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          真田幸村と真田丸の真実−徳川家康が恐れた名将−渡邊大門

■信之の助命嘆願

<本文から>
 二人が助命された理由としては、信之の妻・小松姫が、家康の養女であつたことも多分に影響していると考えられる。しかし、何よりも、信之の徳川家康への忠節が一番の理由だといえよう。『真田家譜』『真田家系譜』などにも、ほぼ同趣旨のことが書かれている。昌幸・信繁が九度山に配流されたのちも、信之は二人の赦免を願い続けているのだ。
 年次を欠いているが、七月一八日付の井伊直政書状(真田信之宛)によると、信之が昌幸の赦免を願い出たことが判明するが(「真田家文書」)、信之が懇請した具体的な内容まではわからない。ただ、この書状は慶長六年以後のものであり、昌幸・信繁が九度山に蟄居を命じられて以後も、信之が赦免を願い続けたことがわかる。おそらく、それ以前から継続して赦免を願い出ていたのであろう。
 家康から信之は、これまでの沼田領に加え、上田領なども与えられた。皮肉なことに、関ヶ原合戦で昌幸が下した決断は、真田家繁栄の礎となったのだ。
 関ケ原合戦の時点において、昌幸は五四歳になっていた。当時としては、高齢に属するであろう。昌幸は九度山において、信繁と厳しい牢人生括を強いられることになる。
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■昌幸が目指したのは「打倒家康」ではなく、腹心の本多正信を通して許しを願い出ること

<本文から>
 関ケ原合戦で西軍に属し敗北した者は、おおむね所領を取り上げられるか、死罪を申しつけられるか、いずれかの道をたどった。所領を取り上げられた者のうち、復権を遂げたのは柳川藩主となった立花宗茂くらいである。彼は京都で粘り強く復権運動を展開し、見事返り咲いたことで知られる。しかし、これは例外中の例外であり、敗者復活は、事実上ほぼ不可能であった。
 昌幸が高野山に来てから約二年が経過した慶長八年(一六〇三) 三月一五日、昌幸は真田家ゆかりの信綱寺に宛てて「この夏、家康様が関東に下向されるとの噂がありますので、私のことを本多正信様が家康様に披露してくださるかもしれません。もし高野山を下山したときには、直接お目にかかりお話ししたいものです」という内容の書状を送った (「信綱寺文書」)。書状の冒頭では、元気なので安心してくださいと書かれている。これまで昌幸に「打倒家康」というイメージがあった人には、かなり奇異な行動に映るかもしれない。
 昌幸が目指したのは「打倒家康」ではなく、腹心の本多正信を通して許しを願い出ることだったのだ。仮に家康から赦免されたならば、一刻も早く故郷の上田へ帰りたかったのである。昌幸の 「打倒家康」 への闘志はおろか、赦免を請う哀れな姿しか思い浮かべることができない。
 ちなみに追伸部分には、信綱寺から銀子二匁の送金があったことが記され、昌幸は感謝の意を表している。どうやら昌幸は、金にも困っていたらしい。
 一方、慶長八年一月九日、昌幸は人を介して願主となり、京都・豊国神社に銀子七枚を奉納している(『梵舜日記』)。昌幸の依頼を受け、豊国神社に代参し奉納したのは、秀吉の正室・北政所であった。北政所は関ケ原牢人と懇意にしていたといわれており、昌幸も復権を依頼していたことが考えられる。昌幸は家康だけでなく豊臣方へも通じることにより、何とか復権の手がかりを得ようとしたようだ。藁にもすがる思いだったのだ。
 だが、昌幸の努力は結実せず、ついに故郷の上田に戻ることはなかった。
 そして、厳しい耐乏生活に悩まされることとなる。
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■借金まみれの生活

<本文から>
 大名としての地位を失った昌幸は、もはやその存在価値はなく、生活はまさしく最低のも
 のであった。
  まず、昌幸の生活基盤について確認しておこう。
 昌幸の経済基盤は、基本的に信之からの援助により成り立っていた。加えて高野山の蓮華定院などから支援を受けており、紀州藩主・浅野長属からも毎年五〇石が支給されていた(『先公実録』)。臨時収入として、先に触れたとおり信綱青から銀子二匁を送られることもあった。このような金銭的な援助があっても、昌幸の生活は厳しかったようである。
 年次不詳一月五日付の昌幸の書状(宛名欠)には、昌幸の四男・昌親から臨時の扶助金四〇両のうち二〇両が送金され、配下を通して受け取ったことが記されている (「真田神社文書」)。この書状は、昌幸の厳しい経済状況の一端を示す史料である。現在の貨幣価値に換算すると、一両は約一〇万円(諸説あり)になるので、四〇両は約四〇〇万円である。とりあえず二〇両が送金されたが、まだ二〇両も不足していた。
 生活レベルはなかなか下げられないものだが、昌幸は加えて多くの借金に苦しんでおり、
返済も困難になっていたようだ。それゆえ、すぐに残りの二〇両の送金を依頼したのである
 が、とりあえず春に一〇両の送金でも構わないとし、さらに準備でき次第、五両でも六両でも送金してほしいと懇願している。苦境に喘いでいた状況がうかがえる。
 昌幸の生活は、紀州や国許の人々によって成り立っており、とても「打倒家康」を考えるゆとりはなかったと考えられる。
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■信繁の人となり

