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          林房雄-西郷隆盛1

■虫よ虫よ

<本文から>
「吉之助!減税は絶対にまかりならぬ!」
 吉之助は自分の耳を疑った。数多い都万役人の中でも、清廉潔白をうたわれ、人情家で通っている迫田奉行の言葉とは思えなかった。
「なぜでございます?」
 太次右衛門は立ち止まり、するどい眼光で吉之助をにらみ、皮肉の針をつつんだ口調で
「何かいったようだな?」
「私は五割の減税でもなおたりないと考えます。私が奉行だったら、減税だけでなく、救済金の支出を藩庁に上申したいくらいであります」
「なかなか激しいことをいいおる」
 太次右衛門は月に向って、からからと笑った。
「お奉行様、私をおからかいになるのですか!」
「わが意を得たから笑ったのだ。吉之助、ついて来い。見せてやりたいものがある」
 ちょうど、庄屋の屋敷の裏手であった。太次右衛門は裏木戸から入って庭を抜け、離れの座敷に上った。出る時にともしたのであろう、行燈の灯がつけたままになっている。
 太次右衛門は、夜具をかたよせて、ゆったりと坐り、
「吉之助、灯芯をかきあげろ」明るむ灯影の中で右手をのばし、白い障子の方をさして、「読めるか?」
 障子には、墨痕淋満と歌のような文字が善かれてあった。
  虫よ虫よ
  五節草の根を絶つな
  絶たばおのれもともに枯れなん
 その歌を、吉之助は心の中で三度くりかえした。
「迫田様!」
「わかるか?」
「わかります」
「俺は今日かぎり、郡奉行をやめる!」
「えっ!」.
「虫にはなりたくない。民事の実はおろか、根まで食い荒す盲虫にはなりたくない」
 吉之助は五体に氷の水をかけられたように、ぶるぶるとふるえはじめた。胸にこみあげて来たものをロに出したいが、言葉が見つからぬ。
 太次右衛門は両手を膝において静かに目をつぶり、
「吉之助、水害の実情はお前も見たとおりだ。三割どころか、五割……いや、家によっては全免してもまだたりぬ惨澹たる被害だ。俺はこの実情を報告して、特別減税のことを上申した。それに対して、昨日の夕刻、藩庁から返事が来た。曰く、本年度は藩公におかせられて、特別の御用途多し。減税のことは絶対にまかりならぬ!」
 「…………」 
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■小さな怒りを大きな怒りに変える

<本文から>
「それがどうしたのです?」
「まだわからんかな。手間のかかる男だ。−范レイが舟を浮かべて遊んでいるとき、自ら正義派で硬骨漢だと自惚れている、自惚れることよりほかに能のない男が范レイを斬るためにとびこんで行ったとしたら、どうだ、その男をお前は偉いと思うか?」
「和尚、それはちがうでしょう」吉之助は落ち着いて逆襲した。「范レイは越の国の立派な忠臣です。だが、われわれは薩摩の青年です。青年でありながら、女の手をにぎるような奴は、壮年になっても、決して忠臣にはなれないだろうと僕は思います。范レイが傾国の美人と舟を浮かべたのは、大功をあらわし、忠節を尽した後のことだったのでしょう。若い時ではなかったにちがいありません」
 どうだまいったろう、といいたげに、吉之助は和尚の顔を見た。だが、和尚は言下に斬りかえして来た。
 「では、お前は、若い仲間がただ一度女の手をにぎったことに肚を立てて義絶だ切腹だと、まるで天下の一大事のように騒ぎまわる、そんな量見の狭い男が国を興す忠臣になれると思っているのか?」
「…………」
「わしは、お前が岩切清五郎の行動に肚を立てたのを悪いといっているのではない」
「…………」 
「わしは、今の若い者に、怒るなら、もっと大きなことに怒れ、といいたいのだ」和尚の声は次第に暖かさを加えて来た。「わしも若い頃にはよく怒った。犬が西を向いたといっては怒り、尾が東を向いたといっては怒った。……これは、若い娘たちが、針が落ちたといっては笑い、箸が転んだといっては笑うのと同じことだ。……取りたてて、咎むべきことでもない。……よく笑う娘が良き母になるように、よく怒る若者はよき武士になることができる。だが、男子の場合には、修業というものが必要だ。小さな怒りを大きな怒りに変える、その修業だ!」
 なんだかわかるような気もする。だが、口に出すのは口惜しいので黙っていた。吉之助が考えこんだのを見ると、和尚はくるりと二人に背を向けて歩きだした。
▲UP

