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<本文から> 大久保は早速大坂に下って、三日朝、書面をたずさえて板倉家の役宅に行き、田郡村公用人に会った。
「この前はしかじかでありました由、それは伊賀守様のおさしずによるものでござるか」
「伊賀守様のさしずというのではありませんが、御重役の御下坂の期日もわかりませんのに、長々とわれわれの手許にあずかっておくことは出来かねますので、御重役が下坂してまいられれば又々お預りすることにて、その間お返ししたいと思ったのであります」
大久保はきびしい顔になった。
「それははなはだ心得ぬなされ方でござる。一体この書面は伊賀守様へ直接申し上げてお預りということになっているものであります。御用についてお預りの書面を、各々方が勝手にお下げ渡しという法はござるまい。当方としても受取るのは法でありません。以来はこの書面については、万事、伊賀守様のおさしずをもってお取扱いなさるべし。右のようなお不心得にてお返しになっては、はなはだ面倒なことになりますぞ」
きめつけたのである。きめつけて、書面をさし出した。
「お受取り下されよ」
「さようなことは主人から聞いていません。それは受取るわけにまいりません」
と、田都村ほおしかえしたが、大久保はまたおしかえして辞去しようとした。相手はあわてて、
「何分にも主人にうかがってまいります故、しばらくお待ち下さい。主人の存慮もありましょうから」
と、引きとめたが、
「拙者は少々急用がござる。お待ちすることは出来ません。伊賀守様の御趣意はすでに直接にうかがいまして、十分に承知しています。この上うけたまわるには及びません」
と答えて、さっさと帰って行った。公用人等はまた書面を保管するよりほかはなかった。大久保のやり方は少々嗜虐的なようだが、或いはこんなことにはここまで徹底しなければならないものかも知れない。
以上のことについての大久保の報告書は五月下旬に鹿児島に到着した。
久光はよい意味でも悪い意味でも薩摩隼人だ。彼の生母は江戸の町家の出身で、彼は江戸で生れたが、数え年六つの時薩摩にかえり、以後中年まで薩摩から一歩も出ず、薩摩人の間で育ったので、最も薩摩気質が濃厚である。強いこと、勇ましいことが大好きなのである。天下の老中を相手に恐れず属せず、堂々と論陣を張ってついに言いつめた大久保の働きが大いに気に入った。
「よほど大久保が出来た」
と、大満足であった。 |
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