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          海音寺潮五郎-西郷隆盛(2)

■議論でらちがあかない時は実力をもってする

<本文から>
 斉彬はうなずきながら聞きおわり、慶永の手紙を読んだ。
「わしもこちらで気をもんではいたが、やはりのう。井伊の時勢をわきまえないやり方は、いかにも言語道断というほかはない。同志諸侯の心中察するにあまりがある。万策効なくしておわったとはいえ、これからの日本のためを思えば、いたずらになげき悲しみ、あきらめてはおられぬ。そちはどうすればよいと思うか」
 斉彬にはすでに胸中に計画があるのだが、西郷の面魂を見て何か抱いているらしいと見たので、こう問いかけたわけであった。
「井伊が大老になった当時、越前守様をはじめ諸大名方も、幕府の諸有司、も、井伊は紀州びいきではあるが、田舎育ちの知恵なし大名にすぎぬ故、何ほどのことも出来はせんと仰せられていましたし、今でもそう思っている方々もあります。それで、わたくし共もそうであろうとはじめのうちは思うていたのでごわすが、その後の井伊のやり方を見ていもすと、知恵のほどは知らず、相当以上の人物であるように見えてまいりもした。何より、ぜひとも水戸派の勢いをたたきつぶし、紀州殿をご世子にせんければならんと、最も強い覚悟をもって大老になったことは間違いないと見もす。その威を張ること、近来の大老にはたえてないほどであるをもっても、それはわかると思いもす。そのため、同志の大名方も、越前様をのぞいては、陰でこそいろいろと仰せられもすが、公にはロをつぐんでおられもす。威におびえておられるのでごわす。形勢こうなりました以上、もはや尋常の方法でらちがあ
こうとは思われません」
 斉彬は問いかえす。
 「尋常の手段ではいかんとは」
 「もはや議論ではらちのあく時ではないと見ていもす」
 西郷の長所も短所もここにある。彼が今日の多くの史家や批評家に武断派といわれるところだ。見切りの早さ、思い切りのよさだ。三ツ子の魂百までというが、議論ひっきょう無用と、一足とびに思い切るのが、晩年に至るまでかわらない西郷の性癖だ。こんな時、彼は常に死の座にすわった性根をすえる。巨きな目をかっとみひらき、斉彬の日を食い入るように凝視していたろうと思う。
 斉彬ほ微笑したろう。
 「議論でらちがあかないとあっては、実力をもってすることになるが、刀はきっかけなく抜いてはならんものだ。知っていような」
 「拙者はこんどの運動を通じて、最も改革すべきは幕府の政治のしくみであることを痛感いたしもした。万悪の根元は幕府の政治のしくみが、徳川家の安泰と繁栄を第一の目的として、日本の安泰と繁栄が二の次ぎになっていることでございもす。天下の公論を無視して、次代の将軍が、大奥の女中共や一人前でなか将軍の愛憎だけで決せられることをもっても、ようわかることでごわす。大老となり、老中となり、若年寄となり得るのが、譜代大名中の特定の者に限られているという制度もそれでごわす。三奉行その他の幕府の要職につき得るのが譜代大名と幕臣にかぎるというのも同じでごわす。この制度が改められんかぎり、日本の憂えは決して救われず、今日のような暴悪はいつまでも続きもそ。今日何よりの急務は、この制度の改革にあると思いもす。 
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■高崎崩れ〜斉彬へ襲封〜毒殺

<本文から>
 一方、斉彬は日本が最も多難となることの予想される時代に、いつまでも部屋住みでいたくない。早く薄主となって力一ぱい経論を行いたい。幕閣の首席老中阿部伊勢守もまた斉彬を薩摩の当主にして相談相手としたい。ついに二人の間に密策がめぐらされた。いわば公然の秘密となっている薩摩の琉球を通じての密貿易を問題にして、仕置家老調所笑左衛門を召喚して峻烈な取調べをし、どこまでも追究して、斉興の責任にまで持って行き、隠居に追いこもうという策。
 かくて、調所は江戸に呼ばれて厳重な札察を受けることになったが、その半ばに毒を仰いで自殺し一身をもって追究を食いとめてしまった。
 斉興には、この検察の裏面に斉彬のいることがわかっている。斉彬にたいする怒りは仇敵にたいするような憎悪となり、金輪際世を譲るものかと思うようになった。
