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          海音寺潮五郎-西郷隆盛(1)

■常に庶民の味方であり、庶民の心を失わなかった人

<本文から>
 西郷が農民一揆をしずめに行くにあたって、県庁の雇員の辞令を出してもらって行ったというのも、つまりは筋道を立てたのである。そのまま行っては現職の陸軍大将が鎮圧に行ったということになる。それでは行政官の仕事に軍人が手を出したことになる、討伐ということになって農民らの立場も悪くなると思ったにちがいないのである。
 さて、西郷は雇員の辞令をふところにして、五里の道をてくてくと帖佐に行ってみると、村では西郷先生が鎮撫に来られるというので、静まって、農民らは結束を解いて、それぞれの家に帰っていた。
 当時の戸長−後世の村長だが、そのころは官から任命したもので、いわば半官吏であった。その戸長は黒江某という者であった。その孫にあたる人物をぼくは知っている。西郷を迎えて、委細の経過を語った。
 「それはようごわしたな。それはようごわしたな。しかし、一体どうしたわけから起ったことでごわす」
 西郷は委細の話を聞き、出来るだけ農民らの要求が通るように骨をおろうと約束したが、やがて黒江はいった。
 「時に先生、おたずね申したかことがございもすが……」
 「ほう、何でごわす?」
  と、西郷が問いかえすと、黒江戸長は言う。
 「わたし共の立場はまことにこまるのでございもす。お上の仰せには従わんければならんのでごわすが、百姓共の言いぶんが道理と思われることが多うございもすので、どうしてよかか窮することがようあるのでございもす。そげん場合には、どちらに味方すればよかのでございもそか」
 と、まことに余儀なきていであった。当時の情勢としては、戸長などの職にあるものは、良心的であるなら、当然このなげきがあったはずである。
  すると、西郷は、
 「そりゃ、もちろん、百姓の味方をなさらんければならん。いつも目の前に百姓を見ていながら、その苦しみがわからず、わかっても味方できんようなものは姦吏でごわす」
 と、最も強いことばで答えたというのである。これは西郷の生涯の信念であった。幕末、西郷が沖ノ永艮部に流人であった時、西郷はこれとそっくりのことを島役人土持政照の問いに応じて、書いてあたえている。いずれそれは先きへ行って書くことになろう。
 西郷が明治政府にとどまっておられなかったのは、この根性のためだ。やがて先きに行って書くことになろうが、征韓論の決裂はその動機になったにすぎない。この性格は彼が絶対に官僚にはなれたい人間であったことを語り、彼が常に庶民の味方であり、庶民の心を失わなかった人であることを語っている。
 半生を江戸の下町の職人としてすごし、明治二十二年にはじめて東京美術学校教授になった光雲は西郷と直接に知り合う機会はなかったにちがいないが、そういう感情をもって西郷を受けとめていたであろうし、制作を委託されてから、生前の西郷を知る人々に会っていろいろと西郷のことを聞きもしたろうが、聞けば聞くほどその感情が強まったにちがいなく、それがついにあの形に定着されたのであろう。 
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■維新運動は危快感からはじまり尊王思想との握手が行われた

