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          林房雄-西郷隆盛3

■一橋擁立の断念

<本文から>
 それから一時間ほどの後、磯の御殿の奥座敷、西陽の照りかえしを北向きの窓に避けて、斉彬と吉之助は膝もまじえんばかりの近さに向い合っていた。
 斉彬の膝の上には、吉之助が持って帰った松平慶永の親書がのっている。
 「そうか!」
 左の肱を脇息に落し、頷く斉彬の額は暗い。篤姫よりの来状により、ほぼ形勢は察していたが、これほどだとは思わなかった。慶永公も水戸の老公も、さぞ御無念のことであろう」
 「私も・…‥無念でござりまする」
 「負けか。われわれの負けか」
 「申し上げる言葉もございませぬ」
 松平慶永の密書は、
(その一。慶喜擁立のことは、将軍御生母本寿院の死を決したる反対により、ついに瓦解し、紀州慶福に内定してしまった。ほとんど決定と申してもよい。今になって気がついたことであるが、老中松平伊賀守忠周と井伊掃部頭はかねて同腹、掘田正睦が上京する以前に大奥を通じて将軍を動かし、後嗣は紀州慶福のほかなしと申し合わせ、万全の準備整えていたのだ。そのようなことは夢にも知らず、彼らの口先に翻弄されて、最後に背負い投げを喰ったのは、何としても迂潤である。堀田正睦がただひとり頑張ってくれているので、まだ正式の発表は行われないが、大老井伊の決心は思いのほかに堅く、今は堀田の地位さえ危くなっているとのことであるから、問題は絶望と見なさざるを得ない。
 その二。慶喜問題により、越前、宇和島、土佐、薩摩は、水戸と通謀して徳川の社稜を危殆に瀕せしめた、と千代田城中大不評判。新大老の権勢におそれてか、昨日まで味方顔の老中、表方役人、さては諸侯に至るまで、われらが敵に御座候。
 その三。アメリカ条約問題については、井伊、伊賀両人、非常の決心の模様。両人の申し合せにて、譜代大名の一人を京都に登らせ、幕議は条約締結に一決せりととどけ捨て、勅読を無視し奉らんとする下心。このこと堀田より内々小子へ申しつかわせし次第に御座候)
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■斉彬と吉之助の三千の出兵策

<本文から>
 「少くとも、三千は必要だ。だが、この三千の精兵を京都へ出し得るものは…」
と、斉彬は言葉をきる。吉之助はその顔を見つめて、
 「おそれながち、それは殿様のほかにはございませぬ」
 「そのとおり。余をほかにしてはなかろう」
 事もなげに答えられて、吉之助は力抜けがした。京都出兵策は、江戸や京都の同志としばしば語り合ったことである。だが、それは一つの夢であり、たとえ実現できるとしても長い準備がいる。斉彬に献策しても、あわて者めと叱られるのが落ちであろうと吉之助は考えていたのだ。
 吉之助の内心の驚きを見とおしたのか、斉彬は微笑を浮かべて、
 「自信のなさそうな顔だな。何に遠慮している。……今一年待てば、余は一方の精兵と三十隻の艦隊を繰り出すことが出来る。着々とその準備を進めているのだ。……だが、この調子では、とても一年は待てぬ。彦根をかついで押し出して来た幕府の小人どもに、わが事なれりとほくそ笑ましておくわけにはゆかぬ。男の意地……いや、意地や張りだけの問題ではない。彼らにのさばらせておいては、内治も外交も滅茶滅茶だ。しかも、もし万一、彦根の一党が権力を弄んで、上御一人を強い奉るようなことがあったら、大義は滅びる」
 「…………」
 「それとも、出兵の時期はまだ早過ぎるという理由でもあるのか」
 「早過ぎるどころではございませぬ」
 吉之助は湧き上る嘗びをおさえて答えた。「水戸に出兵の実力なく、越前と土佐と幕府と関係が深すぎます。私の見るところでは今ただちに兵を繰り出すことの出来るものは薩摩」
 「ほう、長州が動くか?」
 「去る四月のはじめには、海岸警備兵の交替を名として、約三石の兵を伏見に止めておいた事実があります。藩政府の方針がそこまで進んでいるのか、それとも一部の有志の策動か、その点はまだ判断がつきませぬが、京都のまわりで、現在もっとも清澄に動いているのは、水戸でもなく、越前でもなく、長州ではないかと私は考えております。他の諸藩は、あるいは人を用い、あるいは金を用い、いろいろと策動はしておりますが、出兵という非常手段に訴える決心を待っているのは長州だけのように思えます。……薩摩の出兵ということは、私もしばしば考えました。心からそれを望んでおります。しかし、事はあまりに重大で、それを殿におすすめするだけの自信はございませんでした」
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■斉彬の急逝

<本文から>
  「西郷!」
 と、肩に手をかけたが、吉之助は放心した人のように動かなかった。「おい!」力をこめてゆすぶると、やっと首を動かしたが、目の前に正治の顔を認めると、
 「伊地知!」
 かすれた声でいい、ぼろぼろと涙を流した。
 見ると、右手に皺だらけの手紙をにぎりしめている。正治はぷるッと身ぶるいして、その手紙を奪うように取りあげた。読んで行くうちに、彼は木の葉のように蒼ざめ、ガタガタとふるえはじめた。
 『……七月九日、天保山にて大調練あり。終日炎天の下にて御指揮……帰路ほ船にて釣りなど致され、獲物沢山。…夕刻、磯のお茶屋に御帰館……当日の獲物を刺身、膾などにて召し上り、その夜より少々腹痛…御病の気味‥わずかに御病あらためり…十六非、ついに御逝去…』
 島津斉彬の急逝を報じた手紙であった。
 正治は吉之助の前に、へたへたと坐りこんだ。
 「西郷、これは……なにか……なにかのまちがい……」
 吉之助は空を見つめたまま、
 「伊地知、読んでくれ。…・御逝去とたしかに書いてあるか。俺の読みちがいではないか」
 「十六日、ついに…・御……御逝去。……長崎奉行へのお届出は数日後と存じ候えども….…とりあえず……まことに夢のごとき…‥」
 「夢のごとき……」
 「まことに夢のごとき大変事……当地においては…」
 「やめ……やめてくれ!」
 吉之助は正治の持っている手紙の方に手をのばそうとして、その力もなくなったのか、がくりと前にのめり、廊下の板敷に顔をすりつけて、虫のように身をよじらせた。
 「西郷!」
 「痛い!」
  身体を斜めにして、胸のあたりに手せさし入れて、「ここが‥…・千切れそうだ」
 「西郷!」
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