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<本文から> 西郷が農民一揆をしずめに行くにあたって、県庁の雇員の辞令を出してもらって行ったというのも、つまりは筋道を立てたのである。そのまま行っては現職の陸軍大将が鎮圧に行ったということになる。それでは行政官の仕事に軍人が手を出したことになる、討伐ということになって農民らの立場も悪くなると思ったにちがいないのである。
さて、西郷は雇員の辞令をふところにして、五里の道をてくてくと帖佐に行ってみると、村では西郷先生が鎮撫に来られるというので、静まって、農民らは結束を解いて、それぞれの家に帰っていた。
当時の戸長−後世の村長だが、そのころは官から任命したもので、いわば半官吏であった。その戸長は黒江某という者であった。その孫にあたる人物をぼくは知っている。西郷を迎えて、委細の経過を語った。
「それはようごわしたな。それはようごわしたな。しかし、一体どうしたわけから起ったことでごわす」
西郷は委細の話を聞き、出来るだけ農民らの要求が通るように骨をおろうと約束したが、やがて黒江はいった。
「時に先生、おたずね申したかことがございもすが……」
「ほう、何でごわす?」
と、西郷が問いかえすと、黒江戸長は言う。
「わたし共の立場はまことにこまるのでございもす。お上の仰せには従わんければならんのでごわすが、百姓共の言いぶんが道理と思われることが多うございもすので、どうしてよかか窮することがようあるのでございもす。そげん場合には、どちらに味方すればよかのでございもそか」
と、まことに余儀なきていであった。当時の情勢としては、戸長などの職にあるものは、良心的であるなら、当然このなげきがあったはずである。
すると、西郷は、
「そりゃ、もちろん、百姓の味方をなさらんければならん。いつも目の前に百姓を見ていながら、その苦しみがわからず、わかっても味方できんようなものは姦吏でごわす」
と、最も強いことばで答えたというのである。これは西郷の生涯の信念であった。幕末、西郷が沖ノ永艮部に流人であった時、西郷はこれとそっくりのことを島役人土持政照の問いに応じて、書いてあたえている。いずれそれは先きへ行って書くことになろう。
西郷が明治政府にとどまっておられなかったのは、この根性のためだ。やがて先きに行って書くことになろうが、征韓論の決裂はその動機になったにすぎない。この性格は彼が絶対に官僚にはなれたい人間であったことを語り、彼が常に庶民の味方であり、庶民の心を失わなかった人であることを語っている。
半生を江戸の下町の職人としてすごし、明治二十二年にはじめて東京美術学校教授になった光雲は西郷と直接に知り合う機会はなかったにちがいないが、そういう感情をもって西郷を受けとめていたであろうし、制作を委託されてから、生前の西郷を知る人々に会っていろいろと西郷のことを聞きもしたろうが、聞けば聞くほどその感情が強まったにちがいなく、それがついにあの形に定着されたのであろう。 |
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