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          海音寺潮五郎-西郷隆盛(9)

■勝つ自信なき薩長

<本文から>
 西郷等が開戦になった時勝つ自信がなかった証拠は、平凡社版の『大西郷書翰大成』の一九四号に「戦蹄開始の場合の御遷幸に関する協議書」と題する西郷自筆の文書があることである。内容から見て、この頃の十二月下旬に作成されたもののようであるが、こうである。
 一、決戦するという策が立ったなら、開戦前夜に玉印(天皇)がひそかに遷幸された方がよいであろうか。
 一、砲声が栂発する時まで待って、堂々と鳳聾を遷された方がよいであろうか。
 一、御遷幸先ほ山陰道がよいであろうか。
 一、朝廷には太政官代総裁の有栖川宮がおとどまりになっている方がよいであろうか。
 一、戦いが大坂で行われるとなれば、天皇は京都から御動座ない方がよくはなかろうか。
 一、御遷幸の場合、中山忠能卿は天皇の外祖父であられるから、ぜひお供なされねばならぬ訳だが、その他にはいく人お供されたらよかろうか。お供人数、輿丁人夫等の手当を調べておくこと。
 一、御警衛の人数を定めておくべきこと。
 一、岩倉具視卿はなんとしてもあとに踏みとどまって弾丸矢石を犯して十分に御戦闘あるべきのこと。
 以上である。これは協議書ではなく、協議すべきことを前もってメモしておいたもので、協議の際にこれを一つ一つ提出して皆ヒ相談したのであろうが、それにしても必勝の算があるなら、こんな相談はしないはずである。十中八九までは勝てないと見ていたから、先ず天皇を御遷幸なし奉るということを考えたのである。 
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■薩・長との私闘との空気が勝報によって一変した

<本文から> 夕方になって砲声が聞こえはじめ、開戦したとの報告がとどくと、滞朝色を失った。ちょうどその時市中に火事がおこったので、公卿達の恐怖は絶頂に達した。
 「この戦争は徳川と薩・長との私闘でごす。朝廷の関与するところではごわせん」
 という公卿が出て来て、それに賛成する者が少なからず出て来る有様であった。
 その頃、山内容堂が参内して来て、殿中を昨晩して、声をはげまして、
「朝廷は太政官を建てられ、不肖容堂ほ議定の一員に列していますのに、これほどの大事に際して、ツンポ桟敷におかれたとあっては、その職にとどまっていることは出来ません。即座に辞職仕り、直ちに藩兵を引き上げて帰国仕る」
 と、大喝したが、三条も岩倉も何にも言えなかったという。
 容堂の怒りは常識的道義観から言えば正当である。すでに政権を返上し、将軍の座を下りた徳川氏にだけ、苛酷な負担を要求するのは非道も甚だしいという議論は立派に立つ。しかし、王政復古が、日本が旧体制を脱却して、世界の万国に伍し得る新しい体制の国となる、いわば革命でなければならない以上、常識的道義論では律せられない。革命の道義が律するのである。革命の道義は必要の理である。
 ともあれ、容堂は山内宏の初代一豊が遠州掛川六万石から土佐二十万石に封ぜられて、徳川家には重畳の恩義があるという土佐藩の因縁と彼の強烈な気性によって、薩摩の為すところに強い憎悪感情を抱くと共に、徳川家にたいして侠心を抱いていた。乾退助、小笠原只八、谷干城等は西郷に気脈を通じていたのだが、容堂とその側近は因縁にひかれ、侠気にひかれ、薩摩憎さが昂じて、徳川家のために骨折るという範囲を逸脱して、ついには幕府軍に内応する計画までめぐらしていたようである。
  もちろん、こんなくわしいことが当時の西郷や大久保にわかるはずはないが、用心しなければならない空気は感じた。また朝廷全体が実に頼りない空気であるので、大久保はもちろん、西郷も朝廷を離れるわけに行かない。合戦のことは万事伊地知正治にまかせて、朝廷にふみとどまっていた。
 とっぷり暮れてから、鳥羽方面の勝報がとどき、十時頃になって伏見方面も形勢大いによいとの報告が入った。.これで、宮中の空気が現金にかわった。
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■鳥羽・伏見戦の薩長軍に勝利の理由−場所、意気、装備、戦術ミス、運

