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          海音寺潮五郎−西郷と大久保

■西郷の倫理感覚は最も純粋鋭敏、清濁併せのむ底の人ではなかった

<本文から>
(おいは順聖院様のおあとを追うて、あの時死ぬべきじゃつた。なまじご計画の精神を生かそうと、生きながらえて色々やったものの、結局はなんにもならなんだ。あの時死んでいれば、こげんことにはならんじゃったのだ)
 という思いがあった。
 西郷は豪傑の資質を最も大量に持って生まれた男であり、無神経と思われるくらい物に拘泥しなかったが、その倫理感覚は最も純粋鋭敏であった。彼は普通考えられているように清濁併せのむ底の人ではなかった。人の長所には常に心から感服尊敬する、最も謙虚な人がらであったが、その人物鑑識は峻烈厳格をきわめ、その最も重きをおいた鑑別の標準は、心術が清潔か否かであった。
 この標準に照らす時、月照にたいする藩政府の態度は言語道断であった。一藩の安全のために幕府を恐れて、堂々たる大藩が忘恩不信義、匹夫も恥ずるような不潔な行為に堕していると感じた。
「薩摩の精神は先君とともに死んだ」
 と思った。生きて行くせいを失った。
 この夜、霜月十五夜、冴えに冴えた満月の下で、西郷と月照は、相抱いて鹿児島湾に投水するのであり、この物語はその翌朝から書きおこしたのであり、今までえんえんと書いて来たことは、ここに至るまでの説明である。 
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■大久保は西郷とは違うた形の英雄を目指す

<本文から>
 これまでも国許の同志の統制は、大久保がとりしきっていたが、大体において支障はなかった。それは、西郷がいたからだ。
 「吉之助サアからこう言うて来た」あるいは、「このことについては、前に吉之助サアと語り合うたことがごわすが、吉之助サアはこう言うておじゃった」と言えば、皆納得した。
 でなければ、大久保より年長の者も相当いるのだ。薩摩のような長幼の序のきびしいところでは、いろいろ面倒であったに違いないのである。
 つまり、同志間における西郷の圧倒的声望を利用して、やって来たのだ。
 (吉之助サアは、どうしてあげん人気があッのかなア)
 はじめて、西郷をうらやましいと思った。
 英雄的な風貌、ものに動ぜずいつも山のように沈着な態度、勇気、決断する場合の凄じさ、誠実、潔癖なほどの心術、他の長所に最も素直に感心する謙虚、豊かな愛情、等々々。一つ一つ考えて行くと、とうてい及ばないという気がして来た。
 (順聖公があげんまでお気に入られたはずじゃ。そのためにいろいろ教えを受け、機務に属する仕事をさせられ、天下の賢諸侯や名士達に顔が売れ、天下の名士になりなさった。従ってまた同志の尊敬がいやが上にもまして、あげんまで皆に慕われるようになりなさったのじゃ)
 こうも思った。
 (学問は伊地知サアに及ばず、武術は俊斎どんにおとり、知恵弁舌はおいにおとっていなさるのじゃが、人物の出来というものはそれとは別と見ゆる。吉之助サアのよな人を、英雄の天資ありというのじゃろうなあ……)
 羨ましさは、いつか感嘆にかわった。これほどの人物を、最も親しい友に持ったことをうれしいと思った。
 (おいも修行して追いつかんければならん。おいはおいで、また捨てたものではなかからな)
 同志中の誰よりもまさっていると自負している知恵、弁舌、強靭な意志、勇気、清潔な心術、等々々を、一つ一つ考えてみた。
 (おいじゃて、修行すれば、吉之助サアとはまた違うた形の英雄になれるはずじゃ。英雄は一種類ではなか)
 はればれといい気持になったが、しばらくすると、思案はまた前にかえった。
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■大久保は久光に近づくために碁を習う

<本文から>
