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          林房雄-西郷隆盛5

■大久保には藩政の実権をにぎることで枝葉の問題は解決するとする

<本文から>
 「一座が沈黙したのを見ると、大久保はごろりと横になり、片手をのばして盆の上の干菓子をつまんではぼりぼりと噛んだ。子供っぽい議論は聞きたくないといいたげな不敵な態度であった。
 まったく大久保は激派と自称する連中の議論には聞きあきている。無責任な悲憤憤慨か、然らずんば紋切型の抽象論で、そんなものに従っていては、実際の問題は何一つ解決しない。酒の肴の怪気焔として聞き流すことにも今はあき果ててしまった。
 彼の頭の中には、もっと切実で、もっと重大な問題が燃えている。いかにして藩政の実権をにぎるか、しかも、それはすでに夢でもなく、机上の計画でもない。一歩一歩実現の可能性が見えはじめているのだ。藩政を掌中におさめさえすれば、いっさいの枝葉の問題は解決する。激派をもって自任する連中は根本を忘れて、枝葉の問題について昂奮しているのにすぎない。彼らの憤慨と抽象論によっては何事も解決されぬ。真の激派は彼らによって「自重派」だと攻撃されているこの自分なのだ。
 「大久保さん」
 村田新八が我慢しきれなくなって叫んだ。「あんたはわれわれをいつまで待たせるつもりか。
 殿様はいったいいつ御進発なされるのです。御返事はいついただけるのです」
 大久保はものうげに身体を起した。
 「御返事ならいつでもいただける。ただし、かならずしも即時御進発というお返事ではないから、俺も苦労しているのだ」
▲UP

■愛加都からみる西郷

<本文から>
  新居は年内にでき上り、正片の五日が引っ越し祝いの日になった。祝いとはいえ、吉之助の身になってみれば、自分を島に葬るための墓石が生前に彫り上ったようなものである。しかも、金文字入りの大墓石ではなく、名もない石工の彫った、間に合せの墓石である。めでたくもなければ、楽しくもない。しかし、そんなふうに大袈裟に考えることにも飽きた。正月のつづきのような軽い気持で、新居の新しい木の香をたのしみ、芋焼酎を飲みながら、吉之助は村人たちの祝いの言葉を受けた。
 愛加都はさすがによろこびの色を包みきれない様子であった。
 彼女は内地人と結婚した島娘の悲しい宿命をよく知っている。いつかは良人と別れなければならないのである。一生島で暮してしまう流人もまれにはあるが、これはよほどの大罪人で、心立ても決していい良人とはいえない。優しい、物わかりのいい、身分の高い良人ほど、早く内地に召還されてしまう。島の妻は内地に行くことができないのが昔からの仕来りである。島でも表向きは召使であって、妻ではない。良人が去ってしまえば、残された子供を抱いて一生日陰者である。特別に軽蔑されるということはないが、良人からの仕送りが絶えてしまった後の暮しはまったくみじめである。
 吉之助は、どんなことがあっても、自分が生きている間は決して仕送りは絶やさないから安心せよといってくれた。愛加郡は良人の言葉を信じている。決して口先だけの人ではない。だが、いつまで生きていてくれる良人であろうか。島中のどの相撲取りより鴻大きくて強い身体だけを見れば、この人がそんなに早く死のうとは考えられぬ。だが、二年間、一緒に暮している間におぼろげながらわかって来た良人の経歴にはいつも死の影がつきまとっている。というよりも、いつも裸身で死と対決しているような人である。内地に帰ったら、いつどんな不慮のことが起るかわからぬ。
 見かけよりも、ずっとやさしい良人であった。ときどき、理由のわからぬ激しい癇癪を起すが、その毒気を愛加都に吹きつけるようなことはしない。茶碗を壁に叩きつけたり、だしぬけに立ち上って刀を抜き、庭木を斬り倒したりしたことも一度ならずあったが、ただそれだけで後はからりと晴れ、それでもほぐしきれぬ心のしこりは釣りや狩りでほぐしてしまい、絶えず反省して心の乱れを整えることに努力しているのが愛加都にもよくわかった。けれども、力士よりも肥った厚い胸の底にひそんでいる激しい悩みや怒りの正体が何であるかということは愛加都にはわからない。良人は何滴話してくれないし、愛加郡も一度もたずねたことはない。
 ただ、ときどき来ては泊って行く酒好きの重野安繹先生や、生真面目な見聞役の木場伝内などと良人が話すのを聞くともなしに聞いていると、良人の住んでいる世界はかぎりなく大きく、しかも愛加都の知っている世間とはまるでべつの世界であることがわかる。だが、愛加郡はそれをさびしいとは思わなかった。女の分際というものを生れながらに知っていて、決してその分を越えようとしない。子供のような素直な驚きと尊敬をもって良人を眺め、自分の小さな存在が良人の世界の内にあるか外にあるか、そんな不平めいた疑問などは一度も起したことはない。
▲UP

