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          海音寺潮五郎-西郷隆盛(8)

■大久保が重役をやり込め、勇まし好き久光が讃える

<本文から>
 大久保は早速大坂に下って、三日朝、書面をたずさえて板倉家の役宅に行き、田郡村公用人に会った。
 「この前はしかじかでありました由、それは伊賀守様のおさしずによるものでござるか」
 「伊賀守様のさしずというのではありませんが、御重役の御下坂の期日もわかりませんのに、長々とわれわれの手許にあずかっておくことは出来かねますので、御重役が下坂してまいられれば又々お預りすることにて、その間お返ししたいと思ったのであります」
 大久保はきびしい顔になった。
 「それははなはだ心得ぬなされ方でござる。一体この書面は伊賀守様へ直接申し上げてお預りということになっているものであります。御用についてお預りの書面を、各々方が勝手にお下げ渡しという法はござるまい。当方としても受取るのは法でありません。以来はこの書面については、万事、伊賀守様のおさしずをもってお取扱いなさるべし。右のようなお不心得にてお返しになっては、はなはだ面倒なことになりますぞ」
 きめつけたのである。きめつけて、書面をさし出した。
 「お受取り下されよ」
 「さようなことは主人から聞いていません。それは受取るわけにまいりません」
 と、田都村ほおしかえしたが、大久保はまたおしかえして辞去しようとした。相手はあわてて、
 「何分にも主人にうかがってまいります故、しばらくお待ち下さい。主人の存慮もありましょうから」
と、引きとめたが、
 「拙者は少々急用がござる。お待ちすることは出来ません。伊賀守様の御趣意はすでに直接にうかがいまして、十分に承知しています。この上うけたまわるには及びません」
 と答えて、さっさと帰って行った。公用人等はまた書面を保管するよりほかはなかった。大久保のやり方は少々嗜虐的なようだが、或いはこんなことにはここまで徹底しなければならないものかも知れない。
 以上のことについての大久保の報告書は五月下旬に鹿児島に到着した。
 久光はよい意味でも悪い意味でも薩摩隼人だ。彼の生母は江戸の町家の出身で、彼は江戸で生れたが、数え年六つの時薩摩にかえり、以後中年まで薩摩から一歩も出ず、薩摩人の間で育ったので、最も薩摩気質が濃厚である。強いこと、勇ましいことが大好きなのである。天下の老中を相手に恐れず属せず、堂々と論陣を張ってついに言いつめた大久保の働きが大いに気に入った。
 「よほど大久保が出来た」
と、大満足であった。
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■当時の薩摩、俗論の徒がまだ多かった

<本文から>
 最上級のことばをもって称讃しているのである。誰のことばより、大久保にはこの西郷の賛辞がうれしかったであろう。この頃の二人は最もよい、最も美しいコンビだったのである。
 しかし、ここに見落すことの出来ない文句がある。「この因循国も正論国と変じたような気持」この文句である。当時の薩摩は俗論の徒がまだ多かったことがわかるのである。西郷、大久保を最左翼におくとすれば、この俗論の徒は右翼にあり、その中間に久光が位置し、往々にして久光はこの右翼の徒とともに西郷に相対したと思われる。
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■幕府軍を破った長州の理由5点−経験、団結、装備、服装、戦術家