 (吉之助サアは吉之助サア、おいはおい。吉之助サアでは逆立ちしそも出来やらんことを、おいはして見せる。つまりは、日本を立直せばよかのじゃ。おいは久光様を手に入れて、全薩摩をひきいて、それをやッてみせるのじゃ)
 決心がつくと、久光に近づく方法の研究にかかる。
 それとなく、久光のことを調べてみると、すぐ耳よりなことがわかった。久光は知行所である重富に住んでいるのであるが、城下にも屋敷があって、時々出て来る。碁が好きなので、出て来ると、城下の天台宗の寺吉祥院の住職真海を呼んで相手させるというのだ。
 裏梅は精忠組の同志税所喜三左衛門(篤)の実兄だ。以前、重富郷円明院の住職だったので、その頃から久光の碁がたきになっているという。
 (先ず幸先よしじゃ)
 大久保は税所を訪れて、
 「おいどんな碁を習おうと思い立ちもした。ついては、オマンサアの兄上の真海様はお上手じゃと聞きもす。弟子入りしとうごわすから、お引合せ下さらんか」
 と頼んだ。税所は西郷と同年で、大久保より三つ年長である。
 税所は大久保の深い心を知る由もない。お易いことと、吉祥院に連れて行った。
 現在照国神社になっている地域は、藩政時代には南泉院という天台宗の大寺院のあった場所であるが、照国神社の向って左側から入って城山に登る道がある。吉祥院はあの道に沿って左側の、山の上り口にあった。南泉院の末寺だったのである。現在では上ノ平町の端っこになっていよう。
 薩摩で武士の家に生れて僧になるのは、不具着か、気のやさしすぎる者か、いずれかである場合が多い。少年の時、鶏をひねるように父に命ぜられて、それが出来なかったため、
 「この子はさむらい向きではなか。慈悲心がありすぎる」
 と、寺に入れられた人の話を、この国では実にしばしば聞くのである。
 真海がどういうわけで出家したか、伝えるところがないが、不具であったという詰もないところを見ると、鶏をひねれなかった疑いが濃厚である。
 真海は四十を少し越した年輩であった。はげ頭の、魁偉な容貌をしている。弟の話を聞くと、
「ほう、喜三左のなかまで、碁を稽古しようちゅうお人もごわすのか。そら奇特なことじゃ。おはん方は、尊王じゃ、攘夷じゃ、大砲じゃ、アンゲリヤじゃ、アメリカじゃと、そげんことばかり面白がっておじゃると思うとった、ハハハ。ようごわすとも、敢えて上げもす。夜は大ていひまで、在院していもすから、おじゃるがよか」
 と言って、早速碁盤を持ち出して、手ほどきにかかった。
 のみこみは早い。考えることが好きな性質でもある。
 「おはんは見込がある。天性の碁才があるようじゃ」
 と、ほめてくれる。大久保の、生涯を通じての道楽となった碁が、こうしてはじまったのである。
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■大久保は突出計画を知略で収める

<本文から>
 「仰せられる通りでございます」
 久光は言う。
 「その方共のその計画のはじまりから、聞きたい。大方のことは聞いていもが」
 大久保は問いかえした。
 「さては、谷村愛之助殿から申上げたのでございますな」
 久光は笑った。
 「誰でもよかろう。ともかくも、わしはある程度まで知っている」
こちらは首を振った。
「お上は軽く仰せられますが、拙者にとっては軽いことeはございません。同志の間では、たとえ親兄弟、夫婦たりとも、漏らしてはならんという申合せになっているのでございます。ただ谷村殿は順聖公ご在世の頃から拙者共の志をよく知っておられるお人でありますので、拙者共脱出の後、その志のほどをお上筋によく説明していただきたいと存じ、拙者の一存をもって打明けたのでございます。しかれば、−もし谷村殿からお聞きに達したとすれば、拙者から漏れたのでございますから、拙者は同志の衆に罪を負わねばならないのでございます」
 こうして久光が自分を呼出して事情を聴こうとするのは、精忠組に悪意を抱いてのことではないとの自信はあるものの、万々が一ということもある。罪は一身に争って他には及ぼすまいと、きびしく覚悟をきめている。縦横の策は駆使しても、策ばかりの自分ではない、勇 気においても千万人中の一人であると、自ら任じているのだ。