<本文から>
 さて、幕末の日本は欧米諸国の帝国主義競争の波頭にさらされることになったので、維新運動はそのはじめにおいては、日本人の危快感、恐怖感、強迫感からはじまった。
 「うかうかしているとあぶない。この強力な武力を持っている外国人どもに国を奪われてしもうぞ」
と、日本人は考えたのだ。
 当然のこととして、この恐怖感はわれわれは国を強化しなければならないという考えになり、さらに統一国家となる必要があるという考えになって、世界近世史の基調に同調することになったのだが、
 ここで尊王思想との握手が行われた。以上については、さきに行って歴史事実によってまた説明する機会があろうが、とにかくも、統一には中心が必要だが、その中心に天皇を仰ごうということになり、単に思想でしかなかった尊王は勤王という行動となったのだ。
 こんなわけであるから、維新運動は尊王思想からおこったものでなく、途中から合流したにすぎないのだが、合流するには合流するだけの素地が出来ていたし、この思想によって維新運動に強い情熱が加わったことは事実である。
 一体革命というものはそういうものらしいのだ。フランス革命が自由・平等・博愛の思想から起ったなぞ、今時気のきいた人間は誰も考えはしない。腹のすいている人間が飯を食うのに、理論や思想なぞがいるわけがない。食わなければ生命の安全が保たれないから食いたいという欲望が出て来、食うまでのことだ。フランス革命だってその通りだ。何とかしなければフランス人の生活がなり立たなくなったというギリギリの現実の必要からおこったまでのことである。しかし、「自由・平等・博愛」の合いことばがどれほどフランス人の革命の情熱をかき立てたか、鼓舞したか、はかり知ることの出来ないほどのものがある。革命は現実の切実な必要からおこるが、それを推進し、鼓舞し、ついに成就させるのは、常に宗教的ともいうべき観念思想のようだ。そういう時にはそういうものに、人間の情熱は燃えるものらしいのである。
 上述のように、尊王論は維新運動の原動力では決してないが、これに情熱をあたえ、これを鼓舞し、これを成功に導いた有力な要素であるには相違ない。維新運動を語る場合、これを除外するわけには行かないのである。
 日本の尊王思想を考える場合、どうしても離すことの出来ないのは朱子学である。尊王は感情だ。自然発生的にも生ずる。だから、朱子学の力を借りなければ日本人に生じなかったとはいわない。しかし、これを思想として確立したのは朱子学の力によると、ぼくは見ている。
 朱子(朱薫)の学問は、人間性や宇宙を哲学的に究明することによって倫理の問題にせまることを本領としているのであるが、そのほかに史学の部門がある。元来、儒学には史学部門がある。孔子が『春秋』を書いたというのがそれだ。儒学の史学は、たんなる歴史研究ではない。倫理学の一部門になっている。孔子が『春秋』を書くにあたっても、大義名分を標準にして、歴史上の人物や事件に善悪の価値断判をくだしながら書いている。朱子も、彼より六、七十年の先輩にあたる司馬光(温公)の著『資治通鑑』をダイジェストして『資治通鑑綱目』をつくった。大義名分によって褒貶の意をあらわしたことは言うまでもない。
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■久光も賢明であり、一般家中の親しみは久光の方にあった

<本文から>
 さて、このようにして、久光は幼少の時から薩摩で育っている。自由自在に薩摩語もしゃべれる。
 こんな点、江戸で生れて江戸で育ち、薩摩語など聞いてわかりはしても自分ではしゃべれない斉彬とは大ちがいである。記録によれば、斉彬のことばは明晰な江戸弁であったという。こんなことからも、一般家中の者の親しみは久光の方にあったにちがいない。
 また、斉彬も賢明であったが、久光も賢明であった。とりわけ、久光は薩摩のような片田舎で育ったためか、生来の性質がそうだったのか、きわめて保守的な思想や趣味の人であり、学問の好みも旧来の儒学と国学であった。彼の頑固なくらい保守的な思想や趣味には、後に西郷や大久保もこまり、明治政府も閉口しているが、それは少年時代からそうであったのだ。つまり、斉彬は曾祖父に似ており、久光は父に似ていたのだ。
 以上述べたようないろいろな点で、斉興にしても、大部分の重臣らにしても、大方の藩士らにしても、次代の藩主には斉彬より久光の方が望ましく思われたに相違ないと、ぼくには考えられる。斉興が由羅への愛情に溺れたが故に久光を偏愛し、それにおもねって調所をはじめ老臣らの大部分が斉彬排斥をくわだてたという従来の解釈は、公式的にすぎるとぼくは見ている。
 一体、お家騒動は多くは姦悪にして美貌な愛妾の姦策を中心にする善玉、悪玉の対立抗争という公式にあてはめられて解釈されているが、こんな単純で浅薄な通俗小説的お家騒動は、ぼくの知るかぎり、日本の大名の家には一件もない。それぞれにぬきさしならぬ条件のもとにおこっている個性的ものである。最も有名な黒田騒動も、伊達騒動も、加賀騒動も、世に伝えられているような公式的なものではない。
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■斉彬と西郷の間を、最も美しい君臣関係、最も優秀な師弟関係と見る