<本文から>
 信繁とは、いかなる人物だったのだろうか。一般的には軍略に優れた人物というイメージがあるが、さほど性格や容姿についての印象はないかもしれない。『幸村君伝記』は、信繁の人となりについて、兄・信之が言い残した姿を記している。次に挙げることにしよう。
 信繋が天下に名を挙げたのは当然のことである。生まれながらの行儀や振る舞いは、普通の人と異なるところが多かった。物事には柔和・忍辱(辛抱強いこと)であり、言葉は少なくして、腹を立てることがなかった。いうなれば、信繁は国都を領する誠の侍といえるだろう。私などは付け髭をして目を鋭くし、腎(腕)を張った道具持というほど違っていた(格好をつけているが中身が伴わないこと。謙遜している)。
 この話は、信之に仕えていた小姓たちが聞いた話であるという。信之 (あるいは真田家)にとって、信繁は大事な存在である。関ケ原合戦で敵と味方に分かれたとはいえ、決して悪くは書かなかったはずである。そうなると、この話は誇張があるとも考えられるが、いずれにしても信繁は優秀な人間としてとらえられていた。
 また、信繁は気難しくなく、常に人と会話を交わすと笑いが絶えず、すぐに打ち解けたという (『翁草』)。その容貌については後述するが、大坂の障の折に四四〜四五歳くらいの年齢に見え (実年齢よりやや若く見えた)、額には二、三寸(六〜九センチメートル)の傷があったという。体格は小柄だったらしい(『長澤聞書』)。
 しかし、その好印象あるいは優秀な信繁像は、無残にも打ち砕かれることになる。その点を以下に示すことにしよう。
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■困窮生活

<本文から>
 第二章で触れたとおり、父・昌幸は貧困を余儀なくされ、帰郷という夢を果たせぬまま病没した。むろん、信繁だけが裕福な生活を送っているわけがなく、父と同じく窮乏に堪えていた。それは、昌幸以上だったといえるかもしれない。
 信繁の場合は父と異なり、妻子とともに屋敷に住んでいた。信繁の妻は大谷吉継の娘であり、加えて妾が一人いたという。そして、倍繁と妻・妾との間には、二男七女の子どもがいたことが判明している。九度山では、このうちの男二人と女三人が誕生している。子宝には、恵まれていたようだ。
 信繁の妻については、関連する史料がある。文禄二年(一五九三)九月の年次が記されている「鶴亀文懸鏡」(太宰府天満宮所蔵)の銘には、願主の大谷吉継と妻・東に加えて、小石・徳・小屋なる吉継の子どもの名前が記されている。この三人の子どもすべてを女性とする根拠はないものの、この中に女性が含まれており、信繁の妻になった女性がいるのはたしかなようだ。二人が結婚したのは信繁の人質時代以降で、おおむね文禄年間頃と推測されている。ただ残念なことに、夫婦生活などは詳しくわからない。
 平凡かもしれないが、信繁は妻子と同居していたので、比較的穏やかな生活を送っていたと想像される。しかし、昌幸が亡くなると、残された信繁のもとには、わずか数名の配下の者しか残らなかつた。かつて昌幸は真田家の当主でもあったので、厚遇されていたと考えられるが、信繁は庶子だったのでその待遇も違っていた。まさしく、次男坊の悲哀といえるかもしれない。
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■なぜ牢人たちは後世評価されたのか

