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          林房雄-西郷隆盛9

■西郷と山岡鉄州との談判

<本文から>
  西郷は目を見はる。
 山岡はたたみかけて、
「君臣の情誼は厳として存在します。これを破れば、乱階のもととなる。先生におわかりにならぬはずはない。臣子の情として不肖鉄太郎、第一箇条だけはお受けできませぬ!」
 長い沈黙がつづいた。ゆっくりと返事が来た。
「御心底、よくわかり申した。あんたの言われるとおりだ。御主人慶喜公のことは、吉之助、きっと引き専(けました。安心なさるがよい」
 山岡の肩の線がゆるんだ。見ていた益滞も山岡にあわせて、ほっと大きな溜息をついた。
 山岡は両手をついて、
「西郷先生、ありがとうございます。最早、何事も申し上げることはございません」
 鬼鉄のやつ、泣いているぞ−と益満は思い、自分も涙ぐんだ。肩をだいて、大声を出したいところである。
 西郷の笑い声が聞えた。
 「話はすみましたな。ところで、山岡先生、あんたは鑑札を持たずに官軍の陣地をふみ破って来られた。川崎の篠原から通知があったとかで、桐野や村田が赤鬼のようになっている。軍律に照して縛らねばなりませんな」
 「はい、早く縛っていただきましょう。もう何も思いのこすことはありません」
 「はっはっは、あんたは強そうだから、まず酒でつぶして縛ることにしよう」
 「結構ですな」
 「酔わぬ前に、一つだけ。この五箇条は実行されなければ空文だ。私は明日にも先鋒軍の本隊をひきいて、江戸に向って進発する。玉石共にくだくつもりはないが、もし暴挙に及ぶ者があれば、官軍をもって鎮圧するという最後の一箇条は、特にお忘れなきよう、海舟先生にお伝え願いたい」
 「かしこまりました」
 「益満、酒の用意を頼む。おまえとも久しぶりだな」
 山岡はよく飲んだが、酒宴は長くつづかなかった。
 「やっぱり、ここで酔いつぶれるわけにはまいりません」
 山岡は盃を伏せて、「一刻も早く、この吉報を江戸に持って帰りたいと思います」
▲UP

■恭順する慶喜への攻撃に反対のイギリス公使たち

<本文から>
 「はあ、慶喜の恭順はすなわち降伏であるから、無抵抗のものを攻撃するのは人道にそむき、万国公法にも反するとか……」
 「なるほどな」
 「サトーはいろいろ取りなしてくれましたが、パークスは頭から湯気を立ててどなり散らすばかりで、話になりません。……見込みなしと思ったので、木梨参謀と相談の上、私が取り敢えず報告にまいったのであります」
「そうか。おれが悪かった」
 渡辺はおどろいて、
「はあ?」
「道理はパークスの方にあるようだ。おれがまちがっていた」
「しかし、先生、なにも外国人の言葉にしたがうことは……」
「いや、ことわられて、かえって幸いであった」
 吉之助は平静をとりもどしていた。自分に言いきかせるように、
「とんだまちがいをおかすところだったな。これでは小栗、榎本の徒を笑うことはできぬ。全く恥かしいことだ」
「先生……?」
「渡辺さん、外国人には従わぬが、道理には従わなければならぬ。それだけのことだ」
「総攻撃を中止すると申されるのですか?」
「しそうは言わぬ。実は先刻、勝海舟がこの屋敷に来た。明日、正式の返答を持って、もう一度、来ることになっている。和戦ほその返答次第で決する。……それまでは、渡辺さん、パークス公使のこの話は、あんたの胸にたたんでおいてもらおう。敵に知られても味方に知られても、差障りがある」
「わかりました。しかし、先生、これはもしかすると、勝海舟が先にパークス公使に手をまわして企んだことでは……」
  吉之助は首をふった。
 「ちがう!手をまわそうとしたのは、むしろ私の方だ。ことわられてよかった。これで私も道をふみはずさずにすんだ。何が幸いになるかわからんな」
 いかにもほっとしたと言いたげな明るい顔であった。
▲UP