 大久保のすでに看破したように、久光は度量のひろい人ではない。何ごともきちんとした ことが好きで、極度に秩序を重んずるためであろう、階級観念が強烈であり、従って権力主義的であったが、勇気は抜群の人であった。智者は智者を知り、勇者は勇者を知る、この白面の青年のものしずかな態度と行きとどいた説明の中に、死の座にすわって動じない、最も静かな勇気を見てとり、感動した。うなずいた。
 「わしはその方共をとがめようとは思っておらん。約束する。憚らず、何事でも申すよう」
 大久保は礼を言ってから、説明にかかった。すでに古史伝の中にはさみこんで言上してあることだが、改めて世界の情勢から説きおこし、自分らのこんどの計画が順聖公の未発におわった大計画の紹述であることを強調し、今や一切の準備が完了して実行に移すばかりになっていることを、全部語った。
 今日という日を待って、説明の順序から語句まで、練りに練っていたのだ。持ち前の力強い雄弁に乗せて説き去り、説き来った。
 久光は感動し、うなずいた。
 「よくわかった。その方共の志はまことに殊勝だ。順聖院様にたいしては、太守様も、わしも、以前から尊敬申上げている。やがて必ずご遺志をついで、天下のことに乗出したいとも思っている。ただいろいろな事情があって、急にはそれが出来ん。どうであろう、時機が来て、薩摩全体として乗出すまで、その方共も隠忍して待ってはくれまいか」
 これまで精忠租だけの運動であったものを藩全体のものにしようと、ただ一人でこつこつと努力をつづけて来たのだ。その努力が実って、今や久光の方から手をさし出させたのだ。大久保は高い山の頂きにたどりついた人の喜びを感じたが、顔には出さない。ごく冷静に言った。
 「すでに計画の全面をお知り願いましたばかりか、決して私共に手荒な処分を以ては臨まないとのお約束もいただきました以上、拙者一人は唯今の仰せにかしこまり申す心でいますが、多数の同志中には、定めていろいろな考えの者がありましょう故、このままではお受けいたしかねます」
 久光は沈思する。
 「どうすればよいのか」
 「ご工夫を願わしゅうございます」
 といって、しばらく考えさせる間をおいて、大久保の提示した方法は、忠義の名を以て、忠義が順聖公の志をつぎ、やがて必ず全藩をひきいて天下のことに乗り出すことを約束した論告書を賜わりたいということであった。
 「どんな文面にしたらよいのか」
 「筆紙を賜わりとうございます。案文いたしましょう」
 久光は手をたたいて侍臣を呼び、筆紙を持って来させた。
 大久保はゆっくりと墨をすり、思案する風情で、いく度も訂正しながら書いた。胸中にはすでに出来上ったものがあるのだが、わざとそうしたのである。
 やがて、清書して差出した。
 久光は受けて、熟視して、
 「よかろう。これは貰っておく」
 と言って、大事そうにたたんでふところに入れた。
 「これをどこへとどければよいのか。その方へか」
 「大山正円の許がよろしゅうございましょう。ご家中で、井伊の暴悪政治の犠牲となった者は、西郷吉之助、日下部伊三次、大山正円の三人でございますが、西郷はお家の機略で、死んだことにして大島住いとなっており、日下部は獄中に死に、大山一人が永蟄居となって当地におります。特にこの大山の許へありがたい論告書をお届け下さるのは、すなわち幕府の暴悪を礼弾なさる思召しのあらわれということになりますから、同志の者共の感侃は一通りならぬものがあるかと存じます」
 久光は大久保の顔を見つめている。うなずくのも忘れたようだ。最も周到に働く知恵に驚嘆している風である。そしらぬふりで、大久保はつづける。
 「論告書を賜わるのは、一日も早いがようございます。日がのびればのびるほど、一同の心が激して、おさえにくくなりますから。なお当日のお使は谷村愛之助、児玉雄一郎の両氏が最も適当と存じます。両氏は順聖院様の頃から拙者共と懇親の中でありますから、その申されるところは、皆信頼するであろうからでございます」
