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          林房雄-西郷隆盛8

■坂本・後藤の大政奉還に同意しない西郷と大久保

<本文から>
  後藤象二郎がとりなし顔に、
「しかし、建白書はすでに摂政と老中の手もとに提出してある。確答があるまで、挙兵は待っていただけまいか」
 吉之助は何も言わぬ。大久保が代って答えた。
「その御相談にも応じかねる」
「どうして、また?」
「なまじいに建白などなされるので、事がもつれて、大事のさまたげになる。……これが西郷の意見だ」
「西郷さん、そのとおりか」
「そのとおり」
 話の継ぎ穂がなくなってしまった。
 大久保は腰を浮かして、
「失礼する。二つだけ申し上げておく。われわれも貴藩のことには目をつぶる。貴藩もわが藩のことには手を出してもらいたくない」
「と申すと?」
「わが藩の小松帯刀、高崎猪太郎、宮中の中山、中御門諸卿の腰をゆさぶることはおことわりする。ゆさぶられると、ぐらつく者も出る。……討幕挙兵の前に、薩摩が土佐と一戦をまじえるようなことになっては、おたがいの不幸。では、これで」
 大久保は西郷に目くばせして立ち上がり、玄関を出た。
 玄関には、村田新八、桐野利秋、西郷信吾らはじめ、十人近い薩摩の若侍が待っていて、殺気に似たものをただよわせていた。
 後藤と坂本は大久保と西郷の後姿を無言で見送っただけで、もとの座敷にひきかえした。
 龍馬は床柱を背負って、あぐらをかき、
「はっはっは、むだ骨を斬ったな。薩摩の芋侍ども、はりきってござる」
「龍馬、笑ってすむことか」
「この上は、おぬしの手腕と力量次第だ。鎌倉以来七百年、武門に帰した大権を返上させる大事業がすらすらと運ぶはずはない」
「他人事のように言うな」
「おい、象二郎、これからは慶喜を相手の真剣勝負だ。二条城に乗りこんだら、生きて帰れると思うな」
「また、そのような……おぬし、大げさすぎるぞ」
「万一、慶喜が建白を受け入れなかったら、腹を切れ。……この大機会を逸したら、その罪、天下に容るべからず。おぬしが二条城中に死んだと聞いたら、おれは海援隊の同志をひきい、慶喜参内の途中を擁して必ず刺す。薩長二藩との盟約にそむき、しかも奉還のことに失敗したら、坂本龍馬、生きていることはできぬ。象二郎、地獄でお目にかかろう」
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■幕府の反撃と後藤象二郎の暗躍が効果をあらわす

<本文から>
  「西郷さんと大久保さんが国に帰ったので、京都は大へん静かになったと喜んでいる人、あるそうですね」
「ばかなことを!……いまにまた騒がしくなりますよ」
「西郷さんは、いつ来ますか?」
「さあ、それは……私にはわかりません」
 木場伝内は仏像めいた無表情にかえった。サトーは彼が西郷の弟子の一人であることを知っていた。しかも、留守居役という情報係をつとめている者が、上京の期日を知らぬはずはない。だが、サトーは追及しなかった。これで、西郷の上京が遠くないことだけはわかったわけだ。
「横浜で吉井幸輔さんの手紙、もらいました。大坂で会いたいと書いてありました。会えますね」
「吉井なら、京都に連絡すればすぐにもやって来ます。急用なら、飛脚を立てましょう」
「いや、私、連絡いたします。その方が確実のようです」
 サトーは硯箱を借りて手紙を書き、秘書の野口に持たせて京都に出発させ、自分はミッドフォードとともにラットラー号に引きあげた。宿舎の設営ができるまで、ここしばらくは軍艦暮しである。
 野口は翌日の午後の川舟で帰って来た。吉井幸輔の返書は、
「すぐにもお会いしたいのであるが、京都の所用が重なって、しばらく下坂できぬ。西郷は近日中、上京の見込み。それまで大阪でお待ち願いたい」
 野口の話によると、京都の薩摩藩邸の警戒はきびしく、今にも焼き討ちでもおこりそうな物々しさであった、吉井の目の色も変っていた、もちろん、相手は会津と桑名の軍勢であるから、野口は自分が会津藩士であることをかくすのに苦労したという。
「何か起りそうです。とても、このままではおさまりそうにありません」
「それも西郷が上京して来てからのことだろう」
 サトーは言った。「待つよりほかはないようだ」
 しかし、吉井幸輔が下坂できなかったのには、サトーの知らない理由があった。
 西郷と大久保のいなくなった後の京都の政情は、台風季節の豊後水道よりもひどい荒れ模様になった。幕府の反撃と後藤象二郎の暗躍が効果をあらわしたのだ。この二つの潮流は、必ずしも方向が一致しているわけではない。後藤、坂本の大政奉還論は幕閣の保守派と会津、桑名にとっては不満この上もない提案であったが、しかし、武力討幕論にくらべれば、まだ我慢できる。幕府の温存という点で両派は一致する。二つの潮流は一つの激流となって薩摩屋敷に向って押しよせてきた。
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■大久保は西郷らしさと無いものを考えた