<本文から>
 彼は紀州から連れて来た村垣左大夫という武士を−恐らくそうした家がらに生れて、探索に特別すぐれた伎倆を持っていた者であったのだろうが、それを庭方役に任命して、将軍直属の密偵とした。将軍の直命を受けて探索にしたがい、とりつぎを要せずしてじきじきに目通りに出て報告出来ることにし、長い制度となって以後ずっとつづいた。
 島津家では重豪の時、この制度をとりいれ、庭方役を幕府のものと同様な職分を持たせることにしたという説がある。ぼくはそのもとづくところを知らないのであるが、書物としては村井弦斎の『西郷隆盛一代記』あたりが、この説を採用した最も古いものであろう。三田村鳶魚老もこの説を踏襲している。この人は幕臣の末であるところから、勤王諸藩は永戸をはじめとしていずれもきらいで、ずいぶん悪意的に見ているが、西郷にも好意を持っていない。
 「西郷はお庭方です。探偵ですよ。人物に暗いところがあります」
 というようなことを、書いてもおり、直接に聞かされたこともある。
 三田村鳶魚老の西郷密偵説は、薩摩の庭方役が幕府の庭方役と同じと見るところからの解釈で、この前提が誤まっているなら、成立しないわけである。
 ぼくはこの前提を信じないのである。単なる庭園がかりの役職と素直に考えたい。
 西郷が国許を出る時の役職、中小姓は藩主の外出時にお供まわりをつとめるだけのものだ。同じ供まわりをつとめる徒士よりは上であるが、要するに下級将校だ。謁見の資格はあるのだが、自由に藩主の前に出られる地位ではない。引見するには複雑な手つづきがいるのだ。
 ところが、庭方役となると、職掌がら、本人も自由に藩主の居間近くの庭に出入りすることが出来る。会いたいと斉彬が思った時には、ちょっと庭先きに出てそこで会ってもよいし、近習の者に言いつけて呼びよせてもよい。特別な手つづきはいらないのだ。
 斉彬は西郷をしこんでやろうと思い立ったから、いつでも会うことの出来るこの役に任命したにすぎないと、ぼくは見るのだ。こう考えるなら、たとえ薩摩の庭方役が幕府の庭方役と同じであったにしても、そんなにまで買っている者を、むざむざと密偵などに使うはずはないと考えるのが、素直な見方ではなかろうか。
 斉彬は直接しげしげと西郷と会い、西郷を知るにつれて、西郷を愛することが一方でなくなっている。この時代のこととして、古来、薩摩では、
 「斉彬公が西郷どんを呼んでお話をなさる時は、たばこ盆をおたたきになる音がちがった」
 と言い伝えている。ひざのすすむ思いで、斉彬が言い聞かせている情景がほうふつとして眼前に浮かんで来るではないか。西郷がまた乾いた砂が水を吸収するように、斉彬の語る一語一句をのこらず身にしみて受け入れている様子も思い描かれよう。
 斉彬は口で教えただけでなく、実際に事にあたらせることによっても訓練している。諸藩主や諸藩の重臣、幕府の重職らのもとへ、西郷を使いとしてさしむけたり、諸藩の意向を打診させたり、世間のうわさを調査させたりもしている。この中には、悪意的に考えれは、密偵的な仕事があったと解釈されるかも知れないが、ぼくは斉彬と西郷の間を、最も美しい君臣関係、最も優秀な師弟関係と見るから、そんな解釈を受け入れることは出来ない。斉彬は西郷の天性の美質を認め、これを磨き上げ、国家有用の材としたいと念願し、その努力をつづけたと見ているのだ。
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■斉彬は西郷を広く知らしめた