<本文から>
 まあ、こんなわけで、攘夷戦争の際、世禄の藩士によって組織された隊は、柔弱で、臆病で、フランスの陸戦隊にたたきやはられ、ほうほうのていで敗走したのであった。
 そこで、高杉晋作が奇兵隊をこしらえたのであった。藩士の隊を正規兵とし、これに対するという意味で奇兵としたのである。正にたいする奇で、謙称であるから、表面は一応へりくだっているのである。
 こうして一たび奇兵隊が出来ると、諸国の浪士で長州に来ている人々によっても隊が組織された。神職だけが集まって一隊をつくったものもある。中には角力とりだけで編成された部隊まで出来た。これらを総称して諸隊という。
 この奇兵隊をトップとする諸隊が長州藩の兵力の主力となったことは上述の通りである。正規の藩士だけで組織された隊はもちろんあったが、これはそう強くなかった。高杉が俗論党征伐を行なった時、俗論党の諸軍は皆この正規兵であったが、この諸隊に放れたのである。ともあれ、長州藩兵力は、今や奇兵隊をトップとする諸隊が主力となり、実戦の経験を豊富に積んで、素質なかなか優秀だったのである。
 その二。長州人には熱烈にして強固な救国精神があった。当時の長州人には、宗教的ともいうべき狂熟的な救国精神があった。開国論と攘夷論とは、いずれも日本の四方から迫って来る欧米勢カから日本の独立を護衛確守しなければならないという愛国心からの発現で、つまりは手段・方法の相違で、本質は違ったものではなかった。だから、長州藩人でも目の見えた人々、たとえば高杉晋作、たとえば桂小五郎、たとえば井上聞多、たとえば伊藤俊輔などは、攘夷説を脱して開国説になっていたが、一般藩士や奇兵隊等の諸隊では、一般藩士はもちろん、幹部も、きびしく攘夷論を奉じ、それは信仰的なものにまでなっており、それで藩論をかためていたので、うっかり開国論に転向していることなど口外しては、高杉や井上のような人物でも生命の危険があった。だから、この人々も藩内ではごくわずかの心からの同志にだけ本心を打明けるだけで、昔ながらに攘夷説を信奉しているふりをしていた。当面の四境戦争においては、これがよかったのである。これで兵士等は宗教戦争における信徒兵のように熱烈な信仰精神をもって強力に団結していたのである。これに反して、幕府側は諸藩のよせ集め勢である。各藩ばらばらである。兵員各個は前述のような次第で役に立たなくなっている武士である上に、長州再征はほとんど天下がこぞって反対したのをおしきって強行にふみ切ったことであるだけに、内心は皆反対ですらある。ろくな戦いぶりが出来るはずはなかった。
 その三。これが一番大きいのだが、両軍の装備が大違いであっ.た。長州側は度々の実戦の経験で、これからの戦さは火器の優劣がほとんど全部を決定すると知っていたところに、洋学者で、卓抜な戦術家である大村益次郎が参謀総長的地位に任用されたので、鋭意装備の改革と充実につとめた。ずっと前に書いたように、新式の銃器や軍艦を薩摩のロききで英国商人トーマス・グラ.ハから買入れた。
 その四。兵士の服装なども、長州兵は行動に便利なように至って身軽によそおっていた。宮門事変の時までは長州勢にも甲冑姿が相当あったのだが、その後の経験と大村の意見とで至って軽装となったのである。これに反して幕府側諸藩の兵は何首年前の甲冑姿で、ドタドタと身重く動き、銃も多くは旧式の火縄銃であった。勝負になるはずはなかった。
 ここで思い出すことがある。豊臣秀吉の朝鮮役の時、毛利家のある部隊は全軍甲冑なしの軽装で戦っている。鉄砲が最も重要な兵器として多量に使用されるようになった以上、重くて身動きもままならぬ甲胃は便益より不便が多いと悟ったからであろう。朝鮮役に引きつづいては日本人の経験した戦争は関ケ原役と大坂役だが、大坂役の際は大坂役屏風絵などを見てもふんどし一つの裸体で戦っている兵士の姿が相当見える。夏の陣などは暑いさかりのことではあったが、いくら暑くても甲冑で身を蔽うことにうんと利益がみれば、すッ裸などでは戦わないであろう。つまり、日本人は鉄砲が伝来してそれが多数兵器として戦場で使用されるようになると、甲胃にたいする信頼度がうんと減少して来たのであると言えよう。だから、もし戦争時代があの後なお長い間つづけば、甲冑は今の戦闘には不適当無用で、今や骨董品としての価値しかなくなったとはっきりわかったはずであるが、大坂役を最後にして戦争がなくなったので、甲冑の実用価値がまだ高かった時代の記憶が強烈にのこって、戦争と甲冑とは切って離せないものとの観念が日本人の心理に定着し、その観念が長州征伐において蔵から甲冑をかつぎ出させ、ほこりをはらって着用させるという次第となったものであろう。
 日本には江戸時代になって、甲州流をトップにしてさまざまな軍学、兵法の流儀が出て、しかつめらしく講義され、皆真剣になって研究したものであるが、こんなことをほうっておいて、出陣の儀式だの、首実検の方式だのというようなことに血道を上げて言い立てていたのだから、日本式兵学というものが、しよせんは太平の時代の遊戯にすぎなかったことがよくわかるのである。
 その五。長州側には海軍に高杉晋作、陸軍に大村益次郎というすぐれた戦術家がいたが、幕府側には海陸軍ともに対抗し得るような人物がひとりもなかった。
 高杉については、おりにふれてずっと書いて来たから、改めて説くことはしないが、彼がいろいろな面において天才であり、それは戦術においてもそうであったことはまぎれもない。奇兵隊の創設、俗論党征伐、三田尻港において長州軍艦三隻を赤手をもって分捕った働き、幕府艦隊をただ一隻の小汽船で奇襲し砲撃して恐怖のドン底におとしいれて退去させ、ひいては大島を奪還したこと。どの一つをとって考えてみても、軍事的天才の発想であり、軍事的天才の働きである。長州海軍は幕府海軍にくらべては、その実力は大いにおとる。蒸気艦の数からいっても、兵員の習練度からいっても、大いに幕府海軍におとるのであるが、しかもなお、以後幕府艦隊がはかばかしい出方をしなかったのは高杉の天才にたいする恐怖によるのである。
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■久光の島津幕府の野心を見破った西郷

