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<本文から>
西郷は目を見はる。
山岡はたたみかけて、
「君臣の情誼は厳として存在します。これを破れば、乱階のもととなる。先生におわかりにならぬはずはない。臣子の情として不肖鉄太郎、第一箇条だけはお受けできませぬ!」
長い沈黙がつづいた。ゆっくりと返事が来た。
「御心底、よくわかり申した。あんたの言われるとおりだ。御主人慶喜公のことは、吉之助、きっと引き専(けました。安心なさるがよい」
山岡の肩の線がゆるんだ。見ていた益滞も山岡にあわせて、ほっと大きな溜息をついた。
山岡は両手をついて、
「西郷先生、ありがとうございます。最早、何事も申し上げることはございません」
鬼鉄のやつ、泣いているぞ−と益満は思い、自分も涙ぐんだ。肩をだいて、大声を出したいところである。
西郷の笑い声が聞えた。
「話はすみましたな。ところで、山岡先生、あんたは鑑札を持たずに官軍の陣地をふみ破って来られた。川崎の篠原から通知があったとかで、桐野や村田が赤鬼のようになっている。軍律に照して縛らねばなりませんな」
「はい、早く縛っていただきましょう。もう何も思いのこすことはありません」
「はっはっは、あんたは強そうだから、まず酒でつぶして縛ることにしよう」
「結構ですな」
「酔わぬ前に、一つだけ。この五箇条は実行されなければ空文だ。私は明日にも先鋒軍の本隊をひきいて、江戸に向って進発する。玉石共にくだくつもりはないが、もし暴挙に及ぶ者があれば、官軍をもって鎮圧するという最後の一箇条は、特にお忘れなきよう、海舟先生にお伝え願いたい」
「かしこまりました」
「益満、酒の用意を頼む。おまえとも久しぶりだな」
山岡はよく飲んだが、酒宴は長くつづかなかった。
「やっぱり、ここで酔いつぶれるわけにはまいりません」
山岡は盃を伏せて、「一刻も早く、この吉報を江戸に持って帰りたいと思います」 |
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