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          海音寺潮五郎-西郷隆盛(3)

■斉彬の置毒までの推論す

<本文から>
 斉彬が死ぬと、薩藩は御隠居島津斉興が政治後見として薄政を総撰することになった。斉興は斉彬とは正反対の性格で、最も保守的な人がらであるばかりでなく、血を分けたわが子ながら斉彬を憎悪までしていた。呪訳詞伏などというおぞましいことが、ずっとくりかえされたことは第一巻でくわしくのべた。こんな人だから、斉彬が死に自分が藩政後見となると、これまで斉彬のつづけて来た進歩的施設は全面的に破壊して、ひたすらに保守の殻に閉じこもることにした。軍艦買入れだの、小銃製造機械の買入れだの、留学生の欧米派遣だの、琉球解放だのは、一切御破算だ。
 市来四郎はこまった立場になって、落馬して死んだことにして、万一のときを用心して那覇の護国寺に自分の墓地まで営み、「伊知良親雲上之墓」とほりつけた石碑を立て、一切の交渉を牧志朝恩に委ねた。朝忠は執拗に言いつのるフランス人らを懸命に説得し、一万両の違約金を支払うことで決着をつけた。明治になって、市来四郎は沖縄に行き、自分の某に詣でて、「実に奇妙な気持でした」と史談会で語っている。
 ぼくが長々とこの話を書いたのは、単に話の面白さのためではない。話としての面白さは、『驚の歌』で書き切ったと信じている。西郷伝の拾遺として、斉彬の死が良死でなかったことの傍証が、ここに求められると思うからである。ぼくは前の巻で、斉彬の死は、彼がクーデターを目的として引兵上京しようとしていることが、実父斉興の不安をあおり、国許の斉興時代の重臣らに命じて、家の存在にもかかわることなれは、急ぎ処理せよと、江戸から指令してやった結果であると推理した。斉彬は幕府の老中主席阿部正弘と密謀して、斉興を無理隠居させて襲封したので、この上父を刺戟したくないとして、斉興時代の重臣等は首侍家老島津豊後以下皆そのままにしておいた。要路からは遠ざけたが、位置ほ高い重臣としておき、自分用には別に家老や要路をつくっていたのだから、斉興の指令があれば、島津豊後以下がすぐ策動出来るようになっていたのである。しかし、西郷が斉彬の命を受けて再び鹿児島をあとにしたのは六月十八日、斉彬が引兵上京をふれ出したのはその数日後、発病したのは七月九日である。これでは、豊後等の報告が江戸にとどいて、斉興から密命が来るには、よほど日数が不足する。
 そこで、ぼくは考えた。斉彬の琉球政府にたいする新しい命令は、この前年八月に出されている。いくら秘密にしても、いつも探偵眼で斉彬のすることを観察している島津豊後等の耳に入らないはずはない。豊後一味が知れば、江戸の斉興に通報しないはずはない。斉彬の出した条目には、琉球の解放をはっきりとうたったものはないが、すべてを総合して考えれば、当然、これは琉球解放という結論が出て来る。斉興としては、驚愕し、激怒したはずである。
 「琉球は家久公以来、わが島津家の宝ともいうべき国である。一時期の主にすぎない者の独断で解放してよいはずのものではない。斉彬め、わが藩をつぶしてしまう料簡か」
 と怒り、島津豊後等に密使を馳せて、処置を命じたにちがいない。再び言う、斉興は斉彬を憎悪しているのだ。殺したいといつも思っていて、そのために呪記さわぎなども執拗につづけられたのだ。父子だから、こんな冷酷な指令を出すはずがないというのは、庶民の父子の情愛をもって権力階級の人々の父子を律するものだ。権力階級の人々には父子の情愛などない場合の方が多いのである。
 斉興の指令を受けても、島津豊後等としては、事はあまりにも重大だ。躊躇せざるを得ずして、つい一年近くが立ったところ、この時になって、斉彬は出兵し、武力をもって幕府に反抗の色を立てる意志を明らかにした。
 豊後等としては、
 「お家はこの君のために亡減必至となった。今はもうやむを得ない。君を尊しとなさず、お家を尊しとなすとは、このことである」
 と考えて、置毒にふみ切ったにちがいないと、ぼくは推理するのである。 
▲UP

