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          林房雄-西郷隆盛10

■廃藩置県、島津久光の怒り

<本文から>
  詔勅が発せられたのは、明治四年七月十四日であった。暴風雨の中の木戸邸の会合から五日目である。
 木戸の即時決行論の実現であった。大久保の日記には『今日のままにして瓦解せんよりは、むしろ大英断に出で瓦解いたしたらんに如かず』という一句がある。山県をはじめ西郷従道、吉井幸輔、大山巌、鳥尾、野村などもみなよく動きまわった。大隈重信は井上を通じて事態の進行を知っていたが、知らぬ顔をしていた。岩倉具視は十二日になって大久保から知らされて、事の意外さに驚いたが、抵抗できないと見てあきらめた。
 十四日も雨であった。この日、宮中ではまず大隈と板垣の参議任命のこと、大木喬任民部卿、大久保利通大蔵卿、井上馨民部大輔、山県有朋兵部大輔、岩倉具視外務卿就任のことが発表された。
 つづいて天皇が正殿に出御あらせられ、在京の五十六藩の知事の平伏する前で、三条実美が勅語を奉読した。
 『朕、さきに諸藩版籍奉還の儀を聴納し、新に知藩事に命じ、各その職を奉ぜしむ。然るに数百年因襲の久しき、或はその名あってその実があがらざるものあり。何を以て億兆を保安し万国に対時するを得んや。朕深くこれを慨す。一よって今さらに藩を廃して県となす』
 列席の公卿と旧藩主の大部分にとっては全くの不意討であった。在京の島津忠義も知らなかったのだから、鹿児島の久光が知る由もない。後になって廃藩の報が鹿児島に達すると、久光は、またしても西郷と大久保の陰謀にやられたと激怒し、その夜は『侍臣に命じて邸中に花火をあげさせ、わずかにその鬱気をもらされたり』と側近の市来四郎は記しでいる。
 宮中もまた大騒ぎであった。当時の司法大輔、後の侯爵佐々木高行は、
 『翌十五日、大臣、鰍言、参議、各省長、次官等、宮城の中舞台に集合し、今後の処置をいかんすべきと議論百出、声高く論ずるを、黙って聞いていた西郷隆盛は、突如大きな声でこの上もし各藩で異議が起ったならば、私が兵をひきいて撃ち潰します≠ニ言うや、たちまち議論はやんでしまった』.
 と回想しているが、おそらく事実であろう。だが、大隈重信の回顧談に、西郷が『まだ戦争が足り申さぬ』と豪語したと書いてあるのは甚だ信じがたい。大隈の回想は極めて自己中心で、
 後年の世評のとおり、大隈式大風呂敷≠ワたはホラ男爵昔日談″の趣が強い。特に西郷に関する部分には、史実とは全く逆のデタラメが多いと徳富蘇峰も指摘しているが、この詰もまた西郷を、しいて戦争好きの武断派≠ノして、おのれの進歩性を誇る大隈流の拡大解釈にちがいない。西郷は元治元年の禁門戦争の直後に、『武士と生れたからには一度は戦場に出たいと願っていたが、戦争は二度とやるものには御座なく候』という手紙を書いている。その後も彰義隊戦争の弾雨と北越戦争の悲惨を身をもって経験した西郷が戦争好き″であるはずがない。西郷隆盛を当世流行の平和屋≠ノするつもりは毛頭ないが、同じ侯爵でも実直な佐々木侯爵の回想の方を信じたい。
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■天皇の御巡幸、一君万民

