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          海音寺潮五郎-西郷隆盛(5)

■急進撰夷派が漸進攘夷派に勝つ

<本文から>
 文久三年の二月一ぱいは、公武合体派ヒ尊王撰夷派との主導権争いが最も激烈であった時期である。
 これを佐幕派と尊王派の争いと呼ぶのは、歴史の現実に合致するものではない。この時期においては、尊王は社会の常識となっていて、尊撰派専有のものではなく、公武合体派もその政治上の発想はすべて尊王を基準にしていたのだから。現代日本のすべての政党が民主主義を基盤にしているようにだ。
 だから、尊王精神の有無は両派の相違点にはならない。攘夷もまた相違点にならない。攘夷は天皇の御意志だから、公武合体派も奉ずることを天皇に誓っているのである。相違は、その撰夷を漸進的に行うか、即時に行うかにあった。それ故に、漸進攘夷派と急進摸夷派との争いと呼ぶのが、最も現実的で妥当な呼称である。
 両派の陣容については、歴史事実によって、これまで繚々語って来た。漸進攘夷派は幕府の閣僚、高級官僚、幕府最高の要人であり、また大名でもある一橋、越前春嶽、会津容保、土佐容堂、単なる大名ヒしては薩摩、宇和島、公家では中川宮、五摂家、高級公家。急進撰夷派は大名では長州、土佐の現藩主豊範(もっとも、これは容堂の上京後、豊範は帰国するが、その後、とんと力はない)、武士では長州藩士、土佐勤王党員等、諸藩の過激分子、浪人の過激分子、公家では三条実美以下のさして身分の高からぬ少壮過激分子。
 両派の争いは、将棋の対局にたとえることが出来る。天皇様を白派にとりこんで、自派の主張に合致した勅読を出させ申すことが出来た方が勝ちなのである。だから、これを目的として両派鏑を削ったのだが、両派の陣容を綿密に検討分析すれば、急進攘夷派が勝ち、漸進攘夷派が敗れることは、そのはじめから明瞭であったはずである。
 急進攘夷派はメンバー全部が最も精力的な戦闘員であった。大名はただ一家だが、毛利家は財をおしまず注ぎこんだし、公家はそれぞれの場で最も雄弁に最も執拗に自派の主張を論じ立てたし、武士等もまた伺候出来る必要な場所に行っては、威迫と弁舌をもって主張したし、その中には最も暴勇なテロリストが多数いて、必要とあれば暗殺も放火も脅迫も避けなかった。しかも、そのテロリスト等には治外法権的特権のある薄邸がアジトとしてあり、まさかの場合はそこ(逃げこめばほぼ絶対に安全であった。他藩の者や浪人でも、同志であればかくまった。
 一方、漸進捷夷派は皆身分の高い人々であったが、戦士としては決して優秀ではなかった。公家は五摂家も中川宮も他の上流公卿も、臆病でテロに脅えて、彼等の働き場であるはずの朝議の場でもはかばかしく口を利かないので何のカにもならず、教派の公家等に言いまくられて嘆息しているだけであった。幕府の高級官僚等は京都政界では仕事の場を持たなかった。のこるところは大名等だけであるが、この人々は自由に身動きが出来ず、従って対策は常に直裁を欠き、後手にまわった。
 以上、両派の陣容を眺めただけで、勝敗の数ははっきりしていたはずである。しかもなお漸進派が負けることを予知しなかったのは、自派の主張が正当(適当)であり、正しいものは必ず勝つと悼む心があったためかもしれない。大ていな人間には、そんな甘さがある。長い時間を通じて見れば、正は不正に、適は不適に勝つものであるが、にわかには必ずしもそうはならないのである。
 これから書いて行くこの章のことは、大へんごたごたしているようであるが、以上述べたことを心において考えていただけは、瞭然としてわかるはずである。
 三年二月七日に、河原町の土佐藩邸の裏門に通ずる高瀬川の小橋の上に生首がおいてあり、側に容堂にたいする脅迫状が建札にしてあったことは、前巻の末尾に書いたが、このようなテロリスト等にたいして、朝廷の激派の公家等は好意を持っていた。おどろいたことに、天皇もこまったものとは思し召しながらも、皇国の正気の徒であるとして愛情に似たものを持っておられた。漸進派の高級公家等は、好意は持たなかっただろうが、憎まれたくない恐怖心からだろう、うっかり聞けば好意を持っているのではないかヒ思われるような言い方をした。漸進派の大名も、会津容保が一橋慶喜にあてた手紙に、「元来、皇国のお為め筋と存じ込み、時勢憤悶にたえざる所より致し候所行かには候え共云云」とあるように、憎み切ってはいない。教派の長州藩世子定広に至っては、鷹司関白に差し出した意見書の中で「撰夷の期限が未定で、幕府の様子が因循で、一時の平安を貪っているようなので、彼等は思いあまっていろいろなことをするので、幕府が早く英断して擁夷の期日を定めて天下に公布すれば、こんなことは必ずやむ」と言っている。悪いのは幕府で、彼等はやむを得ずテロをやっているのだと言わんばかりであった。これでは、テロがおさまる道理はない。
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■田中の暗殺事件の謎