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■大久保は策士であり、常に死の座にある覚悟も出来ていた

<本文から>
わしは兄弟の情としても、行ってことを共にせんければならん。わしは一人でも突出する。届を出して、落籍を脱すれば、天下の浪人じゃ。浪人なら、藩に義理立てはいらん。日本の国民として、王室のために、日本のために、自由な働きをしても、少しもさしつかえはなかはずじゃ!」
 眼をつり上げ、青いあたまを振立て、泡を飛ばして論じ立てる。
「おはんばかりはやらん! この期におよんで、ためらいがなるか! 薩摩隼人でごわすぞ!」
 と、同ずる者が多い。その目は皆大久保に向いている。ここまで引きずられて来たのは、久光との交渉を一人で引受けていた大久保の責任じゃと言わんばかりの、はげしい表情であった。
 大久保は座中を観察して、先ず俊斎を説得しなければ、この沸騰はおさえられないと見た。立上って廊下に出て、俊斎を手招いた。
 俊斎は渋々と立って来た。
「なんでごわす」
 ふくれている。警戒しているようでもある。
「話がごわす。こちらに来て下され」
 別室に連れて入った。
「すわりやれ」
 すわったが、やはりふくれ返っている。
「なんでごわす」
 大久保は真直に俊斎の目を見つめて言った。
「おはんの立場として、今この時にあたってじっとしておられんのは、よくわかる。我々とて、このことだけを一筋に思いつめて来たのじゃ。じつとしておられるわけがなか。しかし、落籍を脱して国を出るというても、藩がそれを許さんことは確かじゃ。必ずさしとめる。押切って出ようとすれば、殺されるじゃろ。脱出せずんば年来の素志に違い、水戸衆らとの約に違う。脱出を強行せんか、殺される。わが精忠組は、今や進退共にきわまった。しかも、我々は組の責任者じゃ。せめては、同志の衆にたいして責任を取ろう」
 俊斎には、相手が何を言おうとしているのか、よくわからない。しかし、うなずいた。
「賛成でごわす。しかし、どうするのでごわす」
「おはんとわしと、さし違えて死ぬのでごわす」
 俊斎ののどがこくりと鳴った。狼狽に似た色が目を走った。
 とどめを刺すように、大久保の沈痛なことばがつづく。
「武士の責任のとりようは、死ぬことしかごわはん」
 俊斎は答えない。
 二人は目をゆるめず、にらみ合うように、相手の目を凝視し合っていた。
 大久保はもとより死ぬ気はない。死中に括をもとめる策であった。しかし、相手が同意すれば、躊躇なく死ぬ決心は定めていた。
 彼が普通の策士と違うところはこの点にある。彼は策士であり、現実を決して忘れない最も有能な事務家的政治家であるとともに、最も勇気ある人であった。決して死を恐れない。常に死の座にある覚悟が出来ていた。
 維新時代、薩摩には豪傑の士が輩出したが、彼は最も薩摩人らしくない薩摩人であった。しかし、決して死を恐れないこの点においては、醇平たる薩摩人であったといえよう。何百年の間、薩摩藩が最も力を入れて来た訓育は、一筋に、死を恐れることは男最大の恥であるという観念を、武士らに植えつけることにあったのだから。
 俊斎は制圧された。言う。
 「死んですむものなら、それもようごわす。わしは決して死を恐れはしもはん。しかし、わしらがさしちがえて死んだとて、事が解決するわけではごわすまい。とすれば、責任をのがれるに過ぎんのじゃごわすまいか」
 大久保はなお視線をゆるめず、凝視をつづけて言う。
 「そこに気づきなされたか。おはんは今や、ここで死ぬのが無益であることをわかりなさったのじゃ。とすれば、今の藩の情勢では、我々の宿志はまだとげられんということもわかりなさらねばならん。我々はいくらつらくても、辛抱して、時機の到来を待つべきじやと思いなさらんか。どうでごわす」
 俊斎はうなずいた。
 「わしはいつもオマンサアを兄と思うていもす。これからも、言われる通りにしもす」
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■西郷と久光の初対面、「地ゴロ」と発言

