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          海音寺潮五郎-西郷隆盛(4)

■純粋攘夷論の台頭

<本文から>
 上述のように、久光にたいする朝廷の空気は最上々であったが、実をいうと、それは天皇と上級公家の空気であって、一般の公家、そしてまた当時京都におびただしく集まっていた浪人志士等の間の人気はそうではなかった。この人々は、新たに長州藩の唱え出した純粋撰夷説に共鳴して、攘夷説はなかなかの勢いとなっていたのである。一体、開国説も攘夷説も、根源は恐怖感情からはじまっている。開国説はやがて最も理性的なものになったのだが、撰夷説は最後まで感情から脱することが出来なかった。攘夷感情をあおり立てたものの中には、貿易によっておこった金貨と銅貨の流出による通貨不足の不景気と物資買占めによる物価騰貴などによる国民生活の圧迫がありはしたが、根本的なものは欧米勢力にたいする恐怖感情と欧米人にたいする嫌悪感情とであった。
 感情であるだけに、国民にアピールする力は開国論よりずっと強いのである。そこへ持って来て、天皇が最も強烈な撰夷家であられるので、天皇への忠誠心と一緒になって、一層盛んになった。理論的には、尊王摸夷と同じく尊王開国もあり得るはずであり、佐久間象山や横井小柄のような人も実在したのであるが、この時代の世間は尊王開国というコンビを認めなかった。尊王ならば必ず撰夷でなくてはならず、開国ならば佐幕のはずと考えていた。それは天皇が最も熱心な攘夷家でおわしたためである。
 京都の空気がこうなったもとは、長州藩が藩の方針を百八十度転換して、開国論を根本にした公武合体説から純粋攘夷論に切りかえて、徹底的に天皇のお志に殉じたいと上申し、それを天皇から嘉賞されたところからはじまり、七月下旬、土佐勤王党が藩主山内豊範を擁して入京して、長州の藩論に同調したことによって、益々さかんになったのである。久光にとっては苦笑するより外はなかったろうが、生麦事変も拍車をかけたに相違ないのである。忘れてならないのは、寺田屋事変によって、浪人志士等の人気がすっかり薩摩藩を離れ、その反動として長州藩に集まったことである。
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■土佐の武市と違いは、西郷には全藩の輿望が集まっていた

<本文から>
  しかし、ぼくにはもっと興味の深い部分がある。試みに、これを前掲の三条実美あての容堂の返書と読みくらべていただきたい。容堂は、日本の政治形態は朝廷と幕府の両つ立てであるべきであり、現実にたいする政治方策は公武合体、対外方針は開国以外にはないことを確信しているのであるが、この文章は対外方針は攘夷、国の政治形態としては王政復古、幕府否認をすでに志向しているのである。前にも言った通り、容堂は土佐藩の第一の権威者であり権力者として、従って事実上の藩主と言ってよいかも知れない。久光が薩摩藩の事実上の藩主であるようにだ。この容堂とこんなにも違う政治思想を武市は抱いている。その違いは正反対といってよいほどである。武市の運命、従って土佐勤王党の悲劇的運命は、最初からわかっていたと言えるかも知れない。
 こういう点では、西郷も同じであったわけであるが、西郷は久光との対決によって、悲劇的最期は遂げなかった。なぜであるか、研究を要する命題であるが、それはこの書全体の主題にも関係するから、じっくりと書いて行くことにして、この際は一応の思いつきだけを言っておきたい。それは、西郷には全藩の輿望が集まっていたということだ。西郷はこの全藩の輿望を負うていることによって、久光に対峠し、久光をして殺す能わざらしめたとぼくは解釈している。
 明治時代の元帥大山巌は西郷の母方の甥で、幕末から明治元年のはじめ頃までは京都で西郷と同居し、その秘書役をつとめていた人だが、後年西郷が郷里の子弟等に擁せられて兵を起こしたとの報せを聞いて、
 「大サアの人望好きがここに至らしめたのだ」
と、なげいている。しかし、西郷はその人望によって久光に対抗して、久光の公武合体思想を制圧して、推新革命をなしとげることが出来たのだ。西郷という人間がいて、全藩の人望を集めなかったなら、薩摩は討幕勢力とはなり得なかったであろう。従って幕府はたおれず、日本はどうなったかわからない。大久保は久光に対抗し得る人物ではない。かえって久光の手先となってしまったであろう。一つには久光に登用されて天下の人物になったという恩義があり、一つにはその持つ事務家的素質がそうさせてしまうのである。この点西郷にはその器用さはない。志に殉ずることしか出来ないのである。西郷と大久保の最も根本的な違いはここにある。
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■薩摩藩と土佐藩の違い

