その他の作家
ここに付箋ここに付箋・・・
          林房雄-西郷隆盛2

■西郷らの献策を止める斉彬の深き思慮

<本文から>
 「その方らの献策は、いずれも藩の現状を憂うる至誠より出たもので、一々尤もである。だが、よく考えて見よ。このような大事は時と位を考慮した上で実行しなければ大変なことになる。軽率に行ったために、善事が悪事になった例は、今も昔も少くない。
 水戸を通じて、藩の内情を幕府に訴えたならば、その後はどうなるか。関係人物は全部幕府に呼び出され、いろいろと吟味が行われた後に、はじめて判定が下るのであるが、そうなれば、かの仙台騒動と同じく、たとえ忠邪が明白になっても、主家の恥辱は世にさらされ、世間の物笑いとなる。
 近藤、高崎の事件は、老中阿部正弘をはじめ、水戸斉昭、伊達宗城、黒田斉蒋等の諸侯の理解と協力により、すでに一応円満に解決ずみである。それを今さら、水戸の藤田、戸田を通じて蒸しかえしてみたところで、幕府としては改めて処置することはできない。徒らに公然の沙汰にすることによって事を破るだけである。
 忠邪を明らかにせよというが、一方を忠として顕せば、一方は不忠として退けなければならぬ。しかも、その方らが不忠の紆臣として名指している一党は、すべて父斉興の寵臣である。これを紆臣として罰したならば、父斉興は家臣の忠邪を弁別できぬ暗愚の主君となる。それを知りつつ、彼らを罰し、父に悪名を着せて、余の孝道が立つと思うか。
 その方ら、そこまで考えた上で上申書を出したのか、余の読んだかぎりでは、上申書は少々軽率に思える。忠義の志はわかるが、思慮は不足といわなければならぬ。
 ついでに申し聞かせる。善悪ともに時と位と申すものがあり、善事にても前後の考えなく取り行えば、水戸の斉昭公の例もあるがごとく、思わぬ不結果を導き出す。花も開くべき時節の来る先に無理に聞かせては、天然の黄色はなく、永い盛りもない。人間のことも同様である。何事も時の到るを待って行えば、永久の基となり、騒動の憂いもない。
 まして、現代人は、人々利慾にふけり、仏道で申せば末世である。釈尊が鹿園の説法より始めて法華大乗を説き出すまでには、種々無量に変化して説法された。これは衆生を済度する方便であって、無知愚昧の者を承服させるには、そうするよりほかはなかったのだ。政治についても同様、最初から真の目的を掲げて押し、つけたのでは、かえって目的は達せられぬ。利を以って方便とし、あるいは悦ばせ、あるいはなだめ、そのうちよき機会をとらえて、良法をそろそろ取り起し候えば、その法永続致すべく、不服のところへ良法行い申し候とも、一旦は威光におそれ、行われ候ようにても、全体好まぬ心底ゆえ、とかく永続きは致さず候。かつまた何事も急粗に取り行い候いは、万事仕落ち多きものにて宜しからず、堪忍第一かと存じ候。気長く致し候えば、おのずから先より転びかかり候間、その時いかようとも相成り申し候。……薩摩人はとかく気が短い。お互いに気をつけねばならぬ」
▲UP

■斉彬の子らの死を由良の呪詛を信じる

<本文から>
 その晩はそれですんだが、翌日になると、思いがけない大事件が起った。
 生き残った、ただ一人の公子虎寿丸が急死したのである。ただ一日の患いであった。正午に発病して、夜中の二時には、もう冷たい屍骸であった。行年六歳。
(もういけない)吉之助は思った。(呪い釘を探すまでもない。お由良一派の呪誼は動かせない事実となって現れた!)
 今でいえば、子供の疫痢であったかもしれぬ。だが、呪誼の噂のただ中に起った急死である。
 二男寛之助から数えても、四人目の犠牲だ。その上、斉彬自身も病臥中である。呪説か毒殺か、いずれにせよ、奸女と奸党の呪いは太守と公子を病床に倒し、まず、か弱い六歳の公子の方を奪い去ったのだ、と彼は信じこんだ。
 吉之助だけではない。俊斎も正円も、三円も篤も、また斉彬の側近に侍する伊東才蔵も、みなそのように信じた。才蔵の話によると、斉彬自身も、今度こそはもう我慢がならぬと、病床で歯噛みしたということであった。この上は、どうすればいいのか?なにをすればいいのか?
▲UP

■東湖の西郷評

<本文から>
  「いやいや、今あげられた名前の中で、直接に知っているのは、西郷吉之助だけだ」
 「お庭方でしたな。だいぶお目をかけている御様子ですが、これはまったく、ちちっと得がたい若者です」
「得がたいというよりも、得体のしれぬ男だ。東湖先生自身は西郷という男をどんなふうに見ている? 聞きたいものだ」
 「馬鹿のように見えて、決して馬鹿ではありません」
 「うむ」
 「身体は大きいが、心は案外に細かい」
「うむ、厳めしい顔をしているくせに、案外に情にもろいところがある。あの大きな目から、何かというと、ぼろぼろと涙を流す」
 「それだけ心が素直です。しかも真の勇気があって、大義のためには何時でも死ねる男。身におのずからなる仁徳がそなわり、自分にそのつもりはなくとも、いつの間にか仲間に推重されて、人の頭に立つ男。……私の門に出入りし始めて、きわめて時日が浅いにもかかわらず、もう門下生中の中心人物の一人になっています。珍しい人物です。……もしも、私に人物推薦の自由を与えて下されば、長州の毛利公には吉田松陰、越前の松平慶永公には橋本左内、薩摩の島津公には西郷吉之助をぜひ推蔦したいものです」
▲UP