<本文から>
 相国寺の時鐘が、また鳴りはじめた。
 大久保は帯のあいだから、イギリス製の懐中時計をとり出して、
 「九時半か。……道理で、ひどく冷えこんできた。すこし酒がほしい。国の芋焼酎がいいな」
 「おれもそう思っていたところだ。取ってくるから、待っていろ」
 「おいおい、おまえが立つことはないぞ」
 「いや、女中も吉次郎もかぜ気味で寝ている。若いやつらを起すと、またうるさい」
 吉之助は気軽に台所の方に立って行った。
 大久保は火鉢の炭をつぎたしながら、机の上の詩稿にふと目をとめ、手にとって、しばらく黙読して、かすかに笑った。苦笑に近い微笑であった。
(身は丹楓となりて帝辺に散ぜん……か。いかにも西郷らしい詩だ。直情径行、裏も表もない。四十歳をすぎて、まだ壮士の熱情を持ちつづけている。単純とい言えば、単純。だが、そこに西郷という男の恐しさがあるのかもしれぬ。勤王の志に目覚めて二十年。この直情の男は幾度か死を決した。ただの覚悟だけではない。死を実行している。僧月照とともに入水した以前にも、その後にも、常に死とともに歩いている。今度も、禁関守護の一戦に紅葉となって散るつもりだ。危機にのぞんで動ぜぬ魂、敵を恐怖させる迫力、おのずから同志の信頼を集めるふしぎな人徳は、ここから生れる。西郷ぎらいの久光が、ついにこの男を殺せなかった理由がわかるような気がする。生きながら死んでいる男、生死を超越した男を殺すことはできない)
 大久保利通は、かすかに身ぶるい⊥た。
 (頼もしいが、恐しい男だ。おれはいつか、この男の死の道連れにされるのではないか。 いや、そんなことはない。西郷は信頼すべき同志、畏敬すべき先輩だ。ただし、おれは単純ではない。西郷の持たぬものを持っている。西郷は死んでも、おれは生きなければならぬ。生きて、おのれに与えられた天職を果すのだ。
 西郷には政治はまかせられない。公卿と諸侯を相手の微妙なかけひきには不適当な男だ。今、この男を御所と二条城をめぐる政争の渦の中に投げこんだら、たちまち癇癪玉を破裂させて、何もかもぶちこわしてしまう。妥協も策略も知らない男だ。人情にももろい。敵の気持をくみすぎる。大義名分にこだわりすぎて、政治の裏道を歩けない。慶喜の立場にも同情し、後藤象二郎の舌先三寸にちょろまかされる。この男には、やっぱりおれが必要なのだ。おれがついていないと、この男は死んでしまう。殺してはならぬ。おれにとっても必要な男だ)
 吉助がひきかえして来た。芋焼酎の徳利と漬け物の鉢を両手にかかえていた。
 「やあ、肴は何もないぞ。……久しぶりだな、おまえとさし向いで飲むのは」
 そうだ。二人きりで飲むのは、全く久しぶりだ、と大久保は思った。・・−二十年……二十年か。
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■紛糾に際し、西郷は岩倉に、短刀一本あれば事足りる、と