 そのために、藩内の斉彬びいきの分子はひそかに結束して、斉彬の襲封を促進するために百方の運動をすることを申合せたが、これが反対党に知れ、斉興に聞こえ、一網打尽に捕えられ、峻烈な処分が行われた。一いわゆる高崎崩れ。
 斉興はこれで斉彬派は根絶しになったと安心して、翌年の暮、江戸に出て来ると、幕府は昨年の家中の大量処刑を問題にして、家中不取締りの名目で、隠居をすすめた。斉興は無念やる方がなかったが、いたし方なく隠居して、斉彬に世を譲った。斉彬にたいする憎悪の昂じたことは言うまでもない
 斉彬は襲封すると、バリバリやりはじめた。血のにじむ思いで斉興のたくわえた金銀は湯水のように費消される。当時の日本に最も有用なことのためであるとの考えは、斉興にはない。
 「案じた通りだ。家はまた昔の窮迫に返る」
 と、ほらほらせずにはいられない。
 一層心配なことがおこった。斉彬が外様大名にはいのち取りになる危険の多い天下の政治に関心を持っているばかりでなく、あろうことか、一族の娘を香女にして将軍に入興させたことだ。これは家を破産に瀕しさせた祖父重豪のやったこととそっくりだ。
「何たるやつだ!」
 と、不安と怒りと憎悪とはつのる一方だ。
 さらに斉彬は一層ゆゆしいことをはじめた。琉球政府に命じて、第一巻二九七頁に記述したようなことをした。薩摩が琉球を属領としていることの最大の理由は、ここで貿易の利を得ることが出来るためだが、斉彬のこの希望が実現されれば、琉球を持つことほもはや無意義となる。当然、琉球は解放することになると、斉興には考えられた。
「何たることをする!琉球は先祖家久公これを征服し給うて以来、代々持ち伝え、子々孫々に伝うべき土地である。やつ一人の考えで手離してよいものではない。やつは家を亡ぼしかねぬやつじゃ」
 と、重大な決意をし、国許の、多分島津豊後あたりにだろうが、至急に処置するようにと命じた。
 斉彬は襲封の事情が事情であったので、父の頃の家老・重臣らの職を免じていない。政治の実務からは遠ざけているものの、依然要路においている。たとえば豊後は城代家老にしてある。だから、その党与はずいぶん多い。上級者にもいれは、下々にもいる。斉興が密命を下せば、やる人間はいくらでもいたのだ。
 斉彬は政治と研究以外にはほとんど道発のない人であったが、たった一つ釣魚を楽しんで、よく磯の別邸の前の海に舟を浮かべて糸を垂れ、釣った魚を自ら調理して少量の麹と塩とを混じて蓋物に入れ、居間の違い棚におき、練れて鮨になったところを食べるのが好きであった。だから、置毒することは、さして難事ではなかったはずである。
 斉興の密命はあったが、あまりなことなので、豊後らも踏み切れないでいたところ、引兵上洛のことが家中に触れ出され、兵の猛訓練がはじまった。その目的が、クーデターによって幕政を改革するにあることは明らかである。
 豊後は身ぶるいした。これが幕府を激怒させ、お家滅亡となることは必至であると思った。
 「今はもう致し方はない。君を重しとせず、お家を重しとするは、社稜の臣の道である。おいたわしけれど、老公のおさしず通りにするよりほかはない」
 と、決意して、斉彬の居間に立入ることの出来る者に命じて、宝物の中に、毒を投じさせたのであろう。
 斉彬は兵の訓練のために天保山に行くにも、別邸の前から舟で行き、帰りも舟を用い、別邸の前の海でしばらく釣魚をするのが習わしであり、発病の前日もそうしたというのである。
 斉彬に信任されていた側役の山田壮右衝門の『順聖公御事績』にこうある。
 「自分は公が大奥にご病床をお移しになってからも、大奥へ出入りしていたが、ある日、ご侍女のすま殿へ、内々ご容態のことをたずねたところ、すま殿はこう申された。
 『こんどのご病気はこれまでとまるで遣って、まことにおかしなご様子です。度々お廟へお通いになりますので、どんな工合かとおたずね申すのですが、いつもと追って一切ご返答なく、ただ溜息ばかりおつきになって、何か深く考えこみ遊ばしていますので、心配でなりません。たぶん天下のことがご心配なのであろうと思っていますが』」
  果して天下のことが心配であったのか。ぽくには、父の辛がまわってこうなったと覚って、こうまでおれは憎まれなければならないのかと、悲嘆し、絶望したのではないかと思われるのである。