<本文から>
  御巡幸が具体化したのは、明治五年三月の末に、大久保利通が委任状をとるためにワシントン府から帰って来た時であった。西郷と吉井がこの計画を持ち出すと、
 「大いに結構だ」
 大久保は即座に賛成した。
 「王政復古と言っても、天皇の御治世と幕府政治がどうちがうのか、まだわからぬ連中が九州にはうんといるぞ。徳川に代って薩長が新幕府を開いた、などと言いふらされたのではたまらん。将軍様よりも薩長の殿様の方が実は偉かったのだから、天皇様よりもうちの殿様の方が上だと思っている者も絶無とは言えまい」
 吉之助は首をふって、
 「大久保、それは思いすごしだ。勤王の志というものは根が深い。草弄の中から、生れ出たものだ。覇権を狙う乱臣賊子はいつの世にもいるが、これは一時は栄えても、やがて倒れることを人民はよく知っている‥維新は武力だけで成ったものではない」
 「よしよし、それはわかっている」
 「おれは伏見鳥羽の時にも勝てるとは思っていなかった。万一の場合は幼帝を奉じて山陰道から九州あたりまで落ちのびる準備をしていた。……東征の軍をひきいて江戸に向った時にも、駿府から箱根あたりで敗戦の憂き目を見るかもしれぬと覚悟していた。にもかかわらず、抵抗らしいものは全くなく、江戸に着いた時には、錦旗の下に集まる兵力は十倍二十倍になっていた。……北越でも会津でも、それと全く同じことが起った」
 「わかったよ。おれに改めて勤王の大義を説くことはなかろう」
 「天皇はだれのものでもないこと、中央政府に集まった公卿、大名や高官のものではないことを示さねばならぬ」
 「一君万民、それは君の持論で、僕の持論だ。僕はまだアメリカという国をのぞいただけだが、聞くと見るとは大いにちがう。あの国にはプレジデントーという大君主がいるが、これはまさしく一君万民だ。プレジデントーは平服を着て平語を用いて人民と交っているが、何びともその尊厳を侵すものはなく、国の秩序と安寧はおのずから保たれている」
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■望みもしない元帥に

<本文から>
 「山県はよくやってくれた。やがて徴兵令も実施せねばならぬ。いま山県という要石を抜いたら、それこそ陸軍は崩壊するぞ」
 「おれたちがいますよ」
 「思い上がるな。軍制の改革は薩摩だけではできぬ」
 「先生は薩摩人ではなかったのですか」
 従道が笑いながら、
「おいおい、同士討ちはやめてくれ。喧嘩よりも解決策が肝腎だぞ。…おれは、やっぱり兄貴に近衛都督を引き受けてもらわねばならんと思う。山県とおれだけでは、とてもおさまらん。三条卿も兄貴に元帥になってもらうのだと言っていた」
 「なに?」
「大将のもう一つ上だ。ぐっと貫禄をつけて、薩摩と長州と土佐、江藤と大隈一派を抑えてもらうのだ」
 「犠牛か!」
 「いや、元帥だよ」
 またしても犠牲の牛の飾り物がふえる。参議、陸軍大将の上に、近衛都督と元帥の肩書きがつく。
 どれも自分の方から望んだものではない。正三位は返上したが、辞退した賞典禄二千石はまだそのままになっている。参議は木戸孝允にやってもらうつもりだったのが、木戸がひとりではいやだと言い出したので、こっちもお相伴させられた。陸軍大将は諸藩献納の近衛兵を統率するためという理由で、むりやりに押しっけられた。今度はその上に、元帥と近衛都督が重なる。
 「きさまら、肩書でおれをおしつぶすつもりか!」
 どなりつけて従道と野津を追いかえし、その晩は早く寝床に入った。牛になった夢は見なかったが、翌朝目がさめると病気の牛のように全身が重く、起き上がることができなかった。五月の末から七月の初めまで五十日に及ぶ炎暑の中の旅行の疲労が発しはじめたようだ。
 もしできれば、このまま寝ていたかった。鹿児島の日当山や鰻地温泉の風景がしきりに思い出された。
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■久光から罵倒

<本文から>
  吉之助は思わず声に出して、「それは無茶な……」
 「何と申した?」
 「兵隊どもを煽動したおぼえはございませぬ。かえって、私は……」
 「黙れ、吉之助!」
 久光は目をつり上げ、声をふるわせて「歴とした証拠があるのに白々しい。それが謝罪に帰った者の態度か。……その方の罪状は右の三つにとどまらぬ。余の建白を中途で妨げているのもその方だと聞いた」
 「根も葉もないことを……」
 大山綱良がうしろから腰をつついて、声をひそめ、「おい、相手は病人だ、病人……」
 側役の高崎為陪席の桂久武も、目顔で知らせた。‥西郷、我憤してくれ、我慢……。
 吉之助は沈黙した。
 久光は、かさにかかって、
 「その方は参議、元帥、陸軍大将、近衛都督最高の位を独り占めして、すべて意のまま、余の建白を拒むも容れるも、その方の一存で決する。さぞ心地よいことであろう」
 吉之助は答えなかった。
 久光は冷笑して
 「改めてたずねるが、その方は、余に謝罪し、余を東京に呼び出して新政府に協力させるために帰国したと申したな」
 「左様でございます」
 「ふふ、久光は狐ではない。猟師どもの罠にはかからぬ。……皇国の前途は人に劣らず憂えているが、何もかも西洋西洋の新政府を、日本人の政府とは余は認めぬぞ」
 面謁は全くの不首尾に終った。久光の怒りと皮肉を頭から浴びせかけられ、その憎悪の激しさを改めて痛感させられただけでひきさがった形であった。久光は吉之助の謝罪を受け入れたとも言わず、上京するとも言わなかった。
 重い気持で市中の旅館にひき上げると、桂久武か追いかけて来て、
 「よく我慢してくれた。老公の御意見は全く無茶だ。おれは、あんたがいつ爆発するかと気が気でなかった」
 吉之助は軒端にせまる桜島をながめながら、
 「今度は勅令も受けていないし、政府を代表した正使でもない。旧家臣として頭を下げに来たのだ。身におぼえのない罪ばかりだが、国の現状を思えば、うっかり爆発するわけにはいかん」
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■油断のため西郷の韓国使節が中止

