|
<本文から> 「吉之助!減税は絶対にまかりならぬ!」
吉之助は自分の耳を疑った。数多い都万役人の中でも、清廉潔白をうたわれ、人情家で通っている迫田奉行の言葉とは思えなかった。
「なぜでございます?」
太次右衛門は立ち止まり、するどい眼光で吉之助をにらみ、皮肉の針をつつんだ口調で
「何かいったようだな?」
「私は五割の減税でもなおたりないと考えます。私が奉行だったら、減税だけでなく、救済金の支出を藩庁に上申したいくらいであります」
「なかなか激しいことをいいおる」
太次右衛門は月に向って、からからと笑った。
「お奉行様、私をおからかいになるのですか!」
「わが意を得たから笑ったのだ。吉之助、ついて来い。見せてやりたいものがある」
ちょうど、庄屋の屋敷の裏手であった。太次右衛門は裏木戸から入って庭を抜け、離れの座敷に上った。出る時にともしたのであろう、行燈の灯がつけたままになっている。
太次右衛門は、夜具をかたよせて、ゆったりと坐り、
「吉之助、灯芯をかきあげろ」明るむ灯影の中で右手をのばし、白い障子の方をさして、「読めるか?」
障子には、墨痕淋満と歌のような文字が善かれてあった。
虫よ虫よ
五節草の根を絶つな
絶たばおのれもともに枯れなん
その歌を、吉之助は心の中で三度くりかえした。
「迫田様!」
「わかるか?」
「わかります」
「俺は今日かぎり、郡奉行をやめる!」
「えっ!」.
「虫にはなりたくない。民事の実はおろか、根まで食い荒す盲虫にはなりたくない」
吉之助は五体に氷の水をかけられたように、ぶるぶるとふるえはじめた。胸にこみあげて来たものをロに出したいが、言葉が見つからぬ。
太次右衛門は両手を膝において静かに目をつぶり、
「吉之助、水害の実情はお前も見たとおりだ。三割どころか、五割……いや、家によっては全免してもまだたりぬ惨澹たる被害だ。俺はこの実情を報告して、特別減税のことを上申した。それに対して、昨日の夕刻、藩庁から返事が来た。曰く、本年度は藩公におかせられて、特別の御用途多し。減税のことは絶対にまかりならぬ!」
「…………」 |
|