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<本文から> 文久三年の二月一ぱいは、公武合体派ヒ尊王撰夷派との主導権争いが最も激烈であった時期である。
これを佐幕派と尊王派の争いと呼ぶのは、歴史の現実に合致するものではない。この時期においては、尊王は社会の常識となっていて、尊撰派専有のものではなく、公武合体派もその政治上の発想はすべて尊王を基準にしていたのだから。現代日本のすべての政党が民主主義を基盤にしているようにだ。
だから、尊王精神の有無は両派の相違点にはならない。攘夷もまた相違点にならない。攘夷は天皇の御意志だから、公武合体派も奉ずることを天皇に誓っているのである。相違は、その撰夷を漸進的に行うか、即時に行うかにあった。それ故に、漸進攘夷派と急進摸夷派との争いと呼ぶのが、最も現実的で妥当な呼称である。
両派の陣容については、歴史事実によって、これまで繚々語って来た。漸進攘夷派は幕府の閣僚、高級官僚、幕府最高の要人であり、また大名でもある一橋、越前春嶽、会津容保、土佐容堂、単なる大名ヒしては薩摩、宇和島、公家では中川宮、五摂家、高級公家。急進撰夷派は大名では長州、土佐の現藩主豊範(もっとも、これは容堂の上京後、豊範は帰国するが、その後、とんと力はない)、武士では長州藩士、土佐勤王党員等、諸藩の過激分子、浪人の過激分子、公家では三条実美以下のさして身分の高からぬ少壮過激分子。
両派の争いは、将棋の対局にたとえることが出来る。天皇様を白派にとりこんで、自派の主張に合致した勅読を出させ申すことが出来た方が勝ちなのである。だから、これを目的として両派鏑を削ったのだが、両派の陣容を綿密に検討分析すれば、急進攘夷派が勝ち、漸進攘夷派が敗れることは、そのはじめから明瞭であったはずである。
急進攘夷派はメンバー全部が最も精力的な戦闘員であった。大名はただ一家だが、毛利家は財をおしまず注ぎこんだし、公家はそれぞれの場で最も雄弁に最も執拗に自派の主張を論じ立てたし、武士等もまた伺候出来る必要な場所に行っては、威迫と弁舌をもって主張したし、その中には最も暴勇なテロリストが多数いて、必要とあれば暗殺も放火も脅迫も避けなかった。しかも、そのテロリスト等には治外法権的特権のある薄邸がアジトとしてあり、まさかの場合はそこ(逃げこめばほぼ絶対に安全であった。他藩の者や浪人でも、同志であればかくまった。
一方、漸進捷夷派は皆身分の高い人々であったが、戦士としては決して優秀ではなかった。公家は五摂家も中川宮も他の上流公卿も、臆病でテロに脅えて、彼等の働き場であるはずの朝議の場でもはかばかしく口を利かないので何のカにもならず、教派の公家等に言いまくられて嘆息しているだけであった。幕府の高級官僚等は京都政界では仕事の場を持たなかった。のこるところは大名等だけであるが、この人々は自由に身動きが出来ず、従って対策は常に直裁を欠き、後手にまわった。
以上、両派の陣容を眺めただけで、勝敗の数ははっきりしていたはずである。しかもなお漸進派が負けることを予知しなかったのは、自派の主張が正当(適当)であり、正しいものは必ず勝つと悼む心があったためかもしれない。大ていな人間には、そんな甘さがある。長い時間を通じて見れば、正は不正に、適は不適に勝つものであるが、にわかには必ずしもそうはならないのである。
これから書いて行くこの章のことは、大へんごたごたしているようであるが、以上述べたことを心において考えていただけは、瞭然としてわかるはずである。
三年二月七日に、河原町の土佐藩邸の裏門に通ずる高瀬川の小橋の上に生首がおいてあり、側に容堂にたいする脅迫状が建札にしてあったことは、前巻の末尾に書いたが、このようなテロリスト等にたいして、朝廷の激派の公家等は好意を持っていた。おどろいたことに、天皇もこまったものとは思し召しながらも、皇国の正気の徒であるとして愛情に似たものを持っておられた。漸進派の高級公家等は、好意は持たなかっただろうが、憎まれたくない恐怖心からだろう、うっかり聞けば好意を持っているのではないかヒ思われるような言い方をした。漸進派の大名も、会津容保が一橋慶喜にあてた手紙に、「元来、皇国のお為め筋と存じ込み、時勢憤悶にたえざる所より致し候所行かには候え共云云」とあるように、憎み切ってはいない。教派の長州藩世子定広に至っては、鷹司関白に差し出した意見書の中で「撰夷の期限が未定で、幕府の様子が因循で、一時の平安を貪っているようなので、彼等は思いあまっていろいろなことをするので、幕府が早く英断して擁夷の期日を定めて天下に公布すれば、こんなことは必ずやむ」と言っている。悪いのは幕府で、彼等はやむを得ずテロをやっているのだと言わんばかりであった。これでは、テロがおさまる道理はない。 |
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