<本文から>
  だが、徳富蘇峰によれば、
 『もしそのとおりなら、西郷は三条に一杯食わされたと言わねばならぬ。しかも三条は決してそのような狡児ではなかった。ただ彼は薄志弱行にて、西郷には西郷に都合よく告げたものであろう』
 真相はこのあたりにあるのかもしれぬ。
 『三条は大体において、この事(大使派遣)は確定したものとして、西郷に告げたのであろう。そうでなければ、西郷をして、かく安心せしめ、かく満足せしめ、かく快活ならしむべき理由はない。しかして西郷は決して三条の語るところを、誤解し、もしくは曲解するが如き男ではない』
 ただし、油断はだれにもある。
 油断とは、順潮には必ず逆潮が伴うことを忘れることだ。天道の実在を信じる理想癖の強い男は人をも信じすぎて事態の底を流れる逆潮流を見落し、逆流に足をすくわれる。西郷隆盛もそのような理想家の一人であった。百年先を見ているつもりで一寸先のことが見えないことがしばしばあった。英雄とはこの悲劇をおのれの中に内蔵している人物のことだ。人を信じすぎた時に、人の企みに敗北する。
 西郷が安心して青山に潜居″しているあいだに、黒潮の如く強力な逆流はインド洋をわたり、アフッカ海峡をすぎて日本に近づきつつあった。その名を岩倉具視と言い、伊藤博文という。『もうは横棒の憂いもこれ有るまじぐ』と安心じ油断した西郷隆盛の運命を決める大横棒を運んできたのは、この二人の人物であった。
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■大久保は西郷との対峙を命をかけて決意する

