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          古川愛哲-西郷隆盛の冤罪

■西郷隆盛の介錯は桐野利秋?

<本文から>
  西郷隆盛の介錯をしたのは別府晋介ではなく桐野利秋で、それも背後から突然に、である。驚くべきは、その後の事態で、広島県巡査の目撃談を続ける。
 突然、被弾した西郷の首を桐野利秋が斬ったのは、誰も想像しない事態だった。
「(西郷軍の)全員が戦懐かつ驚愕し、お互いに『桐公、先生を斬った』と告げ合い、みな弾雨のなかで踵を返して狂奔しながら、洞窟へ殺到した。すると官軍は前進して、洞窟に籠もる全員を誅殺した」
 いかに西郷隆盛の最期が驚天動地の出来事であり、恐慌を来したかが分かる。何ごとも従うべき「西郷先生」の首を突然、仲間の将校が刎ねた……指揮者を唐突に失い、みな蜘妹の子を散らすように狭い洞窟に舞い戻った。それを追撃する官軍兵士が連射し、洞窟内に殺到して銃剣で次々刺殺した。虐殺の修羅場である。
 目撃者の広島県巡査も洞窟内に逃げ込んだが、間一髪で助かった。
 「官兵の銃槍(銃剣)が眼の前に迫り、もはや絶体絶命のところ、自分の悲壮な訴え(哀詩)を幸い聞く者があり、部下を制して、初めて捕虜の官兵と認められて救出された」
 以上が捕虜となった広島県巡査が喜多平四郎に口述したことで、「他の賊将の戦死の状はまたここに繚述せず」ともある。よほどおぞましい光景だったに違いない。思うに、別府晋介と辺見十郎太の駕籠は岩崎谷筋で銃弾によって蜂の巣となり、あげく斬殺されたのだろう。
 ここまで記録したのは『征西従軍日誌』をおいて他にない。今日、西郷隆盛は勇壮に最後に突撃して倒れ、あるいほ「城山」で従容として自刃したのが定番だが、現実は大混乱なかでの死である。この書が一三〇年近く公刊されなかったことは、より信憑性を深める。
 『征西従軍日誌』を書いた喜多平四郎巡査は負傷して入院もしたが、それでもこう書く。
 (鳴呼惜しいかな、隆盛をしてこの挙を為さしむるや。目今万国交際の時に当たり、国用疲弊、加うるに英俊剛傑を亡ない、自国の損害また償うに術あるべからず)
 その死を取返しのつかない国の損害と嘆き、明治政府の汚点であることを記した。だからこそ明治政府は、事実を隠し続けざるを得なかったのだ。
 実際、西郷隆盛の終焉の様子は時代によって異なる。
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■西郷は島流しの前は痩せたスラリとした人

<本文から>
 西郷を親しく見た人の印象
 西郷隆盛は実像が定かではない。余りにも有名なので分かった気になっている。そうでなければ映画やテレビに紋切り型の西郷ばかり登場するわけがない。
 ここに西郷隆盛を親しく見た人がいる。熊本藩家老の長岡監物の子息・米田虎雄である。父の長岡監物は、西郷が初めて出府した一八五四(安政元)年は江戸留守居で、その後も西郷との付き合いは続いた。その子息・虎雄が、西郷の実像を次のように語る。
〈今の人は知るまいが、あの上野にある銅像や世間によくある西郷の肥満した肖像は、あれは西郷が島に流されて帰った以後の風采で、西郷は島へ流されるまではごく痩せぎすな人であった。背のスラリとした髪の毛のバサバサした武士で、眼ばかりはやはりギロギロと光っていた。島に流されて非常に肥満って帰り、その後も人が心配するほど肥満ってきたが、天下のために奔走している頃は、痩せたスラリとした人であった>(佐々木克監修『大久保利通』)
 これが西郷「善兵衛」「吉兵衛」などと名乗っていた安政年間の姿で、痩せぎすな西郷など映画やテレビで見たこともないが、しばし事実は「目が点」なのである。
 薩摩藩七七万石の藩主・島津斉彬の「庭方」として江戸嘉都・鹿児島を東奔西走した三〇歳前後の西郷は、髪の毛バサバサ、目のみギロギロの痩せ侍で、凄味ざえある。付き合う相手も尊皇攘夷尾の大物・長岡監物や水戸の藤田東湖とか、いかにも危なそうで怖い人たちなのだが、当時の西郷はまだ、「開明派藩主の巨頭島津斉彬」のため情報収集に奔走するパシリである。
 その実像は誤解だらけなので、後に「征韓論」や「西南戦争」に関して冤罪を着せられる
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■天皇親政とは名ばかりの「専制」明治六年の政変