<本文から>
 さて、吟味のとどかないうちに嫌疑者を自殺させたのは、町奉行たる永井尚志とその部下の者の不覚であるというので、幕府は永井以下のかかりの者を閉門謹慎に処した。また、仁礼源之丞は芸州藩に、下僕の藤田太市は米沢藩にお預けにしたが、間もなく二人とも逃亡してしまった。どこまでも歯切れの悪い、後味の悪い事件である。
 この暗殺事件は、維新史上の謎の一つになっている。誰かが斬らせ、誰かが斬ったには相違ないのだが、その誰かがわからない。いろいろな推理が行われている。
 その一つは、もちろん薩摩である。薩摩が計画して、新兵衛に斬らせたという考え方。当時の京都政界における薩・長の主導権争いは激烈をきわめたが、長州の方が圧倒的に歩がよく、薩摩は圧されていた。この長州と全幅的に同腹となり、朝廷を主導しているのは、三条、姉小路の両卿である。だから、これをたおすことによって、長州藩の朝廷を操縦するよすがを断とうとしたのだ。両脚が死ねば、上流公家や宮方は薩摩の漸進攘夷方針、公武合体誠に好意を持っているのだから、主導権は薩摩のものになるはずと計算したのだ。だから、当夜は姉小路卿ばかりでなく、三条卿をも狙ったのだ。薩摩の計画である以上、人斬り名人の田中に命じないはずはないというのである。
 しかし、この考え方にはいくつかの弱点がある。第一は、浅薄すぎる計画である。現に薩摩はこの事件で少しも利得せず、むしろ大損をして、乾御門の警衛役を解かれ、藩士らの宮門に出入りすることも禁ぜられたではないか。第二、暗殺名人である田中にしては不手際にすぎる。第三、刀を投げつけて行ったり、奪われたり、わざと証拠をのこすようなやり方で、田中に嫌疑がかかるように仕組んだ疑いが十分である。第四、田中と武市との関係、武市と姉小路との関係を考える時、田中が姉小路を殺すとは考えられない。
 この説の支持者の中には、この事件の数日前に田中が三本木の料亭で何者かに刀をすりかえられて、それを友人に語って口惜しがっていたという話を伝えている。
 その二は、幕府の線の仕事であるという考え方である。長州薄のお先棒をかついで、過激な議論を展開して朝議をリードしている両脚、とくに姉小路卿は資性剛毅であるだけに、幕府側としては最もこまる存在である。とりわけ、この時点では朝廷に御約束して天下に公布した攘夷期限が来たのに、攘夷談判が出来ずぐずついているばかりでなく、償金支払いをしてしまい、朝廷からきびしい叱責をこうむっていて、その言訳にもこまっている。朝廷の硬派論の中心である両脚、とくに剛毅な姉小路を消してしまえば、三条は本性気の弱い人であるから、朝廷の硬諭の勢いを弱めることが出来ると考えた可能性は大いにあろう。しかし、疑いが幕府側にかかってはまずいので、最も疑われやすい立場にある薩摩に疑いが向くように、新兵衛の刀をすりとって、いろいろと演出したのである。
 仁礼と下僕の藤田太市とが苦もなく逃走したのも、望みを達し、一応のケリがついた以上、無益に苦しめる必要はないし、長くおいてはポロの出る恐れもあるので、預り先の両藩に細工して逃亡しやすいようにはからわせたのであるという説である。
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■高杉の奇兵隊創設

