|
<本文から>
もちろん、吉之助は子供ではない。わっと泣き出したい気持になったというのは誇張であるが、「天を恨まず、人をとがめぬ」心境の中に自分を埋没して、世を忘れ、世に忘れられて暮したいと願う心が素焼の壷のように壊れはててしまったことは事実であった。
答えようか、答えまいかと迷う気持も長続きせず、わが冤罪を人に訴えたい心が先に立って、弁明の返事をしたためた。
『当月十一日付の御懇札、同二十三日朝、相とどき、ありがたく拝読仕候。実になつかしく、繰り返し巻き返し候。私かく相成り候なりゆきは、決して申し上げざる考えに御座候えども、如何様ような御疑惑も計りがたく、御安心もなりかね候ことと、よんどころなく、委細申し上げ候間、御一読後は丙丁童子に御与え下さるべく候』
読んだら焼き捨ててくれという意味であった。
『大島に居たころ考えていたこととは雲泥の相違で、鹿児島の城下は群小勢力が割拠し、闘争し、まったく手のつけようもない有様であった。しばらく静かに観察していたところ、藩の現状はまさに少年国柄を弄すといった姿で、事々物々すべてむやみな事ばかり、藩政府はもちろん、諸官一同、疑迷困惑して、為すところを知らず、志は善意であっても、実際の処置にはうとく、本人は君子のつもりであっても、行うことははなはだ下劣下購で、俗人にさえ笑われることばかりだ。
いわゆる誠忠派と自称している連中は、今まで低い地位に屈していた者が、急に伸びたので、ぼっと上気してしまい、一口に言えば、世の中に酔って逆上してしまった有様。口に勤王とさえ唱えれば、それだけで忠良な者だと自惚れてしまい、しからば現在どこから着手すれば勤王になるのかと、その道筋を問いつめると、まったく訳もわからず、藩内の状勢の大体さえも判断がつかず、日本全体の大勢もまったく知らず、幕府の形勢も存ぜず、諸藩の事情もさらに弁えず、しかも天下の事に尽そうというのは、実に無知のこわいもの知らずで、手のつけようもない次第である』
という書き出しで、大島を出発してから、ふたたび遠島に処せられるまでの事情を細大洩らさず、半紙二十数枚にわたって書きしたため、森山新蔵の自殺と田中河内介父子殺害の事にも言及して、
『私心をもって天朝の人を殺害したことは、実に遺憾のことである。こんなことをしては、もう二度と天下に向って勤王の二字を唱えることはできない。薩摩の勤王もこれかぎりの芝居であって、もう見物人もなかろう』
大原三位が勅使となり、島津久光がこれを警衛して江戸に下向したというが、それではとても老檜な幕府とは太刀打ちできまい。いまは勅使下向の結果も判明していると思うが、こんな遠海にいてほ事情もわからず、残念この上もないが、あきらめるより仕方もない。
『自分も大島にいた頃は、今日か明日かと赦免を待っていたので、痛痛も起り、一日一日が苦であったが、今度は徳之島から二度とは出まいとあきらめているから、何の苦しみもなく、安心なものだ』
と書いたが、それでもまだ胸の鬱憤は晴れず、さらにつづけて、
『もしも国内が大乱に及ぶようなことになったら、その時は何としても帰国するつもりであるが、日本が平静であれば、たとえ御赦免の沙汰があっても、滞島を願い出るつもりでいる。骨肉同様の人々をさえ、事の真意も問わずして罪に落し、また朋友湾」とごとく殺されて、何を頼りにしていいものか。
自分には老祖母が一人あって、こればかりが気がかりであったが、大島より帰国した時までは存命で、こんな嬉しいことはなく、その後大坂より帰って来たときに死去したが、眉分の目で見送ったのも同様であるから、もう何も心がかりのことはなくなった。
つくづく世間のことを考えると、とても自分のような者の力で、どうにかなるという形勢ではない。もう馬鹿馬鹿しい忠義立ては取り止めた。孤島の民となって暮らすつもりだから、どうぞお見かぎり下さるべく候』
筆にまかせて書き捨てた。
いくらか胸のはれたような気もしたが、苦い後味が残った。事件の真相を、私心を混えず公明に書きしるしたつもりであるが、やはり弁解は弁解である。自分が正しかったことを証明するためには、人の非を挙げなければならぬ。いっそ、このまま焼き捨てようかと考えたが、名も知れぬ孤島の寒村で、いつどんな事故や粁気で死んでしまうかわからぬ身の上だと思うと、せめて、友人同志の一人や二人には事の真相を知っていてもらいたかった。
書き流したまま読みかえさず、そのまま封をして官登菩に托した。 |
|