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          海音寺潮五郎-西郷隆盛(7)

■西郷と勝との出会い

<本文から>
 勝はすぐ、今日すぐ来ていただきたいという文面の返事をくれた。
 一同そろってすぐ出かけた。四人のうち吉井は以前から勝の家に出入りしていたのである。
 勝の後年の追憶談によると、この日西郷は轡の紋のついた黒ちりめんの羽織を着て、中々立派な風袋であったという。西郷は自分の身なりを飾ることは最もきらいであったが、この頃は薩摩藩の代表者の地位にあるので、藩の体面を損じないだけの服装はしていたのであろう。
 勝はごく気軽に西郷等を迎えた。西郷等は先ず越前侯の親書を差出した後、こう言った。
 「肝心の御総督がきまらない有様ですから、諸侯の心もなかなかきまりません。長州の罪科を冤仮しましては、大義にもとることであり、日本の諸侯の道義観念を混乱させ、救うべからざる混乱の世になることは必然でござる。これを救って諸藩の心を一致させるには、将軍家の御進発にまさるものはござらぬ。うけたまわりますれば、あなた様は近く御帰東になります由、御尽力をもって、幕府の方針を御進発ということにしていただきたいと念じて、こうしてまかり出た次第でござる」
 「あたしのようなものに望みをかけて来ていただいて、まことに光栄です」
 と、勝は会釈して、
 「しかしね、たとえあたしが舌によりをかけて説いても、うまく行きますまいよ。あたしは徳川の譜代の家来なんだから、こんなこと言っちゃいけないですがね、幕府は土台から腐り切っているんですよ。今の幕府役人等は、こんどのことで、乱暴な攘夷連の本家の長州が惨敗したんで、攘夷さん達は畏縮しちまって、ひたすら身の安全を願う心になったから、もう天下は無事太平になったと思っているのです。ですから、幕府部内はぼんくらのくせに悪智恵に長けている連中ばかりが羽ぶりを利かすところになってしまいました。その上、近頃ではこの連中大へん巧妙っていうのか、狡猾っていうのか、むずかしい事件は一同持合いで、どこに責任があるかわからないようなあつかい方をしているんです。その中でこんど老中格から老中になった諏訪因幡守忠誠ってのは最もずるい男でしてね、色々正しい意見を申し立てて来る者がいますと、ごもっともごもっともと、その場では同意なようなことを言うんですが、手をまわしてその者を退けるので、今では誰ももうロをつぐんで言わないんです。
 あたしがこんど将軍家御進発のことを申し立てても、必定その手を食うにちがいないのです。こまったことです」
 江戸ことばの軽快な調子で、こだわりのないしゃべり方だ。
 「悪いやつということがわかっているのに、退けることが出来ないのでごわすか」
 と、西郷の問いは子供のように真向からだ。
 「それは出来ないことはありません。訳もなく出来るでしょう。しかし、そいつ一人を退けても、意見を受取る者がいませんよ。みんなわが身の安全ばかりを考えて、誠意をもって国家のために尽そうという考えのない人達だけでかたまっているのですから、面倒なことは、受取ろうという人がいませんよ。結局は言い出した者が倒れることになるのです。何ともならないんですよ」
 ことばの調子はさわやかだが、言っていることはいかにも暗い。絶望的だ。
  西郷はまた言う。
 「それでは諸藩から力を尽してみてはどうでごわしょう」
 「やはりだめでしょうな。諸藩から良策を申し出られても、受取る人がいれはこそのことですが、それがいないのですからね。仮に受取る人があったとしても、薩摩からかような議論がありますと、役人等へ持ち出しますと、役人等はすぐ薩摩に欺かれていると言いなして、陥れてしまいますからね。だめですな」