■寺田屋事変−有馬らの討幕への考えと大久保らの説得

<本文から>
 ところが、十七日に在京の堀次郎と京都滞邸留守居の鵜木孫兵衛から、柴山愛次郎と橋口壮助へ手紙が来て、十六日に久光が近衛家へ行き、中山、正親町三条の両脚に会って、志のほどを説いたところ、両卿は早速に奏上してくれたが、至尊の御機嫌はまことにうるわしく、久光の忠誠と時宜を得た働きとに叡感浅からず、しばらく滞京すべき旨の御内勅まで賜わって、万事好都合であるから、この旨を二十八番長尾の面々へも伝えて、安心して暫くそのまま滞坂あるべし、そのうちまた便りを差上げるであろうと言って来た。
 当時までは、有馬等誠忠組左派の人々も、浪士等も、久光に多分の希望をつないでいたので、十八日夜の一挙は一先ず日のべすることにして、大坂を動かなかった。
 十八日には、奈良原喜八郎(繁)、海江田武次の二人が、久光の命を受けて、京都藩邸から大坂藩亭へ下って来て、久光の運動が好調に運びつつあるから、益々皆々自重して、鎮静にすべき旨を説いた。
 二人の説くところはこうだ。
 「昨十七日朝、朝廷では所司代に仰せつけられて、急飛脚をもって、久世閣老に早々に上洛せよと関東(幕府)に命ぜられた。かくて、閣老が上洛すれば、久光公と共に天下のことを御相談になることになっている。堂々たる薩藩が朝命を奉じて幕府とことを讃するのである。決して長井雅文の説くようなまやかしの公武合体にはならないはずである」
 有馬新七等は、それは大いに結構でごわす、おいどんらについての御心配は無用にされたい、と答えて二人をかえしたのだが、そのあと、有馬、田中謙助、柴山愛次郎、橋口壮助らほ、小河一敏、田中河内介らと相談し合った。
 「海江田、奈良原両君の話を聞きますれば、一応もっともなようではござるが、この際久光公が幕府の老中と寛談されるということが、先ずわしらは気に入りません。わしらのこんどの拳は、幕府そのものを討滅するにござる。しかるに、これと寛談などということがあっては、およそ出て来る結論は知れています。われらの抱いている尊攘の大義が正しく行われるはずのないことは明らかであります。しかし、京都でそういう道が進行中であるなら、それも拾うべきではござるまい。それはそれでやっていただいて、それを正兵として、われらの企てていることは奇兵として、これまたやろうではござらんか。正奇ともに備わって、最も完全な道と申すことが出来ましょう」
 この議論は、忌悍なく言えば屁理窟である。こんなことで、正兵も奇兵もあったものではないのだが、彼等としては、つまりは久光を討幕遊動の大将軍にかつぎ上げることが出来さえすればよいのである。彼等の目的が、そこにあったことを考えなければならない。
 そこで、二十一日に上京して、その夜すぐ一挙にとりかかることに決定したのだが、二十日の早朝大久保一蔵から中之島の魚太に泊まっている柴山と橋口とに適格があって、今暁大坂に到着し、加藤十兵術宅に泊まっている。用談があるから、早速訪問する、待っていてもらいたい、藩邸にいる有馬新七、田中謙助の両君にも、二十八番長屋の田中河内介、小河弥右衛門殿にも会うつもりで、すでに連絡をとってあると言って来た。
 大久保は、魚太で柴山と橋口とに会い、つづいて藩邸に行って有馬と田中に会い、次に田中河内介と小河弥右衛門とに会った。大久保の言うところは、つまりは鎮静していよというにつきるのであるが、大久保は西郷と国許で約束したことがある。
