その他の作家
ここに付箋ここに付箋・・・
          海音寺潮五郎-西郷隆盛(6)

■大久保は薩摩人的でない

<本文から>
 ここで、ちょっと読者の注意をうながしたいことがある。大久保は久光の命令で江戸に下り、償金支払いのことについて重野等を指揮したが、いつも表面には立たず、背後にいた。立つ必要がなかったから立たなかったのだと言えば言えるが、筆者はその用心深さにいろいろと考えさせられるのである。
 あるいは大久保はすでに薩摩の要人となっているので、世の物議を招くことが確実なこんな仕事を指揮していることが世に知られては、藩のためにならないという思慮からであったかも知れず、久光からもその点を気をつけるように言われたのかも知れない。しかし、大久保がこんな時、身を安全な立場におくのは、この時だけではなく、この後もしばしはある。賢明というべきであろうが、当時の薩摩武士としては賢明すぎると筆者には思われる。薩摩人的でないことは確かである。今に至るまで大久保の評判が鹿児島県では一般によいとは言えないのは、このようなことがしばしばあったからかも知れない。先きは長いのだ。ゆっくりと観察していただきたい。 
▲UP

■真木和泉は純粋ではあるが劇画的発想

<本文から> 真木和泉という人は、一体どの程度の人であったのか、前巻で掲げた「攘夷親征の建白書」を見ても、この三策を見ても、高くは品等出来ない。『防長回天史』も、「真木のこの三策の如きは、一篇架空の論のみ、固より実際問題となすに足らず」と批評している。真木の志の純粋真摯さは疑うことは出来ないが、頭はあまりよくない人だったのに、よいと自信している人だったと思わざるを得ない。「言なんぞ容易なる」という漢文の成語がある。「たやすく言うじゃないか」とたしなめつけることばだ。真木の三策はこれだ。現代なら劇画的発想というべきところである。とうていいい年をしたおとなの考えそうなことではない。しかし、現代でも過激青年らが、劇画的発想としか思われないようなことをするのと思い合わせると、過激な人間はいつの時代にもこんな発想をするものかも知れない。その真木を崇拝、心酔している人間が、この時代にはずいぶん多かったのだが、厳密な意味では、これらは全部狂人であろう。世の激しく変ろうとする時代には、こういう意味の狂人が大量に出来るのかも知れない。
▲UP

■西郷の召還は思慕であり人望

<本文から>
 西郷の召還を必要と考えた薩藩士等の当面の理由とするところは以上の通りであったろうが、衷心の理由は西郷にたいする思慕であり、人望であったろう。旧誠忠阻の幹部としては大久保がおり、伊地知貞馨(堀次郎)がおり、伊地知正治がいる。大久保に至っては久光側近の要人として、今では大へんな羽ぶりだ。去年の夏頃まで、旧誠忠組の者で最も久光に気に入られていたのは堀だったが、冬頃から大久保になった。堀の藩邸放火事件が暴露して、堀を中央の地に出せなくなったためでもあるが、一つには大久保の実力が久光にわかって来たためであろう。人物も重厚である。堀は才子でもあり、
 久光の大好きな学問の知識もあるが、オッチョコチョイでお調子もの的なところがあって、なにか危っかしい不安があるが、大久保は重厚・堅実だ。命じたことを確実に処理する手腕もあれば、策も立つ。何よりも秘すべきこととそうでないこととの弁別がついて、決してあやまらないことだ。また、久光は厳しい統制こそ政治の要諦と信じ切っているのだが、大久保は心からそれがわかって、最も忠実だ。今では最も信頼している気に入りの者になっている。
 しかし、旧誠忠組の目から見ると、大久保があまりにも久光に密着し、久光の思想、久光の政治行動に忠実すぎることがあき足りない。独自の見識による批判がないようであるのが気に入らないのである。
 「久光様は骨の髄からの公武合体主義者だ。それにべったりの一蔵サアでは、我々のこの志をどうすることも出来はせん」
 と思うのである。
 こうなると、いやが応でも西郷が慕わしくなって来る。
▲UP