■西郷の久光への意見書

<本文から>
  大久保は一読して、これはいけないと思った。西郷としては、よほど譲歩したつもりであろうが、受け取る久光の方としては、子供扱いにされた感じを持つにちがいない。
 第一策の参府中止のことは、もう間に合わぬ。しかもその理由として吉之助が述べていることは久光に対する公然たる非難である。本人はありのままを率直に書いたつもりであろうが、久光としては、藩内の混乱を参府中止の理由として幕府に届けることは、自分の無能力を白状するのも同然で、とても忍べることではない。
 第二策はもっといけない。久光に向って、おまえはとても浪士鎮撫の能力はないから、こっそりと船に乗って江戸に行ってしまえということになる。京都に立ち寄るなということは、中央経営の大望は柄にないから、お諦めなさいというのも同然である。
 大久保自身にとっても、この意見書は決して愉快なものではなかった。久光の計画とはいいながら、この出兵策の半ばは自分の立てたものである。この数年間、隠忍し、苦心し、闘争し、画策して描きあげた設計図である。その設計図に、三年間も島にいて事態を傍観していた男が、いきなりべたべたと墨をなすりつけた。しかもその男は自分が必死に奔走して、島の幽閉生活から、中央の本舞台にかえり咲かせてやろうとしている男ではないか。その男が帰るといきなり、親身な協力者ではなく、冷酷な批判者の立場に立って、せっかくの計画を凛向から否定しようとかかっているのだ。……といっても、大久保としては、一概に怒り切れぬものが胸底にあった。西郷吉之助という人間をよく知っているからである。自説を主張する場合に、向う見ずで強引な態度をとるが、決して思慮と熟考を忘れているわけではない。思慮もめぐらし、考慮もつくして、その上で自説を固執するのであるが、主張の仕方が結論だけを相手に投げつけ、説得ということせしないので、聞く者には、禅問答のように聞えたり、もっと悪い場合には、勢いにまかせて我をはっているような印象を与える。だが、西郷という男は決してそんな男でない。一西郷の無私はほとんど生得のもので、しかもその天来の素質が斉彬、東湖など天下第一級の人物の薫化をうけて、相当な磨きをかけられている。常に天下の大勢を観じ、大局に着眼して、私心をのぞいた立論を行う心構えだけはできている。ただ、勘と直感にたよりすぎた意見をはく傾きがないではないが、途中で自分の意見の誤りに気がつけば、いさぎよく撤回して、あとはさらりとしてこだわらぬだけの度量はある。
 しかし、根本態度は、いつも捨て身である。自己を絶している。捨て身で無茶をやるのなら、怖しくないが、鋭い直感と、それに相応する熟慮の結果を、捨て身で実行しようとするのだから怖しい。西郷を深く知らない者の目から見れば、己れに執して、我をはり、横車をおす頑固者に見えかねない。
▲UP