<本文から>
 この点が、薩摩藩と根本的に違うところであった。薩藩士等もその内心に立入って観察すれば一様には言えないが、この時点においては、ほぼ完全に久光に統制されていた。寺田屋事件は、久光の藩内における権力を磐石のものにしたのである。もちろん、久光にとってはこれは思ってもみなかった効果だったろうが。久光は骨髄からの幕藩制度護持主義者である。幕府の否定など、彼においては最もいまわしい乱賊の思想である。この人は明治になってからも、幕府をたおそうという考えは、自分には毛頭なかった、あれは西郷と大久保とが勝手にやったことだと、折りにふれては言っていた人である。春嶽には久光の思想がよくわかっている。だから、幕府の要人等のあれほどの久光嫌いをなだめて、日本のとるべき方策を久光と相談してきめようとするのである。
 土佐藩は、武市半平太を首領と仰ぐ郷士等と上土の一部とが純粋な尊攘主義者として、長州藩の教派の人々とかたく結んでいて、幕府否定に傾いているが、事実上の藩主である山内容堂は尊王家ではあるが、幕府否定の心はさらにない。むしろ幕府を扶翼することは、藩祖一豊以来、山内家の受けて来た恩義に報いることで、せねばならないことと思っている。薄中の大部分の上土等はもちろんこれである。容堂の近臣でありながら、後に討幕宏になった乾退助(板垣)も、小笠原唯八も、山路忠七も、この頃は尊王家ではあるが、同時に佐幕家でもあった。土佐藩の内証はこの頃もう仕掛が出来ており、武市半平太以下の勤王党の人々は、やがて悲劇的な最期に向うレールの上の車に乗っていたと言えるであろう。
 こうは言うものの、あるいは半平太はこの頃までは幕府否定の心境まではまだ行っていなかったかも知れない。
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■富国強兵につとめた佐賀藩主・閑叟が国事に動かなかった理由

<本文から>
 閑叟は本名は直正、閑叟は昨文久元年十一月に隠居してからの号である。幕末には諸藩に多数の名君が出たが、閑叟もその一人である。彼は天下漸く多事となり、徳川氏の覇権にガタが来はじめたのを鋭く観取して、専心に自藩の富国強兵につとめた。幕末も文久年度以後は、諸藩が軍備を強化することは、国防上最も望ましいことにされたが、その以前は幕府の最もきらうことであった。しかし、佐賀藩は筑前藩とともに長崎警備の任を昔から持っていたので、閑叟はそれを利用して幕府の諒解を得て、大いに軍備を強化した。その軍備を陸海軍共に洋式によって整備強化したのは閑叟のすぐれた見識であった。路鉱炉をつくって大砲を鋳造した。洋式軍艦も備えた。この時代、佐賀藩の海軍力は幕府をのぞいては第一位であったろう。富国のことにも大いにつとめた。佐賀領内は平野打ちつづく栗田地帯だが、これを潅漑を便にして米の増産につとめたのはもちろんのこと、この領内に多い窯業を盛んにした。領内から石炭を発掘し、洋式科学を利用して近代工業も興した。医術の面では種痘など佐賀領では普通に行われた。一言にして言えは、島津斉彬と同じようなことをした名君であった。
 もちろん、最も違うところがあった。斉彬は父や重臣等の反対をおし切って天下のことに乗り出したが、閑叟はこれには全然興味をしめさなかった。単に興味を示さなかっただけでなく、意固地になってそっぽを向いているようなところがあった。時勢が時勢だから、藩士等の中には天下のことに働きたい者がいたが、きびしく禁止して、犯す者は厳重に処罰した。だから、佐賀薄からは、伏見・鳥羽戦があって天下の形勢が定まるまでは、志士といわれるほどの者は一人も出ていないのである。
 なぜ閑叟がこんな態度をとりつづけたか、幕末・維新史における大きな謎といってよい。もちろん、ある程度の見当はつく。
 その一つ。幕府にたいする用心。国事運動など藩の見栄だけのものだ。むやみに金ばかりかかって、利得するところはなんにもないばかりか、幕府ににらまれて、禍の種になる危険が大いにある。よそはどうともあれ、わが薄はわが藩を強くし、富ませば、世の中がどうころんでも、安全だというのではなかったか。
 その二つ。佐賀人の通性は用心深くて、行動に臆病である。有名な『葉隠』は、佐賀人のこのような性質を矯めて行動的にするために唱え出されたもので、佐賀人の本性はあの反対である。閑叟が国事運動に乗り出さなかったのは、要するにこの佐賀人の本性によって不決断であったまでのことである。
 その三つ。和漢の歴史、ヨーロッパの歴史の知識によって、閑叟は思うところがあったのではないか。天下はどのように乱れても、必ず治まる時があるものだが、治まった時獅子の分け前にあずかるのは、強国だけである。わが薄が力を浪費せずたくわえておけば、諸藩は争い疲れてへとへとになっているのに、わが藩は最も富強の藩としてのこり得る。最も多く分け前を獲得することが出来ると考えたのではなかったか。
 以上三つの推察は、いずれもあたっていよう。恐らくこの全部によって、閑叟はその方針を決定したろうと、ぼくには思われる。特に興味がみるのは、最後の推察だ。
 文久二年から五年後は慶応三年である。即ち伏見・鳥羽の戦争があった前年である。この年の四月にドイツ連邦が出来た。この連邦中で最も強大であったのはプロシャで、連邦の盟主となった。この以前から、閑叟はあるいは朝廷、あるいは長州藩からしきりに味方になることを口説かれているが、決して応じないのである。閑叟はやがて日本はドイツ連邦のごとくなると見て、佐賀藩を日本連邦のプロシャたらしめる日は遠くないと考えていたことはほぼ確実であると、ぼくには思われるのである.。
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■朝廷は上流公家のグループと学習院グループに分れていた