<本文から>
 翌二月十五日。
 久光は西郷を前職たる徒目付、庭方に復職する辞令を出しておいて、引見した。久光は西郷をはじめて見るのである。大きなからだや、太い眉や、よく光る大きな眼は、圧迫的ですらあった。
 (なるほど、これはただものではない)
 と思った。しかし、それは好意をともなったものではなかった。史書を好んで読んでいる
 久光は、唐の安禄山、本朝の安倍貞任は巨大漠であったというが、こんな男であったろうか、いずれも叛逆の臣だなと思った。
 みずからこんどの計画と決心とを明らかにして、意見を徴した。小松ら三人にはああ言ったが、おれには違おう、相当色ある答えをするはずと思っていた。
 しかし、西郷は三人にしたと同じように、会釈ない質問を次々に浴せかけた。もちろん、返答は出来ない。不快感だけがむらむらとつのって来る。努力して平静を保った。
 西郷は胸をはり、光る目でこちらを実直ぐに見て、言う。
 「公は順聖公のご大策を実行するのだと仰せられもすが、当時と今日とは時勢もちがっていもす。当時は公武合体によって挙国一致することが、外患に村処する唯一無上の方法でごわしたが、今日においてなおそれでよいか、そこにも疑いがごわす。順聖公は何ごとにも神のような洞察力のあるお方であり、凝滞するところなき自由無碍なご手腕の方でごわしたから、今日ご存命であれば、幕府は解消して、朝廷を唯一の中心とする日本本来の姿とするお策をお立てになったかとも、拝察されるのでごわすが、それは一先おくとしましても、公と順聖公とでは一様にはまいりません。順聖公は天下の入管そのご賢明を仰ぎ、天下の望みの集まっている方でごわしたが、それでもその大策をお立てになりますには、朝廷方面にも、幕府内部にも同志をつくり、諸雄藩とも同盟し、水も漏らさぬ周到な前工作を遊ばされもした。しかるに公は朝廷におかせられては無位無官、柳営においてはお席もないご身分でごわす。有力な諸大名とはもちろんご交際はあられません。はばかるところなく申せば、地ゴロ(田舎者)でごわす。しかも、このご不用意でごわす。お乗出しあっても、辛が成ろうとは拙者には考えられもはん」
 勇気は西郷の特性である。正と信ずる場にあたっては、何ものにも恐れない。神にたいするほど敬慕していた斉彬にたいしてさえ、直言して慣らなかった。斉彬が忠義を養子にし、哲丸を順養子にすると言った時には、猛烈に反対して決して下らず、ついに斉彬は死に至るまでその発表をひかえたほどだ。久光などを恐れはしない。
 しかも、この時は久光の暴走をせきとめるのを、お家にたいする最後のご奉公と信じている。あとは隠居して世を捨てるつもりだ。
 しかし、久光を「地ゴロ」と言ったのは失言であった。順聖公のかたきの片割れと思いこんでいる心が、つい言わせたのである。
 思い切った西郷のことばに、居合せた人々は青くなった。
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■大久保が西郷と刺しちがえて死のうと語るが

<本文から>
 大久保の読みおわるのを待って、西郷は言う。
「ごらんの通り、長井は久光公の邪魔をはじめたのでごわす。今こそ談合したことに踏切るべき時でごわす。わしは久光公のご決心をうながすために来もした。お目通りの出来るようにして下され」
 西郷が大決心を抱いて来たことは、大久保にはよくわかる。彼はこの時の自らの心事を、「心中なかなか堪へ難く候」と日記に書いている。自らの運命のすでに決していることも知らず、なお打合せた使命を専心に逐っているのを見て、名状しがたい切なさを覚えたのである。この切ない心が、返事を反らさせた。
「森山サアと新八どんは?」
「一緒に来もしたが、海江田の宿へ行かせむした」
 その海江田の報告が西郷の運命を決した一半であると思うと、一層切なくなった。
 西郷は茫洋たる外貌に似ず、神経は鋭敏な男である。何となくいぶかしいものを感じた。
 「どうしたのでごわす」
 「大事な話がごわす。しかし、ここでは出来もはん。外へ出もそ」