■将軍家定と島津家との婚姻問題と一橋慶喜の擁立

<本文から>
 桜任蔵の話は、あまりにも重大すぎた。任蔵は酒の酔いに託して、放談に似た話しぶりをしたが、話の内容は決して酒中の放談ではない。江戸の動き、京都の動き、学者と志士のひそかな連繋と策謀を伝えて、水戸と薩摩の任務の重さを物語ったのだ。
 将軍家定と島津家との婚姻問題と一橋慶喜の擁立が現下の二大策であることは、すでに吉之助もうすうす聞き知っていた。どちらも現状打開策ビして、嘉永の末以来、阿部正弘、水戸斉昭、松平慶永、島津斉彬などのあいだで、その実現のための努力が行われていることは、例の水戸組の集会でたびたび話題にのぼり、吉之助の耳にも入っている。
 だが、束湖や弘庵などの手によって、京都手入れが行われ、攘夷の内勅が下り、しかも幕府はこれを娩曲に断ったということは、まったく初耳であった。任蔵の話し方には、いくらか誇張が濁ったかもしれない。しかし、東湖潮水戸藩の運命を賭しても撰夷の即行を決意し、これに対する薩摩の協力を求めていたことは確かな事案である。東湖は死んだが、この大策は残る。これも任蔵のいうとおりだ。
 問題はいかにして薩摩を動かすかという点である。
 老公斉興をめぐる奸党の勢力は依然として強い。碇山将曹は近ごろ病気がちで、ようやく藩政の中心から去ったようであるが、島津豊後とその一党は以前にも増して強力に君側を擁屏している。彼らを支持しているものは、金藩の門閥家と上土である。個々に面接してみれば、大義を解し、気節を重んずる名門の士も少くないのであるが、現状維持は彼らが全体して望むところであって、正義党をもって自ら任ずる下士連の献策は決して容れられない。
 この上は身を殺して仁をなすよりほかなく、奸党一掃の義拳を決意したのであるが、それは藩の内証を極度に嫌う斉彬によって阻止された。「その方らは腹を切ればすむが、余はどうすればいいのだ」という言葉を斉彬自身の口から聞いては、涙をのんで引き下るよりほかはなかった。
 そのあいだに、天下の形勢はしんしんと動いているも藤田東湖は死んだが、彼の同志と門下は、その遺志をつぎ、今やふたたび立ち上ろうとしている。
▲UP

■西郷は斉彬の言葉を変らぬ愛顧と信頼の現れと感じていた

<本文から>
「お察し申し上げます」
「まず藩士の再教育、農村振興、産業の開発、貧窮士族の救済、人材の登用、西洋兵式の採用による軍備の拡張、これに加うるに内証の後始末……そのすべてについて、余は最善をつくした。現につくしつつある」
「おそれながら、殿様の御苦心と御勢力を妨げるのも、みな奸党のせい……」
「それを申すなといったではないか」
「はい」
「藩内のことだけで手一杯だ。いや、それだけでも、すでに余の手に余っている。にもかかわらず、情勢の切迫は、余に藩政にのみ専心することをゆるさぬ。その事情は、お前も江戸に出て、いろいろと聞き知ったであろうが、まず外国との交渉問題、将軍の継嗣問題、水戸との提携、京都との連絡−これらの問題を円滑に取り進める苦肉の策として、篤姫の縁組。お前もすでに見抜いているとおり、篤姫を将軍の御台所とすることは、明らかに政略だ。政略結鮨だ」
 語りながら、斉彬の表情はいかにも苦しげであった。これまでのように、常に遙かな高所に立って吉之助を訓戒し、叱責し、時には軽く翻弄する、そのような調子は少しもなかった。
 どこまでも家臣に対する藩主の態度は崩さぬが、決して一介のお庭番に対する話しぶりではない。これほどに打ち明けた態度、内心の苦痛を顔色にまで現した話しぶりは、側近の重臣に向ってもまだ示したことはないかもしれぬ。
 江戸における一年間の生活で、異常な成長をとげた吉之助に対する無意識な信頼の現れか?わが奥庭において、ひそかに育てた若い家臣が、自分の知らぬ間に奥庭から抜け出し、中央政界の裾野や抜け道を右に飛び左に飛び、いつの間にか、どうやら一個の政見らしいものを身につけ、粗野ながら頑固ながら、やや聞くにたる政治的進言を行うようになったのを見た喜びがそれをさせたのか?
 吉之助が、もしも斉彬のこの変化に気がついたならば、やや得意げに「三十而立」と心の中でくりかえしたかもしれぬ。だが、吉之助には、そんな余裕はなかった。斉彬の言葉を、変らぬ愛顧と信頼の現れと感じ、ただ感激して、彼は答えた。
「私は篤姫君御入嫁を単なる政略結婚とは考えませぬ。なぜなら、それは決して薩摩一藩の利害に即した策略ではないからであります。もしも、篤姫君を御台所となすことによって、幕府の外戚となり、平安朝における藤原氏の如く前表の私利を計ろうとするのであったら、それは卑劣な政略結婚でありましょう。……然るに、これは天下匡救の大業、現状打開の唯一策として、一橋慶喜公擁立問題と表裏をなす大政策であります。この二大策は、いずれも一藩の利害を無視超越しておりますが故に、天下を救うことができるのであります」
▲UP

メニューへ


トップページへ