<本文から>
 幕末という歴史的区分は年代的にはあいまいである。外国関係のことがうるさくなりはじめた天保頃もすでに幕末というべきだという論もあり得るだろうが、仮にうんと切り下げて、嘉永六年六月にペリーが来航した時点から慶応四年正月の伏見・鳥羽戦までの足かけ十五年として、その次第に煮えっまって来た文久三年半ばから以後における日本の三傑をえらぶとすれば、薩摩の西郷隆盛、長州の高杉晋作、土佐の坂本龍馬の三人であろう。
 三人とも一種の天才である。西郷を天才とするには異論のある人も多いであろうが、天才なるものをひたすらに鋭いものとする通俗的見方を揚乗するなら、切所にあたっての西郷の比倫する者のないほどの雄断力は、天才だけの持つものであることに気づかなければならないはずである。剃刀の切味ではなく、大薙刀の裁断力である。天才と大才とを兼ねたものといわざるを得ない。坂本はこの史伝にすでに姿をあらわしてはいるが、まだその力量が十分に読者の目に触れる機会がない。本格的登壇にはもうしばらく時間がある。
 高杉はすでに姿をあらわした。横浜の外国公使刺殺計画、吉田松陰の改葬、家茂将軍の帰東阻止計画等々である。以上のことは要するに当時の激派壮士−現代の過激派青年にも通有なことで、高杉の真価を十分に品隣し得るものではないが、それでも彼が万人に卓越した気塊と天才のもつ鋭さとの所有者であることは、好意を持って見る人なら十分にわかるはずである。人を見るには先ず好意をもつことが必要である。最初から辛辣な心をもって見ては、結局はその人の長所と美点を見失ってしまう。彼の真骨頂はこの時点−長州の攘夷戦争のすんだ時から、その全容をあらわすのである。
 前述した通り、高杉は吉田松陰の改葬以後なお江戸にとどまって何事かを企てていたのを、藩世子毛利定広が井上聞多をつかわして、京都に呼びかえしたが、彼は感ずるところがありますれは十年問お暇をいただきたい、その間は藩外にあって国事に働きますと願い出、定広の諒解でゆるされた。間もなく高杉は剃髪して坊主となり、束行という名になり、その間に家茂将軍の江戸へ帰るのをおしとどめるために、港内の同志等といろいろ画策した。これらのこともすでに書いた。その後、高杉は京都から帰国して萩の実家にいた。
 下関海峡における攘夷戦争五回のうち、味方の勝利であったのは前の三回で、後の二回は敗けであった。特に五回目はフランス艦隊に砲台を占領破壊され、備砲は砲門に鉄打を刺されて使用にたえぬようにされ、火薬、弾薬類は海中に投棄された。
 長州藩庁はすでに第四回六月一日の敗戦によって大いに考えかところがあって、藩主慶親、世子定広に菓申したので、両人の合議をもって、高杉を起用することをきめた。高杉は正式には罪を得て、藩士たる身分を剥奪されているので、先ずこれを回復しなけれは、起用出来ない手続きになっている。それで六月三日、亡命の罪をゆるして、父小忠太の「育み」とした。「はぐくみ」というのは、長州藩特有の名称である。他藩では「厄介」という。同籍内にあって香われている者のことをいうのである。
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■薩摩人と長州人の長所・短所

<本文から>
 いずれも人間の営みだから、長所もあれば、短所もある。薩摩人の長所は理論にこだわらず、現実に即応して最も有利で役に立つ途を選ぶところにあるが、短所は現実的に過ぎて、することに人を信頼させる一貫性のないことである。一般に学問がきらいである短所もここから生ずる。この点、有馬新七はその信念に忠実であった点において、最も非薩摩人的であった。西郷もまたそうだ。彼は敬天愛人の哲学を終生信奉し、実践しつづけ、理想的な道義国家建設の志を抱きつづけたが、彼には英雄的機略と悠揚たる挙措があったため、性急偏狭な姿を人に見せなかったのである。これが、後世の学者や西郷研究家の目をまどわすことともなった。
 長州人の長所は理論に忠実で、そのするところは一本の線につらぬかれたように整々としていることである。吉田松陰の生涯はその典型である。純粋で、この上なく美しい。短所は自ら立てた理論に忠実なあまカ、ついに自ら酔い、その理論の根抵に誤りのあることに気づかず、どこまでも強行することだ。攘夷は天皇の御意志であるというので、それまで藩の方針であった開港遠略の説を捨てて攘夷主義に切りかえたのだが、次第にエスカレートして行った彼等の攘夷は、決して天皇の御意志に合致するものではなくなった。彼等は天皇の御意志がどの程度の攘夷主義であるかを測らず、エスカレートする感情のまま押して押して押しまくり、やがて天皇の怒りに触れて、奈落の底に転落するのである。
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