 宿を出て、海岸に向い、砂浜に引上げてある船の陰に、砂をしいてむかい合ってすわった。
 空には四月九日の月があり、もう中天にかかっている。
 大久保は委細のことを語って、
 「わしはオマンサアが諸有志の鎮撫に骨折っておられることやその心事等をくわしく久光公に申上げ、お怒りをなだめたいと思うたのでごわすが、お目通りを許していただけもはん。ご立腹はわしにも及んでいる風でごわす」
 西郷は二言も言わない。大久保を凝視している風であったが、相手のことばがとぎれると、火を切出して、煙草を吸いはじめた。煙が月明りの中に吐出される。
 「我々のしたことは、まことに微妙でごわす。久光公の考えておられるような程度ですむはずはなく、必ず討幕まで行くと見た故、その時の用意をした。ことさらに助長はしなかったが、その時に強い力になる手はつくしもした。この微妙な心事は、当事者でなければわかることではごわはん。従って疑われても無理はなかとは思いもすが、まことに残念でごわす」
 「…………」
 「わしは事にあたっては決してくじけん男と自負していもすが、今度だけはもう精が切れもした。おたがい多年の間、一心不乱にやって来たことが、今度こそ遂げられると思うていもしたが、こうなった以上、もう絶望でごわす。天命でごわしょう。今のところ、オマンサアには逮捕せよというだけのお申付けでごわすが、どげん処分を仰せつけられるか、わかりもはん。縄目の恥を受けた上に切腹などということになるより、今のうちに切腹したがようごわす。しかし、オマンサアだけを死なせはしもはん。オマンサアのなさったことは、わしと相談の上でごわす。罪があるなら、二人は同罪でごわす。一緒に死にもす。刺しちがえて死にもそ。わしは決心して、ここへお連れしたのでごわす」
 西郷は一言も口を入れず、大久保の言うことを聞いていたが、しずかに言った。
 「一蔵どん、さしちがえて死のうとは、いつものおはんに似合わん浅慮なことばでごわすぞ。わしらは誠心誠意をもって思案し、誠心誠意をもって努力して来たのじゃが、それが久光公の激怒を買い、お側の衆の気にも入らず、こげんなったのは、ぜひもなかことじや。しかし、わしは仰せつけに先立って腹を切ったりなんどは決してせんぞ。おはんも言う通り、武士として縄目にかかるなど、大恥辱にはちがいなかが、じゃなちとて、自ら死のうとは思わん。わしははっきりと切腹の仰せつけがなか以上、どげん憂目に遭うても、いのちを長らえ、働
ける時が来たら立上って働き、必ず望みを達成したいと思うとる。おはんじゃとて、その志はあるはずじゃ。おはんは天命といわれたが、天命というものは人間にはわかりはせん。人間に出来ることは、天命に素直に従うことだけじゃ。わしは月照さんとのことがあって、考えに考えて、やっとそれがわかった。自殺は小我の窓意をもって天命に限定をつけることじゃ。決してしてはならんのだ。その上、もしわしら二人がここで死んだら、天下のことはどうなると思いなさる。我々の志は誰が継いでくれもす?わしら二人がおらんければ、日本はどうなりもす。誰が薩摩を導いて行きもす。今この時こそ、男が歯を食いしば一ってこらえぬかねばならん時でごわすぞ。何としても、こらえんければならん時でごわすぞ」
 「…………」
 「あるいは、久光公はわしにたいして切腹の処分を考えておられるかも知れんが、わしが黙っているかぎり、それはわし一人ですむ。死ぬのは一人でよか。わしは決して余計なことは言いはせん。おはんはあとにのこって、わしが分まで働いて下され。そうしてもらえば、わしは思いのこすところはなか」
 西郷のことばはじゅんじゅんとして行きとどき、最も冷静であった。大久保は急にはものを言わない。ひたすら驚嘆していた。月照との入水によって磨かれた西郷の心境の深さ、国を憂える心の純粋さに打たれて、胸を洗われる気持であった。