<本文から>
 鳥羽・伏見戦が、なぜ薩・長軍に勝利をもたらし、幕軍を敗れさせたかは、理由は多々ある。誰も前もってはこんな結果になるとは予想しなかったのだが、仮説に語られる孫武や諸葛孔明のような卓抜な戦術家が当時いたら、はっきりと予想出来たはずである。その大部分が予想の出来ない条件ではなかったからである。
 その一、戦場になった場所が鳥羽では水田の中の道路上であり、伏見では町中の街路上である。大軍の展開には不便な場所である。衝突は要するに幕軍の先鋒部隊と薩・長軍との間で行われたにすぎない。幕軍の先鋒部隊より薩・長軍の戦力がまさっているなら勝つ道理である。
 その二、薩・長軍は寡少ではあったが、統制がよく行きとどいており、決死の意気に燃えており、いつでもその持つ最上の戦力を出せる状態にあったが、幕軍は統制がはらはらであって大軍としての力が発揮出来ない状態にあったばかりでなく、兵士等も戦争を覚悟していなかった。前将軍が薩摩を討つことを上奏のために上洛する先供として、何の抵抗もなくのさのさと京都に入れるものと思いこんでいた。
 その三、薩・長軍は全軍当時の最新式の銃をもって装備されており、薩摩兵はその頃勇敢で死をおそれないことをもって天下に鳴っており、長州兵は俗論党征伐と四境戦争(長州再征)とを経験した歴戦のつわものであった。これにたいする幕軍では最も兵員として精強なのは会津兵であった。兵隊としての素質の点では、勇敢であることといい、死をおそれないことといい、名誉を重んずることといい、薩摩兵といい勝負であったが、装備がまるでおとった。近代兵器を全然持たず、刀槍だけを持っていた。幕軍の中で装備のよいのは幕府直属の歩兵隊であった。これは最新式の銃を持ち、フランス士官によって訓練された兵員等であったが、もともと市井の無頼の徒をかき集めたものにすぎなかったから、精神的にはまるで劣等だったのだ。この歩兵隊の銃器を会津兵に持たせたなら、日本の歴史はどうなったかわかりはしないのだが、おいそれとそれの出来ないのが軍隊というものだ。ましてこの時代の軍隊は封建勢力のかき集め集団にすぎない。融通なんぞきくはずはないのである。
 その四、もし幕軍が勝つつもりなら、兵数はありあまるほどあるのだから、京の諸方面から入るべきだった。諸方面から入って行けは、数の少い薩・長軍は防ぎはつかなかったはずであるが、幕軍はそうしなかった。
 ここまでのところは、あるいは孫武や孔明を俟つまでもなく、大村益次郎級の戦術家でも、もしこの時この場に居合せたら予見出来たことかも知れない。しかし、戦いには由来運がともなう、これは人間の力の範囲外のものであ毛古来、事をはかるは人にあり、事を成すは天にありといわれるところのものだ。その道が薩長側にあって、幕軍側になかった。
 運の一。
 前年の大晦日まで雪がふりつづいて、山城平野はおそろしく寒かった。元日から雪はやんでいたが、比叡扁が吹きすさんで、ものみな凍る寒さであった。この寒さの上に、幕軍は真向から夙に吹きつけられた。戦力は低下せざるを得なかった。これに反して薩・長軍は追風であった。
 運の二。
 兵数は幕軍は総数一万五千から二万ほあった。先鋒隊が伏見・鳥羽に達したのに、後軍はまだ大坂城内にいたのである。これに対して薩・長軍は多く見つもっても四千はない。大体三千五百というところだったろう。勝てる戦争とは誰も考えていない。諸藩もそう思っていたし、公卿もそう思っている。薩・長軍だって、岩倉だって、負けるを覚悟ではじめた戦争だ。ここでやっておけば、一旦は負けても将来必ず勤王の義軍が大挙しておこって勝てるというつもりだった。だから、あるかぎりの兵を前線に出して、一兵も予備兵はない。京都市中にいるのは、形勢によってどちらにでも転ぼうと思っている諸薄兵だけであった。この時、正月四日であったという。幕府が招聘して雇用しているフランス士官によって訓練された騎兵一大隊が東海道をえんえんとのぼって来て、草津まで到着した。その先触れ隊が宿割をするために大津に行ったところ、大津にある彦根藩の米倉の米をおさえるために肥前の大村藩の兵二小隊が隊長渡辺清左衛門(後の清)にひきいられて、大津に行った。大村藩は小藩
だが、渡辺が西郷に接近して、ほとんど独断で勤王方に所属していたのである。この大村の番兵を見て、騎兵隊の宿割がかりは、これは逢坂山あたりに大部隊がいて、その先鋒隊が大津まで出て来たのだと思いこんで、大急ぎで引きかえして報告した。フランス式騎兵術の訓練は受けても度胸と勇気の鍛練はない隊長だったのだろう。おお、そうか、出会ってはまずいなと、急遽途を変更して、伊勢路にかえり、開から伊賀に向い、大和路を経て大坂に入ったという話がある。
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■西郷は山岡の人柄にほれて慶喜の処置を譲った

