|
<本文から>
西郷隆盛の介錯をしたのは別府晋介ではなく桐野利秋で、それも背後から突然に、である。驚くべきは、その後の事態で、広島県巡査の目撃談を続ける。
突然、被弾した西郷の首を桐野利秋が斬ったのは、誰も想像しない事態だった。
「(西郷軍の)全員が戦懐かつ驚愕し、お互いに『桐公、先生を斬った』と告げ合い、みな弾雨のなかで踵を返して狂奔しながら、洞窟へ殺到した。すると官軍は前進して、洞窟に籠もる全員を誅殺した」
いかに西郷隆盛の最期が驚天動地の出来事であり、恐慌を来したかが分かる。何ごとも従うべき「西郷先生」の首を突然、仲間の将校が刎ねた……指揮者を唐突に失い、みな蜘妹の子を散らすように狭い洞窟に舞い戻った。それを追撃する官軍兵士が連射し、洞窟内に殺到して銃剣で次々刺殺した。虐殺の修羅場である。
目撃者の広島県巡査も洞窟内に逃げ込んだが、間一髪で助かった。
「官兵の銃槍(銃剣)が眼の前に迫り、もはや絶体絶命のところ、自分の悲壮な訴え(哀詩)を幸い聞く者があり、部下を制して、初めて捕虜の官兵と認められて救出された」
以上が捕虜となった広島県巡査が喜多平四郎に口述したことで、「他の賊将の戦死の状はまたここに繚述せず」ともある。よほどおぞましい光景だったに違いない。思うに、別府晋介と辺見十郎太の駕籠は岩崎谷筋で銃弾によって蜂の巣となり、あげく斬殺されたのだろう。
ここまで記録したのは『征西従軍日誌』をおいて他にない。今日、西郷隆盛は勇壮に最後に突撃して倒れ、あるいほ「城山」で従容として自刃したのが定番だが、現実は大混乱なかでの死である。この書が一三〇年近く公刊されなかったことは、より信憑性を深める。
『征西従軍日誌』を書いた喜多平四郎巡査は負傷して入院もしたが、それでもこう書く。
(鳴呼惜しいかな、隆盛をしてこの挙を為さしむるや。目今万国交際の時に当たり、国用疲弊、加うるに英俊剛傑を亡ない、自国の損害また償うに術あるべからず)
その死を取返しのつかない国の損害と嘆き、明治政府の汚点であることを記した。だからこそ明治政府は、事実を隠し続けざるを得なかったのだ。
実際、西郷隆盛の終焉の様子は時代によって異なる。 |
|