<本文から>
 その謀略は、非刊行だった宮内省長官・徳大寺実則の文書が近年発掘されて判明した。
 『岩倉公実記』編纂のために集められた史料だが、明らかに宮中陰謀事件なので伏せられていた。一九九三年に高橋秀直氏が発表して通説となった。勝田政治『(政治家)大久保利通』によると、一二〇年ぶりに判明した事実はこうだ。
 三条太政大臣が寝込んだので、岩倉具視が太政大臣代理となり、大久保が薩摩閥の黒田清隆に命じ、宮内省の徳大寺実則長官を策謀に加担させた。
 まず岩倉具視が西郷の朝鮮遣使「延期」の上奏文を起草し、これを大久保利通が添削した。そして宮内省の徳大寺実則長官から密かに天皇に上奏させた。密奏終了の報は一〇月二二日に岩倉に届いた。若い天皇(二二歳)に「西郷朝鮮遣使延期」を下すように騙したのである。天皇の意見を拘束するため、東久世通商侍従長に見張らせる念の入れようだった。
 西郷・板垣・副島・江藤の四参議は、同じ日、岩倉具視邸へ押しかけ、閣議決定の「西郷即行論」を速やかに上奏するよう要求した。すると岩倉は、「『即行論』と『延期論』の両論を奏上して天皇のご裁断を仰ぐ」と強弁した。
 もとより嘘である。すでに天皇の意志は徳大寺長官の密奏で「延期」に変えられている。約束の翌日、岩倉具視から上奏の結果を参議一同へ告げた。
「陛下は『延期』と仰せられた」
 閣議決定と八月の内示は陰謀でひっくり返されたのである。
 この肝臣どもの仕業を西郷は予測したようで、前日の一〇月二三日付で、参議と兼任官職の辞職、正三位の位を返上し、「再勤のつもり決してござなく候」と政府を見限った。辞職は受理されたが、西郷をこよなく愛す明治天皇の意志で、陸軍大将の地位は維持された。翌日、板垣・副島・江藤も抗議の辞表を叩きつけた。一〇月二四日である。
 宮中を巻き込んだ岩倉具視と大久保利通の謀略で、太政官正院の参議による合議制度が否定された。天皇親政とは名ばかりで、岩倉具視と大久保利通の「有司(役人)専制」が再び始まりを告げる。これが「明治六年の政変」である。
 それは維新以来の「公議公論」と異なる。辞職した参議たちは、明けて一八七四(明治七)年一月一七日、「民撰議院設立建白書」を左院に提出する。署名者は前参議の板垣退助、後藤象二郎(以上土佐)、副島種臣、江藤新平(以上佐賀)と、英国留学帰りの小室信夫(徳島)、古沢滋(土佐)ら八名である。
 国会開設を要望する建白書で、薩長の政権独占への強い反発と「天賦人権論」に基づく議会政治への要求だった。実現まで一六年の歳月を要する。西郷は参加しなかった。
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■西郷の征韓論は薩長専制政府の野望が捏造した冤罪

<本文から>
 それを西郷隆盛は、天皇の国際的な不名誉となるので阻止すべく奔走したが、岩倉と大久保の薩長閥を駆使した宮中謀略に敗れた。
 その証拠に、西郷が鹿児島に戻るや、大久保利通や伊藤博文の薩長閥は、極秘裏に朝鮮強硬策を進めた。一八七五(明治八)年の「江華島事件」で朝鮮王朝を軍艦の砲撃で脅し、翌年の「日朝修好条規」で不平等な条約を押しつけた。これら一連の事態を、鹿児島で、西郷は歯噛みしながら見ていた。「そげなこつしおって!」と。
 繰り返すが西郷隆盛の征韓論は、岩倉具視や大久保利通、あるいは伊藤博文など、薩長専制政府の野望が捏造した冤罪である。
 その冤罪は深刻なもので、御一新の「万機公論に決すべし」を裏切り、衰竜の袖に隠れて政治を私物化する時代の到来を告げるものだった。そのためには、一連の薩長同盟専制政府の犯罪行為を知る者を、消さなければならない。それが「西南戦争」なのである。
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■西郷追討令は偽書で、理非曲直を乱す正義を信じていた

<本文から>
 田原坂で政府軍とは一進一退の攻防戦で、飛び交う銃弾を恐れ、近所のある農家の主人は便所に閉じこもったが、それでもなお弾丸が板壁を撃ち抜いて、頭部に命中して死んだ。その職烈な戦闘中の三月一二日、大山県令から西郷の陣へ急報が届いた。
 「西郷隆盛追討令が出た」という衝撃的なものだ。
 勅使の柳原前光が海路で鹿児島に到着し、桜島に避難中の島津久光に鎮撫を要請したという。その急報を読んだ西郷は困惑し、大山県令に返書した。
「私めには内容がよく理解できませんが(下拙、事柄わかり兼候えども)」との書き出しで、追討勅使派遣が信じられない。そこで以下のように書いた。
「合戦を幸いに(自分を)暗殺しようとするたくらみ、それを打ち消そうとする悪巧みと見る。(政府が)理非曲直を明らかにしない気ならば、鎮撫もへちまもない。はっきり道理が通らないことをすれば、死んでも筋を立てるつもりです」
 あくまでも「政府に訊問」の姿勢である。政府の卑劣さは体験済みだ。
「政府が戦況不利と知って、こちらを油断させる策略にちがいない。決して狸にだまされないことが肝要です」
 こう鹿児島の大山県令への返書を結んだ。
 勅使の公卿・柳原前光など狸呼ばわりで、偽勅使と信用していない。明治六年の政変で、宮中公卿と岩倉や大久保の策謀を知っている。
 この書簡を読むかぎり西郷は叛乱とは思っていない。理非曲直を乱す正義は自分にあると信じている。西郷は同書簡中で「熊本も六分ほどかたづけ」と戦況判断を誤った。やがて増強する一方の政府軍に敗れ、熊本攻撃四十数日で敗走することになる。
 熊本城攻撃の戦線膠着から劣勢と転じた西郷は「賊軍」を実感する。若い明治天皇と深い絆で結ばれていた西郷の落胆ぶりは想像を絶する。乱脈な政府を問い乱す。陛下が陸軍大将の地位を解かなかったのは、このためではなかったのか−。
 失意から、戦線後方の山中でウサギ狩りに没頭しながらも下痢しつつ、来し方行く末に思いを馳せた。
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