<本文から> 「それでは、お考え下さい。仮に立場をかえて、島津侯が今日の慶喜の立場になられたとして、先生 はこのような命令を甘受なさいましょうか。君臣の義とは、一体なんでありましょうか。お考え下さい。切にお考え下さい。拙者には承服出来ないのです」
 西郷は心を打たれて、しばらく黙っていた後、
 「山岡先生の言われる通りでごわす。わかりました。慶喜殿のことは、吉之助がきっと引受けて、はからいます。安心して下さい。かたく約束します」
と、誓った。
 こういうことは、相手が信じなければしようのないことだが、西郷には信じさせる人格的迫力があったのであろう。山岡は泣いて感謝した。
 その後、西郷は言う。
 「先生は官軍の陣営を破って、ここまでお出でになったのでごわすから、本来なら縛らんけれはならんのでごわすが、やめときますわい」
 これは西郷の冗談なのだが、山岡にはこれを冗談ととる余裕はなかったらしく、きまじめに、
「縛られるのは覚悟しています。早く縛っていただきます」
 と言った。
  西郷は笑った。
 「そうでごわすか。しかし、先ず酒を飲みましょう」
 酒をとりよせ、数杯酌みかわして、大総督府から出す通行手形をくれた。
 元来酒を好まない西郷が、とくに酒をとりよせて山岡を相手に一酌したというのは、よほどよい気持になったのであろう。西郷には求道者の面がある。見事な人がらの人物には心から感心するのである。彼はこの時、山岡に心から感心した。
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■西郷と勝の千両役者によって演ぜられた江戸城無血開城

<本文から>
 この攻撃中止の命令はこの時点では、明日に予定されていた総攻撃を一時とりあえず延期するという建前で出されたのだが、ついに永久のものとなり、江戸は焼土となることをまぬがれ、百万の住民は安全であることが出来たのであった。
 この談判を、勝は後年、これは相手が西郷であったから出来た、他の人ならこちらの言葉の些少の矛盾や小事に拘泥して、こうは行かなかったろうと言っている。だから、ここで、勝の当時の人物評を紹介する必要があろう。彼は『氷川清話』で、大久保利通のことを、
 「大久保は西郷の実に漠然たるに反して、実に截然としていたよ。江戸開城の時、西郷は『どうかよろしく頼み申します。彼の処置は勝さんが何とかなさるだろう』といって江戸を去ってしまったが、大久保なら、これはかく、あれはかくと、それぞれ談判しておくだろうさ。しかし、考えてみると、西郷と大久保との優劣はここにあるのだよ。西郷の天分がきわめて高い理由はここにあるのだよ」
 といっており、木戸孝允のことを、
 「木戸松菊は、西郷などにくらべると、非常に小さい。しかし綿密な男さ。使い所によっては、ずいぶん使える奴だった。あまり用心しすぎるので、とても大きな事には向かないがのう」
といっている。この人物評によると、同じく維新の三傑といわれていても、この二人はこの際の談判相手としては皆落第ということになろう。たとえ彼らがパークスが官軍の慶喜征伐や江戸進撃にたいして異議を持っているという情報を知っていてもだ。もちろん、中止命令は出されただろう。出さざるを得ない場になっているのだから。しかし、当時の人にも、後世の人にも、仰いで嘆称せざるを得ないような、こんな見事さには行かなかったろう。西郷という千両役者、勝という千両役者によって、はじめて演ぜられた、最も見事な歴史場面だったといってよいであろう。
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■パークスの意向で無血開城が行われたのではない

<本文から>
 勝が英国公使パークスと連絡をとったり、パークスの意向が西郷を動かしたりしたため、江戸の無血開城は行われたので、西郷と勝との英雄的談合などは単に表面だけを見たウソの美談にすぎないという説をなす人は近頃多いが、ぼくの記述をずっと丹念に読んで来た人には、そういう結論を下すわけには行かないことがわかるはずである。
 西郷は京都出発の時から、最終の段階では慶喜を助命し、徳川家の家名も存し、領地もある程度はあたえるつもりであった。それは大久保と談合し、岩倉の諒解も得てあったのだ。
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■西郷は戦争での関心が死傷者に注がれ、傷者の治療に手をつくす

<本文から>
 西郷文書を調べる場合、いつも感ずるのは、戦争に際して、西郷の少なからぬ関心が死傷者に注がれ、傷者の治療に出来るだけの手をつくしていることである。これは西郷の愛情深い天性のおのずからなる発露であると思われるのであるが、この時もそうであった。藩に頼んで、横浜に病院をつくってもらって、外人医師を招碑していたことは、前に掲げた五月十日付の大久保、青井あての彼の手紙によって明らかである。あの手紙にもあるように、医師が不足だから、見つけて送ってくれと書いている。
 ずっと前に掲げた、閏四月二十七日付の大久保、吉井宛の手紙によれば、軽い負傷者は江戸で治療し、重傷者は横浜の病院に送っていたようであるが、彰義隊戦争の時もそうしたようである。五月十六日付で、彼が薩藩の小荷駄方へ出した書類がある。こうである。
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