<本文から>
 この意見に対して、信繁は貴意が軍学の第一人者であることから、それらの提案に強い説得力があるとしながらも、次のように反論を行った。
 つまり、古来より宇治・瀬田で防戦して、勝利を得なかったというのは証拠にならず、そもそも今と育とでは戦法も異なケ、昔(平安・鎌倉)は槍や鉄砲がなかったと主張した(太刀と弓のみ)。特に鉄砲によって、籠城戟、小川などを挟んだ戦い、平地での戦い、原野での小競り合いに至るまで、一段と利便性が増している。以前は、川を挟んだ戦いは利が少なかったが、今は必ず勝てると父・昌幸が申していた、と反論した。
 信繁の意見にもかかわらず、治長らは大坂城を離れることを決断しなかった。景意の意見を採用し、信繁の意見を退けて軍議は終わり、籠城が決まったのである。以後、景意は豊臣方のために積極的に献策をせず、味方が優れた作戦を披露すると邪魔したという。徳川方の思う壷であつた。
 そして、景意の謀略を疑わなかった豊臣方の重臣らは、無能な人間の集まりであったと評価された。ここでポイントとなるのは、優れた作戦を否定された信繁ら牢人たちのやり場のない無念さと、大野治長以下の豊臣方の無能な譜代の重臣たちの対比である。これが、後世の彼ら牢人たちの評価へとつながったのである。
 以上の信繁らの作戦が採用されなかつた逸話は有名であるが、背後に貴意がいたということは、真田系の編纂物にしか書かれていない。また、貴意の動向は、ほかの史料で裏付けしにくいのがネックである。
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■真田十勇士と史料

<本文から>
 では、真田十勇士は、たしかな史料でその存在を確認することが可能なのだろうか。
 真田十勇士の面々は、実に工夫して創作された、個性豊かな人物で構成されている。この中では、穴山小助が武田氏家臣・穴山氏の血筋を汲み、また海野六郎、根津甚八、望月六郎が信濃の名族・滋野氏の流れを汲むなどの設定になっているが、実はたしかな史料では存在を確認できない。ほかの面々に至っては、最初から実在しそうにない「キャラクター」だと思われても仕方がない面がある。
 ちなみに真田氏の先祖の海野氏は、信濃国の名族・滋野氏の流れを汲んでいる。滋野氏は山伏、修験道、妖術、医術に関係していたとされる。また、その祖は、盲人であったという伝説もある。
 滋野氏は特殊な能力を持った一族であり、中近世に至ってもそうした体質を持ち込んでいたという。真田一族発祥の地に近い四阿山も、山伏の修行地として古くから知られている。
 同山は信濃国の山岳宗教の中心地の一つであり、修験道の霊山でもあった。
 真田十勇士の面々は、忍術などの特殊能力を持っていたが、滋野氏の特殊能力が反映されたのかもしれない。また、滋野一族が全国を行脚している途中、忍術を用いる甲賀一族と出会う機会があり、猿飛佐助という甲賀忍者が輩出されたとの仮説も提示されている。いずれも証明は困難であるが、真田十勇士誕生の背景としては、誠に興味深い説である。
 しかし、先に示した真田十勇士の説明は、『真田三代記』や「立川文庫」の『真田十勇士』などに基づくもので、架空の人物に過ぎない。滋野氏の特殊能力などの話は、真田十勇士のキャラクター設定に活用されたのだろう。真田十勇士はまったくの架空であり、想像上の人物と断じてよいが、とりわけ、「立川文庫」の『真田十勇士』がその存在を世間に広く知らしめることになったといえる。
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■信繁の最期

<本文から>
 真田方の戦いぶりは、島津氏が「真田日本一の兵」と称えており、後世に伝わるほど高い評価を得た(『薩藩旧記雑録』)。
 信繁の最期については、次のような記録がある。
 信繁を討ち取った者はこれまでにない大手柄であると賞賛された。
 疲労困億していた信繁は、あっけなく討ち取られた。首は松平忠直の鉄砲頭が獲ったとされる。しかし、二人が戦った末に信繁の首を獲ったのではなく、傷を負った信繋が休憩した隙のことだったので、著しく評価が下がっている(『綿考輯録』)。これは、細川方の記録である。別の史料には、信繁が従者らに薬を与えているとき、越前松平家の鉄砲頭・西尾久作が討ち取ったという記録もある(『慶長見聞集』)。
 しかし、『真武内伝』には、違った最期が記されている。信繁は配下の者とともに徳川方に最後の突撃を試みたが、その際に久作が信繁の馬の尾をつかんで、先に進ませなかったという。そして、刀を抜いた二人は白兵戦に及んだが、すでに体中にたくさんの怪我をしていた信繁は馬から転落した。疲労困億だったのだ。その瞬間、信繁は久作に首を獲られたというのである。信繁と久件が一騎打ちをしたと書かれているが、これには疑義も唱えられている。
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