<本文から>
 後年、安政大獄の直前、西郷は土浦の土屋家の用人大久保要や肥後細川家の家老長岡監物などと親しく往来して情報を得たり、ことを依頼したりしているが、その人々との交際もこの時ひらけたのではないかと思う。これらの人々の許に最初に行く時には、斉彬の書状を持って行ったことと思われるが、その昔にはきっと、
 「この者は自分の最も信頼している者であるから、心おきなく意見を披歴していただきたい」
 と書いてあったろう。富強天下に冠たる雄藩の主であり、賢名天下に仰望されている斉彬ほどの人がこうまで信頼しているとあっては、西郷の名は上らざるを得ない。
 「薩摩に西郷あり」
 と、天下の有志らは皆知ったろう。
 この名声、この交友関係、これは当然後年の彼の大活躍の素地となるのである。斉彬は西郷にとって単なる主人ではなかった。良師でもあり、また、世におし出してくれた人でもあったのだ。
 大山への手紙には、なおこんなことも書いてある。
 「以前太守様がご領内の諸郷村の窮迫をご救助なさるご目的でかかり役人らに意見をご徹しになった ことにつき、このほど郡奉行の相良角兵衛が調査書一冊を差出した。太守様はその調査書を小生にお示しになり、意見を申せとの仰せであったので、存じよりの次第を言上しておいた。相良の調査書の控えが郡方にあるはずであるから、手をまわして写しとって、山之内作次郎先生のお目にかけ、先生のご意見を聞かれた上で、小生までお知らせ願いたい」
 ずっと前、西郷がまだ国許にいる頃しきりに斉彬に建白書を差出したことを叙述した際、その建白書の内容は主として農政問題に関したことであったろうと、推察しておいたが、それはこの事実があるからである。ともあれ、斉彬は西郷が農政について深い関心があり、意見を持っていることを知っていたのである。
 せんずるところ、これらの事実は、西郷が天下のことについてだけでなく、藩の内政問題についても、斉彬の信頼を得て、その手足となって活動しはじめたことを語るものである。
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■西郷の伝記を書くことは幕末・維新史全体を書くこと

<本文から>
 こんどの版が出るにあたって、おことわりしておきたいことが、二つあります。
 その一
 内村鑑三のことばに、「西郷の伝記を書くことは幕末・維新史全体を書くことである」というのがありますが、私も自ら書いてみて、たしかにそうであることを知りました。西郷という人は、幕末・維新史全体の上に浮かべないと、真の姿がわからないのです。しかし、読者心理というものは性急なものでして、小説においてすら長く主人公が出て釆ないと、いらいらするのです。この読者心理とどう調和すべきか、ずいぶん悩みましたが、幕末・維新史全部を書かなければ、西郷の真の相が書けない以上、読者がどんなにいらいらしょうが、書かなければならないと決断しました。さらにまた考えました。
 「自分の知る限り、日本にはこれまで、詳細で、正確で、面白く読める幕末・維新史は出ていない、徳富蘇峰氏の『近世日本国民史』中の数十冊は正確で詳細ではあるが、引用の史料が生のままで、今日の読者にはたやすく取りつけるものではない。従って面白さを感ずるところまでは行かない。大悌次郎氏の『天皇の世紀』も、その点では史料を書き下し文に直しただけで、現代の読者には難解であろう。もし、自分が読みやすく、従って面白く書くならば、現代の日本人は最も結線し易い幕末・維新史を持つことになるはずだ」史料を原形のままに引用することは、歴史学者の世界では普通のことですが、私は学術論文を書くのではないから、そうする必要はないと思ったのです。幕末・維新史においては、史料は日本史籍協会本にほとんど全部がまとめられていて、新しい史料はごく稀です。読者が必要があるなら、容易に照合することが出来るのです。ですから、引用の古文書は出来得るかぎり読みやすい現代語訳にしました。書く私にすれば、古文書を精読することにもなります。私は専門歴史学者達の著述に、古文書の読み違いや読み落しのある例の少くないことを見ています。
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