|
<本文から> 上述のように、久光にたいする朝廷の空気は最上々であったが、実をいうと、それは天皇と上級公家の空気であって、一般の公家、そしてまた当時京都におびただしく集まっていた浪人志士等の間の人気はそうではなかった。この人々は、新たに長州藩の唱え出した純粋撰夷説に共鳴して、攘夷説はなかなかの勢いとなっていたのである。一体、開国説も攘夷説も、根源は恐怖感情からはじまっている。開国説はやがて最も理性的なものになったのだが、撰夷説は最後まで感情から脱することが出来なかった。攘夷感情をあおり立てたものの中には、貿易によっておこった金貨と銅貨の流出による通貨不足の不景気と物資買占めによる物価騰貴などによる国民生活の圧迫がありはしたが、根本的なものは欧米勢力にたいする恐怖感情と欧米人にたいする嫌悪感情とであった。
感情であるだけに、国民にアピールする力は開国論よりずっと強いのである。そこへ持って来て、天皇が最も強烈な撰夷家であられるので、天皇への忠誠心と一緒になって、一層盛んになった。理論的には、尊王摸夷と同じく尊王開国もあり得るはずであり、佐久間象山や横井小柄のような人も実在したのであるが、この時代の世間は尊王開国というコンビを認めなかった。尊王ならば必ず撰夷でなくてはならず、開国ならば佐幕のはずと考えていた。それは天皇が最も熱心な攘夷家でおわしたためである。
京都の空気がこうなったもとは、長州藩が藩の方針を百八十度転換して、開国論を根本にした公武合体説から純粋攘夷論に切りかえて、徹底的に天皇のお志に殉じたいと上申し、それを天皇から嘉賞されたところからはじまり、七月下旬、土佐勤王党が藩主山内豊範を擁して入京して、長州の藩論に同調したことによって、益々さかんになったのである。久光にとっては苦笑するより外はなかったろうが、生麦事変も拍車をかけたに相違ないのである。忘れてならないのは、寺田屋事変によって、浪人志士等の人気がすっかり薩摩藩を離れ、その反動として長州藩に集まったことである。 |
|