「公武合体ということは、安政五年頓には最も斬新でもあり、効果もある政策であったが、その後四年も立って、時勢は大変化している。公武合体などという政策は、古色蒼然、とうてい役に立つものとは思われない。もし、久光公が順聖公のお志をつがれるなら、今日に最も適当した政策をとらるベきである。それは幕府否定である。幕府を打倒して政権を朝廷に回収し、天子様を中心とした本来の日本の政治形態にかえるべきである。天下の有志等もこれを望んでいるはずである。そのいよいよの時まで、人々を統制して軽挙させず、ここはという時に一時に爆発させるという役目なら、わしが引受けよう」
 と、西郷は大久保に言い、大久保はその気になって、今はもう西郷を憎悪すらするようになっている久光を説いて、西郷を国許から先発させたのであった。その西郷の行動が久光の憎悪を益々かき立て、西郷は大坂から藩の汽船天祐丸で国許へ送りかえされた。その以前、大久保は責任を感じて、兵庫の浜で西郷に偶刺を申し出て、死なねばならんものなら、わし一人でよ小と西郷から諌止された。
 大久保としては、いろいろな意味で、誠忠姐左派の人々に責任を感ぜざるを得ないものがある。だから、さすがの大久保の雄弁も、この日は精彩がなかった。
 大久保はこの人々に利をくらわそうとした。
 「幕府との談合において、和泉(久光)様は朝廷が御親兵を備え給うべきことを提議なさることになっていもす。されば、この度お供して来た誠忠組の面々は御親兵となるのでごわす。それはまた二十八番長屋の浪人衆も同断でごわす。御親兵となれるのでごわす。これまでと追って、遠く勤王の志を運ぶのではなく、いつも間近く王事に誠忠をいたすことが出来るわけでごわす。和泉様は決して各々の御誠忠をお忘れではありませんぞ」
 大久保は強い男だ。強靭なこと鋼鉄のごとき意志の男だが、さすがにこの時は心が餓えていたようである。この純粋無雑な連中にこんな説き方をしてしまったのである。
 彼等は言った。
 「我々を御親兵となし下さるとは、まことに有難いことでごわすが、我々の中には一身の栄辱存亡を考えている者は恐らく一人もごわすまい。ただひとすじに国辱を洗い雪がんとの念だけをもって、藩中の者はこの度のお供をし、浪士衆は馳せ集まり召されたのであります。今、天下の人皆泰平に溺れて、因循をこととして、外侮を外侮とも思わずにいます時、辱くも御英明なる至尊は、爽秋掃攘のことを深くみ心にかけ給うていらせられますと伺いますのに、御側近の雲上の方々は義烈のみ心薄く、ひとえに婦人に似ておわす有様であります故、かくては思い切ったる御一新の事業も行われ難いのであろうと、拝察し奉る次第でごわす。されば、今日の急は、ただ堂上方をして男子の気に立ち返らせ奉り、天下の列藩を酔夢から揺り醸すことであります故、今やわれらとして頼むところは、和泉様の御処置がどうあろうかということのみでごわす。拙者等の今知りたいことはそれのみで、御親兵の何のというようなことではござらぬ。和泉様は当今のことをどう御処置なさるおつもりでごわしょうか、 それをお尋ね申したく存ずる」
 ことばは鄭重だが意味は最も痛烈だ。大久保の功利主義を真向微塵にたたきつけたのである。何しろ有馬新七だ。大久保ほどの男が、説きようをあやまったというべきである。といって、はかばかしい答えの出来るはずはない。
 「とにもかくにも、各々方に静穏にしていただきたいのでござる。和泉様は必ず朝廷を輔け申され、朝威の恢復をはかり給わんと、切角御腐心最中であり、すでに御案内申したように、朝廷のお心寄せも重く、滞京の御叡旨すら下し賜わったほどでござれば、決して貴殿方の御期待に沿わぬ結果にはならぬと、拙者はかたく信じています」
▲UP

