|
<本文から>
詔勅が発せられたのは、明治四年七月十四日であった。暴風雨の中の木戸邸の会合から五日目である。
木戸の即時決行論の実現であった。大久保の日記には『今日のままにして瓦解せんよりは、むしろ大英断に出で瓦解いたしたらんに如かず』という一句がある。山県をはじめ西郷従道、吉井幸輔、大山巌、鳥尾、野村などもみなよく動きまわった。大隈重信は井上を通じて事態の進行を知っていたが、知らぬ顔をしていた。岩倉具視は十二日になって大久保から知らされて、事の意外さに驚いたが、抵抗できないと見てあきらめた。
十四日も雨であった。この日、宮中ではまず大隈と板垣の参議任命のこと、大木喬任民部卿、大久保利通大蔵卿、井上馨民部大輔、山県有朋兵部大輔、岩倉具視外務卿就任のことが発表された。
つづいて天皇が正殿に出御あらせられ、在京の五十六藩の知事の平伏する前で、三条実美が勅語を奉読した。
『朕、さきに諸藩版籍奉還の儀を聴納し、新に知藩事に命じ、各その職を奉ぜしむ。然るに数百年因襲の久しき、或はその名あってその実があがらざるものあり。何を以て億兆を保安し万国に対時するを得んや。朕深くこれを慨す。一よって今さらに藩を廃して県となす』
列席の公卿と旧藩主の大部分にとっては全くの不意討であった。在京の島津忠義も知らなかったのだから、鹿児島の久光が知る由もない。後になって廃藩の報が鹿児島に達すると、久光は、またしても西郷と大久保の陰謀にやられたと激怒し、その夜は『侍臣に命じて邸中に花火をあげさせ、わずかにその鬱気をもらされたり』と側近の市来四郎は記しでいる。
宮中もまた大騒ぎであった。当時の司法大輔、後の侯爵佐々木高行は、
『翌十五日、大臣、鰍言、参議、各省長、次官等、宮城の中舞台に集合し、今後の処置をいかんすべきと議論百出、声高く論ずるを、黙って聞いていた西郷隆盛は、突如大きな声でこの上もし各藩で異議が起ったならば、私が兵をひきいて撃ち潰します≠ニ言うや、たちまち議論はやんでしまった』.
と回想しているが、おそらく事実であろう。だが、大隈重信の回顧談に、西郷が『まだ戦争が足り申さぬ』と豪語したと書いてあるのは甚だ信じがたい。大隈の回想は極めて自己中心で、
後年の世評のとおり、大隈式大風呂敷≠ワたはホラ男爵昔日談″の趣が強い。特に西郷に関する部分には、史実とは全く逆のデタラメが多いと徳富蘇峰も指摘しているが、この詰もまた西郷を、しいて戦争好きの武断派≠ノして、おのれの進歩性を誇る大隈流の拡大解釈にちがいない。西郷は元治元年の禁門戦争の直後に、『武士と生れたからには一度は戦場に出たいと願っていたが、戦争は二度とやるものには御座なく候』という手紙を書いている。その後も彰義隊戦争の弾雨と北越戦争の悲惨を身をもって経験した西郷が戦争好き″であるはずがない。西郷隆盛を当世流行の平和屋≠ノするつもりは毛頭ないが、同じ侯爵でも実直な佐々木侯爵の回想の方を信じたい。 |
|