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<本文から> 勝はすぐ、今日すぐ来ていただきたいという文面の返事をくれた。
一同そろってすぐ出かけた。四人のうち吉井は以前から勝の家に出入りしていたのである。
勝の後年の追憶談によると、この日西郷は轡の紋のついた黒ちりめんの羽織を着て、中々立派な風袋であったという。西郷は自分の身なりを飾ることは最もきらいであったが、この頃は薩摩藩の代表者の地位にあるので、藩の体面を損じないだけの服装はしていたのであろう。
勝はごく気軽に西郷等を迎えた。西郷等は先ず越前侯の親書を差出した後、こう言った。
「肝心の御総督がきまらない有様ですから、諸侯の心もなかなかきまりません。長州の罪科を冤仮しましては、大義にもとることであり、日本の諸侯の道義観念を混乱させ、救うべからざる混乱の世になることは必然でござる。これを救って諸藩の心を一致させるには、将軍家の御進発にまさるものはござらぬ。うけたまわりますれば、あなた様は近く御帰東になります由、御尽力をもって、幕府の方針を御進発ということにしていただきたいと念じて、こうしてまかり出た次第でござる」
「あたしのようなものに望みをかけて来ていただいて、まことに光栄です」
と、勝は会釈して、
「しかしね、たとえあたしが舌によりをかけて説いても、うまく行きますまいよ。あたしは徳川の譜代の家来なんだから、こんなこと言っちゃいけないですがね、幕府は土台から腐り切っているんですよ。今の幕府役人等は、こんどのことで、乱暴な攘夷連の本家の長州が惨敗したんで、攘夷さん達は畏縮しちまって、ひたすら身の安全を願う心になったから、もう天下は無事太平になったと思っているのです。ですから、幕府部内はぼんくらのくせに悪智恵に長けている連中ばかりが羽ぶりを利かすところになってしまいました。その上、近頃ではこの連中大へん巧妙っていうのか、狡猾っていうのか、むずかしい事件は一同持合いで、どこに責任があるかわからないようなあつかい方をしているんです。その中でこんど老中格から老中になった諏訪因幡守忠誠ってのは最もずるい男でしてね、色々正しい意見を申し立てて来る者がいますと、ごもっともごもっともと、その場では同意なようなことを言うんですが、手をまわしてその者を退けるので、今では誰ももうロをつぐんで言わないんです。
あたしがこんど将軍家御進発のことを申し立てても、必定その手を食うにちがいないのです。こまったことです」
江戸ことばの軽快な調子で、こだわりのないしゃべり方だ。
「悪いやつということがわかっているのに、退けることが出来ないのでごわすか」
と、西郷の問いは子供のように真向からだ。
「それは出来ないことはありません。訳もなく出来るでしょう。しかし、そいつ一人を退けても、意見を受取る者がいませんよ。みんなわが身の安全ばかりを考えて、誠意をもって国家のために尽そうという考えのない人達だけでかたまっているのですから、面倒なことは、受取ろうという人がいませんよ。結局は言い出した者が倒れることになるのです。何ともならないんですよ」
ことばの調子はさわやかだが、言っていることはいかにも暗い。絶望的だ。
西郷はまた言う。
「それでは諸藩から力を尽してみてはどうでごわしょう」
「やはりだめでしょうな。諸藩から良策を申し出られても、受取る人がいれはこそのことですが、それがいないのですからね。仮に受取る人があったとしても、薩摩からかような議論がありますと、役人等へ持ち出しますと、役人等はすぐ薩摩に欺かれていると言いなして、陥れてしまいますからね。だめですな」
幕府役人といえば、権高で、高慢なのが普通だが、勝の態度には少しもそれがない。気取りがなくて、自由で、ザックバランで、ズバズバと語る。西郷は大いに感心した。そして、以前から相当感じてはいたことだが、幕府の内部が手のつけられないほど腐り切っていることに驚いた。
「今、当地に阿部閣老(正外)がまいっておられますが、どんなお人柄でごわしょうか」
「これはなかなか立派なお人です。心術も正しく、智恵もあります。何よりも誠心があります。あたしもこの人には望みをつないで、気づいたことをいろいろ申し上げています」
西郷はまた兵庫の開港問題についての意見をたずねた。兵庫開港問題は当時の大問題であった。縷述して来たように、幕府は朝廷をごまかしごまかし、諸港をひらいて来たが、最後に南都開市両港開港のことで大難関に逢着した。京都から最も近い距離にある大坂・兵庫を開市開港することは、朝廷の最もきらうところであった。開国を方針とする諸藩もここを開くことだけはきらった。あんなに朝廷がきらっていなさるのだからという理由でだ。しかし、諸外国はここを開くことを迫ってやまない。幕府が煮え切らないので、直接大坂湾に乗りこんで来る気勢を見せるのである。西郷はこれについて、もし異人等が大坂湾に乗りこんで来たら、どうすべきであろうかと、勝にきいたわけである。
「やあ、それについては、あたしにいい策があります。唯今では異人等も幕府役人を軽蔑していますから、もう幕府役人ではどうにもならんのです。あたしが貴殿の位置にあるなら、雄藩の賢君四、五人を合従(同盟)させて万一の場合には異人等と一戦の出来るほどの武力を背景にして、異人等と折衝しますね。その条件は横浜、長崎における交易量をもっと大幅にふやすかわりに、兵庫は開かないと異人等に堂々と申し渡すのです。こちらが条理を履んで堂々と交渉すれば、皇国の恥にならない、しっかりした条約がむすべるはずですよ。異人等もかえってそれを喜びますよ。そうなれば、天下の国是も決まります。やがてこの賢諸侯の同盟が天下の大政をあずかることにもなります。日本はもう変らなければならない時ですよ。幕府ではとてもこれからの大荷物は背負い切れません。もし貴殿等がその運動をなさるなら、その同盟の出来るまで、あたしが引受けて、異人等を食いとめてもよろしい」
とうてい幕臣のロから出て来そうもない不敵な意見である。最もすぐれた意見でもある。西郷は驚嘆し、また感動した。
以上はこの頃西郷が国許の大久保利通に書いた手紙によって叙述したのであるが、この時の勝の日記と後年の追憶談とを綜合すると、この時の問答はこれだけのことではなかったようである。長州征伐のことについても、勝は西郷にある程度の忠告をこころみたのではないかと、ぼくは見ている。その忠告はおそらくこうではなかったか。
「長州は征伐しなければなりませんが、そうひどく苦しめるのは、あたしは取りませんね。ひどく痛めつけようとすると、どうしても長くかかります。今は日本人同士が長い戦さをしあっていていい時ではないのですからね。欧米の列強が野心を抱いて日本のすきをうかがっているのだということを、われわれ日本人はいつも考えていなければならない時ですよ。長州が恭順謝罪の意を表するなら、適当にその実をあげさせるくらいで、かんにんしてやるべきです」
勝という人は、終始一貫、日本対外国ということだけを考えて、勤王佐幕の抗争などは冷眼祝して、といって悪ければ、第二義、第三義にしか考えていなかった人だ。天皇にたいする忠誠が日本人の第一道徳として国民にしみ通っていた明治三十年という時点で、彼の言ったことばに、
「愛国ということを忘れた勤王など意味のないものさ」
というのがある。 |
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