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<本文から> 西郷等が開戦になった時勝つ自信がなかった証拠は、平凡社版の『大西郷書翰大成』の一九四号に「戦蹄開始の場合の御遷幸に関する協議書」と題する西郷自筆の文書があることである。内容から見て、この頃の十二月下旬に作成されたもののようであるが、こうである。
一、決戦するという策が立ったなら、開戦前夜に玉印(天皇)がひそかに遷幸された方がよいであろうか。
一、砲声が栂発する時まで待って、堂々と鳳聾を遷された方がよいであろうか。
一、御遷幸先ほ山陰道がよいであろうか。
一、朝廷には太政官代総裁の有栖川宮がおとどまりになっている方がよいであろうか。
一、戦いが大坂で行われるとなれば、天皇は京都から御動座ない方がよくはなかろうか。
一、御遷幸の場合、中山忠能卿は天皇の外祖父であられるから、ぜひお供なされねばならぬ訳だが、その他にはいく人お供されたらよかろうか。お供人数、輿丁人夫等の手当を調べておくこと。
一、御警衛の人数を定めておくべきこと。
一、岩倉具視卿はなんとしてもあとに踏みとどまって弾丸矢石を犯して十分に御戦闘あるべきのこと。
以上である。これは協議書ではなく、協議すべきことを前もってメモしておいたもので、協議の際にこれを一つ一つ提出して皆ヒ相談したのであろうが、それにしても必勝の算があるなら、こんな相談はしないはずである。十中八九までは勝てないと見ていたから、先ず天皇を御遷幸なし奉るということを考えたのである。 |
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