 幕府役人といえば、権高で、高慢なのが普通だが、勝の態度には少しもそれがない。気取りがなくて、自由で、ザックバランで、ズバズバと語る。西郷は大いに感心した。そして、以前から相当感じてはいたことだが、幕府の内部が手のつけられないほど腐り切っていることに驚いた。
 「今、当地に阿部閣老(正外)がまいっておられますが、どんなお人柄でごわしょうか」
 「これはなかなか立派なお人です。心術も正しく、智恵もあります。何よりも誠心があります。あたしもこの人には望みをつないで、気づいたことをいろいろ申し上げています」
 西郷はまた兵庫の開港問題についての意見をたずねた。兵庫開港問題は当時の大問題であった。縷述して来たように、幕府は朝廷をごまかしごまかし、諸港をひらいて来たが、最後に南都開市両港開港のことで大難関に逢着した。京都から最も近い距離にある大坂・兵庫を開市開港することは、朝廷の最もきらうところであった。開国を方針とする諸藩もここを開くことだけはきらった。あんなに朝廷がきらっていなさるのだからという理由でだ。しかし、諸外国はここを開くことを迫ってやまない。幕府が煮え切らないので、直接大坂湾に乗りこんで来る気勢を見せるのである。西郷はこれについて、もし異人等が大坂湾に乗りこんで来たら、どうすべきであろうかと、勝にきいたわけである。
 「やあ、それについては、あたしにいい策があります。唯今では異人等も幕府役人を軽蔑していますから、もう幕府役人ではどうにもならんのです。あたしが貴殿の位置にあるなら、雄藩の賢君四、五人を合従(同盟)させて万一の場合には異人等と一戦の出来るほどの武力を背景にして、異人等と折衝しますね。その条件は横浜、長崎における交易量をもっと大幅にふやすかわりに、兵庫は開かないと異人等に堂々と申し渡すのです。こちらが条理を履んで堂々と交渉すれば、皇国の恥にならない、しっかりした条約がむすべるはずですよ。異人等もかえってそれを喜びますよ。そうなれば、天下の国是も決まります。やがてこの賢諸侯の同盟が天下の大政をあずかることにもなります。日本はもう変らなければならない時ですよ。幕府ではとてもこれからの大荷物は背負い切れません。もし貴殿等がその運動をなさるなら、その同盟の出来るまで、あたしが引受けて、異人等を食いとめてもよろしい」
 とうてい幕臣のロから出て来そうもない不敵な意見である。最もすぐれた意見でもある。西郷は驚嘆し、また感動した。
 以上はこの頃西郷が国許の大久保利通に書いた手紙によって叙述したのであるが、この時の勝の日記と後年の追憶談とを綜合すると、この時の問答はこれだけのことではなかったようである。長州征伐のことについても、勝は西郷にある程度の忠告をこころみたのではないかと、ぼくは見ている。その忠告はおそらくこうではなかったか。
 「長州は征伐しなければなりませんが、そうひどく苦しめるのは、あたしは取りませんね。ひどく痛めつけようとすると、どうしても長くかかります。今は日本人同士が長い戦さをしあっていていい時ではないのですからね。欧米の列強が野心を抱いて日本のすきをうかがっているのだということを、われわれ日本人はいつも考えていなければならない時ですよ。長州が恭順謝罪の意を表するなら、適当にその実をあげさせるくらいで、かんにんしてやるべきです」
 勝という人は、終始一貫、日本対外国ということだけを考えて、勤王佐幕の抗争などは冷眼祝して、といって悪ければ、第二義、第三義にしか考えていなかった人だ。天皇にたいする忠誠が日本人の第一道徳として国民にしみ通っていた明治三十年という時点で、彼の言ったことばに、
 「愛国ということを忘れた勤王など意味のないものさ」
 というのがある。
▲UP