<本文から>
  当時の朝廷は、はっきりと両派に分れていた。一つは天皇を頂点とする上流公家のグループである。このグループは皆穏健な公武合体主義を奉じて、幕府が朝廷にたいして十分な敬意と礼儀とを捧げるなら、朝幕が仲よくやっていくことによって、無事にこの困難な時代を乗り切りたいと思っているのである。この時代の最も大切な対外策については、天皇が大へん欧米人をきらってお出でなので、もちろん攘夷でなければならないが、即刻国交を断絶し、即刻追い払うなどというはげしいことには及びたくない。それでは戦争になる危険がある。やんわりと拒絶して、条約を破棄し、鎖国の時代にかえしたいと思っているのである。上流公家等は近衛関白以下皆こうだった。攘夷の大本山である天皇様だって、御本心はこの程度のものであったようである。それが可能であるかどうかは、この人々の心にはない。そうでありたいと、ただ思いつめていた。
 もう一派は、前にちょっと触れた。学習院グループともいうべき人々である。度々言う通りこの時代、学習院がその本来の機能から変化して、比較的身分の低い少壮公家と諸藩(主として長州・土州)の志士と浪人志士との政談クラブとなり、さらに進んで民間からの意見などを受付けるようになり、ついにそれは朝廷の正式の政治機関となった。即ち公家中から寄人を定め、諸藩士や浪人中から人を選んで出仕という職名をあたえた。
 この学習院グループの人々は役割が大体きまっていた。意見を立てるのは出仕である民間志士であり、その意見を学習院の意見とするのは寄人である少壮公家であり、その意見を朝議に持ち出すのは寄人の中でも三条実美等比較的上流の公家であった。
 この他に、このグループには外郭団体があった。暗殺者の群である。土佐の岡田以蔵、薩摩の田中新兵衛などはその暗殺者中で最も有名有力なメンバーであるが、二人以外にもずいぶんいた。肥後の川上彦斎、埴松左衛門などのように、薩・長・土以外の出身者もある。久坂玄瑞は一流の志士であるが、刺客としても働いている。因みに、田中新兵衝はこの頃は武市半平太直属の暗殺者になっている。どういうつもりだったか、武市は新兵衝と義兄弟の盟いを結んでいる。
 この暗殺団の存在が上流公家等を恐怖させることは一方でなかった。学習院グループの意見に反対することが出来ない。過激すぎて国家のために危険だと思っても、反対する者がいないので、朝廷の意見となり、次々にエスカレートして行くのである。意気地のない話であるが、現代人はこの頃の上流公家を笑うことは出来ない。昭和初年に行われたテロが、重臣や政治家や言論人の口を拘束して、日本は最も危険で愚かな戦争に突入したのだから。
 前に述べた国事掛の任命は、この情勢を矯めることに主たる目的があったのだが、効果がなかった。だから青蓮院宮をはじめ最上流の公家等は近衛関白をのぞくほか皆国事掛辞職を願い出たのである。慰撫されて、辞表は撤回したが、学習院グループの専制聖断の情勢はどうともなりほしないのである。
 近衛が責任を知り、勇気のある人間だったら、関白という廷臣最高の権威ある地位にあるのだし、上流公家等は皆考えを同じくしているのだし、天皇の御本心も同じなのだから、この形勢をめぐらすことは決して不可能ではなかったはずである。しかし、公家には勇気はない、責任観念もない。ほとんど手をつかねて、学習院グループの−実は長・土の摸夷志士等の暴論の暴走にまかせたのである。だから、会津容保が千に近い東北の健兵をひきいて上京し、しかも最も穏健な公武合体説を持しているとあっては、これで長・土の暴論をおさえることが出来ると、よろこんだはずである。
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