 明泊初年に外務卿であった寺島宗則は、この頃は松木弘庵と名のり、蘭学者で蘭方医で、斉彬の信任の厚かった人だが、あたかも藩命で長崎に行っていて、斉彬の死後帰藩した。彼は、後年、こう言っている。
 「公は酒がおきらいで、自ら釣った魚をもって作られた酒醸の鮨を食べるのがお好きであった。安政五年初夏も、釣魚をしてそれを一日貯えて鮨となったのを食べて下痢をおこされたと、後に聞いた。
 この年ロシアの軍艦が長崎にコレラ患者をのせて来て、コレラが九州各地に蔓延し、それに感染されたと言っているが、これは少し前のことで、公の病気はそのためではない。単なる下痢を救うことの出来なかったのは、恐らく薬効の足らなかったためであろう。実に残念である」
 寺島のことには言外の深意があるように、ぼくには思われる。毒殺の張本人が斉興であったとすれは、旧薩摩藩士としては明治年代にはこの程度にしか言えなかったのは当然であろう。
 ぼくはその毒物についても、大体の見当をつけている。亜批酸系統の毒薬であったろう。下痢と心臓の衰弱がその主たる中毒症状である。斉彬が死の前日、山田壮右衝門に脈をとらせて、
 「脈がないじゃろう。助からぬいのちと知った」
 と言ったことは書いた。心臓の衷弱を語るものである。
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■月照と心中、西郷の潔癖性と隠遁癖

<本文から>
 「かしこまり申した」
 と、一言だけ言って、席を立った。
 かしこまりましたと答えるまでの短い時間に、西郷は一足とびに死ぬ決心をしたに違いない。
 (和尚をここまでお連れして釆ながら、むざむざと捕吏に渡すようなことをしては、申訳がなか。しかし、どうにも方法はつかん。死んでいただくよりほかはなか。そのかわり、おいもお供する。せめてものおわびじゃ。おい自身と藩全体とをこめてのおわびじゃ)
 と思い、またこうも思ったろう。
 (それにしても、おいは先君のおあとを追うて、あの時に死ぬべきであった。なまじご計画の精神を生かそうなどと考えて、いろいろやってはみたものの、先君を非業に失い奉った藩である以上、どうにもなりはしなかったのだ。あの時死んでおれば、こげんことにはならなかったろうものを)
 西郷の性格の一つに潔癖性がある。ぼくはしはしば彼は最も良心的な人間であると言ったが、その良心の鋭敏さは、この潔癖性から出て来るのだ。彼は濁流の中に平然と泳いでいるにたえる人ではなかった。この潔癖性とその英雄的気塊とが結びつく時、彼は理想家となり、最も清潔にして最も道義的で、最も完備した理想社会を造ろうとする果敢な革命家となるのだが、彼の心気が疲れている時、彼は厭世家となる。
 彼には隠遁癖があり、ややもすれば田園に引退したがったと言われており、それは自ら功にいることを欲しない彼の無欲によると解釈されている。それもあろう。彼の好んだことばの一つに「労は自ら引受けて功は人に譲る」というのがあるのだから。しかし、ぼくは彼の生涯を通観して、彼のこの隠遁好きな性癖はこの潔癖性による厭世感から出ており、この場合の死の決意は、斉彬のために働いたために、この窮地に陥った月照にたいする義理立ての心から出ていると解釈している。
 七十七万石の雄藩として、富強第一、武夫勇健をもって天下に誇っている自分の藩が、幕威におびえ、数百年にわたる近衛宏との情誼も、先君以来の月照にたいする義理も忘れて、不信義しごく、臆病しごくの処置に出たことにたいして、最も痛烈な嫌悪を感じ、
 「薩摩の精神は先君とともに死んだ」
 と思い、生きて行く気がなくなりもし、せめて自分が一緒に死ななければ、先君の義理も薄の義理も立たないと思ったに違いない。
 ともあれ、西郷のこの時の胸中に錯綜してむらがり湧いた万感すべてが、「死」に向って焦点がしぼられて来たと思われるのだ。
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■月照と飛び込む瞬間

<本文から>
 「ようわかっています」
 とささやき返したろう。その従容たる様が平生と少しも変らなかったので、西郷が深く打たれたことは前に述べた通りである。
 この会話は苫のうちにいる人々にまるでけどられなかったのだ。人々がさわぎ浮かれていたのでもあろうが、二人がごく小声で、しかも手短かに話し合ったことが想像される。