 (わしが吉之助サアに一緒に死のうと言ったのは、一つには吉之助サア一人に責任を負わせて知らん顔でいるのは、男の態度でないと思ったのであり、二つには吉之助サアが反抗心をおこし、藩を難れて同志を糾合して討幕運動をおこし、みじめな結果となり、加盟者全部が暴徒として処断されるにきまっていると思ったからである。しかし、それは今の吉之助サアをまるで知らなんだための杷憂に過ぎなかった。おいは遠く及ばん)
 深い感動に、胸が熱くなって、
 「吉之助サア……」
 と呼びかけると、その声が涙声になった。
 「済んもさん。考えが浅うごわした。わしにあるまじきことでごわした……」
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■西郷を召還され軍事と外交の面を担当し、大久保は朝廷方面を担当

<本文から>
 島に召還の使が立つ。これには大久保が特に西郷となかのよかった吉井をえらんで、わざわざ江戸勤番から呼んでいた。弟の慎吾も同行した。
 西郷は島で赦免の命を受けると、吉井に、
 「新八どんのことはどうなっとる?」
 と、村田のことをたずねた。
 「それは何にも聞いて来とらんが。うっかりしとった」
 と、吉井が言うと、
 「連れてもどろう。新人どんとおいは同罪じゃ。おい一人もどってはすまん。責任はおいが負う」
 といって、喜界島に寄港し、村田を連れて帰った。こういうところが西郷である。大久保にはとても出来るまい。人望の上で、大久保がはるかに及ばなかったところである。
 鹿児島に帰着したのは、元治元年二月二十八日。藩命によって直ちに上京し、軍賦役に任ぜられた。軍賦の賦は「くぼる」と訓ずる。軍事司令官である。
 西郷は先ず会津との連携のくさびになっていた高崎佐太郎と五六とを国許にかえして、会津と手を切り、藩の自由を確保し、ばりばりやりはじめた。
 以後、満四年数カ月」江戸開城、会津開城があって、北海道をのぞく全日本が朝廷に帰するまでの間は、西郷の最もはなやかな時期であり、彼の人物、彼の手腕が最も光彩を放った時期である。
 この期間は、西郷は主として軍事と外交の面を担当し、大久保は朝廷方面のことや久光との緩衝の役などをつとめ、最も呼吸の合った車の両輪となって、薩摩藩を維新運動の主動力たらしめ、ついに成功をおさめたのである。この大成功が、時運の際会や、一人の手腕と人物などによることは言うまでもないが、二人の水も漏らさぬ美しい友情もまた最も大きな力となったことは争えな

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■宮中の改革

<本文から>
 天皇の側近を剛直にして男性的性質の人々でかためた。従来天皇の側近に侍する者は堂上出身に限ったが、西郷は武士階級からも採用することにした。たとえば宮内大丞は吉井友美(幸輔)、侍従が村田新八、山岡鉄太郎等々といった風だ。皆一くせも二くせもある豪傑的気性の人々ばかりである。西郷は天皇を英雄・豪傑にし奉ろうと考えたのだ。当時の世界の大勢から見て、英雄的君主でなければ日本は立行かないと思ったのである。
 また、女官らの政治干与を一切禁じた。これまで宮中では女官の権力が強く、政治上のことや人事上のことでいろいろと口入して、政府で決定したことが宮中から差図があってくつがえされたり、訂正しなければならなかったりで、やりにくいことがよくあった。それを封殺したのである。
▲UP

■西郷を悩ました奢侈と放蕩と権力の乱用

<本文から>
 このようにして、西郷の志は着々と行われつつあるようであったが、元来吏務は長ずるところでない。心から愉快ではなかった。
 その上、彼の心をなやましてやまないことがあった。それは官僚社会に瀰漫している奢侈と放蕩と権力の乱用によって私利をいとなむ風がやまないことであった。
 彼は太政官の会議で、いく度か綱紀粛正のことについて提議し、決議して布告したのだが、一向ききめがない。
 新政は緒についたばかりで、その利はまだ民におよんでいないのに、当時の官吏らには言語道断な生態のものが多かった。
 少なからぬ官吏が、生活が奢侈贅沢であるだけでなく、女狂いをし、賄賂を余り、ひどいのになると、権力を悪用して民の財産を奪う者さえあった。大蔵大輔の井上馨が尾去沢銅山を南部の村井茂兵衛から横領したのがその一例だ。
