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          海音寺潮五郎 「史伝・西郷隆盛」

■西郷は天性正義ごのみで、篤実で、情の厚い性質

<本文から>
 西郷もまた天性正義ごのみで、篤実で、情の厚い性質であった。彼はよく役目で都内の農家を巡視して歩いたが、その際、気の毒な貧困家庭を見ると、自分の手当を割いてめぐんだといぅ。彼の手当は彼の家の生計の補助となる重要なものであるのだが、あわれむべきものを見て は、彼はそうしてやらずにおられなかったのである。
 こんな詰も伝わっている。ある夜、やはり地方巡りをしてある農家に泊まったところ、厠にでも行った時であろう、その家の主人が牛小屋で泣きながら牛に何か言っているのを見た。そっと聞いていると、年貢を納めることが出来ないので、牛を売って金にかえるために別れをおしんでいるのでぁることがわかった。彼は気のどくでならなくなり、事情をよく調査して郡方に報告し、年貢を減額してもらってやったというのだ。
 彼のこの性格は、必ずや迫田奉行とよく合って、彼は迫田を尊敬し、迫田はまた彼を愛したにちがいないのである。

■斉彬と西郷との関係は、君臣であるとともに、師弟

<本文から>
「斉彬と西郷との関係は、君臣であるとともに、師弟であった。斉彬は最も教えがいのある者として、素朴、木強、誠実、善を好んでそのためには常に死をも恐れないというだけの、いわば掘り出したままの新璞のような西郷の錬成陶冶につとめたのだ。その斉彬に認められたことは、人格練成の上で、西郷は第一階段をのぼったようなものであったが、第二階段は藤田東湖の許に出入りしてその指導を受けるようになったことだ。

■明治維新史における尊王と攘夷の意義

<本文から>
 ついでだから、ここで明治維新史における尊王と攘夷の意義について、簡単な説明をしておきたい。
 ぼくは明治維新の本質は国家統一運動であるとの説を掟示したが、尊王はその統一の中心に たいする確認であり、勤王はそれが行動化したのである。維新運動の初期においては日本の政 治の中心は幕府であるという観念から人々が離れることが出来なかったので、皇室尊重ほ単に 人々の精神上だけのことで、人々の実際の行動は幕府強化に集中された。だから、将軍世子問 題にあれほど人々は努力したのである。その幕府があまりにも矛盾が多く、もはや政治の中心たるにたえないと見たところから、皇室を政治の中心にもしようという気になり、それまで精神上だけにとどまっていた尊王は行動化して勤王となったのである。
 攘夷運動についても、国家統一運動に関連をもって考える必要がある。攘夷は国家独立の確認運動であったのだ。狂気じみた自尊心や単純な毛ぎらいから出たものではない。多数のうちにはそういう人もあるにはあったが、そんな人は決して指導的位置にある人ではなかった。有象無象にすぎなかった。撰夷主義者らが明治五、六年の頃から不平等条約の改正運動者になっていることをもっても、それはわかるはずである。彼らの運動方法には巧拙があり、拙劣にすぎてかえって国を危くした事例も少なくないが、その本質が独立国家たることの確認運動であったことは認めなければならない。基地問題や、安保改定の問題を経験している現代の人々には、この気持は十分に理解出来るはずである。当時の日本のおかれたさまざまな条件を勘定に入れないで、嘲笑するだけでは、浅薄というべきである。

■入水事件が人格の一大飛躍の時

<本文から>
おそらく、一語もロを出さずに聞き、最後に、ただ一語、
 「よくそげんして下さった」
 とだけ言ったろう。
 寡黙な彼が、この頃では一層寡黙になって、家人ともほとんど語ることなかったろう。
 (死にそこなった)
 と思うと、恥かしくてたまらなかったろう。上人を死にさそったのは自分なのに、自分は生きのこり、上人だけを死なせてしまったと思うと、からだ中が熱くなり、うめき出したくなり、文字通りに消えも入りたい思いであったろう。
 ある時は、
 (からだの自由がきくようになったら、こんどこそ間違いなく死のう)
と思ったであろうし、ある時は、
 (おれはおれの意志でなく生きかえった。これは偉大な天意が働いているのではなかろうか。とすれば、この天意に従順にしたがって生きながらえ、天の命ずる仕事にこのいのちを捧ぐべきではなかろうか)
 とも思ったであろう。「敬天愛人」ということばは後に彼の好きな文句となり、この文字をよく書きのこしているが、「敬天」の精神はこの時から彼の心の底に根をおろしはじめたとぼくには思われるのである。
 衰弱している体力は、同じことを長く追究することは出来なかったろう。ともすれば思索は中断し、うつらうつらと眠りに入って行ったであろうが、彼の誠実さはこんなことをいいかげんにはしなかったに相違ない。おとろえ切った気力をふりおこしふりおこし、執拗にこの間題を追究したろう。
 彼の手紙に、この後しばしば、「土中の死骨」という文句が出て来る。必ずや、彼は、「おいは一旦死んだ人間だ。土中の死骨にひとしい。これからのおいの生命は、おいのものではなか。世のため、国のために捧げよと、天がおいにあずけたものだ」という結論に達したろう。
 犬養木堂は若い頃は西郷がきらいであったが、晩年になるにつれて最も熱心な西郷崇拝者になったが、彼は西郷の人格の一大飛躍の時を、この入水事件においている。西郷が最も西郷らしい見事な人物になったのは、・この時からであろうと、言っていたが、ぼくも同感である。彼がこれまで努力して来た読書も、武士道の練磨も、参禅も、政治上の奔走も、この機縁を得て、爆発的に彼の人物を向上させるものになったと思われるのである。

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