 月照は懐紙を出し、矢立をとり出し、月明りをたよりにさらさらとしたためて、さし出した。
「テニヲハはまだととのうていまへんが、どうでしょう」
 受取って、月明りに照らしてみると、歌が二首しるしてある。
  曇りなき心の月と薩摩潟沖の波間にやがて入りぬる
  大君のためには何か惜しからむ薩摩の瀬戸に身は沈むとも
 「いかさま」
 おしいただいて、西郷はふところに入れた。
 この有様を、平野も、坂口も、重助も、苫のうちから見ていたが、格別気のつくことはなかったという。
 間もなく、皆酔が深くなって、次ぎ次ぎにたおれ伏してしまった。船頭らもわけあたえられた振舞酒に酔って寝てしまい、舵をとっていた一人だけが、寒げに船尾にうずくまっていた。
 二人は一ペん苫の下にかえって横になった。死を決しているのだから眠れはしなかったろうが、他の人々を油断させるために酔臥をよそおったのであろう。
 その間に、船は華倉・三舟の沖を過ぎた。満帆に夙をはらんで、速度はぐんぐん上る。
 やがて龍ケ水の沖にかかり、大崎ケ鼻も近くなる。
 人々がいびきをかきはじめたのを聞きすまして、西郷はむくりと起き、低い入口をくぐってまた船首に出た。月照もつづいた。
 西郷は龍ケ水の方を指さして、そこの歴史を物語ったという。ここには悲しい歴史がある。戦国時代末期に島津宏の当主であった龍伯入道義久の三弟蔵久にからまる物語。歳久は武士の意気地をつらぬいて最後まで豊臣秀吉に反抗した人だ。義久は家の安泰のために討手をさしむけねばならなかった。義久は家臣二十四人とともに討手と血戦した後、屠腹して死んだ。その場所がここだ。義久は弟の死をあわれみ、心岳寺という寺を建ててあとをとむらったが、ここを通過する時にはいつも従者らに繋琶を弾奏させて、その幽魂を慰めたと伝える。
 西郷はその歴史を語り、月照は、
 「勇ましくも、またあわれ深い物語どすなあ」
 と言いながら、感慨深げにそのあたりを凝視していたという。
 やがて、月照は身をかがめて、右手を海にさしのばした。順風に乗って矢を射る速さになっている船首に切られる波がしらは白くくだけて激し上り、音を立ててその手を洗ったろう。月照は左の手も洗った。身をおこし、袖で両手を拭き、右手を上げてうやうやしく西方を拝んだかと思うと、左手を西郷の方にさしのばした。西郷はつと寄って右手をのばした。二人は肩を組み合った。次ぎの瞬間、二人はおどって船はたを離れた。すさまじい水音が立ち、しぶきがきらきらと光りながら高く上った。
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■西郷は命をとりとめる

<本文から>
 ここに船がつくと、坂口は部落の宏をたたきおこし、若者を三人駆り出して来た。あたかも浜べには城下に積み出すために粗粂が積み上げてある。それをぽんぽん燃やし立てさせて、月照と西郷を暖めにかかった。坂口が西郷を引受け、平野と重助とが月照にかかった。
一時間ほど、熱心に、根気よく介抱していると、西郷のからだにしだいに温みが出て釆、つづいて糸筋のように微かではあるが、呼吸も通って来た。
 「おお、こっちは息が通じて来ました。そちらはどうでごわす」
 と、坂口が元気づいてさけぶ。
 平野も重助も気力が出て、なお介抱につとめたが、なんの変化もあらわれない。最後の手当として、若者らに線香ともぐさを持って来させて、人中に灸をこころみたが、やはりなんの変化もない。月照の魂はついにかえって来なかったのである。あたかも安政五年十一月十六日の早暁、夜もすがらの満月が西の山の端に沈みかけ、黎明の光が天地の間ににじむ頃。行年四十六。
 平野は筑前に帰った後、北条、工藤、竹内、洋中、その他の同志の人々に事のいきさつを物語り、「西郷さんは年も若ければ、からだも大そう丈夫な人ですが、月照さんほお年もお年じゃし、おなごのようにやさしく、弱々しか人でしたものな」
 と説明したという。そうであったに違いない。
 今日、西郷蘇生の家というのが、復元して、現地に保存されている。小さな草茸小屋である。蘇生までの手当はどんどん火を焚かなければならないから屋外で行われ、息を吹きかえしたので、当時民家であったこの家にかかえこんで安臥させたのであろう。
