その他の作家
ここに付箋ここに付箋・・・
          真田幸村と大坂の陣−三池純正

■幸村は青年武将でなく歯が抜けひげも白い老いていくだけの中年

<本文から>
 真田幸村といえば、誰もがさわやかなイケメンの青年武将を思い浮かべるのではないだろうか。実際、漫画やゲームに登場する幸村は、髪が長く、スレンダーな美しい武将に描かれることが多い。
 だが、実際の幸村は、九度山では中年、いや当時としては老年にさしかかる年齢になっていた。なにせ、父昌幸が死んだときにはもう四十五歳であった。現代の感覚では、六十歳近い年齢といえようか。
 「私など去年から急に年を取り、ことのほか病身になり、歯なども抜けました。ひげなども黒いところはあまりありません」
 幸村は書状の中で自分の容貌についてそう述べている。
 幸村は人間として、また男として最も働き盛りである三十代、四十代のほとんどを何もできない流人として送り、いつしか歯が抜け、ひげも白くなった初老の小柄な男に成り果てていた。
 幸村にとって、この目の前の平穏な生活を満喫して、家族のために生きることも人生の選択肢の一つであったろう。むしろ妻や家族はそれを望んでいたのかもしれない。
 「一度きりの人生がこれでいいはずはない!」
 幸村はそれで一生を終わりたくはなかった。名将真田昌幸の子として一度でもいいからチャンスがあれば、自らの力を満天下に示してみたかった。
 しかし、現実は、何もしないまま、ただ老いていく自分を見つめるだけの日々を送るしかなかった。
 それでも、赦免という希望があればこそ、それに懸命に耐えた。
 幸村は、父昌幸が亡くなったとき、一繹の希望をもった。父昌幸の流罪地での死はその罪を十分に償うものであり、次男の自分がその罪を受け継ぐ理由などなかった。幸村は父の死にあたって出家し、「好白斎」と名乗り、徳川家への恭順の意を示した。
 だが、昌幸は最後まで「公儀に憤る人」とされ、結果的に父に従った幸村も同罪とされた。そのことにより、一繚の希望も砕かれてしまった。幸村にも赦免の日など訪れることはなかったのである。
 しかも、昌幸の死に伴い多くの家人は上田に帰り、家臣はたった三人になってしまった。
▲UP

■幸村は流浪の生活の中、再起を信じて鍛錬した

<本文から>
 「大坂と関東の不穏な動きは真実か」
 不確実な情報や気になる情報に関しては、真田家の忍を使って、探りを入れさせることもあった。
 国元や姉などには、近況を伝える差し障りのない手紙を書いてはいたが、九度山での晩年の幸村を支えていたのは、それらの生きた情報であった。
 幸村は配流先で、一日中狩りや囲碁を打ったり、深夜まで兵書を読み、父昌幸と戦問答を交わし、日頃から近辺の郷士たちなどと共に兵術鉄砲を錬磨していたと伝えられている。
 これは、一見、のんびりと暮らしを楽しんでいたようにも思えるが、事実は、常日頃から囲碁で頭を鍛え、狩りで足腰を鍛錬し、兵書を読んで軍学を学び、戦巧者である父昌幸との問答を通して実戦の生きた戦術を学んでいたのであった。
 幸村は、長い流浪の生活の中、くじけそうになる自分と戦いながらも、いつか再起の日が必ず来ると信じて、日々の鍛錬だけは怠らなかった。
 後の大坂の陣での幸村の活躍は、この不遇な時代に自らを鍛錬し、思索を繰り返す中で得られた、独自の戦術眼によるものであったことは間違いない。
 関ケ原から十年、世はまさに徳川家康の世になろうとしていたが、大坂の豊臣家もそれに対抗すべく、様々な動きに出ていた。
 「近いうちに徳川と豊臣の間で戦が始まる」
 それは巷では、すでに、誰もが聞く噂となっていた。
▲UP

■九度山脱出し縁故の者たちが駆けつけた

<本文から>
 九度山脱出の際、最初は数十人くらいの規模であったが、やがて、大坂に着くころには、百五十人にまで膨れ上がっていった。それは九度山の人々や、真田家の旧臣たち、真田家縁故の者たちが幸村を慕い、「我も我も」と後から駆けつけてきたからであった。
 何の報酬も求めず、ただ幸村のためにと命がけでついてきた彼らこそ何にも代えがたい宝であり、愛すべき人々であった。
 しかし、一方、幸村の九度山脱出、大坂入城は綻破りであったことから、家族も無事ではいられなくなる。そこで、幸村は残りの家族が追手の詮索から逃れられるように、自らの脱出と同時に紀州伊都郡に避難させていた。
 幸村は単に自分の夢だけのために家族を犠牲にするわけにはいかなかった。
 「これだけあれば、当分、暮らしには不自由はせぬであろう」
 幸村は、避難する妻に黄金五十七枚(五百七十両)を渡した。これは、幸村が秀頼から拝領した黄金の約四分の一にあたる。幸村は、自分がどうなっても、その後の生計が成り立つように残された家族に十分な黄金を残して、大坂に旅立ったのであった。
▲UP