 これでは旧幕時代よりずっと悪い。旧幕時代は賄賂は公行していたが、上役人が民の財産を横領するようなことはなかった。
 (これがおいどんらがいのちがけで持ち来した新時代か)
と、身のおきどころのないほど西郷は切なかった。
 彼は元来虚飾がきらい、贅沢がきらいだから、国許でもごく質素にしていたが、東京へ出てからは、意識的にそれをつづけた。
 「人の上に立つものは、窮らひきいなければならない。政府の最高位にあるものはわけてそうあるべきだ」という覚悟だ。
 大官らが美衣をまとい、駿馬・軽車を駆って揚々と出仕するなかに、綿服に小倉の袴、革履ばきで一僕を従え、弁当持参で、てくてくと歩いて出仕した。
 屋敷は日本橋小網町にあった。旧大名屋敷だから、敷地は広かったが、彼はこの敷地内に四五重の小さい家を数軒建て、その一つに住み、他は国から修学に出て来ている書生らを住わせた。
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■欧州視察後に、互いが訪問しあえば妥協点を見つけることが出来た

<本文から>
 後世の者のくりごとであるが、なぜこの期間に大久保は西郷をせっせと訪問して、互いの諒解につとめなかったのであろう。
 大久保は不屈不擁の性質であり、それを誇りにしている人であるのに、この時はあまりにあきらめが早すぎたように思われてならない。これまでの二人の友情の探さから考えると、腑に落ちかねるのである。一年半の別離がそうさせたのであろうか。しかし、西郷の大島潜居は三年以上、沖ノ永良部島流嫡は一年近くにおよんでいるのだ。
 大西郷全集の中に、西郷が外遊中に大久保に出した書簡が二通おさめられているが、いずれも最も親愛の情に満ちたものだ。到底こえられないほどの溝渠がこの間に生じたとは思われないのである。
 自ら経験したことのない者には、説明は出来ないものだ。アイスクリームを味わったことのない者にたいしては、千言万語を費やしても、ついにその実昧を知らせることは出来ない。欧米先進国の文明と富強とを自らの目で見ていない西郷にたいして、大久保はこのなげきを感じたのかも知れない。
 西郷は文明ということに独自な見解を持っていた人だ。
 「わしは欧米諸国は野蛮国じゃと思っている。国が富み、兵が強く、汽車が陸を走り、汽船が海を走り、電信が一瞬にして信を数百里の外に伝えようと、何でそれが文明国なものか。彼らは道ならずして人の国を奪うでないか。真の文明国とは、外には道義をもって立ち、内には道義の行われる国を言うのだ」〜南洲翁遺訓
 こんな国家観を抱いていたから、彼は維新志士となったのであり、維新政府の高官らの驕奢・腐敗を憤るのであり、鉄火の中に浄化することによって日本を救おうとの考えもおこしたのだ。
 西郷はこの時まだ大久保に胸中の秘は打明けていないはずだが、なんとなく感じて、到底越えられない溝を感じたのかも知れない。
 西郷は思い切りのよい性質だ。いけないとなれば、躊躇なく捨ててやり直す性質だが、大久保はそんな思い切りのよいことは出来ない。何事にも階段を作り、こつこつと築き上げて行く人だけに、今まで築き立てたものを改良して行きたいと思うのだ。ここに気づいて、ついに相合わぬ二人であることを悟ったのかも知れない。
 しかし、それにしても、後世の我々としては、せめて西郷が病気でなかったら、西郷の方からしげしげと訪問をつづけたであろうし、そうすれば、何といっても幼少の時から兄弟もただならずつづいた友情だ。どちらの説に傾くかは別として、妥協点を見つけることが出来たのではないかと思わずにはいられないのである。
 この大事な時に西郷が病気であったのは、日本の不幸であった。
 西郷の病気はフィラリヤであった。これは南島地方の風土病で、蚊が伝染の楳介をするという。南島の流人生活の間に感染したのである。
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