■沖永良部遠島で久光の悪意を悟り、天命にすがる心になった

<本文から>
 こうして、牢合の生活がはじまった。
 この島は日本本土より沖縄に近く、雪を知らず、霜を知らない亜熱帯的気候の土地ではあるが、台風が多い。台風時ならずとも、山一つない平坦な島だから風は常に強い。雨量も多い。屋根があるというだけで、四方明けっぴろげな構造の家だから、吹きざらし、降りざらしにひとしい。
 住む場所のこの苛烈さに加えて、日々にあてがわれる食物は冷飯に焼塩を添えただけのものであったという。前述した通り、沖永良部遠島は切腹につぐ重刑であったから、この島に流すというだけで十分に足りているはずであるのに、牢合をさせた上に、こうまで酷遇したのは、殺すつもりであったとしか思いようがない。久光の西郷にかけた疑いがよしんば事実のことであっても、こんな残酷なことをして殺さねばならないとは、ぼくにはどうしても思えない。まして西郷はその嫌疑を否定しているのである。十分な裁判は行われていないのである。久光の心事は最も暗いのである。
 この獄舎の番人は福山清蔵と土持政照であるが、二人とも、また二人の上役である島代官的地位にある黒高原源助も、西郷には十分な好意どころか、敬意すら抱いているのに、こんなあつかいをしたのは、こうするのが蒋庁からの命令に添う所以だと思いこんでいたからである。沙汰書の文面がそう思いこませるような空気を持っていたのであろう。
 西郷も、数日にして、久光の悪意をさとったろう。そして、なぜこうまでおれを憎まなければならないかと、腹も立ったであろうが、彼はこれを自己を鍛練する好機と思い、また天命が我にあるものなら決して徒爾に死ぬことはないはずとひたすらに天命にすがる心になったようである。これは一歩か半歩まちがうと、天命を試みる (キリストはこれを神を試みると言って厳にいましめている)ことになるわけで、最も危険なことであり、後年西南戦争において、西郷はこのあやまちに陥っているが、ともかくも、この際はこう考えて、ひたすら天命にすがったようである。彼は三度の食事のほかは、水も湯ももとめず、起きているかぎりは昼夜端然として坐って読書したり、瞑想したりしていたと伝えられているが、それは以上のように考えて、はじめて納得の行くことである。
  この頃、彼の読んだ書は、『韓非子』『近思録』『言志録』『噂鳴館遺草』『通鑑綱目』などであったと、『大西郷全集』の伝記篇は伝える。つまり、奄美大島にいる間に読んだものばかりである。多分、山川港碇泊の間に鹿児島の自宅に言ってやって持って来させて、徳之島にたずさえ、ここにまた携行したのであろう。くりかえし、心読したに違いない。西郷の学問は学者になるためのものではなく、道のために学び、おのれを練成するためのものだ。多くを読みあさる必要はない。心にかなう書を心読すればよいのである。これらの書の解説はすでに第一巻でした。この頃の彼の詩がある。
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■幕末維新は封建国家から統一国家へ脱皮。勤王・佐幕・撰夷・開国は分子であるに過ぎない

<本文から>
 封建時代の諸藩は、薄主にも、藩士にも、濃厚な藩意識がある。幕末維新の時代は、日本が封建国家から統一国家へ脱皮変化する、いわば陣痛期であり、この時期は、日本歴史の中で、こうであったところに最も大きな意味があるのだと私は考えている。つまり、日本という国が統一国家となり、日本という社会が一君万民という形で市民社会となったところに、最も大きな意義がある。従って、従来いわれていた勤王だの佐幕だの、撰夷だの、開国だのということは、この時期の歴史を形成する有力な分子であるには相違ないが、大きな歴史の流れの上から言えはさほどのものとは考えられないのである。
 このように幕末維新期の歴史は、封建の脱皮ということに重点があったのだが、しかもなお諸藩は濃厚強烈な藩意識のあることをまぬかれなかった。それは時代の変革の主役をつとめた薩摩も、長州も、土佐も、そうであった。条件の最も適う今日の目で見て、今日の考えをもって、これを笑うことは最も容易であるが、それは歴史というものを知らないものの所為で、かえって笑わるべきである。こういうものがあればこそ、歴史は現実そのものであるのであり、複雑さがあり、生き生きとして生動するものがあり、従って面白くもあるのである。
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■幕府が久光を嫌う理由

