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<本文から> 二人が助命された理由としては、信之の妻・小松姫が、家康の養女であつたことも多分に影響していると考えられる。しかし、何よりも、信之の徳川家康への忠節が一番の理由だといえよう。『真田家譜』『真田家系譜』などにも、ほぼ同趣旨のことが書かれている。昌幸・信繁が九度山に配流されたのちも、信之は二人の赦免を願い続けているのだ。
年次を欠いているが、七月一八日付の井伊直政書状(真田信之宛)によると、信之が昌幸の赦免を願い出たことが判明するが(「真田家文書」)、信之が懇請した具体的な内容まではわからない。ただ、この書状は慶長六年以後のものであり、昌幸・信繁が九度山に蟄居を命じられて以後も、信之が赦免を願い続けたことがわかる。おそらく、それ以前から継続して赦免を願い出ていたのであろう。
家康から信之は、これまでの沼田領に加え、上田領なども与えられた。皮肉なことに、関ヶ原合戦で昌幸が下した決断は、真田家繁栄の礎となったのだ。
関ケ原合戦の時点において、昌幸は五四歳になっていた。当時としては、高齢に属するであろう。昌幸は九度山において、信繁と厳しい牢人生括を強いられることになる。 |
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