<本文から>
 つまり、久光は骨髄からの封建主義者で、西郷を封建制度破壊の巨魁とにくみ、これを殺せば封建の世に引きもどすことが出来ると思っていたのである。
 久光が古風好みの人であったことは事実である。彼は明治二十年に死んだが、死ぬまでチョンマゲを切らず、危篤に陥っても洋方医にはかからなかった。のみならず、むすこの忠義に、
「孫の代までは強制せんが、そなたまではわしの遣制を守ってくれるよう」
 と遺言した。最も古風な孝子である忠義は忠実にこれを遵奉した。忠義は三十年に死んだのであるが、やはり髪はチョンマゲ、医者は漢方医であった。洋方医にかかったらなおったろうと言われている。この話は忠義の子である島津忠重さんのまだ生きている頃、ぼくの聞いた直話である。
 これほど古風で、封建制度の好きであった久光が、廃藩置県の詔勅換発前に御親兵にするという名目で藩兵を欲せられた時、歩兵四大隊、砲隊四隊を差出している。ついでに言えば、この時長州は歩兵三大隊、土佐ほ歩兵二大隊、騎兵二小隊、砲兵二隊である。懸絶して薩摩は多い。靡藩置県に最も強い反対意志を持っている久光には平灰の合わない感じがあるが、思うに久光は薩・長・土三藩の連合政権を予想していたのではなかったかと思う。幕末にいく度か計画し、いく度か手をつけて、実らなかった雄藩連合である。西郷等においては、幕府を倒すための雄藩連合であったが、すでに幕府は倒れているのに、久光は何のために三藩の連合政権を作ろうとしたのか。
 思うに、三藩の連合による政府−幕府をつくり、その下に諸藩があるという幕藩体制を予想していたということになろうが、ぼくはさらに思い切った推察をしている。
 豊臣秀吉は自らの余命がいくばくもないことを知ると、五大老をおき、秀頼が成人して自ら天下の政治をとるに至るまで五大老の合議で政治するように遺言したが、秀吉が瞑目すると、天下の権はおのすから家康に帰し、関ケ原の役を待つまでもなく家康は隠然たる天下人となり、関ケ原役を経て顕然たる天下人となった。久光の狙いはここにあったのではないか。薩・長・土の三藩の中では薩摩が武力的には最強である。現に御親兵にも最も多数の兵を出している。やがて二藩を圧して来べきはずである。そこで、島津幕府を開き、自らその第一世となろうという野心があったのではないか。
 この久光の心が西郷にわかったのだとぼくには思われる。時機はおそらく、この年の八月の中頃であろう。久光が自ら西郷に語ったとは思われないから、腹心の者が久光の意を受けて、それとなく西郷の意を引いてみたところ、あの風体に似ず、敏感な西郷はカツンと悟り、とうていこの人の下では働けない、働くことは先君のお志を汚すものであると考えて、病気退身の心をきめて、日当山に湯治に出かけたのではなかったか。
 西郷において先君とは斉彬のことである。彼は島津家にたいする忠誠心などはほとんどない。ただ亡き斉彬にたいする忠誠だけで働いているのである。
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■大号令渙発の陰謀で維新革命が成り立った