■西郷と高杉は出会っていない

<本文から>
 この頃、高杉がこの大坂屋の奥座敷を根城にしていたことは事実であるが、当時高杉と行動をともにしていた伊藤博文は、二人が会ったことはないと断言し、西郷の同伴者である税所篤も否定している。だから『防長回天史』でもきびしく否定しているのである。
 『早川手記』も『落葉の錦』も、ぼくには未見の書だから、何ともいえないが、早川が後年に至るまで主張していることでもあり、早川は月形とともにこのことについて終始懸命に努力しているのだ。
 ウソを言っているとは考えられない。伊藤がこの頃高杉と行動を共にしているといっても、二六時中一緒にいたわけではなかろうし、税所も西郷につきっきりでいたわけではあるまいから、もし両雄の会見がごく短時間に行われたなら、あり得ないことではない。両雄の話の題目になったという解兵と五卿動座の先彼のことについては、すでに西郷と中岡との間で、「解兵するや動座ということに骨折ろう」と話がついている。ごく短時間に要領を伝えることが出来たはずである。
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■西郷は島から呼びかえされた時には公武合体でなく討幕路線であった

<本文から>
 久光という人は骨髄からの保守宏で、どうしてこんな人が全藩をひきいて国事運動に乗り出したか、不思議に思われるほどの人であるが、学問好きではあったので尊王心のあったことと、大久保に教育されて時事に目ざめたこと、相当功名心が旺盛であったことなどから、斉彬の志をつぐことになったのである。安政五年という時点においては、斉彬の志は、日本が外国の脅威をはね返して独立を保ち、なお将来にわたって栄えるためには、公武親和して挙国一致の体制となる以外にはないというのであったので、久光の好みにも合った。しかし、これが彼の限界であった。終生ここから脱け出すことは出来なかった。斉彬なら、時勢の変化と趨勢とを鋭く洞察して、いつまでもこんなところにうろうろしてはいないのだが、久光には望むべくもないことであった。
 しかし、西郷にはもう公武合体では追いつかないことがわかっていた。それは彼が最初に島から呼びかえされた時にもう見きわめがついていた。寺田屋で死んだ有馬新七等は久光の公武合体運動にあきたりず、討幕路線を計画し、久光の怒りに触れて上意討ちにされたのであるが、西郷の気持はこの寺田屋の人々に近かったのである。だから、こんど島から呼びかえされて京都における藩代表ともいうべき役目につけられると、彼は最も工夫した動きをとることにした。たぶん大久保と相談の上きめたことだろうが、久光のきげんを損わないために表面は公武合体であることにして、内実は出来るだけ幕府から離れて、直接に朝廷に結びつくことにした。会津と手を切ったのがそれである。宮門事変の時、一橋慶喜の命令では動かず、朝命があってはじめて出動しているのがそれである。長州征伐にかかる前は長州にたいする最も厳格な処分を主張しながら、実行にかかると最も寛大な処置を主張し、その実現に最も精力的な努力をしたのがそれである。
 彼の目に映ずる幕府は益々衰想が募って行くようである。彼はこの見解を久光父子に語ったであろう。もちろん、その心をゆり動かすためである。しかし、昔とちがって、心が練れている。ただ事実を説くだけにして、自然に久光の心がそうなるようにしたことと思われる。
 大久保にははっきりと見解をのべたであろうし、大久保はすべてこれを認めたであろう。
 久光父子は西郷の働きを賞して、刀一腰をあたえた。
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■坂本らが言い出した薩長連合

<本文から>
 この坂本が、中岡と土方とに顔を合わせた。大坂藩邸においてであるか、京藩邸においてであるかわからないが、ともあれ顔を合わせた。いずれ土佐勤王党の同志である。大いによろこんで、酒などのんで久潤を叙し、国許の同志等の受難のことや、各自の経て来た話などをしているうちに、誰が言い出したか、
 「薩摩と長州とが手を結ベば、幕府は最も強力な敵を持つことになる。ひょっとすると倒せるかも知れん」
 という話になった。
 恐らく、これは坂本の発言であったろうと、ぼくは推察する。
 多分坂本は師匠の勝からこのアイデアを聞いていたに違いない。西郷の対長州策は征伐にかかる前とかかってから後とは大転換している。本来、彼は長州藩をそう憎んではいず、厳格な処置を主張していたのは、久光にたいするゼスチャーだったとぼくは信じているが、当面さしあたってこの変化をしたのは、最初に勝に会った時、薩・長が手を結ぶことが必要となる時が来るかも知れないと言われたからではないかと、ぼくは推察している。もしそうであるなら、坂本にも語らないはずはない。酒でも飲みながら、
 「おれはこう西郷に言ってやったよ」
と、話した可能性は大いにある。
▲UP

■薩長の話し合いで、西郷が下関に寄らなかったのは

<本文から>
 ここで考えなければならないのは、この時西郷等の乗った汽船のとった航路である。普通の場合、鹿児島と大坂との間の航路は、支那海側をとっても、太平洋側をとっても、瀬戸内海に入って大坂に達するのであるが、この時は佐賀関から土佐沖を適って大坂に達している。これは土方久元の伝記『土方伯』で明らかである。この書では、西郷は、やむを得ぬことで上京を急いでいたので、中岡の懇願をきかなかったと書いている。すでに鹿児島を出る時からこれはきまったことで、それは久光によって、
 「連合は望ましいことではあるが、しばらく時機を待とう」
 と裁断されていたからであると、ぼくは判断するのである。もっとも、中岡としては、何とか船中で西郷を説きつけようというつもりであったのだろう。
 久光の長州憎悪も以前ほどではなくなっていたと思われるが、彼は淡泊な人がらではない。なお相当なものをのこしていたはずである。こちらにとっては別に切実に必要なことではない。しばらく放っておけば、向うから頼んで来るはずだ、そこで応じた方が後々のためにも有利であると思ったと、ぼくは推理するのだ。これまでの行きがかりからしても、久光の人柄からしても、最も久光の考えそうなことだと思うのである。
 中岡はいたし方なく、ひとり佐賀関に上陸し、その夜は大島屋に泊まった。翌日も滞在している。
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■間一髪に成立した薩長同盟