■西郷は大久保に「考えていない、企んでいる」と

<本文から>
  大久保市蔵は使いの者を出して、指宿の温泉宿を探させたが、西郷はもういなかった。たしかに昨日まではいたのだが、鹿児島から人が訪ねて来た後で、ここも人間臭くてうるさくてならぬと冗談をいい、どこかへ姿を消したのだという。
 城下に帰って来たなと見当をつけ、すぐに心当りの知人の家を探らせたが、どこにもいなかった。
「もしかすると、西別府…‥いや、それにちがいない」
 西別府は城下から二里あまり、田上川にそうた山奥の集落で、西郷家の抱地がある。抱地というのは家禄の不足を補う私有地で、すこしばかりの田地と、農具の置場を兼ねた別荘、といっても六畳二間の土間のついた掘立小屋が立っている。
 行って見ると、果していた。たった一人で、春の日をあび、せっせと芋の苗床を作っていた
 大久保の姿を見ると、吉之助は鍬をおき、黙って小屋の中に入って行った。大久保も無言のまま草鞋をぬぎ、縁側に上りこんで待っていた。吉之助は小屋の奥から欠け茶碗と土瓶を持ち出して来て、番茶をついで、大久保の前におき、自分は煙管に火をつけた。
「西郷、迎えに来た」
「…………」
「君がこんなに早くつむじを曲げようとは思わなかった。自分としては、全力をあげ、至誠をつくして事に当っているつもりなのだが、それが君にわかってもらえないのは残念だ」
「大久保、おまえは至誠をつくしているかもしれぬが、やっていることは小人の小策ばかりではないか。もっと考えてくれ」
「これ以上、考えることはない」
「おまえらのやっているのは、考えているのではなくて、企んでいるのだ」
「なにッ?」
「国学者の本で読んだが、考えるはかむがえる、神かえるという意味だ。人間の浅ましい思いを捨てて、神の心にかえるのが即ち考えることだという。…われわれはもっと、考える修業をしなければいかんのではないか。考えずにお互いに企んでばかりいるから、仲間喧嘩になる」
「…………」
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■久光上京に際し、浪士達の考えと異なっていた西郷の大局観

<本文から>
 薩摩屋敷の浪士は日に日に人数を増して、今は二十八番長屋に収容しきれないほどである。まず京都から追われた田中河内介親子、千葉郁太郎、藤本鉄石、清川八郎、安積五郎、伊牟田尚平、久留米の原道太ほか六名、豊後の小河一敏の一党約二十数名、筑前の平野国臣、秋月の海賀官門、ほかに名前は不明だが、肥後藩の有志数名。
 土佐藩の動きは目下のところ分明でないが、武市半平太が坂本竜馬、吉村寮太郎などを使って、長州の久坂玄瑞一派とかたく結び、義挙の準備をすすめている。その他、水戸、越前の浪士、民間の平田門人の動きも軽視できぬ、と村田新八は報告した。
 一見して、まことにさかんな景況であった。これに久光のひきいる千五首の精兵を加えれば、天下のこと将に成らんとすと豪語しても、かならずしも楽観に失するとはいえぬ。− と、そう考える、のが普通であろう。事実、罫い村田新八のみか、分別ざかりの森山新蔵まで、この景況を目の前に見て、すっかり昂奮していた。年来の宿望は旬日の後に達成される。いよいよ命の捨て甲斐のある日が近づいたのだ、と口に出していった。
 だが、吉之助の考えは、おのずから彼らと異っていた。四年前の吉之助であったら、一も二もなく村田や森山に同感したであろう。平野匝臣、真木和泉、有馬新七の意見に無条件に賛同し、行動を共にしたにちがいない。何故なら、彼らの意見は二、三の枝葉の点を除けば、四年前の吉之助の意見と全然同一であるからだ。−しかし、四年の歳月は吉之助にとって決して短い時間ではなかった。安政の大獄に倒れた同志と共に計画し、行動し、苦闘し、ついに敗北して、月照とともに薩摩湾に投じ、まったくの零と化し、無と化した生命が、南島の孤独な太陽に養われて、新しい発芽と繁茂をとげた。野火の跡に芽ぐんだ草は強観である。魂の孤独な成長は、精神の強化であり、内面化である。小我は滅んだのである。「私」を滅し去った視角はおのずから現象の表皮を貫徹し、事物の本質に直入する。厭でも大局を達観せざるを得ないのである。
 単なる「政治眼」をもってすれば、現在の情勢は四年前よりもたしかに成熟している。井伊一掃部頭の執政時代にくらべれば、幕府の力は弱っている。幕府は朝廷に対して融和政策に出はじめた。一種の媚態をさえ呈している。民間の志士の力も強化の途をたどりつつある。水戸、越前は瓦解したが、それよりも有力な長州と土佐が動きはじめた。薩摩は久光の手によって、斉彬の実行し得なかった武装上洛の途についている。機は熟したのだ。功業を慕う志士は、よろしく手に唾して起つべき時である。
 だが、一歩「政治」を超越して眺めれば、今はそんな安易な時ではない。斬り取り自由の戦国時代の夢、王侯山豆種あらんやと三国志風の覇者の夢を追う時代ではない。日本が滅びるか生きるかの瀬戸際だ。混乱の隙間を巧みに泳いで、術策を弄し、権勢に近づくことは易い。世の常識に従えば、「政治」とはそんなものであろうが、そんな「政治」では国も人も救えない。
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■大久保が差し違えようというが、西郷は大忍耐を、と告げる