<本文から>
大久保は嘆息する調子になった。
 「お骨折りじゃったなあ。しかたはなか。何百年何十世代そういう育ち方をして来なさった人々じゃ」
 と言いながら、西郷も同じ思いであった。大久保はなお岩倉と正親町三条に護身用としてピストルを一挺ずつ贈ったことも語ってつづけた。
 「どうでも戦さにならんではおさまるまいという我々の思案は今もかわりはしもはんが、大政を返上したものを、理由なしに討つということは、こりゃ出来もはん。討つには討つだけの堂々たる名分を立てねはなりません。そこで、岩倉卿ともいろいろ相談しもして、先ず朝廷の方を動揺せんようにしっかりとかためておいて、尾州や越前のような親藩をして大樹に反正悔俊の実をあげることを説かせる、大樹がその通りにしたら新しい政治組織にも参加させる、それに対していろいろ言い張ってそうせんなら、反正悔悛の実なきものとして討つ、とこういう工合に相談したのでごわす。そのためもあり、天下に王政復古になったということを示すために大号令渙発をする必要がごわすが、それをはじめは五日と考えたのでごわすが、いろいろの情勢上無理なようでごわすから、少しのばすほかはあるまいと思うています。どうでごわしょう」
 大久保の声は極度にひくくなっている。こういう最も腹黒い陰謀に類することは西郷は不得意である。これは大久保の最も得意の場であり、岩倉の最も得意なところである。しかし、政治は、とりわけ革命は、厳密な意味においては犯罪というべきものであるから、こういう陰謀も絶対必要なのである。この点では、大久保と岩倉がいなかったら、この時点において維新革命はなり立たなかったであろう。そしてまた、この二人のコンビに六年の後西郷自身が破れるのである。
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■大久保は念入りに研究し段取りをふんでかかる。いつも三、四分の余裕をのこしている

<本文から> 大久保は一覧して、
 「かしこまりました。では、まかりかえりまして」
 と答えて、藩邸にかえった。
 大久保はごく念入りな性質である。事をなすにあたっては念入りに研究し、段取りをふんでかかる。そのかわり、かかったら決して後退しない。犠牲が出てもしかたがないとしてふり向きもせず進む。後世の史家に鋼鉄の人と評せられる所以だ。だから、こんどのことは残念千万であったに相違ない。しかし、至って冷静な面持ちで藩邸にかえると、西郷と岩下佐次右衝門とに会って、書付を見せて、岩倉のことばを伝えた。
 西郷のやり方は大久保とは違う。ギリギリのところまで押しつめたやり方はしない。いつも三、四分の余裕をのこしている。だから、大久保ほど残念とは思わない。
 「二番目がよかろう。一番目では一手きりじゃ。いかんじゃった時の手の打ちようがなか」
とだけ言った。
 「それがよかろう。その通りに行けばこの上のことはなかし、行かんじゃった時には兵を用いるということにすればよか。今すぐ兵力に訴えるというのでは、世間が納得しそうになか。何よりも、今京にいるお家の兵隊と長州の兵隊とだけでほ数が心細か。世間の心を得て味方を作るという上からも、兵を取りよせる上からも、二番目の方法がよかじゃろう」
 と、岩下はこまかく分析した。
 「長引くことは、こちらにはかり有利ではごわはんぞ。敵に一層有利になる恐れもごわすぞ。江戸から兵隊をとりよせたり、軍艦をとりよせたりするにきまっていもすからな」
と、大久保は言った。
  西郷は微笑した。
 「こちらで条理を尽して譲ったのに、徳川方がそういうことをすれば、非は彼にあって、天下の同情を失う道理でごわす。そういう戦きに勝つ道理はごわはん。ここは譲るのが勝つ道じゃろうじゃごわはんか」
 相談ほ西郷の説にきまって、大久保ほすぐ御所に引きかえして、この旨を岩倉に答申した。朝廷ではこれを容れ、これまで通り尾・越の老公をして慶喜を説かせることにした。
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