■死者にも罰せられた大事件

<本文から>
 (近く大事件が起る。江戸詰家老の島津壱岐殴も召喚された。帰国の上は切腹だという話だ。
 このままにしていて.は、お前も殺される。死ぬのはやすいが、死ぬことだけでは、主家の大事は救われぬ。後はわれわれが引き受けたから、早く行け!)
 仲之丞が無事に国境を越えた頃、兄は従容と腹を切り、母親は微笑して縄目を受けた。
 喜兵衛のいった「大事件」は、三月二十七日にいよいはその全貌をあらわした。何事か起るとは、かねて城下のものの誰しもが察していたことであったが、それは人々の予想を越えた残酷で凄惨な事件であった。生者が罰せられただけでなく、死者が罰せられたのである。 − しかも、死者がもっともむごたらしく! 墓があばかれ、死屍が引きずり出され、その死骸が山傑にされ、鋸引きにされた。
 死後追罰を受けたのは、先年の暮に切腹した近藤隆左衛門、山田一郎左衛門、高崎五郎右衛門の三名である。新しい証拠があったという理由で、改めて士籍を削って庶民に下し、重刑中の重刑をもって死屍を鞭うった。
 追罰の宣告文にはつぎのような意味が書かれてあった。
 「右の三名の者、昨年末、一生遠島を申しつけたところ、切腹して相果てた故、罪状相当のこととして死体お構いなしと申し渡した。然るに、その後、山田、高崎らの親類より証拠書類がだんだんと差し出され、同類を糾合した書類、山田より京都の町人塩屋勘兵衛に送った密書等もあらわれた。この証拠によって、一味同類を取り調べたところ、右の三人が首謀となり、密会して徒党を結び、政事を誹諾し、有ること無きこと書き認めて塩屋勘兵衛へ送り、公辺に上申せんと企て、また斉興公御隠居、斉彬公御襲封をたくらみ、要路の重役殺害を計画し、その他口にいい難き悪意悪謀をたくましゅうした。言語道断のいたりである」
 刑罰は妻に及び、子に及んだ。
 近藤隆左衛門の嗣子欽舌、高崎五郎右衛門の嗣子佐太郎、どちらも十歳を越えたばかりのいたいけ盛りの少年であるが、十五歳になるのを待って、遠島に処すと宣告された。子供のない山田一郎左衛門の家では、妻の歌子が流刑に処せられ、南海の種子属に送られた。
 二十七日には、村野伝之丞が徳之島に流され、二十八日には、仙波小太郎が切腹。同じ日に、故二階堂主計の墓碑が撤去され、遺族は士籍を削られて、庶民に落された。
 名越左源太、新約弥太右衛門、吉井七郎右衛門、山口不及、大久保次右衛門、肱岡五郎太、山内作次郎、松元一左衛門、高木市助、和田仁十郎がそ漑ぞれ遠島を宣告されたのも、この日である。このうち、高木市助は、宣告に先んじて屠腹し、自決し終っていた。
 大島、徳之島、種子島、臥蛇島、鬼界ケ島、沖永良部島 −流される島の恐ろしげな名前も様々であった。いずれも絶海の孤島で、往路だけで二カ月を要する島さえある。たとえば、市蔵の父、大久保次右衛門が流されることになった沖永良部島へは、一年にただ一往復の便船しかない。春分に出帆した船が秋分に帰って来る。空をわたる雁にも似た渡り船である。
 春の船はすでに出帆したので、次右衛門はつぎの便船があるまで厳重な自宅禁錮を命ぜられた。つづいて息子の市蔵が勘定方書役の職を奪われた。
 最後の犠牲者は、江戸詰家老の島津壱岐であった。彼は三月のはじめに、不時交替の命を受けて、江戸を出発し、四月.二十六日の夜、鹿児島に到着したが、自邸の玄関で駕籠の戸を引き開けられたときは、すでに割腹していた。腹に二カ所、首に一カ所、傷があったが、息はまだのこっていた。部屋に運び入れて、家人が手当てをすすめても、その必要なしと受け付けなかった。
 翌二十七日、島津の姓を取り上げられ、隠居剃髪を命じられた。これは必ずしも切腹を必要としない軽罰である。藩主斉興は壱岐屠腹の報におどろき、侍医をつかわして診断させた。傷は思ったより軽く、一命は取り止めるとのことであった。家人も手当てと療養をすすめた。
 だが、壱岐は強く首をふり、たとえ一命は許されても、おのれ一人生き残ることはできぬと答え、自ら短刀をとって砥石に当て、みごとな二度腹を切って、最期せ遂げた。
 狂風は吹きに吹き、荒れに荒れて、散らすべき花のすべてを散らしてしまった。
 後に残ったものは裸の木と、折れた枝、ひきむしられた若芽、暗澹たる人心と荒涼たる心情のみであった。
▲UP

