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<本文から>
島津久光という人は気性も鋭敏であり、賢くもあり、当時の大名申出色の人でありましたが、天性の保守家でした。その生母は江戸の町家生れの女性でしたが、彼自身は薩摩で生れ、薩摩で育ち、四十六歳まで一歩も港外へ出たことがありませんでした。保守的性格で、保守的教養の人であることが、実父斉興の気に入られ、斉興を取巻く重臣層の実にも入られていましたので、一層保守的性格の人となり、兄斉彬が進歩的で、開明的で、学問も洋学好みでありましたのと、まるで反対に、国学や漢学を好んでいました。
身分が高かったので、交友関係から啓発する人もいませんでした。また時事問題解説の書籍や新聞雑誌などのある時代でもありませんので、独力で時代にめざめるということもありませんでした。
ただ、学問好きで、漢学や国学の書籍は読んでいましたので、幕末の知識人はひとしく持っていました尊皇思想は持っていました。尊皇思想は、江戸時代三世紀近くにわたる学問盛行のために、その初期においては朱子学等の儒学が、中期以後には国学が、人間や国民の道義の根本を為うものとして人間に教えて、智識層にとっては常識として定着していたものであります。
この久光を教育して、時勢眼をひらかせたのは、大久保一蔵です。
島津斉彬は、やがて安政の大獄となる井伊大老の反動政治に憤慨して、兵をひきいて京都に上り、幕政改革の朝命を請下し、クーデターをもって幕府にせまり、井伊を退陣させ、幕政を建て直す計画を立て、国許では兵を練り、中央には西郷らを送って京都朝廷との連絡にあたらせ、鋭意準備をすすめつつあった最中、俄かに死に、大計画は挫折してしまいました。
斉彬の死はまことに唐突であり、当時薩摩に多かったアンチ斉彬派の人々にとってはまことにタイムリーでしたので、良死ではないと考える者が当時もありました。西郷などそう信じていた人であります。私もまたその疑惑を捨てかねている者であります。
ともあれ、斉彬が死にまして、斉彬の弟である久光の長男の忠義が新藩主となり、斉彬の実父である前々藩主の斉興が藩政後見となりましたが、同時に藩の方針は大転換しました。よく百八十度の転換と申しますが、百八十度どころか、新しい薄政府は斉彬政府の政策や方針には憎悪すら抱いているものと化して、一切の施策、一切の方針を徹底的に破壊し、否定しました。
斉彬の時代には、薩摩は全日本で最も進んだ近代工業の土地でした。造船所があって、洋式帆船や蒸気船をつくり出し、兵器工琴があって、新式の小銃をつくり出し、紡織工場があって、綿糸や帆布を紡織し、ガラス工場があって、輸出用のカット・グラスをつくり出していましたが、それらの施設は全部破壊されました。
沖縄を通じて、西欧諸国と貿易する計画を持ち、沖縄を解放する意図を持っていましたのに、それも停止されました。
日本の政治にたいしては、幕府をリードする態度をとっていましたが、それも全面的に改められて、一切中央の政治には無関心の殻に閉じこもり、幕府の方針と命令とに文句なく聴従するという態度になりました。
斉彬がとっていた方針や態度に敵意と悪意とを抱いていないかぎり、こうまで変えられるものではありません。
このようなことが、西郷をして月照と相抱いて錦江湾に投ぜしむることになったのです。斉彬の生前、月照は薩藩の京都朝廷への政治工作にはずいぶん働いているのです。その月照に幕府の追捕の手がのびて来た以上、薩藩としてはいかなる方法をもってしてもかくまわなければならない義理があります。しかし、その時の藩政府は斉彬の施策方針には憎悪と反感しか持たなくなっていて、窮し切っている月照を救おうとはしませんでした。こうなっては、西郷としては、月照と一緒に死ぬよりほかはありますまい。 |
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