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<本文から> 斉彬が死ぬと、薩藩は御隠居島津斉興が政治後見として薄政を総撰することになった。斉興は斉彬とは正反対の性格で、最も保守的な人がらであるばかりでなく、血を分けたわが子ながら斉彬を憎悪までしていた。呪訳詞伏などというおぞましいことが、ずっとくりかえされたことは第一巻でくわしくのべた。こんな人だから、斉彬が死に自分が藩政後見となると、これまで斉彬のつづけて来た進歩的施設は全面的に破壊して、ひたすらに保守の殻に閉じこもることにした。軍艦買入れだの、小銃製造機械の買入れだの、留学生の欧米派遣だの、琉球解放だのは、一切御破算だ。
市来四郎はこまった立場になって、落馬して死んだことにして、万一のときを用心して那覇の護国寺に自分の墓地まで営み、「伊知良親雲上之墓」とほりつけた石碑を立て、一切の交渉を牧志朝恩に委ねた。朝忠は執拗に言いつのるフランス人らを懸命に説得し、一万両の違約金を支払うことで決着をつけた。明治になって、市来四郎は沖縄に行き、自分の某に詣でて、「実に奇妙な気持でした」と史談会で語っている。
ぼくが長々とこの話を書いたのは、単に話の面白さのためではない。話としての面白さは、『驚の歌』で書き切ったと信じている。西郷伝の拾遺として、斉彬の死が良死でなかったことの傍証が、ここに求められると思うからである。ぼくは前の巻で、斉彬の死は、彼がクーデターを目的として引兵上京しようとしていることが、実父斉興の不安をあおり、国許の斉興時代の重臣らに命じて、家の存在にもかかわることなれは、急ぎ処理せよと、江戸から指令してやった結果であると推理した。斉彬は幕府の老中主席阿部正弘と密謀して、斉興を無理隠居させて襲封したので、この上父を刺戟したくないとして、斉興時代の重臣等は首侍家老島津豊後以下皆そのままにしておいた。要路からは遠ざけたが、位置ほ高い重臣としておき、自分用には別に家老や要路をつくっていたのだから、斉興の指令があれば、島津豊後以下がすぐ策動出来るようになっていたのである。しかし、西郷が斉彬の命を受けて再び鹿児島をあとにしたのは六月十八日、斉彬が引兵上京をふれ出したのはその数日後、発病したのは七月九日である。これでは、豊後等の報告が江戸にとどいて、斉興から密命が来るには、よほど日数が不足する。
そこで、ぼくは考えた。斉彬の琉球政府にたいする新しい命令は、この前年八月に出されている。いくら秘密にしても、いつも探偵眼で斉彬のすることを観察している島津豊後等の耳に入らないはずはない。豊後一味が知れば、江戸の斉興に通報しないはずはない。斉彬の出した条目には、琉球の解放をはっきりとうたったものはないが、すべてを総合して考えれば、当然、これは琉球解放という結論が出て来る。斉興としては、驚愕し、激怒したはずである。
「琉球は家久公以来、わが島津家の宝ともいうべき国である。一時期の主にすぎない者の独断で解放してよいはずのものではない。斉彬め、わが藩をつぶしてしまう料簡か」
と怒り、島津豊後等に密使を馳せて、処置を命じたにちがいない。再び言う、斉興は斉彬を憎悪しているのだ。殺したいといつも思っていて、そのために呪記さわぎなども執拗につづけられたのだ。父子だから、こんな冷酷な指令を出すはずがないというのは、庶民の父子の情愛をもって権力階級の人々の父子を律するものだ。権力階級の人々には父子の情愛などない場合の方が多いのである。
斉興の指令を受けても、島津豊後等としては、事はあまりにも重大だ。躊躇せざるを得ずして、つい一年近くが立ったところ、この時になって、斉彬は出兵し、武力をもって幕府に反抗の色を立てる意志を明らかにした。
豊後等としては、
「お家はこの君のために亡減必至となった。今はもうやむを得ない。君を尊しとなさず、お家を尊しとなすとは、このことである」
と考えて、置毒にふみ切ったにちがいないと、ぼくは推理するのである。 |
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