<本文から>
  「今度の使節は平常の使節にあらず。必死を期せしむるの使節なり佃使節殺されて後にはじめて戦争を決するは晩し。必死を期するの使節を派遣するの日、すでに戦争を決せずんばあるべからず。国勢振るわず使節身を殺してはじめて振うべしと怒らば、使節一身の略にして政府の略にあらず。これ利害を論ずるにおいて、もっとも慎重を要する所以なり」
 岩倉邸に呼ばれて、この手紙を示された時、大久保利通は三条の動揺が必ずしも優柔不断″のせいではないことを理解した。
 「よろしい。参議になれというのならなりましょう」
 大久保は言った。「ただし、岩倉卿、ここまで来たら、一切の姑息な手段をお捨て下さい。その覚悟はおありでしょうな」
 岩倉は眉をよせて、
 「姑息の手段と申したな」
 「左様、あくまで堂々と正面から対決すべきであります。裏面の小細工はもはや役に立ちませぬ」
 「どうすればよいのだ」
 「会議の席上において、征韓派の主張を完膚なく論破した上で、再び聖断を仰ぎ、便節派遣の勅旨を撤回心でいただくのです」
 大久保の目は炭火のように燃えていた。
 岩倉はしばらく考えていたが、
 「勅旨を取り消せというのだな」
 「できませぬか」
 「いや、勅旨と申しても、三条卿がお上のお言葉を西郷に口頭で伝えただけのもので、勅書があるわけではない」
 「しかも、使節の出発はあなたの帰国を待ち、充分に熟議した上にせよと仰せられたと聞いております。あなたが正面から反対なされば、勅旨の変更も可能でありましょう」
 「そう、そのとおりだ」
 岩倉はうなずいたが、板垣や江藤の出兵論を論破することは、わたしにもできる。しかし、西郷はただの出兵論ではない。死を覚悟して大使になるというのは無茶だが、これはもう信仰のようなものだ。議論して論破できるむのではなかろう」
 「西郷は、わたしが引き受けます」
 「ほほう」
 「議論よりも覚悟の問題です。相手が死を覚悟しているのなら、こっちも同じ覚悟で対するよりほかはござりませぬ。……しかし、わたしが反対すれば、西郷はほかの誰が反対したよりも怒ります。意地にもなります」
 「もう怒っているのではないか。われらの動きを察して、意地をはりはじめているのではないか。どうも、そんな気がする」
 「西郷は激しやすい男です。特に、相手が策を弄したと見ると、前後を忘れて暴言を吐く癖があります。悪い癖だと知っていながら、自分を制することができなくなるのです」
 「むずかしい男だ。三条をはじめ参議たちは西郷を恐れている」
 「西郷に対しては小細工は禁物です。……どうぞ、わたしといっしょに外務卿の副島を参議に御任命ください」
 岩倉はおどろいて、
 「副島は征韓論の火元ではないか、彼を一枚加えろというのは……」
 「それが正攻法です。どこまでも公正な処置をとった上で、堂々と戦うべきです。征韓派にも充分発言させたい。…‥わたしは西郷を窮地に立たせたくない。彼の手足をもぎ取るような小策は弄したくないのです」
「よろしい、副島を参議にしよう。しかし、大変だな。ますます大変なことになりそうだ」
「その覚悟でおはじめになったことでございましょう。西郷を追いおとせば、血が流れます。わたしの血も、おそらくあなたの血も……」
 「もうよい。何も言うな」
 岩倉は青ざめながら答えた。
 「万事はそなたにまかせた。くれぐれも頼むぞ」
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■西郷と大久保の決裂

<本文から>
 「二年は長かったぞ。情勢の急変に応じて応急の処置を講じることができなければ、留守をあずかる政府とは言えぬ。国の大事を放置しておいては、大臣参議たるの職分が立たぬ。留守中の閣議は子供や病人ばかりが集まって決議したとでも言いたいのか」
「小事ならかまわぬ。だが、韓国問題は国の運命にかかわる大事中の大事だ。誓約を無視して、かかる大事を決定するとは不誠実と言おうか、卑怯と言おうか・…」
「なに、卑怯?」
「誓約を知りつつ、知らぬ顔とは卑怯と言うよりほかない」
「こいつ、言葉をつつしめ。国の大事をよそに勝手に外遊を延期し、帰国すると、かげでこそこそ陰謀をたくらむ。どっちが卑怯か、おのれの心に問うてみるがよい」
「卑怯ではない。国の大事と思えばこそ、ここで公然と反対しているのだ」
 西郷はどなった。
「おれは今日まで、おまえを勇者だと信じていたが、いつ、どこで、腰をぬかして、薩摩一番の臆病者になってしまったのか!」
 板垣退助はその日の閣議を回想して、
「この時の西郷と大久候との議論は、感情に馳せて、ややもすれば道理の外に出で、一座呆然として区値をいるるに由なき光景たり」
と語っている。
兄弟以上“とよばれた西郷と大久保の友情と信頼ほ、この日を期としてその逆のものになった。ただの兄弟喧嘩であったら、いずれ和解の時が来たであろうが、底に政治と権力闘争という露骨で非情な俗事が横たわっていた。激突した二つの火球は、火花と轟音を発して飛び離れ、双方の破滅に至るまで、ついに相逢うことがなかった。
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■大久保らは対策練るが、西郷らは辞表をだす