■隠居を願っていた西郷

<本文から>
  藩の参政という要職に就いて、やがて一カ月がすぎた。
 徳川三百年の幕府は倒れたが、天皇の御名による日本の統一はまだ名ばかり、形ばかりである。雄藩という名の強国が地方に割拠して、その代表者たちが朝廷という新政府の中で権力を争っている。まかりちがえば、雄藩の中から第二第三の幕府が生れかねない微妙で危険な情勢であった。
 雄藩中の雄藩は薩摩と長州である。もし新しい幕府がつくられるとすれば、薩摩幕府か長州幕府だ。新政権は幼帝を擁する薩長幕府にすぎないという非難の声は、すでに東征の初めから聞えていた。特に、薩摩が憎まれている。長州の勤王倒幕は終始一貫していたが、薩摩は初めは会津、桑名と結んで長州を討ち、中途から豹変して長州と結び、幕府と会津を討った、この背信と詐謀は許されないという非難には、たしかに理由がある。
 西郷吉之助は二十年間、勤王討幕の激流と渦巻の底に生きて来て、この運動の意味と理想を知っているつもりだ。幕府を倒すことは一君万民、天皇親政の聖代にかえすことであった。すべては朝廷に奉還され、万民は陛下の赤子となって君臣水魚の交わりを楽しむ。統一された日本の国力は、いかなる外国の脅威と侵略をもはねかえす強固なものとなる。
 この理想は実現されたか? まだである。新政権は弱体で、しかも薩摩は勤王の真意を疑われている。始ったのは推新で.はなく混乱そのものだ。薩長土肥は早くも分裂して権力を争い、政権の座からはみ出した不平の徒は、士民の不満と不安に乗じて、暗殺、一揆、政府転覆への道を歩きはじめている。
 大久保利通は、
「新政府の支柱は薩摩と長州だ。おれはどんな我慢をしても長州と手をつないでいく。君は薩摩の柱になってくれ。薩摩が強くなれば日本が強くなる。久光公は難物だが、愚物ではない。
 御して御し得ない荒れ馬でもない。君が隠居したい気持はわかるが、あと三年我慢してくれ。石の上にも三年。君が三年がんばってくれれば、必ず何とかなる」
 と言いのこして、東上して行った。
 それから一カ月。吉之助は参政の座という石の上に神妙にすわりとおしたが、奇妙なすわり心地であった。
 毎朝定刻に登城して政務をとる。ありとあらゆる雑務と難問が待っている。政治上の難問とは要するに俗務の最も複雑なもののことであり、およそ精神や理想とは無縁の俗事だ。しかもその決裁は参政の独断と専行にまかせられる。権勢をもてあそぶことの好きな者にはおもしろくてたまらぬ仕事かもしれぬが、吉之助にとっては、こんな味気ない仕事はない。心に吹きこむすき間風を感じて、どうしようもない孤独感を誘われるだけである。
 吉之助はしきりに南の島の流人であったころを思い出すようになった。追思す孤島幽囚の楽しみ=@− あのころの方が楽しかったのではないか。
 ある日、暇をみて、奄美黄島の得藤長に手紙を書いた。藤長は吉之助が流人として三年間暮らした島の与人(村長)で、島に残したままの島妻の愛加都と二人の子供の世話をしてくれている。
 『一筆啓遠いたし候。いよいよお障りなく御勤務のはず、珍事と存じ奉り候』
 あれから十年。息子の菊次郎も娘の菊子もどんなに大きくなったことか。愛加都のためにも近況を知らせてやりたかった。
 『拙者にも、昨年の春より江戸表に出征いたし、その後、越後方面にも転戦せしところ、全軍の兵隊よく奮戦して、官軍の大勝利となり、おかげで命を拾い、昨冬霜月初旬に帰着いたし候。御安心下されたく候。
 もう此の節は、藩公に御暇を願い上げ、隠居するつもりにて、一時はお許しを得ていたところ、またまた是非とも相勤めよとの御沙汰を受け、よんどころなく、去月二十五日、参政を仰せつけられ、ここ一両年は相勤めずば相済みまじく候』
 隠居の願いは本気であり、参政就任は望んだことではなかった。
 『この春あたりは、大島におもむき、そこもとをお訪ねいたすつもりのところ、案外のめぐりあわせとなり、いかんとも致し方これなく候。遺子どもには始終御丁寧に成し下され候由、厚く御礼申し上げ候。まことに多忙中にて、細事をつくすこと能わず、あわただしき手紙にて御座候』
 いかにもほっとしたと言いたげな明るい顔であった。
▲UP