<本文から>
「村田新八に手紙を持たせてやったはずだが…」
「何の手紙ですか?」
「朝命によって長州軍が入京を許されたことを書いておいた。伏見も山崎もそれで無事通関できるものと思っていたが、役に立たぬか?」
「村田にはまだ会いません。行きちがったのかな。その手紙があれば大丈夫でしょうが、しかし、長州軍には大砲隊もいることだし、すぐに出発しても、今夜に入京というわけにはいかないでしょう」
「事が起るとすれば、今夜だ」
「いそがねばなりませんね。迎えに行って来ましょう」
「たのむ!」
 品川弥二郎は乾御門の外に姿を消した。馬のいななきと遠ざかる馬蹄の音が聞えた。
 御所につづく闇の中から、弓張掟灯が二つ、もつれあう人魂のようにとび出して来た。軍
装した西郷信吾と大山巌で凍った。
 信吾が言った。
 「兄さん、迎えに来た。岩下さんが至急話があるそうだ」
 巌がつづけた。
「御前会議は休憩に入りましたが、形勢はおもしろくないようです。山内容堂と後藤象二郎ががんばって…‥」
「やっぱり後藤か!」
「大久保さんの話では、容堂は大酔して参内し、一部の公卿が幼沖の天子を擁して政権を盗もうとしていると放言したそうです」
「何ということだ!」
 吉之助の巨眠が火の色に燃えた。「よし、行く。案内しろ!」
 吉之助は公家門から入って、御所の魔の雪をふみ、非蔵人口まで行った。
 岩下方平は待ちかねて、じりじりしていた。
 「どうもいかん。このままで評決ということになったら、慶喜は参内、会津、桑名は御赦免ということになってしまう」
 青ざめた唇で会議の模様を報告して、「大久保も策がつきた形だ。どうしたらいいのか。岩倉卿はあんたの意見を聞きたいと言っている」
 吉之助は会議の経過について、二つ三つ質問した。しばらく考えていたが、
 「岩倉卿に申し上げてくれ。正論を守ってよくがんばってくださった、薩摩軍は健在だ、土佐軍はまだ配置についていない、夜明けまでには長州軍も入京するであろうと……」
 「そ、それだけか?」
 「ここまで来たら、もはや策も略もない、この機を逸したら、皇運挽回の望みは去る、弁論の時はすぎた。事を決するには短刀一本あれば足る。−そうお伝えしろ!」
 ゆっくりと背中を向け、庭の雪の中にゆるぎ出て行った。その後姿が、岩下方平には、いつもの二倍ほどの大きさに感じられた。雪に反射する葦火のせいだけではなかった。
 岩下は公卿の控えの間にひきかえして、岩倉具視をさがし、西郷の言葉を伝えた。岩倉は中御門経之とともに、賜餐の折詰めの鮮を肴に盃をなめていたが、その盃をおいて、
「よくわかった」
 とうなずき、帯のあたりをなぜてみせ、「その覚悟は、家を出る時からつけていた。大久保はどこにいる?」
「あちらの部屋で、後藤象二郎と激論中でございます」
「山内容堂は?」
「これも別間で、越前春嶽侯と……」
「飲んでいるか」
「例の朱塗りの瓢箪を何度もからにした模様でございます」
「傍若無人、朝威を恐れぬ田舎大名。思い知らせてくれるぞ!」
 立ち上がろうとする岩倉を中御門経之がおさえて、
「まだ早い。その前に」だれかをあいだに立てて……そうだ、芸州の浅野長勲がいる」
「あんな若僧は役に立たぬ」
「いや、若いが、案外に骨がある。勤王の志もかたい。頼もしい若者だと私は見ている。別室によばせるから、そなたから話して…」
「まわりくどい。容堂に会う!」
「先に手を出したら、そなたの負けだ。短気をおこす齢でもなかろう。まず、浅野を呼ぼう。
……岩下、そなたは大久保のそばに行き、後藤象二郎を監視してもらいたい」
「かしこまりました」
 藩の重臣たちの控え室にかえってみると、大久保と後藤の議論はまだつづいていた。後藤は慶喜参内を主張し、大久保はその必要なしとはねつける。後藤には大久保の主張が武力派の陰謀に見え、大久保には後藤の議論が幕府擁護の俗論に聞える。原則の対立であるが、今はただの意地のはり合いとしか思えぬほどに話がこじれていた。
 岩下方平はただ腕組みをして、二人の必死の論争を聞いているよりほかはなかった。
 芸州藩の家老辻将曹が控え室に入って来た。顔色が変っている。何かあったな、と岩下方平も緊張した。
 辻は大久保と後藤の熱っぽい議論にしばらく耳をかたむけていたが、話の切れ目に、後藤に向って、
 「ちょっと別室まで。…ご相談がある」
声がかすれていた。
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■王政復古の大号令となり仇敵が握手する

<本文から>
  入洛参内は五年ぶりであった。追放と流寓のあいだに、この青年公卿も三十一歳の壮齢に成長していた。
 潔癖な三条実美はかねて岩倉具視の老檜をにくみ、好物として敵視していたので、二人の仲を懸念する者もあったが、四十三歳の岩倉は、帰京の翌日、進んで三条邸を訪ねて、実美の無事入京を祝った。同じ席に、正親町実愛、東久世通蒔、西郷吉之助のほかに、長州から随行して来た広沢真臣と井上聞多もいて、この和解を喜んだ。
 時局の切迫は、すべてのこだわりを洗い流して、二人の仇敵を握手させたのだ。人物の不足になやんでいた朝廷は、三条以下五卿の帰還によって大きく補強されたわけである。
 三条邸の年賀を終って藩邸にかえって来た吉之助は、待ちかまえていた諸隊の若い隊長から屠蘇の盃の包囲攻撃をうけた。相国寺に滞陣中の長州軍の幹部たちもやって来た。みんな元気がよかった。吉之助としては、酔ってはならぬ新年であったが、さされた盃はうけねばならなかった。
 若い隊長たちの話題の中心は、大坂城の徳川慶喜がいつ出撃上京して来るかであった。慶喜には、それほどの決断も勇気もなかろうと言う暑が多かった。
 「しかし、土佐の動きが怪しい。土佐はひそかに大坂城と連絡して、薩摩と長州を孤立させようと企てている」
 と、憤慨する者もあった。慶喜上京が実現したら、まっ先に裏切るのは土佐であろう。
 長州の井上聞多が傷だらけの顔を真っ赤にして
「それも結構。・もし山内容堂が裏切ったら、徳川八百万石に加えて土佐二十三万石をちょうだいするだけだ」
 と、どなったので大笑いになった。新年らしい大言壮語だ。
 吉之助も笑ったが、何も言わなかった。慶喜が提出した『拳正退紆』の上表は、岩倉具視がにぎりつぶしているので、慶喜の真意は吉之助にもわからない。しかし、昨三十日の午後、幕兵の一部が伏見に到着して、怪しい動きを見せはじめたという情報は、大山厳から受けとっていた。
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