が北条家と緑ぐみして、交りを固くされていた頃、越後の上杉家で謙信が死んで、家督争いのさわぎがおこった。謙信の養子二人、一人は一族からもろうた景勝、一人は北条家からもろうた氏秀−、これを謙信は可愛がって、おのれの前名景虎というをあたえたほどであった。家督争いはこの二人の間におこった。勝頼公ははじめ北条家との縁もあるので、北条家から頼まれて兵を越後に出された。そのため、景虎の方が勢いがようなって、景勝は苦しいことになった。
 勝頼公としては、どこまでもそれをつづけなさるべきであったのだ。そうすれば、やがて越後は完全に且界虎のものになったはず。越後が景虎のものになれば、元来これは北条家の出である故、北は越後から、中は信州・甲斐をつらね、南偲関東に至るまで、日本を縦につらねる大同盟が出来、武田家は盤石であったはずであったのだ。それがそう行かなんだのは、景勝が勝頼公の邦に使を立てて、上杉の家が拙者のものになるなら、お旗本に馳せ参じて、上州の所領を献上いたします、ご聴許下されて、お妹ごを拙者の妻に賜わり、軍勢をお賢し下されと、お願い申してからだ。
 勝頼公はいつも老臣らに、信玄公とくらべられてはおとしめられているのを口惜しがっているお人であったので、この申入れにふらりと心が動かれた。上杉は信玄公とは対等のせり合いをして屈しなかった家だ。それが帰服してお旗本になるというので、ついさそわれ、お妹姫のお菊ご料人を景勝の許につかわされて、加勢の軍勢をくり出された。それで景勝の勢いがようなって、景虎ほ攻め殺されて⊥まった。
 北条氏がうれしかろうはずがない。武田家と緑を切って、徳川家と結んだばかりか、徳川家を通じて織田とも結んで、武田家を共同の敵とした。武田家のほろんだについては、数え切れないはどの原因が積み重なっているが、一番の大きな原因はこれじゃよ。たとえ麒徽の敗戦で、よい武将、よい鵡出を多数失ったにしても、北条との同盟をかたくして、越後までつらねた大同盟が出来ていれば、織田や徳川がどんなに強くても、手を出せるも
のではなかったのだ。もとはといえば、思いつきにふらふらと迷って、かねての練りに練った思案をふり捨てて乗りかえなさったからのことじゃ。身にしみて覚悟しておくべきことだぞ」
▲UP

■幸村が徳川家を敵として壮烈な反抗した北条氏との和睦

<本文から>
 甲州における徳川氏と北条氏との和議が成立したのは、その数日の後のことであった。
 北条氏は御坂峠をこえて北条氏忠、同氏光、同氏勝に一万余の兵をひきいさせ、甲州に侵入させた。若御子に本陣をすえている氏直軍とともに、徳川勢を挟撃する戦略であったのだが、その新手の勢が、黒駒口で散々に撃破され、相州に逃げかえった。
 計略、齟齬したので、北条勢としてほ、今はもう打開の途は絶えて、間もなく餓死するよりはかはないことになった。そこで、和議がおこり、ついにそれがまとまったのである。
 その稀粁条約の内容はこうであった。
一つ、上州は北条家の分国とし、甲・信は徳川家の領分とする。
二つ、したがって、上州沼田は現在真田昌幸の領分ではあるが、北条家にわたし、沼田のかわりには、北条家が切り取っている甲州郡内と信州佐久郡を徳川家に渡すから、その中から適宜に真田にあたえる。
三つ、家康の女督姫(とくひめ、本名おふう)を氏直に嫁せしめ、両家は末長く和親する。
 この条約の内容のくわしいことは、一般には発表されなかった。両家が和睦し、そのために両家の間に縁談が行なわれ、北条氏は甲・信から手を引くというような工合にしか伝わらなかった。これでは北条方が大いに歩がわるいが、北条氏の現在の立場がおそろしく悪く、当主氏直が若御子に囚えられているに等しい境遇にいるので、不利な条件で講和するのも無理はないと、人々は納得したのである。
 この講和条約の内容が、真田家の運命を大変動させることになるとは、当時は誰も気がつかなかった。
 もし、昌幸がこの条約の締結以前に、進行しつつある条約内容を知ることが出来たら、昌幸は異議を申し立てたであろう。真田家は徳川家譜代の家来ではない。この頃帰服して野郎となったが、まだ徳川家からは寸毫の恩も蒙っていない。むしろ碓氷峠を切りふさいで北条方の糧道を断つという働きをしている。甲州進駐の北条氏が弱ったのは、主としてこのためである。徳川家のために大功績を立てているわけだ。こういう真田家にたいして、大名にとっては最も大切な領地の交換を、全然無断で約束するなど、あってしかるべきことではない。ずいぶん真田家を舐めた話である。だから、昌幸の異議は家康としても考慮せざるを得なかったであろうし、その結果は条約の修正となるか、替地のことを確約して昌幸をなだめるかしかないであろう。
 しかし、一切は厳重な秘密のうちに運ばれてしまった。家康という人は相手が強い時には大へん誠実であるが、相手が弱いと見ると、三百代言のような狡猾なことを主張し、それをおし通す人である。実例はうんとある。たとえば一向一揆のあと始末の際、関ケ原役後の毛利家にたいする態度、豊臣秀頼にたいする態度。真田家も小大名として見くびられたのであろう。
 ともあれ、昌幸はどの智謀の人が、そしてまた緻密な情報網をもち、すべての画策をその情報の上に立てた人が、ほとんど条約の内容を知ることがなかったのだ。よほどに当事者が秘密に運んだのである。運命というものであったろう。昌幸、そして幸村が、死に至るまで徳川家を敵として壮烈な反抗をし、徳川家を苦しめねばならない原因は、こうして出来上ったのである。
▲UP

メニューへ


トップページへ