<本文から> 龍馬は南国の海のように潤達で、ものなれた男だ。へたにつついて相手の心を一層こじれさせるようなことはしない。
 「よくわかりました。ごもっともです。ここは拙者にまかせて下さい。そして、帰国するなどとは言わんで下さい」
 と、なだめておいて、西郷に会った。
 「西郷さん。どうしたのです。木戸さんに会うて聞いたら、かんじんのことは一向諸に出もせんから、かんしゃくをおこして、帰国するというていますぞ」
 西郷は木戸の立場の苦しさも、心理もよくわかっていて、薩摩側が久光の意向をはばかって大事を逸し去らせようとしているのを大いに気をもんでいたのだ。坂本が来てくれたのは、救いの神であると思っている。
 「木戸さんの言われることはもっともでごわす。重々こちらが行きとどかんのでごわす。何とか木戸さんをなだめて下さい。この間題については坂本さんたちがはじめから骨折って下さっているのに、その立会なしにきめてしまったらいかんと思うて、実は坂本さんの釆なさるのを首を長くして待っていたのだと言っていたとでも言うて、きげんをとりむすんで下さい。こちらの方は拙者が引受けてまとめもすから」
 坂本は西郷の言外の意味がよくわかって、すぐ木戸の許に引きかえして木戸を説いて承知させた。西郷は他の薩摩の幹部等を説いて承諾させた。
 その夜、はじめてこの間題についての正式会見が小松帯刀の別邸で行われた。
 『忠正公勤王事績』にこの時のことをこう記している。
 「木戸ははじめ小松、西郷などと会見した時に、これまで薩州と長州との関係はかようかようであったが、長州の意思はこの通りであると言うて、従来の行きがかりをくわしく言うと、西郷は初めから終りまで謹聴して、いかにもごもっともでございますと言うていたそうであります。嘗て品川子爵(品川弥二郎)から聞いたことがありますが、おれが薩人の立場に立ったとすれは、木戸の言うことには十分突っこむところがあった。それをいかにもごもっともでございますというて、しやがんだまま何にも言わなかったのは、さすが西郷の大きいところであると話されました」
 談合は、上記のように木戸が気色ばんで長州の正義をのべ、薩・長の旧い悪関係のことにむずかしいことを言ったのだが、西郷が終始おとなしく聞いて少しも言いかえしなどしなかったので、やがてなごやかな空気となった。木戸も言うだけのことを言ったので、落ちついて来たのであろう。
 双方から、将来の見込みについて話が出、その結果、六力条のことがきめられた。
 一 長・幕の間に戦端がひらかれた場合は、薩摩はすぐ二千余の兵を急速に上方に取りよせ、現在の在京の兵と合せておき、うち千人は大坂におき、京都と大坂とをかためること。
 二 長・幕の間の戦いに、長州に勝ち色が見えたら、薩摩は必ず朝廷にたいして長州のことをいろいろ運動すること。
 三 万一、負け色になっても、半年や一年の間には決して長州は潰滅することはないから、その間に薩摩において相当尽力して、長州の立場を保ってくれること。
 四 長・幕の間が開戦に至らずして、幕府軍が東帰したら、薩摩は長州の冤罪をきびしく朝廷に申し上げ、勅勘のゆるされるように必ず運動尽力すること。
 五 薩摩が国許から兵を京坂に取寄せて兵力を示しても、一橋、会津、桑名などがなお今日のような態度を改めず、もったいなくも朝廷を擁し奉って正議をはばみ、運動尽力の道の邪魔をするようなら、薩摩も覚悟をきめて、兵力をもってこれらを一掃し、幕府と決戦すること。
 六 長州の冤罪たることが認められ、勅勘がゆるされることになったら、両藩は誠心をもって柏合し、砕身尽力することは言うまでもないことだが、すでに今日より皇国のため、皇威輝く王政復古を目的として誠心を尽してきっと尽力すること。

 以上である。この六力条を見てもわかるように、この同盟は長州のためと日本のために倒幕を目的とする攻守同盟なのである。
 木戸は翌二十一日、京都を立って帰国の途についた。黒田了介と村田新八とがこれを送った。
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