 月照は死に、西郷は糸筋ほどに微かに弱々しい気息がかよっているだけである。微かに微かに立っているいのちの炎を死が吹き消そう吹き消そうとしている不安な状態だ。坂口は平野に言った。
 「今動かすのは危いかとも思いますが、一刻も早く医者に手当させんければなりません。またお役所のさしずを仰がなければなりません。お城下にもどりましょう」
 平野も同意するよりほかのないことである。
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■西郷は入水事件で人格の一大飛躍をする

<本文から>
 ぼくは彼の「天敬」とは運命観であると思う。彼は天が自分を殺さなかったのだと考えることによって、やっと心を落ちつかせることが出来たのであろう。また彼はその生涯を通じて、運命の起伏最も大きい人である。切所にあたってしばしば運命が急落し、しばしば急昇すること、彼のような人物は最も稀である。こういう人物が一種の運命観を抱くようになり、天意にたいして最も敬虔な信仰を持つようになるのは最も自然なことのように、ぼくには思われる。「敬天」の信仰は、さらに彼がさまざまな人生経験をし、いく度か生死の境を透過することによってかたまりもし、深まりもし、発展もしたと思われるが、この時からその心の底に根をおろしたろうと、ぼくには思われる。
 衰弱している体力は同じことを長く追究することが出来ず、ともすれば思索は中断して、うつらうつらと眠りに入って行ったであろうが、彼の誠実さはおとろえ切った気力むふるいおこしふるいおこし、執拗に追究して行ったろう。
 犬養木堂は若い頃は西郷がきらいであったが、晩年になるにつれて最も熱心な西郷崇拝者になった。彼は西郷の人格の一大飛躍の時を、この入水事件においている。西郷が最も西郷らしい見事な人物になったのはこの時からであろうと言っていたが、同感である。
 西郷がこれまで努力して来た読書も、武士道の修練も、参禅も、政治上の奔走も、この機縁を得て、爆発的に彼の人物を向上させることになったと思われるのである。
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■敬天愛人は、西郷の信仰的哲学

<本文から>
 西郷は月照とともに自殺するつもりで、月明の寒夜に鹿児島湾に投じたが、月照だけが死に、西郷 は蘇生するという結果になった。その頃の武士として、また西郷の性質として、どんなに恥かしいことであったか、わからない。「土中の死骨」と、その後しばらくの間、彼が自分のことを言っていることは、その節書いた。その頃しばらくの間、西郷宏の人々や西郷の友人らは、西郷の目につくところには、刃物をおかないようにしたと伝えられている。
 だんだん気持が落ちついて来ると、この上自殺などはかるのは恥の上塗りであるとわかってくる。
 だから、死ねないのであるが、それでも恥かしくて、月照にたいして済まなくて、心が落ちつくことが出来なかったに違いない。彼はその苦悩の中に思念をつづけ、やがて、
 「天がおれを殺さなかったのだ」
と考えることによって、やっと落ちつきを回復することが出来たと思われる。これはすなわち天なるものにたいする信仰が土台であらねばならない。彼の生涯の信仰的哲学になった「敬天」はこうして彼の心に根づいた。
 では、西郷における「天」とは何かといえば、儒教における「天」を土台にしている。そして、彼においては、「天の徳」は、一萄の私利私欲なき仁愛であり、「天」とは仁愛そのものの象徴である。
 従って天を敬することは仁愛を体行することでもあるから、「愛人」でもある。彼の「敬天愛人」の信仰的哲学は、こうして成立した。
 愛人は敬天の必然的行為である。天を敬する故に人を愛するのである。天にむかっては敬となり、人にたいしては愛となる。同一なことの両面なのである。
 「敬天愛人」は、このようにして、西郷の信仰的哲学となったが、その実践の方法は、天の徳を体して、無私無欲の仁愛の人となるにあると考えた。物欲、名誉欲、生命欲から解放され切ることが、人間の至上の修行と信じて、終生努力しつづけたのであった。
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■久光出兵には、大久保と西郷との間には最初から談合があった