■大久保は久光を見限った

<本文から>
  ″余はその方らのやり方の一切が気に入らぬ。余の詩作にいつわりはない
 新政府が門閥を廃し、身分階級を無視し、人材登用と称して、官吏の公選制度などを試み、 断髪廃刀洋装を奨励するのは、紅毛夷秋の風に習って、皇国の美風良俗を乱すものだ、と久光は言った。藩主を改めて藩知事としたが、これで諸藩が治まると思っているのか。封建を廃して郡県にかえすと言えば聞えはいいが、要するに下士専制の世をもたらすことでこれこそ下剋上の最悪なるものだ。現に長州では奇兵隊が藩庁を包囲して、藩主を脅迫した。藩知事と名を変えただけでも、藩主に対する尊敬と忠誠は地を払ってしまった。諸藩の不平児、天下の浮浪は長州の先例に習うであろう。いや、すでに習っている。大村益次郎は斬られ、木戸も広沢も狙われていると聞いた。大久保、その方も東京に帰れば、命が危いのではないか。
 新政府と言い、朝廷と自称するが、これも一部の貧乏公卿と諸藩脱藩の成り上り者が幼沖 の天子を擁し、紅毛の更次に媚を売り款を通じつつ、無理やりに作りあげた偽政府にすぎない。
 明日にもつぶれよう。いや、すでにつぶれたもの同然だ。その方は余に上京をすすめるが、それは沈みかけた泥舟に乗れというのに等しい。余はカチカチ山の狸ではないから、その手には乗らぬぞ。
 吉之助は目を見張って、
「久光公は、そこまで言われたのか」
「いや、もっと言った」
 大久保はつづけて、
「御者公は、余は絶対に東京には行かぬ、連れて行きたければ、兵隊共の黒幕西郷吉之助を連れて行って、参議にでも大臣にでもするがよい、「あれも正三位だ、もう一位ぐらいあげてやれば、右大臣になれよう。余は今の大臣、参議、大輔などと自称する成り上り共が全部、泥舟といっしょに沈んでしまったら、神経痛も風邪もなおるだろうと楽しみにしている、と言って大笑いにお笑いになった」
「なるほど、それが本音だ」
「薩摩の不平党は兵隊たちではなく、御老公御自身だった。これで、おれも腹をきめなければならぬ。今日の今日まで、何とかして久光公の心をつなぎとめ、新政府に協力してもらいたいと顕ったが、もういかん。今日から、おれは久光公の敵として行動する」
 吉之助は答えない。大久保はひとりごとのように、
「おれは東京に帰る。新政府が泥舟でないことを、あの頑物に示してやる」
「なるほどな」
「この一カ月あまり、おれは憎むべからざるものを悼んで、大切な時間を空費してしまった」
「そう思うか」
「君は蛤御門の戦闘の前に、おれに手紙をくれた。このたびの戦争は全く長州と会津の私闘にすぎぬ、薩摩はどっちにも味方するな、禁関御守護、一筋に相守り候ほか、余念なきことに御座候と書いてくれた。……現在もまた、新政府の施政をめぐって、諸藩の私闘が渦巻いている。おれはこの渦の外に立って禁開御守護一筋に死力をつくす。この道に倒れても、悔いはない」
「諸藩私闘の外に立てば、薩藩をも敵として戦う時がくるかもしれぬぞ」
「なにっ?」
「わが薩藩をも敵として戦う覚悟ができたのか」
 大久保は青ざめた顔をあげて、吉之助の計をしばらく見つめていたが、かすかにうなずいて、
「その覚悟だ」
「よかろう」
「西郷、君は早くから久光公の正体を見抜いていた。そのために島流しにもされた。……だが、おれはおそかった。いつまでも久光公に頼ろうとした。恥かしいと思う。君にあやまらねばならぬ。久光公は君を憎んでいるだけではなかった。新政府を、したがっておれを、君以上に憎んでいる」
「小久光は長州にも土佐にも佐賀にもー いや、公卿の中にもいるぞ」
「それもよくわかった」
「では、行って来い。おれは薩摩に残る」
「そのことを頼みたかったのだ。おれは君を東京に連れて行くつもりだった。だが、君が鹿児島にいなくなったら、何が起るかわからぬ。おそらく兵隊は反乱し、久光派が殺されるか、兵隊が長州奇兵隊の如く処刑されてしまうか、恐るべき事態になろう。おれはここに来る前に、桂久武を訪ねた。桂も君だけは鹿児島に残ってもらいたいと言った」
 吉之助は微笑して、
「だから、おれは残ると言った」
「しかし、いざとなったら、東京に出てくれるだろうな」
「そう、いざとなったらな」
「今日の久光公の言葉は、桂久武と君のほかはだれにも知らせない。当分、おたがいの胸底に秘めておくべきことだ。……それから、桂は大参事の職を君に代ってもらいたいと言った。病気もはかばかしくないし、力もつぎはてた、正体をあらわした大頑物と四つに組む自信は全くない、頑物の頭をたたく役はぜひ君にゆずりたい、君が大参事を引き受けてくれなければ、自分はこのまま死んでしまいそうだ、と嘆いていた」
「桂さんに死なれてはたまらん。しかし、おれはやっとのことで参政を辞職したところだ。また大参事などになったのでは、釣りも狩りもできん」
「好きな湯治もな」
 と大久保は笑って、「おれの身にもなってくれ。これから東京に帰れば、毎日毎日が死ぬ思いだ」
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