■斉彬は個人の愛憎に即した政治だけは行いたくない

<本文から>
 「本当に予想はつかぬのか?−僕なら、藩内の整理は、一年あれば充分だ。お前は薩隅藩の国主じゃないか。何を遠慮している?」
「遠慮も時には必要です。文字のとおりに、遠く慮るという意味なら、なおさら必要…」
「遠い将来のことを考えるからこそ、僕は果断決行をすすめているのだ。四十三年間考えて来れたのだから、今さら何も考えることはないだろう。碇山将曹や島津豊後の一派を一掃するくらい、一カ月もいらぬ」
「…………」
「現に、彼らは、お前のために働いた高崎、近藤の一党を一片の命令書で殺しつくしたではないか」
「人を殺すのが政治ではありません」
「殺せとはいわぬ。彼らをお前の側近から遠ざけろといっているだけだ。彼らがいたのでは、斉興殿の隠居は有名無実。…阿部正弘をはじめ、お前の襲封のために奔走した友人は骨折り甲凄もなかったと思い、藩政の一新を待ち望んでいる家臣は、それにも増して失望するだろう」
「いや、友人の厚意にそむかず、家臣と百姓を失望させないだけの政治は行うつもりです。ただし、私は個人の愛憎に即した政治だけは行いたくない。私自身の感情をもとにしていえば、たしかに碇山将曹も憎い、島津豊後も憎い。だが、その憎しみを新政の基礎にしたら、薩摩はふたたび大騒動。……せっかくの襲封が無駄になります」
「わからない奴だなあ。僕は何も憎いから遠ざけろといっているのではない」斉薄はいらいらと膝をゆすって、「沈滞した人心を一新するためにも、お前の経給と手腕を発揮するためにも、人事の一大刷新が必要だといっているのだ」
 斉彬は静かに答えた。
「私は薩藩の新政のためには十五年を予定しています」
「なに?」
「薩摩の藩政だけにも十五年かけるつもりでおります」
「何を気のながいことをいうのだ」斉樽はあきれ顔で、「いかに七十二万石の大藩だとはいえ、藩内整理に十五年かけてたまるものか。−そんなことをいっていては、お前の持論である中央政治の改革は百年の後になる。いったい、いつまで生きるつもりだ?」
「少くとも十五年は生きるつもりです」
 斉彬の答えは、聞き方によっては、自嘲ともとれる。初入部の旅の途中にあるとはいえ、すでに青年領主ではない。世子生活二十年の歳月が刻んだ暗いかげが声にも態度にもあらわれている。
 斉蒋は相手の意味を解しかねて、首をかしげた。斉彬は微笑しながらつづけた。
 「その十五年間に、私は薩隅日の三カ国を、日至の富強の国にしてごらんに入れます」
 「日本一の?」斉樽は目をまるくして、「これは大きい。まさか征夷大将軍島津斉彬たらんと野心しているわけではあるまいな」
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