<本文から>
 西郷は自殺などはしないのである。自ら任ずることが厚いからでもあろうが、天命にたいする最も敬虞な心からでもあるはずだ。月照事件以後、彼は敬天の信仰の人になっているのだ。自殺は小我の慈意をもって天命に限定をつけるものだ。元来思い切りがよく、また決して死を恐れなかった彼がこの後も決して自殺などしようとしなかったのは、こう考えるよりほかはない。これは城山における最期の様とも思い合わせるべきものであろう。世間ではよく西郷は城山で自刃したというが、あの死は自殺ではない。戦死である。銃傷を負うてもはや身動き出来なくなったから、別府晋介に介錯させたのである。彼においては、自殺は天命を限定するものとの信仰があったのである。月照事件による西郷の人間的成長は犬春木堂が言ったように、目をすまして見るべきものがある。
 さて、『大久保日記』には、この時のことを、「(西郷に)篤と中食め候ところ、従容として許諾、拙子もすでに決断を申入れ候に、何分右の通りにて安心にてこの上なし」とある。
 これを、数年前物故した明治政治史専攻の某大学の教授が、その著『大久保利通』で、こう解釈している。
 「大久保が西郷に一緒に死のうと申入れた心理は複雑である。拙子も既に決断を申入れ候″と日記にあるのだから、西郷が死のうといえは、死んだであろう。しかし、大久保のこの申入れは西郷をしておとなしく帰国を承諾させるためであって、本当は死にたくはないのだ。生きていて、幕府を改革して日本を救いたいのだ。だから、西郷が自分はおとなしく帰国する、君はとどまって国のために働けというと、『安心にてこの上なし』とよろこんだのである」
 ひとりこのことだけでなく、こんな解釈が行われ、相当数の共感者を持っているから、ぼくはこの伝記を書かねばならないと思い立ったのだ。
第一、西郷の国許送還はこの時はまだ決定していない。逮捕命令だけが出ているのである。国許送還が決定したのは、この翌月だ。
 第二、『大久保日記』の「安心云々」は、西郷がそんな暴悪な命令には従わん、おいどんは藩中の急進分子や浪人らと一緒になり、長州をさそって、討幕の挙をおこすと言い出しはしないかと思っていたところ、そうでなかったので出たものと解釈すべきであろう。
 この学者は大久保を大変高く買い、西郷以上の人物と見ているのだが、この解釈ではひいきのひきだおしだ。大久保は最も卑小な人物になってしもう。大久保は権謀にたけた人ではあったが、卑小な人物ではなかった。それとも、近頃の人はこれを卑小と感ずる感覚がないのであろうか。
 これを別にしても、ぼくは大久保と西郷との間には最初から談合があったという解釈だから、この解釈にくみすることは出来ない。
 大久保は西郷に会った後、久光の前に出て、西郷が自分の宿舎に来て謹慎していることを言上した。
 村田と森山のこともまた言上した。久光は、
 「そちと奈良原と有村とが、三人に同船して、すぐ大坂へ送るよう。大坂へついたら、上陸せず、届出だけいたすよう」
  と命じた。上陸を禁止したのは、藩士らの沸騰を恐れたのだ。
 大久保はかしこまって退出し、船の用意をさせたが、天候がくずれ、風が悪くて、船が出せない。
 その夜は、西郷も村田も森山も、大久保の宿に泊った。
 翌朝は大雨であったが、十時頃から晴れて来たので、早速に大坂に向けて出帆、午後二時頃着いた。
 指図に従って上陸せず、すでに大坂に到着している小松帯刀に届け出たところ、日没頃、大久保に呼出しが来た。
 処分言渡しのためであることは明らかだ。どんな処分を言渡されるかと、一方ならず緊張して出かけたに違いない。
 「今晩中に藩の汽船天祐丸が帰国のため出帆する故、大島はじめ三人の者共をそれで帰国させよ」
 という言渡しであった。
 実際の処分はのびたのである。先きはどうなるかわからないが、一応はほっとしたであろう。
 しかし、その夜は船は出ず、翌朝十時噴出帆した。大久保、堀、有村の三人が見送った。堀と有村とほ怜然たるものがあったろう。文久二年四月十一目であった。
 西郷のこの国許送還は一切秘密のうちに行われたが、あとでわかって、若者らが激昂し、「合点ならぬ」と、側役衆へ突っかけて大論判するという大騒ぎになった。
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