■父昌幸からお前が良策を提言しても誰も聞き入れまい、と

<本文から>
 九度山で、父昌幸は幸村にこんなことを言ったことがあった。
 「わしは、これまでに戦で数々の功を挙げ、皆から名将とうたわれてきた。だから、わしが何か策略を授ければ、皆が聞き入れるし、信じもしよう。しかし、お前はそうではない。仮にお前の才能がわし以上であっても、お前は大合戦の指揮を執ったことがないばかりか、そもそも、戦での活躍などはなく、たとえお前がどんな良策を提言しても誰も聞き入れまい。まして、相手が兵学に未熟な者ならなおさらである」
 幸村は、今、この父の言葉をかみしめていた。まさに今の状況は父の言う通りになっていた。
 「冷静に考えれば、大坂の首脳が私の策をことごとく取り上げないのも無理ないことである。私はただ名将真田昌幸の次男というだけで、大坂城に招聴され、一軍の将を任せてもらっただけで、軍事の才能を評価されてのことではない。しかし、大坂方は先制攻撃をかける前に、城周辺の重要砦をことごとく落とされ、今や籠城するしかないところまで追いつめられた。このままでは敵に勢いを与えるだけで、大軍の前にますます皆の心は萎縮してしまい、反撃など思いもよらない。これでは何もしない前に、敗れることになる。ここで何としても情勢を挽回し、皆に自信を与えねばならぬ」
 幸村は、一人思い悩んだ。
▲UP