<本文から>
  同じ趣旨の手紙を伊藤博文あてにも書いた。伊藤に書けば、木戸と長州派に直通する。
 天皇への直奏の道を閉ざしておいて、早くも新政権の人選に着手したのだ。疾風迅雷とはこのことか。大久保利通もすぐにそれにこたえ、その夜のうちに岩倉と会って対策を練った。
 これに対して、西郷隆盛は何をしたか。何もしなかった。「右大臣はよくもふんばった」と言っただけで、赤坂離宮には行かず、千代田城内にひきかえした。
 その日も岩倉派の参議は総欠席であった。遅参した後藤象二郎を加えた五人の参議だけが、いつもの控えの間に集まった。
 赤坂直奏という言葉も出た。言い出したのは後藤象二郎で、一同の気をひき立てるつもりもあったのだろう。
 「これだけ頭数がそろえば、一芝居打てる。太政大臣も右大臣も病気とあらば、われらの中から代理の代理を立てて参内すればよい」
 板垣が、
 「いや、そこまで陛下をわずらわし奉るべきではないと考えて、直奏はとりやめたのだ」
 後藤は冷たく笑って、
 「岩倉と大久保は宮内卿に手をまわして大陰謀を行ったと聞いたぞ。おぬしたちはそれを供手傍観しているのか」
 副島がひきとって
「われわれが直奏しない理由は、江藤に聞け。‥天皇の御信頼を口実に閣議の決定をふみにじったら、支部や西洋流の専制政治になってしまう。岩倉や大久保の徒は知ってか知らずにか、一君万民、君民同治の大理想をふみにじって、ドイツ、ロシア流の専制政治を開始しようとしている−という趣旨だったな、江藤?」
 江藤は無言のままうなずく。後藤は笑いながら、
 「敵は覇道を歩くが、味方はどこまでも王道を澗歩するというわけか。結構なお話だが、勝負はこれできまったようだな。正道も奇道もふさがれたとなれば、参議五人、袂をつらぬて辞職のほかはないではないか」
 西郷が答えた。
 「そのとおりだ。わたしは辞表を書くことにきめた」
 西郷が日本橋小網町の自宅から姿を消し、そのまま行衛知れずになったことが、大久保の耳に入ったのは、翌二十三日の夕刻であった。
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■応対は桐野と篠原にまかせ武村で過ごす西郷

<本文から>
  「百姓どもを徴兵して鎮台兵となし、士族廃刀の説にも、先生はひそかに賛成なされていると聞きました。百姓には戦争はできません。士族の魂たる日本刀を奪い、鍬や鋤を持たせて、はたして‥国が守れるでしょうか」
 「まして、大陸経略は夢の夢、対清、対露、対英の戦備も絶対に不可能・…‥」
 「私どもは先生の蹴起と命令一下を心から待望しているのであります」
 はじめは、いちいち相手になってやり、説得にもつとめてみたが、教えてやろうとすればかえってかみついてくる血気の若者もいる。
 「先生もそういうお人だったのですか。大久保、木戸、大隈、伊藤の徒輩と変りはない。ひとたび廟堂に立ち高位にのぼれば、維新の大理想も、人民の辛苦もお忘れになってしまうのですか」
 はるかな他県からの訪問客をどなりつけるわけにもいかない。たとえどなりつけても、これらの輩を納得させることはむずかしい。応対は桐野と篠原にまかせることにしたが、それでも武村まで押しかけてくる者が多い。中には林有造のように、追いかえすことのできない客もある。
 犬をつれて狩に出る日が多くなった。霧島山麓の日当山や大隅半島の名もしれぬ温泉にも、ときどき身をかくした。事実健康の調子もよくなかった。気負い立った若者たちには通ぜぬ悲憤と憂愁が胸にたまって、病症を昂進させるのか、彼らの憤慨悲憤を聞くと、あとで必ず変調が起こる。
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■大久保は鉄腕政治家となった

<本文から>
  大久保は私憤や私怨のみによって動く人物ではなかった。時に、私心と私情をまじえながらも近代国家建設という大目的に邁進し、そのためにはビスマルク、ティエール流の酷罰主義と密偵政策をも敢て辞さなかった鉄腕の専制政治家であった。
 大久保をして確信的な権力主義者たらしめたのは、佐賀反乱の容易すぎた鎮圧、江藤と島一党の他愛ないぼどの壊滅で凍ったともいえる。佐賀事件によって、大久保は権力の効用と権力操作の快楽を知った。時世はこの型の鉄腕政治家の出現を要求していたかもしれぬ。大久保がそれにならなかったら、他の誰かがなったであろう。しかし、権力操作の残酷な快楽を知るのは、危険なことである。為政者としての成長はここで停止し、暴君と独裁者の慈意と倣岸を身につけてしまう。志士、愛国者が非情酷薄の挑発者と殺人者に変身するり大久保の権力主義は、ついに多年の親友にして同志、兄弟以上といわれた西郷書之助を死地に追いこんだ。しかも、動はただちに反動を生み、西郷の死後一年ならずして、大久保自身もまた暗殺者の手に倒れる。
 だが、今はまだ明治七年だ。最後の大破捉までには、まだ三年の歳月がある。
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