■死地に投じて事を成功させるという西郷の大事を処理する際の手口

<本文から>
 薩・長の連合が倒幕戦を成功させる唯一の急所であることは、やがて歴史が証明するのだが、もし西郷が薩・長の反日が一朝一夕には融けがたいほど深刻なものであることを知っていたなら、この思案は浮かばなかったろう。知らなかったために、かえって素直に急所をつかんだと言えよう。
 もちろん、この時点では、たとえ西郷であっても、薩・長の連合は出来なかったろう。従って倒幕戦もおこせるはずはない。間違いなく、西郷は長州人等に殺されたであろう。この時期の長州人は狂気している。自分に反対の意見の者は、他藩人と同港人とを問わず、やたらに殺した。高杉ほどの人物まで、いくどか同藩人に暗殺されようとしている。イデオロギー狂信のおそろしさである。
 興味があるのは、この手紙の中に、死地に投じて事を成功させるという西郷の大事を処理する際の手口が、すでにあらわれていることである。この年の冬、第一次の長州征伐がはじまると、西郷は単身岩国に入って吉川経幹と交渉して長州の無血降伏をとりつけており、さらにその一カ月後には、三条実美等五卿を長州から太宰府に移動させるについて、奇兵隊や諸隊の兵が反対してむずかしいことになると、また単身下関に入って、諸隊の幹部等と交渉して無事話をまとめている。明治六年の遣韓大使問題の際も、西郷はこのやり方をとろうとしたのである。思うに彼のこの手口は、彼が天性の勇者であったことと、至誠にして動かざるものは未だこれあらざるなりという古語を信じ切っていたことによるであろう。至誠の力を信ずるが故に、勇気も益々養われたのであろう。
▲UP

■南海の座敷牢と野山獄とは、高杉と西郷に天命を行わせるためのもの

<本文から> この時期の長州藩は藩士の藩法違反にたいして実に寛大であるが、それは尊攘派の藩士にたいしてだけで、いわゆる俗論党の者には厳しかったようである。去年の俗論党騒ぎの際における処罰がそれを語っている。党主の坪井九右衝門などは切腹に処せられ、罪一族に及んでいる。もっとも、この際の高杉の処罰が軽かったのは、彼の才能人物を惜しむ藩政府の意向と藩公父子の同様な意向と温情とによるのであろう。
 天は、撥乱反正して時勢を救う力量のある人間には、特別な愛情があるもののようである。いわゆる天命だ。もし西郷が安野六年のはじめに大島住いを命ぜられず、文久二年に徳之島や沖永良部に遠流されて囚獄されなかったら、西郷の性質としてこの疾風怒涛狂潤さか巻く期間に、久光の統制に服しておとなしくしていたろうと思われない。必ずや造反して藩中に波瀾をおこして久光に殺されるか、脱藩して浪人志士となって幕府方の者に殺されたろう。この期間、南海の離島にいたため、やがて時機の到来とともに反幕勢力を結集して革命の中心人物となって幕府を倒すことが出来たのである。この点、高杉も同じである。この時の長州藩の進発論はとうていおさえることの出来ないものであった。ついに蛤御門の戦いまで行くのである。進発論には反対でも、おさえきれるものではない。桂小五郎は終始反対だったのに、進発軍の一将として戦っている。高杉のあの性質では、衷心は反対でも飛び出さずにいられるものではない。桂は戦い放れても、恥を忍んで生きながらえたが、高杉は久坂等と同じように死んでしまったろう。この時、野山獄に投ぜられたので、風雲の外の人であることを得て、四国艦隊との講和、俗論党を退治しての藩論の立て直し、第二次長州征伐に幕軍を破って幕府に垂死の大打撃をあたえるなどのことが出来たのだ。
 こう考えて来ると、南海の座敷牢と野山獄とは、二人に天命を行わせるために、天の用意した彼等の庇諸所だったと言えそうである。天命というものは存在するもののようである。
▲UP

メニューへ


トップページへ