■真田丸での勝利の様子

<本文から>
 時は早朝、辺りはまだ暗く、さらには、周辺に深い霧も発生していたため、気が付くと本多政垂らはいつの間にか真田丸の堀際まで進んでいた。
 そのうち、少しずつ霧が晴れていくと、真田丸から、前田の兵が真田丸の堀の塀際にまで押し寄せているのが見えた。
 「すわ!敵の襲来じゃ!」
  これを見た真田隊の兵たちは驚いて幸村に報告すると、幸村は悠然として一人の武士を呼び寄せ、耳元で何事かをつぶやいた。
 すると、その武士は真田丸の城壁から下に向かって大声を張り上げ、
 「そこにおられるは加賀の兵とお見受けいたす。日頃、篠山には鳥やウサギが住んでいるとは聞いておったが、鉄砲で鳥でも撃つつもりで登られたか。きっと鉄砲の音に驚いて皆逃げてしまったことでござろう。もう、狩りなどやめて早々に引き取られる方がよかろう。
 それとも、暇なら、試しに、真田丸を攻めてみてはいかがか!」と挑発した。
 「おのれ! そのような広言を吐かれては、黙っておれぬ!」
 これを聞いた前田隊の将士、特に本多政垂の部隊長奥村栄頼は烈火のごとく怒って、「塀を打ち破れ!」と真田丸の城壁に取り付いて、争うようにそこを登り始めた。本多の右先頭隊に続いて、横山長知率いる左先頭隊も続き、その勢いに、真田丸の塀は踏み破られるかと思われた。
 「ドドーン」
 それまで、敵がなすままにざせていた幸村は、それを見るや、ここぞとばかり、櫓や塀の狭間から一斉に鉄砲を撃たせた。
 「よいか!敵の真申を狙うのじゃ!」
 真田丸の兵は、幸村の指示で、塀下に取り付いてよじ登ろうとする一陣の前田兵とそれに続いて来ようとする二障二二陣の前田兵の間に集中的に鉄砲を浴びせていった。
 これによって、前田兵は前進することも、後退することもできなくなった。しかも、前田隊は真田丸を攻める予定などまったくなかったため、弾除けの竹束を持参することなく、そこに間断なく、鉄砲が浴びせられていった。
一番先に塀に取り付いた一陣の兵はことごとく真田の鉄砲の餌食になり、前田隊はパニックに陥り、統率が取れない状況となった。さらに、敵の攻撃を避けるため多くの兵は空堀の中に逃げ、身を隠すしかなかった。
 しかし、空堀というのは一度落ちたらなかなか這い上がれないように作ってある。その兵を助けようとするとどうしても空堀に人垣ができ、それも真田丸からは格好の標的となる。
 その様子を記した『大坂御陣覚書』によれば、「弓・鉄砲にて撃ち立てることは雨の降るようであった。(中略)櫓二尚櫓の狭間より撃ち立てたが、寄せ手には鉄砲を防ぐ竹束などはないので、ただ、的になって撃たれるだけで死傷者の人数は数え切れないほどであった」という。
 「あれほど注意したのに兵を進め、惨敗するとは何事か!すぐに兵を退け!」
 この事態に、前田利常は本多隊らが命令を無視して先に進んだことを怒り、直ちに兵を収めさせようとしたが、すでに犠牲は大きかった。
 その光景は、周辺の他の部隊から見れば、まるで前田隊が犠牲を覚悟で果敢に真田丸を攻めているかのように思えた。
 真田丸の東、八丁目口を守っていた徳川家の重臣井伊家の部隊は「前田家に先陣を許してなるものか!」と、あわてて真田丸の方に押し寄せていった。
 そのとき井伊隊を率いていたのは、当主直勝ではなく名代として参加していた直孝であった。
 直孝は側室の子であることから、井伊家での立場は微妙なものであった。そのため、直孝はこの千載一遇のチャンスで何としても功名を挙げ、自らの実力を内外にアピールする必要があった。その意味では直孝も功をあせっていたといえる。
 その動きを城の外郭の内から見ていた木村重成は、兵に命じて櫓上や塀の狭間から井伊隊に激しく鉄砲を撃ち掛けさせ、城壁である土塁の上から大石を次々と落としたからたまらない。たちまち、井伊の兵もそこから一歩も進めない状況となった。
 「ドーン!」
 そのとき、真田丸の背後の城内で、激しい音がして爆発が起こり、火の手が上がった。
 「すわ! 内応の合図じゃ!」
 この様子を見た徳川家一門の松平忠直、藤堂高虎の諸隊は大坂方の内応者が手引きの合図に火をつけたものだと早合点した。
 「拙者が火を上げたら、それを合図に攻め込まれよ!」
 関ケ原浪人として大坂城に入城していた元伯音羽衣石(鳥取県東伯郡)四万石の大名南条忠成は事前に徳川軍の藤堂高虎と内応の約束をし、城内で火を上げることになっていた。徳川軍藤堂隊はそれに合わせて城に攻め込む手はずであった。
 しかし、南条の内応は渡辺札らによって、事前に発覚し、南条はこの時点で大坂方に捕らえられていた。
 この何とも言えないタイミングでの爆発は、真田丸西後方を守っていた大坂方の石川康勝の兵が誤って火薬桶の中に火縄を落とし、それが爆発したために起きた偶発的な事故であった。
 そんなこととは露知らず、松平、藤堂諸隊は「このチャンスを逃すな!」と、真田丸に押し寄せてきた。
 そのとき、幸村の指揮で、真田丸の西の門が開き、幸村の嫡子大助、伊木遠雄ら五百人ほどの兵が繰り出し、松平・藤堂諸隊の応援に向かおうとした徳川方の寺沢、松倉隊に突撃しそれを追い立てた。
 しかし、数に勝る徳川軍の諸隊はすぐに盛り返し、松平隊が真田の突撃隊を取り囲んだ。
 すると今度は、それを見た秀頼の親衛隊が真田丸の西にある八丁目口の門から出撃し、松平隊に盛んに銃撃を浴びせ、蹴散らしていった。
 まさに見事な連携プレーで、大坂方は徳川諸隊を次々と打ち破り、徳川方の犠牲者は後を絶たなかった。
 「退け! 退け!退くのじゃ!」
 この報告を受けた家康、秀忠は直ちに撤退を命じたが、空掘の中の兵たちは浴びせられる鉄砲のために日中はそこから動くことはできず、結局、撤退するには夜を待つしかなかった。そのため、撤退ははかどらず、結局使者を三度も送る始末であった。
 当時の記録によれば、「松平忠直勢四百八十騎、前田勢三百騎が死亡、このほか雑兵の死者その数を知らざる」という徳川軍の大敗北に終わり、その噂はすぐに京都にまで伝わったという。
 戦いは大坂方の大勝利に終わり、戦いを指揮した幸村は、一躍、敵味方から名将として一目置かれる存在になった。
▲UP

■家康本陣に突入するも敗れた最期

<本文から>
 「今こそ、千に一つの好機!」
 この様子を見た事村は、すぐに本隊を率いて、再び、家康本陣に突入した。
 幸村は十文字の槍をもって家康本陣に突入し、旗本たちを追い散らし、次々と討ち取っていった。
 「退け!退け!」
 本陣を守る旗本たちは恐怖のあまり、そこから逃げるだけ逃げ、走るだけ走って、幸村の攻撃をかわすのが精一杯であった。
 武田信玄と戦った三方ケ原の合戦以来崩れたことのなかったという本陣の徳川の軍旗も大きく傾き、やがて足元に打ち捨てられた。
 「おのれ家康! 真田の刃を受けてみよ!」
 幸村は、再び家康の本陣を突き崩し、その首を取らんと突進していった。
 そのころ、真田隊の後方にいた大坂諸隊は、松平忠直隊と激しく戦い、死傷者が増えるばかりであった。
 これを知った幸村は残りの兵を率い、取って返して救援に向かい、自ら殿となって、彼らを退却させるべく最後の力を振り絞って戦った。
 しかし、幸村の奮戦もこれまでであった。
 徐々に少数となっていった真田隊はやがて壊滅し、自身も傷を負って精も根も尽き果てた幸村は、休息しているところを松平隊の兵に囲まれ、幸村を守る数人の武士たちもたちまち討ち取られ、幸村自身も西尾仁左衛門という武士と戦い、敗れ、その生涯を閉じた。
享年四十九。
▲UP

メニューへ


トップページへ