<本文から>
  「…………」
「事ここに至っては、是も非もない。天命とはこのことであろう」
「…‥‥…」.
「西郷、君は藩吏の手に捕えられるくらいなら、腹を切るにちがいない。僕はそれを引きとめようとは思わぬ。だが君に死なれて、僕ひとり生き残ってもどうにもならぬ。僕にとっても、ただ死があるのみだ。死ぬなら、人の手を借りたくない。今この場で、君と刺しちがえて死にたい。僕の覚悟はもうできている。思い残し、いい残すこともない」
 大久保は両目をとじた。耳の底でただ汝の青ばかりが聞えた。腹の底ではまだ何物かが煮えかえっている。だが、頭は水のように澄みきっていた。
 砂の上で吉之助が身動きした。思わずはっとして、大久保は目を開いた。
「大久保、それは君の言葉とは思えぬ」
 しずかな声であった。声も表情も、一瞬前の吉之助とはまったく変っていた。夜目にはっきりとわからぬが、ついさっきは怒りに黒ずんだ恐しい顔であった。それが今は、まるで何事もなかったような、平静をすぎて不気味なほどの静かさをたたえ、口許には微笑の影さえ浮かんでいた。
「まったくどうしようもないことになってしまったものだ」
 吉之助はいった。「だが、どうしようもないといって、何も死ぬことはいらぬ。僕はべつに腹を切ろうとは思っていない。牢屋につながれようが、島流しになろうが、命のつづくかぎり生きているつもりだ。君も何もあわてて死ぬことはいらぬ」
 大久保は大きな手でなぐられたような気がした。ぶるっと身ぶるいが出た。まだ吉之助が帰国せぬ前、彼は有村俊斎に刺しちがえて死のうといったことがある。その時には、相手が子供のような男だから、半分はおどかす気があった。案の定、俊斎はへなへなと崩れて、脱藩突出を思いとどまった。だが、今日の場合はそんな芝居気は微塵もなかった。少くとも、ないつもりでいた。吉之助が応といえば、相手の刀をまともに自分の胸にうける決心をりっぱにつけていた。それが、いよいよの土壇場で、
「おい、つまらぬ芝居気を出すな」
と、軽くあしらわれたようなものである。相手に軽くあしらう気はないにちがいないが、軽く肩すかしをくったことは事実である。まいったと叫ばざるを得ない場合であった。大久保の目に、吉之助の姿が、日ごろの二倍にも三倍にも大きく映った。
 「いま二人が刺しちがえて死んでしまったら、天下の大事は去る。僕の口からあらためていうまでもないことだ」
 吉之助はつづけた。「ここまで苦労しておし進めて来た大策を誰が継承してくれるか。誰が皇国の前途を見とどけてくれるか。男子忍耐して事にあたるのはこの時だ。大自信と大忍耐を必要とする時だ。恥を忍び、辱を包む。これ男児……」
 大久保は目が見えなくなった。泣いてはいかぬ、泣くべき時ではない、と必死に自分をおさた。
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