<本文から>
 一体、幕府側では久光をきらっている。国許では蒲主の実父でえらいことはわかっているが、幕府においては藩主でもなく、・隠居した前藩主でもない。官位でもあればだが、それもない。要するにただの田舎侍に過ぎない。ともかくも蒋主の実父だから、家老ぐらいの待遇であつかってもよいのだが、それではかえって立腹するであろう。どうあつかってよいか、こまるのである。藩主の実父ではあるが、前の身分は一門で家老であったというのが諸薄の中にいなかったわけではない。きわめて稀ではあるが、そういう人もいた。しかし、その人々は久光のように江戸に出て来て、図々しく幕府に働きかけたりなどはしなかった。つまり、先例がないのである。よろず、故格と先例とを守って、一歩もはずれないようにすることが世の秩序を保つ所以である(太平の時代にはたしかにその通りに違いない)と信じ切っている幕府役人等は背こまった。大いにこまったから大いにきらいにもなった。
 その上、久光は勝手に多数の兵をひきいて京都に上り、朝廷に勅使差遣を働きかけた。和宮様のお母上の実家橋本家から和宮様へよこされた書面によれば、天皇はお気がお進みでなかったのを執拗にお願い申し上げたというし、所司代から探索して報告したところによると、公卿衆にたいして脅迫同様な書面をつきつけたり、家来共をつかわしておどしたりしたというから、まさしく強請したのである。こうして無理を通して勅使差遣ということにしたはかりか、その護衛役となって江戸にやって来ると、つねに勅使を刺戟して、幕府に突ッかからせ、またさまざまな方法で老中衆を威迫して、ついに望みを達したのである。
 どう考えても、好意のもてよう道理はないのである。幕府役人や老中等はもちろんのこと、春嶽だって、慶喜だって、面白くない感情を持ったのは当然であった。
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■長州の久坂等は尊王撰夷、幕府否定に引きつけられて行った

<本文から>
 一つには時勢であり、一つには孝明天皇が純粋攘夷精神の方だったからだといえば、一応筋は通るが、次のことも考えてみる必要があろう。
 彼等は長井雅楽を憎み、その政治説には反対ではあったが、島津久光が中央に乗り出しにかかるまでは、その憎悪も、その反対もそうはげしくはなかった。久光が乗り出して来るという噂が立つと、にわかに色めき立ち、蒲の反長井派の要人等を説きつけて、わざわざ薩摩まで使者をつかわして、真偽をたしかめたり、下関や大坂で西郷に会って合流を申しこんだり、やがて久光の目的が攘夷討幕でないと知ると、薩藩内の激派の適中と連絡をとり、藩の要人等を説いてこれに経済的の援助までし、相呼応して起とうとまでした。そして、寺田屋の人々の企図があの惨烈なこととなって終った時点から、彼等の思想と行動とは、最も純粋激烈な尊王攘夷となったのである。
 また次のことも見落してはならないことであろう。
 島津久光の中央乗り出しまで、長井雅楽と長州藩の評判は最も華々しいものがあったのに、久光が乗り出して来てから、それはガタ落ちし、反って薩藩の人気が高くなったことだ。
 あれといい、これといい久坂等の奮起には、薩諸にたいする意識が常についているのである。である以上、彼等が薩藩を凌がなければならない気になったのは、最も自然な心理であろう。
 久光という人は、性格的には攘夷家であったが、外交にたいする意見は斉彬の考えを受けついで開国説である。彼はそれを用心深くつつんで公言はしなかったが、越前春嶽には語っているから、久坂等は知る機会があったかも知れない。あるいは、久光を撰夷主義の信奉者であると思っていたとしても、攘夷ということを少しも口にしないのだから、世間なみな撰夷家にすぎないと思っていただろう朝廷は天皇を中心にして最も純粋な攘夷主義の本山になっており、世間にもその方が評判がよい。薩藩を凌いで朝廷に信任され、世間の人気を得ようとするには、純粋激烈な撰夷主義とならざるを得ないわけである。薩藩は幕政の改革を迫るにあたってはずいぶん強引激烈であったが、幕府を否定するつもりはない(寺田屋で死んだ壮士等は特別だ)。朝廷と幕府とがわだかまりなく親和して挙国一致する日本を将来するのがその日的である。ところが、この公武合体という方策は、京都に集まっている浪人志士等には至って評判が悪い。その人々の人気を集めるには、幕府否定が最も近道である。かくて、久坂等は尊王撰夷、幕府否定という線にぐいぐいと引きつけられて行ったのであろうと、ぼくは観察している。
 以上のような言い方は、久坂等を冒漬していると思われそうであるが、冒漬のつもりはさらにない。一切の虚飾を去って、正味だけで考察したところを、最もわかりやすい形で表現しただけのことである。
 ついでながら、この時代の各藩の武士で、藩意識のなかった者は恐らく一人もなかった。彼等の師である松陰にもそれはあった。封建制度の時代の人間の心はそういうものなのである。現代人の標準をもって、違った時代の人を品評してはならない。それは価値批判としては最もナンセンスである。
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